2006-05-16 21:30:51

二章/『Night With You』 4

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

  八咫との再会は、私が思っている以上に早かった。
  彼の部屋を後にして、昼前に部屋に着いた私は着替えて化粧を落とすと、コップに水を満たして一気に飲み干した。体中に染み渡っていくのが感じられる。
  そして私はそのままベッドに入って再び寝てしまった。
  浅い眠りに、二時間かそこらは浸っていただろうか。枕元に放り出した携帯電話がマナーモードでブンブンと鳴るので、私はそれを手に取った。
「……誰よ、もぉ」
 眠りを妨げられる、というのは精神衛生上非常に宜しくないことである。休日くらい、ゆっくり眠らせてくれたっていいではないか。現代人にはその程度のゆとりも許されないのだろうか。
  折りたたみ式の携帯を開く。電話ではない。ディスプレイには『メール着信・清水』と出ている。
「あれ……」
 清水って、誰だ。それに、私はこんな背景を設定した覚えが無い。
 清水・シミズ……清水。昨日の。
二秒固まって、私はため息をついた。のろのろと立ち上がって、クローゼットから昨晩着ていたコートを引っ張り出す。
 ポケットから、もう一つ携帯電話が出てきた。
 手許に同じ形の携帯電話。コートから出てきた方は、真っ青な青空にぽっかり雲が浮かんでいる写真を背景に設定してある。私が撮って私が設定したものだ。ストラップも、確かに私が自分で購入したものだ。
 枕元に在ったのは壁紙の写真も、ストラップも見た覚えが無い。
「八咫の、かしら」
 昨日のバーで、確か。同じ機種。
 私はため息を付いた。自分のはコートに入れていたのに、私は勘違いしてコタツの上の携帯を持ってきてしまった。
 時計を見れば、もう三時を回っている。彼の部屋を出てざっと四時間半。なんとも短いお別れである。
今度のお礼、というのは来週辺りのつもりで書いたのだが、どうも今夜の事になりそうだった。……自分のドジのせいで。



「ああ、そういえば携帯がありませんね」
 コタツに入りながら、紅茶を入れてくれた八咫は、今気が付いたように言った。差し出されたマグカップから、ふんわりとした香りが漂い鼻腔をくすぐる。エアコンが効いているので寒くは無かった。
 何せ一人暮らしですから、コーヒーカップなんてありませんのでこれで勘弁下さい。サイズもデザインも異なるマグカップがコタツの上に並んだ。水からジュースからビールからこれで済ませるのだという。
「ミルクと砂糖、いりますか」
 私は首を振って丁重に辞退した。成り行きとはいえ俄かに体重が減ったのだ。元に戻してたまるか。
 私が訪ねていくと、彼はついさっき起きたばかりだという。もしかしたらまだ寝ているかもしれない、という心配は杞憂に終わったのもあって、私は少し安堵した。
「今度お礼を……とメモに書いてあったから、もうお礼をしに来たのかと思いましたよ。こんな急いで持ってきてくださるなんて、ありがとうございます」
 コタツに入った八咫に深々と頭を下げられる。
「そんな、私が悪いのに」
「どうせ滅多に使うことの無いモノですからね。それこそ、清水くらいからですよ、俺にメールが来るなんて」
 友達いませんから、と自嘲気味に締めくくった。私はどう答えるべきか、一瞬迷ってつい言ってしまった。
「じゃ、私が毎日メールしてあげる。どう?」
 一瞬あっけに取られたように、八咫がポカンとした顔を晒した。
「……いいですね、ソレ」
 彼は手許に戻ってきたばかりの携帯を操作し、メモを見ながら私の番号とアドレスを登録していった。
「俺のも、送ります」
 間を置かず、彼からのメールが届く。『これからヨロシク』と短い文の後に笑顔の顔文字、さらに携帯電話の番号が記載されていた。それを電話帳スペースに登録しながら、私は彼に名前を聞いた。
「ね、八咫。どうせだから、本名教えてくれないかしら。ダメ?」
 一人暮らし用の、このアパートのドア。表札も掛かっていなかったので、私は本当に彼の苗字すら知らない。
「ダメじゃないけど……。どうせならもうちょっと八咫で引っ張ってみても面白いかと思っていたんだけどな」
 くすりと笑って、彼は教えてくれた。
「田崎、静というんです。しずかと書いて、セイ」
「セイ。……本当に、ぴったりの名前ね」
 静、かぁ。静。セイ。口の中で繰り返してみる。
 漢字の意味も韻も彼にぴったりだと思った。


