今回ご紹介するのは

2003年の長谷章宏から、平成23年の皆さんへのメッセージ(文、フミ)

です


長谷章宏って何モノ? よく分からない?

書かれているものと置かれている状況に矛盾を感じる?

「真コト」と「魔コト」? マ違い?

真釣りってどういうこと?

天国、ミロクって何? どうすればいいの?

本当の「死」と「生」の意味は?



多少長く感じるかもしれませんが、長谷本で伝えていることの「核」が凝縮されていると思います。

これだけでもしっかり“読む”ことが出来れば、あなたのなかで何かが“晴れる”はずです。


「現在の世界(日本)の置かれている状況と次の本について」と題された

2003-01-06付けで、出版社の編集者に宛てたメールからの抜粋です。(約5分の3)

8年5ヶ月越しのメッセージ、長谷章宏の終始一貫性が伝わることと思います。


(今回、公開の許可を頂きました。「実践・日本真道」の元原稿になったそうです(一部?))

わりと長いので分割してお届けします。



TRBオクトワールドとしての窓口はずっと開けてありましたが、2000年以降、皆さんの反応は極端に少なくなりました。21世紀になったことで、私の存在は、皆さんの中から消えてしまったようです。これは、私がお伝えしている内容を表面上の言葉だけで見れば、今の皆さんにとっては仕方のないことなのですが、しかし、実は、真コトを取る上では、これこそが、皆さんが最大のトラップにはまってしまったことを意味する現象なのです。私にとっては、こうなることはあらかじめ分かっていたことであり、それは本の中にも書いてある筈のことですが、実際にその状況がきてみると、やはり、という思いでした。真コトが消えてしまっている現代社会では、真コトとは何であるか、を心底から理解することは本当に難しいことだと、改めて実感しました。


(略)


『現代社会の極楽トンボくんたちへ』を世に出してから、早5年半が経ちました。私は、『人生というゲームの新しい遊び方』を出版して以来、TRBオクトワールドという形で、いろいろな方とお会いし、縁のある方々に、その時、その時で、私のできうる限りのすべてを使って真コトをお渡ししてきました。しかし、皆さんの反応を見ていますと、私のお伝えしていることを、今までの宗教や哲学や心理学と同じように見て、自分の苦しみを逃れるためのノウハウとして都合よく解釈して使い、はたまた、教養や知識として「勉強」し、自分の学んだものと同じかどうかを確かめて一喜一憂し、本物か偽物かの価値判断の材料にする、というように、出会ったほとんどすべての方々が、アタマの解釈の世界、自分の現世利益を得るため、現世の苦から逃れるための道具としてしかとらえて頂けませんでした。

誰かにすがる、批判する、批評する、迎合する、責任を転嫁する、どんな反応をしようとも、どんなに自分の外について語っているように見えても、他人や社会の心配をしていると言おうとも、それは、自分の心の中を自ら白状しているようなもので、結局は、すべては、自分本位の独り言、自分の目で作り出した現実であり、どんなときも、自分がどうなるか、だけを心配し、そのための解決策を探し続けているのです。そして、私の本をアタマで読んでもそれは得られませんし、ましてや魔コトの世界には、本当の安全を保証するものは何もなく、真コトを実行し続けない限り永遠に滅ぶ、というのが私のお伝えしてきたことです。

現在の私の見たところでは、結局は、私の出したメッセージの真意は、全く、伝わっていなかった、と言わざるを得ません。真コトを出せば出すほど、真コトで選択をすればするほど、その結果は、信用がなくなり、孤独になり、経済的に行き詰まる。反対に、魔コトの世界の信用や、仲間や、経済的安定を求めようとするほど、その選択は真コトを消すことになる。たとえにどんな状況になろうとも、私には真コトを歪める選択をすることはできません。真コトは、知識ではなく、現実の創造メカニズムであり、実践そのものなのです。選択した行動が即、実生活に反映する、つまり、二度と同じトキに同じコトのやり直しは利かない、そしてその結果が、次の体験の選択に影響するということです。

