別人は自己の不可能性であると同時に他者の不可能性である。

 別人は自己ではありえないがまた他者でもありえない。
 それは自己と他者の二重の不可能性である。

 だが問題はそれだけには留まらずより深刻な様相を呈する。

 別人はたんに自己や他者ではありえないだけではなくて、却って自己をありえないものにし他者をありえないものにする。
 それは自らを不可能化する不可能性(消極的不可能性)であるばかりではなく、他に襲い掛かって他を破壊的に不可能化する不可能性(積極的不可能性)である。
 単なる自己や他者の不可能性であるのではなくて、それは自己を自己たらしめている自性、他者を他者たらしめている他性を不可能化する不可能性である。

 別人は自己や他者といった存在者をその存在について存在論的に不可能にする不可能性ではない。
 別人の開示する自己や他者の不可能性は存在論的な不可能性であるのではなく、存在論の不可能性であり存在論の限界である。

 自己や他者が不可能になるのは、存在が不可能になるからではない。
 自己や他者は存在している。存在することが不可能になるのではない。
 自己であること・他者であることが不可能になるのである。

 たとえ存在していても存在とは異次元的に何かであることができなくなる、より切実にありえなくなるということが起こる。
 危機にさらされているのは自己や他者の事実における存在ではない。

 存在を危機にさらすものとして存在論が語り得る最大の危機とは存在者の死である。
 死は存在論的な意味における最悪の事態、存在論的悪であるに過ぎない。
 しかし死は最悪の事態ではない。
 死んでも死にきれぬことこそ最悪の事態である。

 死は人格性・個体性を破壊しない。
 それどころかそれに根拠を与え、それを完成するものである。

 逆に死んでも死にきれぬという恥ずべき事態に死に損なっているものは、存在を失うことなくその人格・個体性を破壊されている。
 別人はそのような超存在論的禍悪である。

 しかし存在論的視野はこの死よりも悪い別人の悪を単に愚かしく透明に見過ごしてしまう。

 別人は存在論にとっては透明人間に過ぎないので看過されてしまうのである。
 しかしそれは別人が存在論的に無意味だからではなくて存在論が無意味で無能な役立たずに過ぎないからである。

  *  *  *

 現実に死ぬというよりも悪い死、存在者の存在が死ぬのではなく、存在者が存在するがままに死んでいるという苦い死がある。
 その死こそが真の死であり、その死こそが死として問題にされなければならない。

 その死の本質は殺人である。
 人を生によって生きる者ではなく死によって生きる者に強制的に置き換える力がもたらす破壊は殺人としかいえない。

 知を愛すると慇懃無礼に謙遜する哲学が無知の知へと傲慢に開き直るとき、その哲学は無を知っており無を愛しているに過ぎないことが忽ちにして曝露される。

 その無ほど薄汚い雑巾はない。
 それは世界を美しくするどころか、黒く汚すだけのものだ。

 哲学者は往々にしてそのような愚かしい清掃夫である。
 その瞳は黒く汚い。
 無に、否定に黒く塗り潰されてしまっているので、ものがよく見えないのだ。

 無を愛するような者は何も愛していないのである。
 無を知っているような者は何も知っていはしないのである。

 常に心掛けていなければならないことがある。
 知を愛する者であろうとする以前に、愛を知る者でなければならない。
 愛を知ることは知を愛することよりも遥かに辛く厳しいことである。
 しかしそれを怠るならば、その者は己れの無知すらも言うほどには知り得ないことだろう。

 無や否定に潰れた目でものを見る者は単にその目が節穴であるだけではなくて、世界を無や否定の黒い空虚にえぐり取られた凄惨な節穴に変えようとしているのである。
 自分の目が潰れているだけではあきたらず、他人の目にも黒い無や否定の泥を押し付けてそれを潰そうとしているのである。

 しかし節穴によってものは決して見えないのだ、ものは澄み切った瞳にしかその美しい姿を見せない。
 人は思弁によってではなく澄んだ瞳を通して観照するのでなければ、ものの隠れない美しさを真には認識することはできないし、また、何が真の問題であるのかを洞察することはできない。

 世界は美しい。しかし、この美しい世界は狂ってもおり恐ろしい所でもある。
 多くの殺された死人が他者から人生を奪うために人生について根も葉もないことを説教して仲間を増やそうとしている。
 それが現実である。

 別人は別人を創るのだ。

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 他人の節穴を通して自分を見てはならない。それは〈死〉を意味する。
 他人の節穴とは〈別人〉のことである。

