のらくら農園 の のらくら日記

     野良仕事で暮らす! 農家のハッピーな毎日をつづります。

2017年春の収穫は終了しました。
現在はジャム・ギフトセットのみ販売しております。
来シーズンは2017年11月下旬スタートの予定です。

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 ちょっと古い話になりますが,地元の生協の広報誌「ひだまり」3月号の表紙がイチゴで彩られました。

 
 「ひだまり」3月号。

 

 5種類のいちごを縦に切って,外側と内側が見えるように並べています。こうやって並べられると,品種名をズバリ当ててみたくなりますよね~。

 ご存知の通り,今や市場に出回るいちごの品種は膨大な数に上っています。ですから,この写真を見ただけで5つともズバリ的中できるような人は日本中探し回ってもいないと思います。いちごが大好きで毎日いろんないちごを食べまくっているような奇特な人なら,1つくらい当てられるかもしれませんが,5つ的中はきっと無理でしょう。いちご農家でも,いちご研究者でも難しいと思います。

 僕も挑戦してみましたよ。僕が当てられたのは3つ。右上と,真ん中と,右下のものを的中しました。「さすが,いちご農家!」でしょ(笑)? でも,実はちょっとズルい答え方をしたから,ようやくどうにか3つ当てられたというだけのことなのです。

 なんといっても,この広報誌「ひだまり」。三重県の生協の広報誌ですからね,5種類のうち3種類は三重県で生産されている代表的な品種,「章姫(あきひめ)」,「紅ほっぺ」,「かおり野」なんだろうな,と。そう考えたわけです。

 となると,真ん中が「章姫」。これが一番自信ありました(笑)。なんせ「のらくら農園」のいちごは大半が「章姫」ですからね。毎日のように膨大な数,目にしていますから(笑)。特徴は,まず実全体の形が縦に細長いこと。そして色がやや薄め,朱色に近い赤色であること。さらに,断面も白い。特にこの写真の実は,ヘタ近くがまだ白い完熟前のいちごですから,中央部なんてまだ真っ白ですよね。

 次に自信があったのは右下の「かおり野」。なんせ色が薄い。だいだい色みたいな色なんですよね。正直あんまり美味しそうな赤じゃない。美味しい「かおり野」はとても美味しいらしいですし,なんせ三重県発の品種ですからね。栽培に挑戦してみたいという思いも無いわけじゃないんです。でも,今のところ手を出していません。「色がなぁ~」というのが今の僕の正直な気持ちです。

 そして的中3つめが右上の「紅ほっぺ」。これも「のらくら農園」で栽培している品種です。でも,正直言ってこれが,3品種のうち一番自信が無かった。半ば当てずっぽうです(笑)。

 

 掲載されている5品種のうち,実の中まで赤くなっているのは右上と左下の2つだけですから,このどちらかが「紅ほっぺ」だろうと予想したわけです。で,右上の実のほうがヘタに近い部分が「怒り肩」な感じなので,これかなと。こうして改めて見てみると,名前の通り,紅ほっぺ,赤いですね~。

 ちなみに,残る2品種は,左上が「さがほのか」。左下が「あまおう」だそうです。ごめんなさい。全然分かりません(笑)。

 誌面の中に掲載されていた「今月の表紙」というコメント記事には,こんなことが書かれていました。

 いちごがおいしい季節。品種や産地,栽培方法で色々な食味があるのでお気に入りを探してみては…?