私は、この13年間、いや、生まれてからずっと、自分自身の全存在をかけて、全生活をかけて、あらゆる状況を実際に体験しながら、様々な課題をクリアし、自分を実験台にして皆さんに真コトをお伝えするための修行を続けてきました。

そして、自分の日常生活での問題解決の時に体験した葛藤や心理状態、相手の反応等も含めて、そのプロセスで得た、あらゆる情報を整理、分析、統合し、あらゆる材料、実例、表現を駆使して間違いなく真コトをお伝えすることだけに今までの人生をかけてここまでやってきましたが、どの方も、霊主心従体属の本当の意味が分からず、結局は、体主心従霊属の、形の天国を造ろうとする世界から出られなかったようです。つまり、ミロクというのは100%アベコベの裏表の世界であるということの意味を全く理解していない、ということです。

たとえ、アタマで考えて、口では分かったと言ったとしても、現代社会での立場や生き場、評価、信用、財産等々を守ろうという意識がわずかでも働けば、分かったことを100%行動することはできず、都合良く解釈して、やったつもりになっている、そんな方々がほとんどです。金よりも神が先、魔コトの信用よりも、魔コトの不信用、つまり、現代社会においては、本当に真コトを貫き通しているならば、経済的にも生き方においても、孤立に見える方向、損するように見える状況を常に選ぶことになるのです。その選択を実行し続けて、初めて次の真コトへの道が見えるのです。今世の信用や立場を保っておいて、ミロクを得ようとすることはできません。真コトを行動しようとした時、消えるように見えるものは、すべてが魔コトが作り出した幻想、戯れ言に過ぎません。最後は魔コトと真コトは同時には存在できなくなります。

真コトを取り戻すというのは、そんなに甘いものではありません。真コトを欺くことはできません。大神様の真意がわかったら、何も言えなくなる筈です。真コトを生きているつもりでも、そこにほんのわずかでも嘘や誤摩化しがあれば、そして、自らがそれを知っていて、見ないふりをしているならば、それは魔コトであり、自ら、滅びの道を進めていることになるのです。他人は誤摩化せても、自分のことは誤摩化せません。他人に対してどう取り繕おうとも、それは全く意味がありません。それは、自らの永遠の死への道に居続けることになるだけなのです。自分が自分を生かすか殺すか、それが今回の大掃除のただ一つの目的なのです。自分自身を外しては真コトは取れません。

神事や、社会や、他人の問題ではない、そのことを本当に自覚しているのかどうか、です。皆がやっているから、常識だから、それが自らの引導となります。決まりは守らなければなりません。しかし、本当の決まりは真釣りです。真釣りを外した魔コトの戒律や法律や常識や礼儀やマナーをバカ正直に守っていると、いつまでたっても真コトは見えず、自らを殺すことになります。そして、その戒律や法律を強制し、取り締まっている側にも全く同じことが言えます。本当の決まりの違反者は自然淘汰であり、本当の神は一つの戒律も作っていません。

自分を生かすか殺すか、究極の選択のためのただ一つの答えを汲み取って頂くのが、私のお伝えしてきたことのただ一つの目的です。そして、それが果たされても果たされなくても、私自身の生死には影響がないのです。

あくまでも、自分自身の問題ですから。

私のお伝えしていることの真意が伝わっていないということ、それは、全く反対の道程、つまり、私が、アベコベだと言った、まさに、その道をさらに進め、どんどん滅びの世界を自らに近付ける、破滅という現実を体験するための行動をし続けていることを意味します。それは、言い換えれば、どんどん、ミロクから、つまり永遠の天国から自ら勇んで遠ざかっていることを意味し、天国を造っているつもりで、最後は永遠の滅びを体験することになるということです。

その時になって、真意を知っても、二度とやり直せない、本当の、後の祭りとなります。どのくらい真剣に、心底から自分自身の現実として考えているか。真コトは、知識やお話の世界ではなく、毎瞬毎瞬の選択が、常に、自分自身の現実に反映される世界です。つまり、心と体の世界、思考と現実の形とは100%直結しているのです。

