2009-05-26 23:30:05

Dr. Inside MOATのプロレス哲学講座・第二回 『悲劇の誕生』のおわり (02頃)

テーマ:Dr. Inside MOAT

さて、第二回だ。
前回儂は、1行ですむ話をテクニカルタームをまぶしてさもありがたげに語るのを青土社文体と呼んだ。しかし、実はそれは人類文化上の宿痾と言ってもいいもので、特に青土社が悪いわけでも、日本人が悪いわけでも、ましてや儂が悪いわけでもない。そもそも、フッサールが何を目指そうと、哲学科に入学試験があろうと、ラカンがあかんかろうと、哲学は単にアフォリズムであるか、ちょっと長目のアフォリズムでしかない。
今回はアフォリズムの総帥F・ニーチェの『悲劇の誕生』を取り上げる。

悲劇の誕生

『悲劇の誕生』はプロレスにかぶせやすい話だと思うんだが、ネットで検索しても英文和文を問わずこれらを並べて論じたものはないようだ。
ベビーとヒールをアポロ的なものとディオニュソス的なものに2分して論じてみたり、『フォールの瞬間にディオニュソス的な破壊と1・2・3と正数を数えるアポロ的な行為が統合されて真実の時が生じる』と言ってみたり、『アポロンとディオニュソスの対立によって成り立つギリシャ悲劇は、ソクラテスが純粋な理性で死を選んだ時に知的なソクラテス喜劇に殺された。アポロンとディオニュソスの対立に擬されるプロレスも、純粋に金額で死を選んだ高田に殺されかけた』とか言ってみたりすることも出来る。
ま、確かに、各々にいて青土社文章をでっち上げようと思えば出来るからでっち上げてもいいのだが、今回の関心は新日のファンなので、そこら辺の話はしない。

今回考えるのは、沢山のブ~イングを浴びながら、それでも日本最大で、世界最大クラスの観客動員力を持つ新日とそのファンのことだ。
新日の最大の危機は観客の変貌にあると言われる。観客の中からコーラス隊が消えているのだ。

ディオニソス劇場


コーラス隊とはなんぞや?ギリシャの劇場は扇状で中央に向かってすり鉢状に下っている。扇の中央に舞台があり、その外にコーラス隊が、後ろに観客が座る。当たり前のことだがコーラス隊は舞台に合わせてコーラスをする。
『悲劇の誕生』の7~9章によるとギリシャ悲劇にとってコーラス隊とは救済であり、対話全体であり、根元であり、αでありΩであり、世界のコアから真実を告げる賢者だそうだ。『悲劇の誕生』はニーチェ自身が出来損ないと呼ぶ処女作で、ニーチェのご多分に漏れず迂遠であるし、論理も破綻している。しかし、梅毒が進んでないので比較的分かりやすい。ざっと書くとこういうことだ。

『コーラス隊は理想的な観客』と19世紀ドイツの批評家A・W・シュレーゲルが言った。
『理想的な観客』と呼ぶのはある意味で正しいが、根本的な点で間違っている。何故ならコーラス隊は舞台上の登場人物や奇跡を全て事実としてみている、と言う立場で歌う。勿論コーラス隊を構成する個人として信じているわけではないが、立場としてはそうだ。一方観客は舞台を劇として見るのであって、いくら何でも現実としてみることなんてあり得ない。それでは『芸術』とは言えない。『催眠術』だ。
コーラス隊は、観客と視点が違う以上『理想的な観客』ではない。コーラス隊の役割は観客と同じ感動を体験することではなく、舞台の上を現実として見て翻訳し、舞台上を現実としてみない観客と舞台の間に熱狂を繋ぐことにある。ディオゲネス的熱狂を音楽や叫びと共に観客に伝え巻き込む。決して全観客が舞台を現実としてみることが理想なのではない。舞台の上を現実としてみる一部がいることが、悲劇の成立に極めて重要なのだ。