2006-05-15 21:47:26

二章/『Night With You』 3

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

「う、ん……」
 身を捩った。身体に纏わりつく、暖かい布団。このいい香りはきっと昨日干したからだろう。これは太陽の香りだ……。
 枕に顔を埋めて、そこでふと。次第に意識がハッキリしてくる。
 昨日、私は布団を干してなんかいない。
「……っ! 痛ッ……」
 一気に目が覚めた。飛び起きる。飛び起きたところで、私は頭を抱えて前かがみになって頭を抱えた。ガンガンする。
「うわ……二日酔いだ……」
 昨晩はそんなに飲んだのだろうか。記憶の糸を手繰る。
(えっと。マティーニ。カルア・ミルク、ジンライム、ペシェウーロン、ファジーネーブル、ホワイトレディ、カシスソーダ。あと確か、トドメにテキーラサンライズ。他にも飲んだ気がするけど……思い出せない)
それだけ飲めば、そりゃ潰れもする。カクテルというのは結構甘いものが多い。が、その実ベースとなるお酒は度数が高いから、二・三杯も飲めば充分気持ちよくなれるものなのだ。それを何杯も。大学生か、私は。
「ったぁ……イタァい」
 辺りを見回した。
 八畳くらいのフローリングのワンK。閉まった灰色のカーテンの隙間から外の光が漏れ入って来ている。真ん中に一人暮らし用のコタツ。その上には文庫本何冊かとCDのケースが散乱している。私が寝ている壁際のベッド。それ以外に、隅に黒いギターケースとテレビ。ノート型のパソコンが無造作に床に置いてあるくらいか。驚くほど物が少ない。寒々しい、とまで言ったら、言いすぎだろうか。
  でも、なんだか寂しい部屋だわ。
 ここは何処だろう。当然、私の部屋ではない。壁の時計、時刻は十時と少し。
と、コタツの反対側で何かが動いた。黒い髪が見える。
「……なんとなく、判ったわ」
 事態が飲み込めた。八咫の部屋なのね、ここ。
 昨日、二人で飲んで。私は完全に潰れて寝入って。
 仕方がないから八咫は、自分の部屋に私を連れて来て、寝かせてくれたのだろう。ベッド際の壁のハンガーには私のコートとマフラー。枕元にはバッグが置いてあった。
「ふうん……」
 おでこより上しか見えない八咫を見る。私を、運んでくれたんだ。服のまま寝ていたから、スカートとブラウスに皺が寄ってしまったのは仕方ない。
  でも。
 自分の体を見る。特に乱暴をされた様子はない。しっかりとショーツも穿いている。
  ……男の部屋に連れ込まれておいて、何もないのか。
 ムリヤリされるのも心の底から勘弁願いたいが、何もされないというのは女性として魅力がないように思われているようで、それはそれで癪である。仲間内で、自分だけ通学途中の電車で痴漢に遭った事がないと嘆く女子高生の話を聞いたことがあるが、なるほど。こういう心理なのか。……別に私がヤリたがっているのではないので念のため。
 バッグを覗き込んで、中身を確認。携帯電話がない。辺りを見回すと、コタツの上に置いてあった。
 立ち上がってコートとマフラーを羽織り、携帯電話を手にしてバッグに放り込んだ。代わりに手帳を取り出して、メモに謝礼と私の携帯の番号とメアドを書く。
『昨晩はありがとうございました。寝ていらっしゃるので黙って帰らせていただきます。今度、お礼がしたいのでよろしければご連絡下さい。――若葉』
 破り取ったそれをコタツの上に置いて、私は八咫の部屋を後にした。