私のお伝えしていることは、100%実行すること、が唯一の鍵であり、自分に都合のよいところだけつまみ食いしているならば、それは、自らを滅びの道に誘っていることになります。一つの響きはすべての響き、すべての響きは一つの響きです。針一本落ちても万象万物に関わるのです。すべてが完全にリンクしているのですから、自分の体験している現実、見えているもの、感じているものは、生死時空を超えた自分がしたことの結果です。そして、自らを本当に生かすために唯一従うべきは真コトだけです。真コトを外せば、それは魔コトの現実であり、たとえ天国に見えようと、そこに僅かでも闇、恐れ、不安があれば、それは魔コトの作り出す虚構の天国なのです。真コトには闇はどこにも存在しません。自分の都合の良い理屈に真コトをあわせるのではなく、真コトに従って自分のあり方を直して行くのです。

それが、もし、自分に都合の悪いことだというならば、それこそが魔コトを生きていた証であり、それをまた同じやり方で誤摩化そうとするならば、どんどん状況が悪くなっていくだけです。

すべてを捨てて本当の真実を実行しない限り、真コトから離れ続けるだけです。

そして、最後には魔コトは奇麗さっぱり消え去りますから、それは、永遠の滅びの道を辿っていることを示しています。言い換えれば、真コトを取り戻せば、永遠の命を手にすることができると言うことです。魔コトに生き続けて今だけの命を守って自ら滅ぶか、魔コトを捨てて永遠の命の世界に自ら行き戻るかの究極の二者択一であり、人類の求めている世界に至る答えは一つしかあり得ません。

真コトと魔コトは裏表であり、真コトが消えている今の世界では、どうにでも都合よく誤摩化すことができます。つまり、九分九厘までは、真コトを見ないこともできるのです。見ざる言わざる聞かざるでも、九分九厘は誤摩化せる。自らが自らを永遠に生かすためには、自分が自分にどのくらい厳しくいられるか、が鍵です。自分が自分を誤摩化せば、それは、自分の死を意味するのです。それが、真コトの厳しいところであり、そして、本当に本気になれば、誰でも分かる簡単なところでもあるのです。しかし、真コトを知ろうが知るまいが、結局は、最後の最後に本当の真コトを身を以て知ることになります。すべてのすべては、自らが自らにもたらした現実です。逆さまの魔コトの世界で今まで教わってきた見方でどう見えようとも、自分のすべての現実は自分がつくり出したものなのです。

自分自身以外に自分を苦しめるものはどこにもありません。自分以外に原因があると教えられているとしても、それは、有史以来、いや、魔コトの神々の世界以来教えられ続けてきたものです。そして、今となってはそれが絶対不変の法則であると思い込んでしまっているものです。そして、その目で真コトを見ている限り、永遠に気付くことはできません。それが逆さま、裏表ということです。真コトを外した魔コトの世界の善悪の裁きあいは何の意味も持たず、それそのものが真コトを外した魔コトの世界の話であり、その世界そのものが滅ぶのです。

どうあっても他人を裁くと言うならば、それは自らを滅ぼす道です。誰が何と言おうと悪は外にある、それは、そう見ているからそう見えるのです。

本当は、自分の加害者はどこにもいない、それが真理です。見方を変えれば見えるものが変わるのです。全くのアベコベですから、今までの全てを捨てなければ、真コトは見えません。真コトを消した世界で真コトを見れば、それは闇になります。つまり、本当の闇の中に真コトがあるのです。恐いから出来ないと言えば、絶対に真コトは取り戻せません。究極のパラドックスです。

見方を変えれば見えるものが変わる。でも、変わらなかったらどうしよう、変わらなかったら恐いから変えない、そんな禅問答をいつまでも続けている間に、どんどん自らの真コトが消えています。真コトを殺した魔コトを殺すことに罪悪感を持ち、真コトを殺すことに何の罪悪感を持たない。それどころか、真コトは神話や空想や絵空事の世界だと言って平然としている。そこに最大の罠があります。たとえ、自分が知らない誰かが仕組んだ罠だとしても、魔コトの世界で生き延びるために自ら進んでその罠にはまったとするなら、真コトを殺している自らが責める資格のあるものは何一つ存在しません。