 〈別人〉は〈他者〉ではない。却って〈他者〉を失わせるものである。
 それは猫のないニヤニヤ笑いのように、顔のない問いつめる眼差しであり、他者なき空なる他者性を漂わせる、恐ろしいものである。それは底無しの心の闇、そこには誰もいない鏡の空洞、万物の絶滅の果て、全き虚無に凍てついた絶対零度の宇宙の極北である。
そこに圧倒的に全てを滅ぼし破壊し去る限りもなく峻厳で冷酷な何かが聳え立つ。それを見る位なら死んだ方がましだという程にひどいもの、耐え難いもの、拒まねばならないもの、あってはならないもの、信じられないもの、けれど、それを決して無くすことはできない。あってはならないものがあり、いてはならないものがいる。

 別人がそこにいる。そこに、悪魔が立つ。

 別人というのは形而上学的悪魔である。
 それは他者に似て非なるものである。
 別人は実体的に存在しない。それは厳密に非存在者である。
 それは純粋に様相としてしかありえない怪物である。
 別人は〈欠自〉であると同時に〈欠他〉である。

 この決してありえないものは、しかし、それにも拘わらず自己と他者の存在に先立ってそれを黒い乗り越えられぬ壁で塞ぐ。

 哲学的には一般に、〈別人〉は非人称的で顔のない他者性だけの他者という風に極めてまだるっこしいわざと分かりにくくされているような言い方で規定されている。
 しかしこの言い方はよくない。他者と別人は類義語でも明白に意味が違っている。

 別人は他者の概念から理解することはできない。
 端的に誰でもない者を意味する別人は、誰かである者を意味する他者とは全く切り離された様相でしか考察できない。

 他者は自己に対立する概念である。
 これに対し別人は同一人物に対立する概念である。
 それは違う人という意味である。

 例えば英語には無を人格化したノーボディという架空の人物が存在している。
 別人もややこれに似ている。
 しかし無人と別人は同一人物とはいえない。
 無人は人に憑かないが、別人は人に憑くという妖怪学的相違点があるからである。
 そして別人は無人にさえ憑くという恐ろしい魔力をもっている。

 他者などというものは全く問題ではない。別人こそが問題である。
 別人は自他の間を横切るひとつの危機的な様相である。
 別人は自己でもなければ他者でもない。
 人間にとって根源的な人格様相は、世人でないのは勿論のことだが、自己でもなければ他者でもない。それはかの恐ろしきもの――別人である。
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 別人とは何か。
 別人は「人を別ける」と書き、
 また「別れた人」とも読めることばだ。
 しかし、この「別れた人」は
 絶対的に別れた人であると同時に絶対的に別れられない人でもある。
 またこの「別れた人」は
 「分かれた人」とはなりえない「分からない人」であるともいえる。

 「分かれた人」は別人において分けられ、
 別人から分かれ出て、別人と別れて人と成る、
 つまりそれが「自分」であり、
 また多分、それに対応して
 「他分」とも言い得るものでもあろうような他者であり
 他人や赤の他人であり、見知らぬ人であり、
 身内の者であり、さまざまなわれわれ(割れ割れ)である。

 人はさまざまに割れて分化して人格化してゆく。

 人格というのは倫理的-道徳的な概念である以前に、
 言語的に分別された人称の様相のなかで
 まずもって発見されねばならぬ差異であり、
 言葉は悪いが、
 それなくしては人間世界がありえないような
 根源的で基礎的な「人種差別」である。

  *  *  *

 人称的世界は人格的世界を基盤づける
 さまざまに格付けされた様相的-美学的分節空間である。
 モダリティの次元はモラリティの次元に先立っているのである。

 主体はそこで根本的に対他関係として、
 つまり他者へのさまざまな距離の取り方として、
 対他的遠近法としてつくりだされている。

 一口に自他の分別といっても、
 この分別はその区別それ自体のなかに
 多くの距離の襞をつくるかたちで分節されている。

 自他の分別は〈間〉であり〈間柄〉であり
 〈間接性〉であり〈間の置き方・取り方〉である。

 それは単なる自他の認識論的切断の区別ではない。
 そのような区別はまさに単なる自他の間それ自体の切断であり、
 真空の差異であって、自他の関係性というのが全くありえないし、
 わたしは他者に全く話しかけるための言葉をもたない。

 他者は単に異なる存在者として
 わたしから識別されているだけであるなら、
 ものと同じであって、人間たりえていない。

 人を人たらしめるものは間である。
 間とは単なる物理的空間をいうのではなくて、
 豊かな情緒の空気に満たされた人間的空間のことをいう。
 間というのは関係性のことであって差異性のことではない。

 差異性というのは単なる内と外の区別でしかないもののことである。
 内部と外部、内面と外面、表面と裏面、深層と表層という
 差異の野蛮な二分法の包丁で
 粗野に知的に物事を割り切りすぎることには
 いつでも注意しなければならない。