 いやいや,この広報誌が発行された3月は,もう暖かくなり始めていて,いちごの一番甘い時期は残念ながら過ぎてるんですよね~。でもまあ,必ずしも「甘い=美味い
」というわけではないですからね。実際,春の爽やかないちごが好きだって人もいますしね。

 いずれにせよ,「お気に入りを探して」みた人が,リピーターになってくれるような,そんないちごを作りたいものですな~。

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 論文は,明治~昭和期に神戸や横浜で交易を行った「アプカー商会」の活動の内容とその特質について論じたものであった。

 当時,アジアの海には西欧列強が武力と経済力を持って進出し,影響力を拡大していた。が,その一方で,列強の進出以前より活動を続けていた大小様々な海洋集団も活動を続けていた。そうした海洋集団の1つがアルメニア海商であり,彼らはインドから東アジアにかけてコミュニティを形成し,海運や物品の取引にとどまらず,保険やホテルなど多ジャンルにわたってビジネスを展開していたという。欧米列強と違ってあまり知られてはいないが,彼らは日本でも活動を行っていたのだそうで,その一翼を担っていたのが「アプカー商会」だったというわけだ。

 論文はまずアプカー家のファミリー・ヒストリーをたどることからアプカー商会に迫っていく。根拠となった史料は,外国人墓地に残る墓碑や外務省が作成した調査資料,在留外国人向け英字新聞など。多岐にわたる膨大な数の史料にあたられたS先生の苦労がうかがえる。苦労も大きかったろうが,謎を解いていく面白さも大きかったに違いない。

 そもそもアルメニア人がどんな民族か,知らない日本人は多いだろう。恥ずかしながら僕自身もそうだった。現在のアルメニア共和国は黒海とカスピ海の間にある。コーカサス山脈に抱かれた内陸国である。12世紀に東ローマ帝国によって王国が滅ぼされたのを機に,民族の大半が世界各地に離散し,20世紀に共和国が建設された後も,民族の大半は各地に散在しているという。そうして各地に住むアルメニア人同士がネットワークを構築し,幅広いビジネスに活躍したというわけだ。

 日本で活動したアプカー家もそうした人たちだった。19世紀の末に横浜で活動を始めたアプカー商会は,関東大震災を機に拠点を一時神戸に移したが,その後,再び横浜に戻り,1942年にアプカー氏が治安警察法により逮捕されるまでビジネスを続けた。


 アプカー商会の扱った主な商品は,列強各国の大商会が扱った茶,絹製品,綿製品などではなく,他品種,少量のニッチな商品だったという。

 例えば「シェラック」という物質。カイガラムシから取り出すこの物質はレコード盤の原料となった。同じくカイガラムシから抽出するコチニール。これは絹布などを染めるための染料である。あるいはラジオ。日本で公共ラジオ放送が始まると間もなく,その輸入を開始している。あるいはオートバイ。これも当時はまだほんの一部の愛好家にしか求められない贅沢品であった。

 こうしたニッチ商品を扱うことは,単なる「好事家的志向」によるものではなく,時代の嗜好を先取りするパイオニア的な公益事業だったのではないかとS先生はおっしゃる。そしてまた,ニッチ商品を扱うことで,それらを扱わない大資本との利害対立を避け,「棲み分け」によって共存共益を図ることで,アプカー商会は居留地交易の活路を見いだしていたのだろう,と。

 そして,S先生は論文を以下のように結んでおられる。
 
 「(アルメニア海商のニッチ交易は)国際的な経済潮流や時代の風を読みとり,その状況と環境に適合した交易品を確保するという点で(中略),「環境適応」的な活動であったといえる。(中略)時代の先端を行く商品を他の交易会社に先駆けて扱うことに活路を見いだそうとしたのが,海商アプカーの戦略ではなかったかと思う。」

 戦前の日本で活動したアルメニア人海商,アプカー商会。S先生の論文を読み始めるまで,名前すら聞いたこともない存在であった。故地を離れ,世界各地でマイノリティとして生きるアルメニア人が,ここ日本でも細々と(でもないのだろうが)交易に携わり,生きる道を探っていた。論文を読み進め,そんな様子が見えてくるにつれ,僕はなんとなくシンパシーを覚えるようになっていた。

 そして,論文を読み終えたとき,S先生がどうしてこの論文を僕に送ってくれたのか,その意図が何となく分かったような気がした。

 国際的な経済潮流や時代の風を読み取る努力を怠らず,その状況と環境に適合した経営をせよ,と。時代の先端をいく商品を大資本に先駆けて扱って経営の活路を見出せ,と。先生はそう仰っているのではないか。