真コトは、神々も含めた万象万物を生かす天地の理です。本当ならば、天地の理を破ったすべてのものは、命はないのです。天地を滅ぼす、言わば、神に逆らう大大罪を犯した究極のテロリスト達を生かすために情けと花の仕組みを創り、真コトを取り戻してミロクに戻ってもらいたいという大神様の本当の慈悲を分からなければ、本当に取り返しがつかなくなります。天地始まって以来の、ただ一度きりの壮大な物語の結末がもうすぐやってくるのです。もし真コトを見失わなかったならば何の苦しみもなく、この物語はバーチャルとなり、ミロクの幕が開いた時、そこに素晴らしい世界があったのです。魔コトを生きているならば、この物語は紛れもない現実であり、ミロクの幕は永遠に開くことはありません。今の今まで、魔コトの世界の幻想に囚われて、自らの天国を創るために天地を好き放題に持ち荒らし、売り買いして、汚泥混濁の世にした後始末は、自らでつけなければなりません。これを嘘だと思うならばそれでもかまいません。しかし、自らが否定しているものが、一体何故、今、目の前にあるのか、それを真剣に考えてみることです。

今、自らが体験している現実は、神も仏も鬼も悪魔も他人も自然も細菌も、何のせいにもできません。そして、どこにも逃げるところはありません。今、自分が体験している喜びも快楽も、本当のものではありません。それを与えてくれると思っている神や仏も、文明も、本当の天国はつくれません。自分のしたことからは逃れられません。自分以外の何かを責め、あるいは、自らを殺してあの世に逃げようとする。真釣りを外して自ら創った苦から、自らしたことの責任を取らずに何とかしてのがれようと、自らの苦を他人の責任にする、そして、自らの快楽を得るために神や仏を都合良く使う、全人類あげてそれを社会の仕組みとして進め、いや、神や仏の世界ともどもそれを繰り返し、天国の虚構を作り上げてしまったその結末が、この現代社会であり、いつまでも本当の救済ができない、現代の宗教なのです。

自分の外には、本当の助けはありません。自分の外に救世主はいません。魔コトの言う神や仏や天は、本当のそれではなく、悪魔や鬼は本当のそれではありません。魔コトが封じ込めたものの中に真コトに戻る鍵があります。悪魔、鬼、厄を封じ込めるその態度そのものが、本当の神を見失ってしまった証です。本当の神の真コトを見失ったことが、現代社会に存在するすべての問題の、ただ一つの本当の原因なのです。

現代社会は、本当の天国とは、全く逆さまの世界です。その世界に自分を預けているならば、その結末はいったいどうなるのでしょうか。それが、自らの行き着く場所です。本当にミロクに戻りたいならば、すべてを捨てて、生死を捨てて、死んでも真コトに従い続けることです。その過程でのどんな苦しみも厳しさも、死にたくなるほどのそれでさえ、すべては、自らが魔コトを生き続けた結果なのです。自分の外した天地の理法を取り戻すこと、言い換えれば、魔コトをすべて奇麗さっぱり捨てること、それ以外に自らを本当に永遠に救う道はないのです。魔コトのつくり出したマトリックス、虚構のシナリオの映画から、奇麗さっぱり足を洗うことです。その結果表れる修羅の地獄も、真コトを取り戻すまでの間の幻に過ぎません。真コトさえ持ち続ければ、何も恐れることはないのです。

虚構の天国に生きて現実の天国を捨てるか、虚構の地獄を耐えて本当の天国に生き戻るか、二つに一つの選択です。そして、その結果が一人一人が体験する現実となるのです。世界や宇宙やあの世や他人がどうなるか、ではありません。