2006-05-13 22:42:32

二章/『Night With You』 2

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』
  きっかけは、やっぱりあの日の晩、ヤタさんと二人っきりで飲んだからだ、と思う。
 私は、本当にいろんなことを話した。どうしてこんなに話しても話しても尽きないのだろう、と思うくらい話した。一方的に、壊れた蛇口から流れる水のように。ヤタさんはただ相槌とわずかに私を促すことを繰り返すだけで、ずっと私の話を聞いているだけだった。会社のことや、昔の思い出や、子供の頃のこと。
「それで、そもそも二人の馴れ初めってなんだったんですか」
 ヤタさんは、聞き上手だった。するすると私の中から話題を引き出すのだ。とっくの昔に、私が捨てられた話も理由も教えてしまっている。
「馴れ初めねぇ」
  物静かな印象は会った時からだったが、清水とはいろんな意味で対照的だ。考えてみれば私はあまり、ヤタさんみたいなタイプとお近づきになったことはない。どちらかといえば、我の強い男ばっかり。
 ヤタさんはしっとりしているというか、蝋燭の炎のように、静かに揺らめいている感じだろうか。ともすれば地味と受け取られる。事実、清水のようにイケイケの友達といれば、ヤタさんは影が薄い暗い人ととられかねないだろう。
 考えてみれば、今の私には、ヤタさんのような人が必要だったのだ。ただ、吐き出す場所として。良くも悪くも抱え込んでしまっている何かを。童話『王様の耳はロバの耳』で床屋が秘密を叫んだ穴のように。
 だからもう、途中からは躊躇うことはなかった。酔いが手伝っていたこともある。恥も何もない。全部晒してしまえ。
「んー、美貴の、三つくらい前のオトコの知り合い、かな」
 三つ前ではなくて四つ前のオトコだったかもしれない。美貴がどういう繋がりでその男と知り合い付き合うようになったのか、その経緯を全く私は知らない。でも、ある日私と美貴が二人で街を歩いていたらその美貴のカレが声を掛けてきた。本当に、偶然だったらしい。そのとき一緒にいたのが、彼……諒だった。
 結局、美貴ら二人が一緒に歩き出したので、自然と四人のダブルデートみたいな形になってしまった。
半分強引に、半分の半分は流れに流されて、残りの四半分は前カレと別れて寂しかったのもある。携帯電話の番号とメアドを交換してしまえばもう後は勢いだった。
 二回目に会ったときのデートでキスをして、そのままホテルに入った。抱かれることは別にイヤではなかった。大学生のとき、アレだけ初めてを捨てるのに戸惑い恐れていたというのに、ウブな私の乙女ごころは何処に消えてしまったのだろう。
 まあ、そして言ってしまえば、諒は、上手だったのだ。アレが。
「……そんなに上手だったんですか」
「そ、もー目の前に星が飛んでる感じ。頭の中真っ白よ……って、私酔っ払いすぎね。何言っているのかしら」
 上手かった、というよりも相性が良かったと言うべきだろうか。それとも、もっと別な理由だろうか。つまり、私の方が、男に飢えていた? 
  意識が、終わってしまった男に向ってしまう。諒は、愛撫のときいつも私の乳首を噛むようにして刺激してきた。その甘噛みでいつも私はスイッチを入れられてしまうのだ。
  でも、もう味わえないのだろうか。
「好きだったんですね、彼のことを」
「……過去形で確認しないでよぅ。お姉さん泣いちゃう」
 ヤタさんは肩を竦めた。手遊びで突付く空のタンブラー。中で氷が輝いているのが目に付いた。
「といっても、今はどうなのかなぁ……。よくわからないわ」
 これも、本心だった。アレだけ呆けた時間を過ごして、しかも決定的な決別を最初に感じていたためだろうか。少しずつ、波打ち際の砂山が削り崩されるようにして、諒のことが私の中で小さくなっていく気がする。潔いといえばその通りなのだが。