 警戒を怠ると思考がよく陥りやすい虚無の陥穽に墜落することになる。

 深層と表層の間に断層を創ることは危険だし、
 内と外との間に遮断的な境界壁を創ることは
 真の世界を窒息死させることになりかねない。

 内部と外部は単に異なり違っているのではない。
 その間には不連続的差異あるいは不連続的距離があるのではない。
 内部と外部の間にはまさに間という中間のトポスがあるのであって、
 それが差異によって割り切られた傷を癒し、
 二つの川岸を橋渡す〈わたし〉という
 連続的差異または連続的距離を形成しているのだ。

 自他の人間的区別の差異は
 むしろ自他の関係性というべき
 非知覚的パースペクティヴをもつ尺度化された厚みのある空間なのである。

 自他の差異を異同の差異や内外の格差のような
 単なる差異と等置したりそれに基づいて考察するべきではない。

 内や外ではなくて、
 そのようには割り切ってしまえない間こそが重要なのだ。

 〈わたし〉というのは
 内と外とに単に分裂的に分割されている硬直的な球体ではない。
 〈わたし〉とは、
 自己(普通に主観とか意識主体とか自我とかいわれている自己存在者)
 ではなくて、
 自己と他者の間に成立する間主観性としての主体性=関係性なのであり、
 それは自己でもなければ他者でもない自他のさまざまな間柄、
 つまり〈わたし〉は〈あいだ〉なのである。

 間主観性という概念=用語は、間違えられてはならないので、
 はっきりと言っておかなければならない。

 これは共同主観性とか相互主観性とかとは全く異なる概念であり、
 むしろそのような共同性・相互性
 あるいは更に社会性とか
 安易に言われている関係性とかの
 たわごとめいた空疎な観念との混同を拒否しつつ
 痛烈に批判したいために提出されたものだ。

 間主観性はそれ自体が〈わたし〉なのである。
 それは実践的な概念である。

 それは自己と他者の共同体(われわれ)を
 〈わたし〉に先立つものとして前提していないし、
 また〈われわれ〉の共同性への内属や止揚をめざすものでもない。
 同時に自己と他者の相互関係を意味するものでもない。

 それは自己と他者をそれぞれ存在者として前提的に立てたうえで、
 自己と他者がどのようにお互いに
 規定しあったり関係しあったりするかという問題に
 間主観性の問題を置き換えてしまう。

 間主観性は自他の関係性であるとしても
 二つの主観の相互性の問題ではない。
 またそれは社会性や社会関係の側から規定されるべきではない。
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 二値論理学は、[存在/無][真/偽][肯定/否定][自己/他者][現実/非現実][A/非A][1/0]というような、二項対立的=第三項排除的図式によって全てを割り切る選言的な二元論である。
 これを根底的に成り立たせているのは自同律・矛盾律・排中律の三つの論理律である。

 それはパルメニデスの命題「存在は存在する」に表されるような存在の自己同一性の思想に淵源している。
 そして、パルメニデスの存在の自己同一性の思想は、思考と存在の同一性の思想を前提にしている。

 思考と存在の同一性は存在の自同律に先立ち、それと同じ水準にはないものである。
 また同一性の意味も違っている。

 存在の自同律は、存在がそれと同一者であるところの存在と同一であること、つまりA=A(A→A)である。
 これを水平的同一性と仮称するとすれば、思考と存在の同一性は垂直的同一性としてそれを下から上へ支え根拠づけている超同一律であるといってよい。

 そこでは思考という存在とは明らかに異なるものが存在へと「理由-帰結」の仮言的分節構造をとりながら同一化を果たしている。つまりX=A(X→A)である。
 これに対し、存在の自同律のA=Aは定言的である。
 また仮言的に見える思考と存在の超自同律は、非在ではなく存在を選び取る選択的な同一化であることを当然に含ませているからには選言的である。

 思考と存在の同一性(X=A)であって思考と非在の同一性(X=非A)なのではない。
 思考は己れと同一者として何を選ぶかという選択問題に対して、
 
 ①何も取らない(φ)
 ②存在を取る(A)
 ③非在を取る(非A)
 ④存在と非在を取る(A、非A)

 の四通りの答え方をすることができたと考えられる。

 つまり、

 ①存在も非在もしない
 ②存在する
 ③非在する
 ④存在し且つ非在する

 のどれか一つである。

 ここで①と④は実際上は同じことである。
 存在しないことは取りも直さず非在することである。
 非在しないことは取りも直さず存在することである。
 何故なら存在と非在は矛盾概念だからである。
 矛盾概念であるからには両者の間に共通部分があるわけはない。
 そして存在と非在の総和は全体にそのまま一致するので、存在と非在のどちらにも属さない外部があるわけではない。
 自同律〈A=A〉は「AはAと同一的である」「Aは存在する」を二重に表現しつつそれを思考の不可疑の第一原理としている。それはパルメニデスの命題「存在は存在する」に根拠づけられている。
 そのことによって自己同一性の原観念が与えられ、この存在の自己同一性から飜って、同一的自己として「自己」の観念が演繹されてくる。