自分が、どうなるか、なのです。他人のことはその本人の責任です。そして、自分の責任は自分の責任です。責任の押し付け合いは、共に滅ぶ道です。自らを生かすも殺すも自らの選択次第です。いつまでも、魔コトの語る愛や責任に囚われていれば、それは自らを滅ぼすだけです。真コトなしには、現代社会のどんな状況も、救うことはできません。愛は地球を救う、と思っているならば、それは、Iが地球を巣食う、結末になります。地球を巣食う者は、地球には存在できなくなるのです。相互依存という、虚構の助け合いの世界を現実の世界だと思っているならば、その世界が終わったとき、それは、自らの終わりを意味するのだという真実をよく覚えておくことです。否定しようと思えば、永遠にできます。しかし、それは自らを永遠に殺す道です。自らの選択が自らの永遠の運命を決めるということを、自らの現実としてしっかりと自覚することです。

死んでも死んでも逃げられない、それが天地の理です。永遠に続く苦労ではありません。真コトを取り戻すまでの、終わりのある苦労です。魔コトのいう苦労は、苦労した分、真コトを捨てる、永遠に天国に行き着かない、天地を持ち荒らし、汚泥混濁の世を進めた末に、自らが滅ぶ「苦業」であることを胆に命じておくことです。どんなに苦しかろうと、自らのしたことをすべて清算すれば、永遠の天国に戻れるのです。人類が今まで待ち望んでいた天国という世界の真実はミロクのことであり、それは、真コトに戻らなければ永遠に来ることのない世界です。いつまでも、魔コトの世界を現実と思っているならば、それは、永遠の天国から永遠に消え去る道を自ら進んで歩いていることを意味するのです。始めの始めの土台が狂っているのです。生死、時空を超えた、現代社会の言う神々の、そのまた初めの始めから直さなければ何も治りません。

本当の、ゼロからの立て直しです。現代社会で考えられるすべてをリセットしても、真コトは消えません。一人一人の真コトは生き通しです。死はどこにもありません。現代社会が恐れている死、その死の恐れという幻想を消さなければ、最初で最後の本当の死がやってきます。そして、その死は魔コトの死のことであり、真コトの世界には、始めから死も闇も、どこにもないのです。生を殺した死を殺せば、生が復活します。闇から始まった世界は光には至れません。光から始まった世界だけが光に戻れるのです。これは、神々の世界や、歴史の中の話や、宗教のことではありません。自ら自身の話です。この世界は、一つ残らず、すべてのすべてが同じ仕組みの中なのです。他人や、神々や、宇宙の話だと思っているならば、自分自身が滅びます。

これがキリストの復活の真実です。自らの真コトを取り戻せば、真コトの天国に戻れます。自らの真コトという救世主に従えば、天国という世界になるのです。自らの真コトが自らの世界を天国にする。これが、救世主が来て天国にする、と言う意味です。すべては、自分の内側の真コトと魔コトの戦いなのです。真コトを生きれば必ず勝てる戦いです。形の世界の魔コトと魔コトの戦いは、自らの破滅を意味します。自らの真コトを再び復活させない限り、死んでも死んでも終わらない、本当の戦いです。いい加減なことをしていると、この世の天国も、あの世の天国も、すべてが泡と消えます。天地の理を外した、人類挙げての最大のバブルが、間もなく弾けます。そして、新しいビッグバン、本当のビッグバンによって、万古末代続く、永遠の宇宙が始まります。これを空想、幻想だというのが、魔コトの語ってきたマヤカシなのです。どちらが真実なのか。ここで道を踏み誤れば、自分が永遠に消えるのです。

すべてのすべては、自分の世界の話であることを、どんなことがあっても、たとえ死んでも忘れないことです。絶対にあきらめないこと、自分で終わりを決めないことです。まだ誰も体験していない宇宙創世以来の虚構の現実が終わりの時を迎えています。