プロレスは神が常に死に続けるジャンルである。ここでいう神が死ぬとは試合の終わるごとにレスラーのうちの一人がフォールされるという意味ではない。
まず、一人の少年がはじめてファンとなったとき、リング上には神話がある。神々は闘い死を繰り返すが、再生も繰り返す。ファンが信じている限り神話は死なない。しかし、プロレスファンは循環する。時がたつうちに、ファン個人の中で神話自身が死に、リング上の神聖さが失われ、神々も(一部の人にとっては)永遠に生き返らない。日本において、プロレスは新しいファン達の中で常に神が死に続け、そのファン達が不十分に悟ったものに転生するジャンルである。

ギリシャ悲劇同様プロレスにおいても、リング上を現実としてみるコーラス隊の存在が重要だ。プロレスは、リング上の出来事に対する誤解がファンの中に自動的に『コーラス隊』を生成する。神の死を経験したプロレスの観客が『悲劇の誕生』の『観客』に当たる。成ったばかりの純真なファンがコーラス隊だ。彼らが既に神の死を経験した観客にリング上のプロレスを成立させる。新日は日本で最大のコーラス隊と神の死んだ観客を持つ。今の新日をプロレスファンの多くを占める不十分に悟ったものが新日を不十分に感じる理由はコーラス隊の力不足の所為なのだ。新日が不十分に悟った層に向けてプロレスを行ってきたツケだろう。今のプロレスファンの場合の特に大きな問題は、多くのファンが最初から不十分に悟ったものとして入ってくることだ。業界の構造的なものだし、日本の文化風土も関係しているので方向転換は難しいかも知れない。

地方巡業はまだいい。たまに回ってくる祭りとしてプロレスを見に行く客を相手にしている場合はまだ多くのコーラス隊が会場に現れる。しかし、特に大都市部においてはファンは多くの興行の中から積極的に選択して会場に行く。会場に現れる客のうちのコーラス隊の割合が下がり、観客はコーラス隊抜きのプロレスを見せられてしまう。

構造主義はコーラスをしないらしい。禿頭と蝙男が解剖台の上で巡り会ったとしても、プロレスを解剖台の上に載せて楽しむ人は少ないだろう。実際コーラス隊抜きでも楽しめるし、解剖台の上で踊っている人もいるが、その数はインディー興行の会場にいる人数を超えない。それはそれでいいんだが・・・

会場と違い、TVでのコーラス隊はアナウンサーが勤める。だからアナウンサーは重要だ。辻が世間でバカにされているほどアホだとは儂は思わない。しかし、雑誌でカミングアウトを語り、長州の本を書き、生ゴンの司会をしてしまうようではコーラス隊として適当とは言えない。リング上では選手がセルを繰り返しているのに、妙に賢いふりをしたいアナウンサーなんか要らない。これは勿論辻に限った話ではない。

新日の復活はコーラス隊の復活にかかっている。

ここまで読んで違和感を感じた人がいるだろう。『新日がつまんないのは統一の取れていないストーリーライン、ファンの方を向いてない首脳部、有用な人材の流出、古い企業独特の硬直のせいだってのが一番の理由で、新規ファンの減少は結果に過ぎない。』
なるほど、素直に考えればその通り。ま、哲学用語をプロレスに持ち込んだところで、出来上がるものはこの程度のもんだと思って読んで貰っていい。

(ここまで来るとこの文章からある帰結が生じる。
プロレスはカミングアウトなんかすべきではない。求められるのは情報の棲み分けであって、一般紙や週ゴン・プロクラスの雑誌までシュート活字を取る必要はない・・・というよりそんなことは有害だ。しかしそれはまた別の話)

PS:ニーチェは悲劇が元々コーラス隊だけで構成されており、あとから舞台が付いたという伝承を元に、”観客それ自身が本来の形態であるジャンルの芸術とはいったい何であろう?”と混ぜ返すのではあるが、それもまた別の話

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