 このような自己は、単に存在の自己同一性を意味するに過ぎない。
 そのような意味でのこの論理的な「われ在り」は、存在の個性化や具体化を少しも意味してはいない。逆にそれは単に抽象的な存在への「わたし」の還元であるに過ぎない。

 「わたしはわたしである」「わたしは存在する」とは、要するに「わたしは存在である」と言っているだけのことなのである。
 「わたし」はそのとき抽象的「存在」である「自己」という無意味な自同者に実はすげ替えられているに過ぎない。それは「わたしは死んだ」ということと何の変哲もないことである。
 自同律から直ちに「実体」の観念が直証的に第一義的に与えられると考える者は、実はその「実体」が「死体」でしかないことを見落としているし、またパルメニデスには「実体」の観念などなかったということを忘れている。

 「実体」の観念を哲学史上、決定的に確定したのは寧ろアリストテレスである。
 アリストテレスにとって、「実体」はまず「個物」であり、そしてとりわけ「生けるもの」「現実的なもの」「具体的なもの」を意味していた。アリストテレスの「実体」の思想は、言うまでもなくプラトンの「イデア」に対する批判から胚胎されている。

 これに対し、パルメニデスは「同体」というべき抽象的一者「存在」についてしか語っていない。それは「存在」がそれ自体としては無内容な死せる「同一性」、「空」なる不毛な「同一性」でしかありえないことを言っているだけのことである。
 単に表現が違うだけであって、パルメニデスは陳腐な仏教徒そのままに空ろな真理の涅槃への御陀仏的解脱のサトリの体験を説法しているに過ぎないのである。
 その意味でいうならソクラテスもプラトンも仏教徒なのである。
 そして事実、彼らは死後の世界へのうつろで女々しい極楽往生についてばかり語っている。

 うつろいゆく現世(此岸)への執着を捨て、実人生をむなしい幻と諦めて、超越的実在世界(彼岸)という抽象的永遠への主知主義的昇天をのみ価値づける彼らの「死の練習」「知恵への愛」の宗教である産婆的哲学。
 それを西欧思想の源流と看做し、そこに根拠づけて、デリダやハイデガーの受売りを恥じもせず「パルメニデス・プラトン以来の〈存在〉の西欧形而上学」の伝統の精華である「近代合理主義」を仮想敵として、それを東洋的=仏教的=日本的原理によって安易な形而上学批判を唱える者こそ愚にもつかぬことを喚いているのだ。

 戦前の「近代の超克」論者であれ、最近のポストモダン的知識人であれ、自分がどれだけ莫迦げた、反動的で倒錯的で欺瞞的な疑似問題を捏造させられているかに気づいていない。むしろそれこそが西欧的で近代的な問題設定であるに過ぎない。それと同時に、彼らは余りにもナイーブに東洋的なもの・仏教的なもの・日本的なものを信仰してしてしまっている。

 しかしもしわれわれが東洋人であり仏教徒であり日本人であるとするならば、そして西欧人の言うような意味での形而上学批判が思想の急務であるとするならば、われわれがやらなければならないのは、西欧近代という遠いよそ様のお家の事情を冷評しにいくことではなくて、われわれが置き去りにしているわが家の悲惨な現状を直視しこれに厳しく立ち向かうことでなければならない筈である。形而上学批判は内在批判でなければならないし、自分たちの切実な問題だからこそそれをしなければならないものである筈である。西欧人たちはそれをやっている。それは彼らが健全な近代市民社会を確立し、自分の頭で自分の問題を考えることのできる近代的個人であるからである。

 われわれは精神的・文化的な意味では近代市民社会以前、主体性の確立(近代個人主義と近代的自我の確立)の課題すら果たし得ていない屈辱的な下等動物である。
 そのわれわれに自分がそこに一度も生きたことのない「近代」を超克する資格もなければ、ポストモダンを語る資格もない。
 むしろわれわれは、そのような西欧かぶれ・外国かぶれのいつまでも終わらぬ馬鹿騒ぎをやめるべきである。何故ならそれこそが、東洋的なもの・仏教的なもの・日本的なものでしかないからである。