天地創世の時から、失った真コトを取り戻すためのメカニズムが生死、時空を超えて働いているのです。自らが、無から産み出すことなく借金をし続ければ、自己破産の運命になる、と考えれば分かるように、自分の都合良く取り違いをして魔コトを進めれば、それは自らの世界の破滅を呼び込むことになるのです。お金を産み出す資源そのものも、自分たちには産み出せません。その資源は無限ですが、その資源を形にしている大神様が、形にすることをやめれば、お金の世界の王様も滅びの運命であり、これは、宇宙にも、神々の世界にも言えることです。今の人類の認識できる世界、形の世界というもの、思考の世界というもの、そして、神々が体験している有の世界の現実すらも、全く同じ仕組みですから、すべてのすべてを、初めの始めに産み出した大神様が、真コトで創られたもの以外のすべてを無に帰した時、それらは、すべて滅ぶのです。

真コトの神は真コトですから、永遠に生き通しです。真コトに戻ったものだけが、真コトの世界に生まれ変わって、そのまま生き続けられます。つまり、どの道を歩もうとも、生きていようが死んでいようが、最後の最後には、真コトを知ることになります。魔コトで生き続けるか、真コトに戻るか、その度合いにより、自らの体験する厳しさの度合いが決まるだけです。そして、最後の最後には、真コトがなければ命の源が消え去ります。真コトに戻れば、その厳しさは喜びとなり、魔コトのままなら、その厳しい体験は無駄に終わります。自らの苦労の体験を生かすも殺すも自分次第です。

本当に心底から誰もが幸福に暮らせる、末代続く天国を望んでいるならば、今歩むべき道はただ一つしかないのです。自分が自分を救う道は、だだの一つだけしかありません。最後の最後に真コトを取れば良い、そう考えて、いい加減なことをしているならば、最後の仕上げの時が来たとき、真コトを殺してきた分だけ、自分自身が厳しい体験をすることになります。最後の最後に真コトを取ることは最高最大の修羅の地獄となることを承知の上でなさるというのなら、それで構いませんが、たぶん、耐えきれずに、自らの首を真コトの草薙の剣ではねることになるでしょう。

失った一厘の真コトを取り戻す、そのことだけが、大神様が仕組んだ仕組みのただ一つの目的、神々も含めた全人類がなすべきことです。天地の理に従って生きること、それは、有史以来、というレベルではなく、人類誕生、いや、天地創世以来、変わっていない目的です。その天地の理に違反し、魔コトと真コトを取り違え、魔コトで天国を造ろうと仕組みを進めてきた末に辿り着いたのが現代社会です。自らが魔コトであることを知らず、絶対に正しいと思い込んでいる神々と人類にとっては、大神様の仕組んだ情けと花の仕組みなくして、自ら真コトに戻ることは絶対に不可能なのです。逆立ちしている世界の楽を追い求めている者にとっては、自らそれを捨てることは滅びを意味するからです。真コト、つまり、大神様の目から見れば、全く同じことが言えます。どちらが真実なのか、答えは明らかですが、全くアベコベの世界で快楽に浸っている魔コトの究極の現代社会の人間には、それは分からず、自らの本当の命がどんなに危うい運命にあるか、わからないのは当然でしょう。

万古末代、一度こっきりの、最初で最後の大掃除、今まで一度も世に出ていない真コトです。価値判断を全て捨てなければ、本当の真コトは見えません。すべてが逆さまなのです。これを否定すれば、真コトは絶対にとれません。つまり、ミロクは永遠に来ません。言い換えれば、二度と生き戻ることが出来ない本当の永遠の死が待っているだけなのです。過去の歴史のどこにも前例はありません。言い換えれば、黒を白と教えられている者にとっては、罪悪感を完全に取らなければ、裁くことをすべてやめなければ、真コトは永遠にとれません。これを信じるか無視するか、もう二度とこない決断を迫られているのです。そして、それは、真コトを見失った自らが、自らに迫る決断であり、自らを生かすか殺すか、という選択を迫られる状況は自らがつくったものなのです。魔釣りの仕組んだ世を祓う最後の大掃除というのは、神仕組みではなくて、真釣りを外した人類自らが仕組んだ、自業自得、自作自演の大掃除だということです。神を恨むのは、筋違いです。