 様々なところから社会の変化を感じ取り,経営の方針に反映させる。大量生産型の商品で大資本と競争するような道を避け,他が扱わない新しい商品を扱って活路を見出す。実際にできているかどうかは別として,そういう経営,生き方を僕が志していることを,S先生はきっとご存知だ。これまでの様々な形の交流の中で,おそらく敏感に察してくださっていると思うのだ。

 独立志向の経営,生き方は,自由だが,その半面,常に漠然とした不安と孤独がついて回る。しかし,その道が誤っていないこと,勇気を持って明るく進むべき道であることを,S先生は肯定してくださっているのだと思う。

 アプカー商会の姿を通じて,頼りない僕の心を支え,背中を押してくれる。恩師はいつまでたっても恩師である。

「そんなふうにも読めるかな。ま,そんなややこしこと言いたいわけでもないけどな。」そう言ってニヤリと笑う先生の顔が思い浮かぶような気もするが…。

 

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 先日,大学時代の恩師,S先生からメールが届いた。

 メールには先生の最新の論文が1つ添付されていた。タイトルは「アルメニア海商の近代日本」。ん? アルメニア海商? そもそもアルメニアってどこだっけ? メールの同時送信先にはどうやら先生の研究者仲間と思われる方々のアドレスが並んでいる。一瞬「誤送信かしら」とも思ったが,おそらくそうではない。「ま,たまにはこんなん読んだらどや」にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべて論文を差し出す先生の表情が脳裏に浮かんだ。

 S先生は東洋史,とりわけインドやその周辺に関する研究がご専門である。特にインド洋を取り巻く地域全体を1つの世界として描き上げたいという痛快な構想を抱いておられたと記憶している。

 大学時代の僕は名目上「東洋史学専攻」であったが,研究室にほとんど顔を出さない,いわば「お荷物」な学生であった。大学そのものは好きだったからちゃんと通っていたし,幅広くたくさんの授業を受けたが,わけあって東洋史関係の授業には最低限しか出ずにいた。「世界史」の知識が乏しいにも関わらず東洋史の研究室に入ってしまったため,ボロを出さぬよう逃げ回っていたのだ(それでも先生方は温かく見守ってくださった。感謝,感謝である)。

 S先生は,東洋史の専門家であるにも関わらず東洋史学研究室には籍を置かず,当時まだ開設されたばかりだった国際系の大学院に籍を置いておられた。どういう経緯で僕がS先生の授業を受けることになったかは全く記憶に無いが,オックスフォード大学のインド人研究者が書いた長大な英語の論文を読み解いていくという授業に,大学院生に混じって出席することとなった。

 授業で扱っていた論文は,複雑な構造の長文が連続する難解な論文で,書かれた内容はもちろん,邦訳すること自体にも苦労するような代物だった。当然,予習には大いに苦労したが,不思議に僕はその授業が気に入って,卒業に必要な単位が揃った後も,好んで履修し続けた。それは,単に受講生の多くが大学院の綺麗なおねえさん達だったからというわけではなく,やや後ろめたい思いをしながら逃げていた東洋史の研究に取り組んでいるという自己満足があったからだとも思う。そして何より,聡明でかつユーモア溢れるS先生のお人柄と,難解な論文と格闘する知的興奮とが,僕を惹きつけていたのである。

 「アルメニア海商の近代日本」。そのS先生から送られてきた論文である。考えてみれば,先生がご自身の論文を送ってきてくれたことなど,これまでに無かったことである。先生には,卒業後も今に至るまで年賀状やメールのやりとりに付き合っていただいているし,お酒の席を共にさせていただいたことも一度ならずある。しかし,それにも関わらず,先生の研究そのものについて突っ込んだ話をしたことは,不思議なことに一度たりともなかったのである。それなのに突然「アルメニア海商」である。そこには先生からの何らかのメッセージが込められているに違いない。

 僕はさっそく論文をプリントアウトし,じっくり読ませていただくことにした。
                                   (つづく)

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