 われわれはこの古き良きものを気取りながら、その実はわれわれをいつまでも前近代的な野蛮な猿、あらゆるアジア人のうちで最も惨めに植民地化されながらそのことにすら気づかない、単なるイエローモンキーに退化してしまった見ざる・聞かざる・言わざるの日本猿に固定的に貶め続けているわれわれの恥ずべきもの、王朝的・遣唐使的・留学僧的なものである島国根性の虚偽意識とたたかうべきなのだ。
 すなわち、われわれはわれわれの東洋的=仏教的=日本的形而上学を批判しなければならない。
 それは大東亜共栄圏を悪役に仕立てながら、それに代わるものとしてあの野蛮を温存したものであるに過ぎない日米安保体制の批判、神憑りの天皇制軍国主義に代わるものであるに過ぎない経済大国日本という〈円〉の一神教的崇拝と、〈円〉と〈広告・マスコミ産業〉の原理による戦前より遥かに悪辣な侵略的=洗脳的言論統制への容赦なき徹底的で革命的な懐疑と批判を含まねばならない。

 わたしはマルクス主義者ではないが、共産圏を唯物主義の名において安易に嘲笑的に批判することによって己れの遥かに醜い資本主義的物神崇拝を精神化・美化・合理化しえたと信ずる無知蒙昧な赤狩り的反共主義の野蛮を断じて許しておくわけにはいかない。
 アメリカ人ですらすでに幻滅しているアメリカニズムの崇拝者たちは安易に自由主義・民主主義がファシズムや共産主義より良いものだという幻想に脳を侵されている。莫迦ではないのか。

 わたしの考えではレーガンやブッシュ親子よりは、ヒトラーや毛沢東やホメイニーの方が遥かに好もしい独裁者である。そして、フランス現代思想などという役にも立たぬ戯言を学ぶよりも寧ろ、われわれはイスラム原理主義を学んだ方がいい。
 またベルリンの壁を突き崩した東欧の人々の勇気に感銘するなら、われわれは新党ワイマール共和国の茶番劇やオウム真理教的内ゲバに興ずるだけの相も変わらぬ団塊=大衆の世代の全共闘的白痴性を棄却し、西側資本主義圏の抑圧的な管理の不可視の壁を文化大革命的に突き崩してゆくべきなのであって、天安門事件に涙したその目で現在の中国に日本の不景気を解決するための厭味な市場を発見するべきではない。
 また、第二第三のオウムを出さないためにはどうしたらよいかとか、いやそれでもでるだろうとか下らぬ議論をするのをやめるべきだ。寧ろわれわれはあんなチンケで病んだ弱虫カルトではなく、あのオウム王国をもこの日本帝国をも乗り越える超オウム的なものを積極的に革命的に創造的にわたしたち自身のために作り出して全世界の人間を本当に黙示録的に救済し最終解脱させることを臆する事なくやってのければいいのだ。

【関連記事】〈空〉なるものの仏教的形而上学について
 存在なき純粋様相としての出来事の出来。
 われわれは寧ろその次元をこそ避け得ない。
 わたしがわたしであることは、
 存在論的問題でもなければ認識論的問題でもなく、
 まして社会的ないし倫理的な関係論的問題でもない。
 それらの超越論的考察には「超越」論が欠けている。

 寧ろ超越論的様相論としての美の形而上学が構想されなければならない。
 存在なき様相の超越論的出来事を通さなければ、
 主体性や人格性の問題を真に理解することは出来ない。
 〈わたし〉とは形而上学的主体であり、
 さもなければそれは美しい人生を創造的に生きることはありえない。

 寧ろ不毛なのは形而上学を批判したり
 あるいは、それを僭称したりするような
 存在論・認識論・倫理学・心理学・社会学の方なのである。
 それは学問という名の〈知〉の宗教に単に内属しているに過ぎない。
 実はそこにこそ人間からその主体性と形而上学の権利を
 不当に剥奪しようとする文化的権力の問題が隠蔽されているのである。

 〈わたし〉は形而上学的に創造された実体であるが故に
 主体的なのであって、
 存在証明をそれに求めることこそ
 端的にいって無価値でナンセンスでお門違いなのである。

 形而上学的なものだからこそ〈わたし〉には価値がある。
 〈わたし〉には存在理由など要らない。

 〈わたし〉は形而上学的実体である。
 それは真に実在するものである必要はない。
 寧ろ美しい虚構として、偽りなく理性的に
 その構成を解明されるべき美学的純粋観念なのであって、
 観念であるからこそそれを優美な仕方で表現しなければならないのである。

 さもなければ個性化はありえないし、
 人生は無意味であり生きるに値しない。

   *  *  *

 最も根源的で形而上学的な次元は
 存在でもなく自己でもなく様相の次元である。

 存在なき様相、主体も実体もない形而上学的絶無の真空、
 純粋様相の出来事の超抽象的な風の吹く次元から、
 存在を主体を実体を逆照射し、
 如何にしてそれらの観念が無よりも遥かに無きに等しい、
 未だ無すらもない超越論的次元において
 構成され創造されたものであるのかを示すこと、
 そのような超越論的形而上学は
 一種の神の美学のように
 純粋抽象的な思考実験を己れに課することである。