自らで見失った真コトを自らで取り戻すことだけが、ミロクに戻る唯一の道です。大神様が望んでいるのは、ただそれだけです。しかし、それは、魔コトの現代社会に生きる者に取っては、最も厳しいことです。そして、神々も含めた人類が真コトを見失わなければ、今ここが天国であり、情けと花の仕組みが発動されて、混乱と混迷の世界を体験することはなかったのです。人類自らが自らを地獄に落としたのであり、その人類を真コトに戻すためにずっとご苦労されてきた大神様は、感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはないのです。真コトを見失った自ら自身が現代社会の混迷をつくり出すことに加担していたのだ、ということを今ここでしっかりと自覚しなければ、天国はありません。今の世でいう天国は、実はミロクのことであり、真コトなしでは絶対に実現することはできない世界です。誰のせいにも出来ない、自分自身がしなければ、だれもしてくれない大掃除です。魔コトを掃除した分、最後の大掃除は軽くなります。そして、本当の大掃除が100%完了したとき、万古末代、永遠に続く、本当の新年の幕が開きます。「あけましておめでとうございます。」それは、その時一回だけ交わされる、本当は、今は大切にしまっておくべき言葉なのです。

現代社会の状況というのが、いったい何を意味するのか、それは明白です。大神様は、情けと花の仕組みを渡して九分九厘までは好きにさせますが、最後は、容赦なく真コトの剣を渡します。それは天地の理法であり、その天地の理法を取り違いして、自らの保身と身欲のために、我と力でアベコベの魔コトの世界を進めているならば、本当に大変なことになるのです。自らに至る悪は自らの外した天地の理法を気付かせるための情けであり、それを裁くならば、自らが自らを裁き続けていることになります。

自分の外に見える悪を裁き続けていれば、自分以外のすべてが悪になったとき、最後は、自分を裁くことになります。それは、真コトの大神様から自ら離れ続けていることを意味します。そして、最後の最後に、全員が、一人残らず草薙の剣、つまり、真コトを渡されることになるのです。その時に自分を生かすためにはどうするか、その答えはただの一つです。そして、その時がきたら、自らの真釣り外しに比例して、修羅の地獄の体験をし、嫌が応でも真コトを取らなければならなくなります。どんな理屈をつけようと、どんなに無視しようと、真実、つまり、真コトは動かせません。動かそうとすることが、身欲、魔コトの証であり、九分九厘まではできますが、魔コトのやり方はそこで終わりです。大神様の仕組み上、ミロクに戻るためには、自らが真コトを取り戻すこと、それ以外の道はないのです。どう逃げようとも、行き着くところは一つです。自分のいい加減さが、すべての世界から、自分自身の存在を永遠に消すことになる、自業自得の仕組みです。自分のこととして、本当に真剣に考えなければ、自分で自分の天国を奪うことになるのです。

三歳苦難を経ずに、ミロクはありません。現代社会を造ってきた、人類の歴史を支配してきた、その神々の王、つまり、今の世の創造主そのものが、自らの間違いを知らないのです。だとすれば、今の世界の運命はどうなるか。答えは一つです。そして、現代社会を操って、好き放題に自らの天国を謳歌している人間たち、神の救いを語り、悪魔や鬼を祓って、人のためになっていると思っている宗教家、未開、文明、古代、現代を問わず、神に祈れば幸せになれる、言い換えれば、悪魔を祓えば不幸にならないと思っているすべての人類、他人を変えて自らを楽にしようとしているすべての普通の人間も含めて、アメとムチを使って自分以外の人たちをコントロールしている指導者、親、教師、政治家等々、さらには、真コトを知らない誰かが設計した現代社会のシステムを何の疑いもなく使って快楽、快適、便利、を追い掛け、なお不平不満を言い、神を恨み、他人を裁き、自らを清く正しいと思っている善人、何も知らずに与えられたものを鵜呑みにして、小さな幸せに酔っている庶民も含めて、誰も逃れられない道です。