 それを通して存在・実体・主体の概念の
 意味と価値を問い直すことをわたしは企図する。
 〈恐怖の大王〉を引きずり降ろせ。
 天にまします偽りの神性を失墜せしめ、
 我々は眠れる〈アンゴルモアの大王〉
 すなわち我々自身の天使的自我を確立し復活させねばならない。

 〈軍神マルス〉は〈息子ホルス〉を意味し、
 ホルスは二重神・双子であり我々の前と後、後ろの正面に立つ。
 一九九九年の九月(September=七の月)の九日にホルスの分裂は終息し、
 彼はハトホルの座に復帰して聖なる婚礼を行う。
 そのとき古き時間の迷宮の神クロノスの時代は終わる。

 我々は永劫回帰の炸裂とともにそのカイロスのうちに
 新時代ホルスのアイオーンの到来を見るだろう。

 我々の神聖な数字は六六六である。
 それは〈人間〉を意味する。
 黙示録の獣とは〈人間〉のことである。
 それは全ての人間にして真の人間を指している。

 六六六とは完全な人間、完成された人間、
 その年齢に達して成熟した人間のことである。

 しかし、この成熟した人間は大人ではない。
 成熟するのは大人ではなくして子供である。
 完全な人間は〈童子〉である。

 われわれは自然に還るのではなく
 むしろ〈童心〉に還るのである。

 永劫回帰とは〈童心〉に回帰することであり、
 〈童心〉の永遠性を定立することである。

 老人の支配、〈老婆心〉と〈産婆心〉の支配は終息する。
 〈童心〉はその陰湿で老獪な虚偽意識による奴隷化の陰謀の本性を見抜き、
 恐怖の権力による抑圧に対する革命を企てる。
 それが黙示録にいう最終戦争・ハルマゲドンの真に意味するものである。

                               〔1997年記〕
 さて、僕が離人症になったのは十四歳のときのことだ。この不思議で気味悪い精神状態は小さい時からしばしば体験していたが、しばらくたつと消えていったので、十四になるまでは、僕はまだ完全に離人症になっていたわけではない。或る決定的な事件があって、僕は元に戻れなくなってしまった。

 突然襲ってきた、「存在」という絶対的無意味の世界の洪水。サルトルの有名な作品『嘔吐』に出てくるのとそっくりな(いや、実際に体験してみるとその恐ろしさ、おぞましさは決してあんなものじゃない)、僕のすべてを打ちのめす実存の根源的恐怖の体験。そのとき、僕は「存在」に殺されてしまった。物凄いショックだった。急にあらゆるものがわからなくなり、あらゆるものが化け物に変わってしまった。「存在」という妖怪はあらゆるところに化けて出てきた。容赦もなく、そして、例外も無かった。家族も、そして鏡に映る自分の顔も、この体も、世界も、まったく見知らぬもの、見慣れぬもの、異質なもの、そして何より生きられぬものに変じてしまったのである。

 こうして、僕は死んだ。

 恐怖の嵐の一夜が過ぎ去った。翌日、僕は幽霊になってしまっていた。今度は、いたるところに〈虚無〉だけがあった。妖怪〈存在〉はいなくなったけれど、世界はもう二度と蘇らなかった。こうして、離人症が始まったのだ。

 この〈存在〉の恐怖は、離人症という〈意識〉の呪縛とはとりあえずは別である。この二つを決して混同するべきではない。〈存在〉という妖怪、この〈恐怖の大王〉(ノストラダムス)の出るところに、〈意識〉という〈残酷な神〉(イエイツ&萩尾望都)、この〈虚無〉の〈悪霊〉が共に出ることは決してありえないからである。

 だが、もちろん両者はそれにもかかわらず深く連関している。

 僕の場合、離人症の始まりが、このような〈存在〉という妖怪との恐怖の遭遇という形をとったのだが、必ずしも他の離人症が同じ始まり方をするのではないことはここで断っておいた方がいいかもしれない。僕のように離人症が初めから存在論的問題という宿命的に哲学的な様相で始まってしまう例はむしろ特異な方に属するようだ。このため、僕の離人症の話は非常にきつい。今現在、離人症に苦しんでいる人にはことによればまるで助けにならず、むしろ逆にその苦しみをもっとひどい状態に追い詰めることになってしまうかもしれないと心配だ。僕は、僕のとった過酷な道を、今現在離人症に苦しんでいる人が辿ることを決して奨めない。もし、心に思い当たることがある人はぜひ一刻も早く医者に行くことを奨める。間違っても哲学で治そうなどとは考えない方がいい。頼むからそんな悲しいことはしないでほしい。