今の世界でいう善人も悪人も関係ない、善にも悪にも平等に機会を与えるのが、真コトの神のやり方であり、悪を滅ぼそうという思考をしているならば、それは、本当の善ではありません。現代社会でいう指導、処分、審査、取締り、裁判云々は、真コトの神の世界には存在しません。自分と他人を別のものだと見る、二つに分けるその思考が、自らの真釣り外しの清算を、他人を裁く仕組みにすり変えたのです。今の世で楽を追い求めれば、最後は究極の苦、つまり、自らの破滅に結びます。外に見える悪は、自らが外した真釣りのお知らせなのです。悪を根絶やしにしたら天国が造れる、というならば、本当の悪の源である自分自身を根絶やしにすることになります。

自分には関係ないと思えば、その場で落ちる、それがミロクに帰る道です。

ミロクの真コトというのは、赤子には分かる、本当はそれほど簡単なことなのです。素直が一番の近道です。教育とは、真コトを消していくこと、言い換えれば、魔コトを教え込んでいくことを意味します。分別がある、判断ができる、大人になる、とは、本当の神から離れることです。

そして、いつの世も、世界を引っ張っているのは、エリートなのです。

そうやって、何世代にも渡って、人類の歴史を通して、教育を通して魔コトを渡し続けてきた結果が、現代社会の混迷という現実です。本当にゼロにするということ、根底から見直すということが、何を意味するのか。それが分かったら、軽々しく口にすることなどできません。現代社会のアタマの知識の世界に漬かっているほど、知識の修得や、議論のテクニックを磨くことに躍起になっているほど、つまり、知識を持ち過ぎているほど、アタマが良いと思っている者ほど、真コトが分かっていないのです。

生死、時空を超えた、身魂の総決算ですから、現代社会における状況、お金の有無、障害や病気の有無、知識の有無、学歴、前科、国籍、文明、すべてのすべてが全く関係ありませんし、出来ない言い訳にも使えません。

それをすることは、自らの死に同意したことになります。今回の、ミロクへ至る神仕組みというのは、自らが外した真釣りの分だけ厳しい体験をする、他人のせいにすれば、他人の邪魔をすれば、自らを誤摩化せば、それは、すべて自らの魔釣りを進め、さらに清算の苦しみを増やすだけで、自らを生かすも殺すも、自らのすることが自らの体験と自らの結末を決めることになる、すべての身魂に平等公平な仕組みなのです。なまじ、私と出会って、自分は真コトを知っている、ミロクを知っている、だから自分は大丈夫だと思っている分、勝手に安心して、よけい自信をもって、自らを、永遠に滅ぼす道を勇んで歩いている可能性があります。真コトは議論の余地はなく、批判や反論をすることそれ自体が、真コトを分かっていない証拠です。わかるわからない、というのは、アタマの理解のことではなく、実行したかしないか、と言うことです。今の状況は、元つ大神様から見れば、殆ど全員が、みんな揃ってどんどん修羅の地獄へと自らを導いていることになり、もう少しで、戻れなくなる瀬戸際のところなのです。

これは当然のことと言えば当然ですが、私の出したメッセージは、保身と身欲を捨て、死の恐れを捨て、批判、反論をすべて捨て、全くのゼロの視点から見なければ、絶対に分かりません。結論はただ一つであり、それを実行するプロセスでは、恐れや、不安や苦しみや混乱を必ず経なければなりません。

それを今までの知識や理屈で回避しようとするならば、それは、ただ一つの結論を実行しているというより、そのただ一つの結論と全く反対、つまり、今までのやり方を進めているだけだということです。自分では真コトが分かったつもりで、真コトを実践していると思い込んで、知っていて安心している方々が、一番危ないのです。苦を語らない天国は、本当の天国ではありません。


さらりと眺める、読み流すのではなく、しっかりと意味を受け止めてください。


残りの半分は、明日付けで公開します。


*保存されていたファイルは改行の体裁が崩れてバラバラな状態であったので、その点だけは手を入れさせて頂きました。



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