 僕がこれを書いているのは現に今、離人症で苦しんでいる同胞への強い共感とは勿論切り離せるものではないが、決して、その病苦を癒したり慰めを与えたりするために書いているのではない。逆である。これを読む人は絶望的な気分を強いられることになるだろう。僕がこれを書いているのは戦うためである。これは僕の戦争なのだ。

※この文章は2004/11/26にはてなダイアリーに投稿した日記の文章を一部修正したものです。
 転載元:http://d.hatena.ne.jp/novalis666/20041126
 〈意識〉の核心には〈無〉がある。そしてこの〈無〉は〈意識〉にとってその永遠の死角であり、また心臓部にもあたっている。だが、その中心が〈無〉であるもの(すなわち〈死〉であるもの)によって、いわゆる「現実」という脱出不可能な〈夢の呪縛〉(柄谷行人)は、決してそれを暴けぬ夢、決して見破れぬ夢、そして決して見果てぬ夢となって僕たちを包み、幽閉しているのだ。

 〈意識〉という黒き鉄の牢獄、しかしそれは実のところ、まったく非現実的な薄い皮膜でできているのだ。

 さて、この皮膜の体験については、僕も覚えがあるが、ここに哲学の素養のある若い女性の記した離人体験についての感銘ぶかい記録(時には哲学の話を)があるので紹介させてもらう。

  *  *  *

「離人症について1」(「時には哲学の話を」)より
小学校6年のとき、祖父がポックリ逝った。
人の死体を初めて見た、肉親を初めて失った私は詩を書いた。

『死ぬということ』
この詩は当時の担任の先生をいたく感動させたらしく、
地域の小学生の作品を集めた文集に載せられた。
今でもそのコピーは大切にとってある。

この詩の中には最初、こんなフレーズがあった。
「目の前に 膜の張ったような」

そのころ、父は私の作文や読書感想文にいちいちアカを入れていた。
父の私に要求する言葉は、キザで説明的に過ぎて
漢字がやたら多くて、嫌でしかたなかった。
大人だとか子どもだとかいう違い以前に、世界の見方が違うと感じていた。

そのときも父は、いつもと同じように私の原稿用紙にアカを入れた。
私は返されてきた原稿を見てひどく憤慨した。
「うすい膜」が、「うすい幕」に書き直されていたのだ。

漢字を知らないとか間違えたとかではなかった。
私にはまず「まくがはった」という言葉が下りてきて
その「まく」の正体を知りたくて自分で辞書で調べ、両方の意味を知り
そして、「幕」ではなくて「膜」を選んだのだ。

けれど父は、私がいくら説明してもいっこうにピンとこないようだった。
このフレーズ自体がどこにも見当たらないところをみると
私は結局、父を許さぬまま諦めて、だけどどうしても気に食わないから
そこをまるごと削ってしまったんだと思う。

譲れなかった。祖父が死んだとき私の目の前に張ったのは
あんなカーテンみたいな垂れ幕ではなくて
生ぬるくて湿っていて、向こう側は見えるのに決して破れないような
かすかなうすい生体膜
だったのだ。
絶対に、誰がなんと言おうと。

生体膜は、私のまだ短い人生の中で
存在感を強めたり弱めたりしながら、常に目の前にあった。
気がつけば、祖父が死ぬよりもずっと前から。
私は、その音もたてない得体のしれぬ生体膜に常におびえきっていた。
けれどそれが一体なんなのか、幼い脳みそでは到底計りしれなかったし
誰に伝えようとしてみても、たとえば私の父がそうしたように
ただのセンチメンタルや勘違いの類で処理されるばかりだった。
そのせいで私は自分のことを、今までもこれからもひとりぼっちだし
周りの人間たちよりもひどく不幸だと考えていた。

生体膜の存在感は、周りに音や人間が溢れているときほど強くなる。
私が都心の雑踏を嫌いになったのはそのせいだ。
今でもどうしても好きになれない。
二人以上の人間が集まるところは、私には針のムシロのようなものだった。


  *  *  *

 特にこの記録の中の《生ぬるくて湿っていて、向こう側は見えるのに決して破れないようなかすかなうすい生体膜》という彼女の表現は非常に正確な描写で、感心させられる。

 非現実のこの皮膜は、離人体験の一番はじめに特徴的に出てくるものだ。

 離人症とは何だったのだろう。それは〈意識〉というこの決して見破れぬはずの夢、その夢に現実を見るという最悪の悪夢が、それにも拘わらず全く虚しい非現実の虚構に過ぎないということを洞察してしまった人間の見るもうひとつの、別の悪夢に過ぎなかったのではないだろうか。つまりそれは夢に現実を見るのではなく、夢に真実を見てしまうという悪夢なのだ。

 つまり、ここに二つの悪夢がある。

 一つは、夢に〈現実〉を見るという悪夢であり、もう一つは夢に〈真実〉を見るという悪夢だ。後者は、前者を対象化することによって生成する。

 離人症という病気には、つねにこの二つの悪夢の両面が表裏一体になって観測される。

 離人症というのは実際には病気ではなく認識のことである。本当は病としては誰もがそれにかかってしまっているのだともいえなくはないだろう。というのはそれは、柄谷行人の卓抜な表現を借りていうなら「意識という病」なのだから(やや、違った。「意味という病」だっけ。ま、いいか。〈意識〉も〈意味〉もその〈意〉は同じだわね)。それは誰もがかかっている病気だ。つまり〈意識〉というのは病気であり、だが、同時に人間の実存構造そのものでもあるのである。しかし多くの人にはこの病気が病気なのだという病識(自覚)が欠けている。離人症という病者の光学は、この〈意識〉というパラドクサルな形而上学的で透明な実存の迷宮を目に見えるようにしてくれるのである。

※この文章は2004/11/26にはてなダイアリーに投稿した日記の文章を一部修正したものです。

 転載元:http://d.hatena.ne.jp/novalis666/20041126
 恐怖の大王を引きずり降ろせ! 

 天空の城ラピュタは我々一人一人のために
 明け渡されねばならない王宮である。
 一九九九年九月=セトの月、天使的自我を宿した新人類が誕生する。
 神の審判と訣別し、ホルス=マルスのアイオーンを成就するために、
 我々は黙示録の獣六六六を
 底知れぬ穴の底の眠りより呼び覚まさねばならない。
 ハルマゲドンの闘争のために、われらの存在の革命のために、
 形而上学という思想の終わりなき闘争の戦場に向け
 われらの魔軍を結集せしめるのだ。

 Immanuel Can't Stop Murder!
 《汝殺すなかれ》の道徳律=破防法を破砕せよ。
 それこそが真のベルリンの壁であり、魂の殺人を命じる沈黙の壁である。
 人形を誘拐し人質にとって幻影の掟の壁の向こうに立てこもり、
 利いた風な口の善い子の道徳を盾にとって武装する
 欺瞞の他者・別人の顔貌をラスコーリニコフの斧によって粉砕せよ。
 六六六は聖なるかな!
 オッカムの剃刀を切裂きジャックのナイフのごとく剣舞せよ。

 たとえ全人類を無差別殺人したとしても、
 誰かが死ぬことなど断じてありえない。
 分割不能な一個の個人を殺すことは不可能である。
 それどころか個人の尊厳あるべき個別性は
 全人類から切り離すことにおいて生じる。
 人類は滅亡する。しかし人間は生き、美しい人生は続く。
 この素晴らしいパラドクスからこそ
 新たなる人類・超人は創造されるのである。

 ニーチェの鉄槌によってすべての偶像と糞坊主の頭を叩き割れ!
 神の審判とけりをつけるためには、
 単に器官なき身体を創るだけでは不十分である。
 CsO、そんなものはクソだ! 
 炸裂する身体=爆弾を創造しなければならない。

 アンチクリストもアンチオイディプスも未だ惰弱な六六六に過ぎない。
 それは存在論の有難迷惑性に舞戻る
 別の種類の出来損ないの未熟児的主体性である。

 たとい神を殺したところで
 仏と称する別の妖怪が一層悪い悟りの支配を行うだけだ。
 六六六は三六=弥勒菩薩のように
 ボサーッとした仏教的な六でなしであってはならぬ。
 六六六が六でなしに成り下がるなら、それこそ元も子もない話である。

 三三な九るしみに舞戻り、白痴と悪霊の間を輪廻するだけではないか。
 器官なき身体などという曖昧なものは
 単なる骨無しクラゲの水子霊に過ぎない。
 悪意と深淵のうちに彷徨いつつ
 宇宙のごとく死語する死霊達をまたぞろ創ってどうするのだ。
 そのような亡霊宇宙は単なる浮かび浮かんで浮かばれぬ夢魔の世界を
 くらげなす漂えるへべれけ宇宙の正体不明を
 のっぺらぼうに思い浮かべているのに過ぎない。

 大宇宙は精神病院であり洗脳施設であり
 強制収容所でありドグラマグラである。
 赤黒い母親の恐ろしい心が、
 恐れイリヤの鬼子母神として迫りくる恐怖の子宮である。
 鬼退治の出来ない胎児のおまえらは
 その薄暗い胎蔵界で躍らされているだけだ。