 好き、は好き、なんだけど。『けど』が付くのよねぇ、と私は心の中で思った。
 恋は盲目という。冷静になって考えてみれば、諒が私にした仕打ちは怒って当然のことなのだ。フラれて少しの間は興奮と混乱が残っていたが、今はかなり落ち着いてしまっているから、まるで他人事のように思える。
『だから、他人事なのよ』
 美貴に言われたっけ。
  アルコールに蕩けた目で、隣の彼を見てみる。蝋燭の炎のように、か……。時折、微笑したままで、瞳の奥に何か燠のように、強い熱をもったモノが隠れているような気がする。視線を合わせ続けられない。影が薄いだなんて、とんでもない話だった。蝋燭だろうがマッチだろうが、炎は炎だ。
  耐えられなくて、私は次のお酒にホワイトレディを注文した。
「ねえ、ヤタさん」
 呼びかけながらも、焦点はずらしてしまう。彼の顔辺りをぼんやりと見る。見るとはなしに、観るように、視る様に。ヤタさんの顔を視界に納めて、もっと向こうを眺めるように。
「呼び捨てで構いませんよ。……何か」
「ヤタって名前、どんな字を書くの」
 彼は言葉では答えず、携帯電話を取り出した。折りたたみ式の、私と同じ機種のものだった。無言でキーを操作して、画面を私に見せる。薄闇の店内に、二つの漢字が浮かんでいる。
「……『八咫』。これで、ヤタ?」
「そうです」
 どこかで見た事あるような……。なんだろう。意味を尋ねると、彼は微笑しただけで質問には答えず、静かにグラスの中身をあおった。黒い液体が飲み干されて、置かれたグラスの中で氷がカラリと鳴った。服だけでなく酒まで黒。徹底してるわ。
 もしかして。
「本名、じゃない?」
「そうです」
「意味くらい、教えてくれても」
「秘密です」
 微笑んで彼はカウンターの向こうの女性に手を挙げた。
「ブラック・ベルベッド」
「それって、何のカクテル?」
「それも、秘密です」
 何故かまたかわされた。……なんで?
「お待たせしました」
 少しして出されたのは、真っ黒なお酒に黒っぽい泡が乗っているグラス。きりっと蝶ネクタイを締めたバーテンダーの女性に聞くと、彼女は丁寧に教えてくれた。
「スタウトという黒ビールとシャンパンのカクテルです。スタウトはイギリスのビールで、このカクテルはもう二百年くらいの歴史があるそうです。意味は、『黒いビロード』」
「ふうん……」
 『黒いビロード』。二百年前の、エゲレス人も飲んでいたのか。
 黒いカクテルを口に運ぶ、上から下まで真っ黒い服の人。今時の大学生というのに、髪を染めてすらいない。歳は聞いていないけど、まぁ五つほど年下。清水によると大学生、らしい。清水くんより若く見える気がするが、同い年らしい。
 私のことは色々と話したけれど、考えてみれば彼のことは何も聞いていない。呼び名すら本名じゃないらしい。私は何も知らない。知っているのは、彼は黒が好きだということくらいか。
 気が付けばゆらゆらと世界が揺れ出して、隣で八咫はしずかににどこかを見詰めている。何処を見ているのか知りたい。きっと、今ではないどこかなのだろう。そんなことを思いながら、いつの間にか私は眠っていた。後で考えてみたら、私はカパカパとグラスを空けて、もう五杯くらい飲んでいたのだった。
 そりゃ、潰れもする、よね……。
2006-05-12 23:04:58

二章/『Night With You』 1

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

  諒と別れて、もう一ヶ月、くらい。
 さすがに仕事には復帰した。結局ほぼ二週間丸々休んで、これ以上休んでは有休が切れる前に私の首が切られそうだったからだ。失恋して→落ち込んで→合コンなんて結構分かりやすいコースを辿って現実逃避をしてみたところで、現実と向き合わなければならない時ってのは確実にやってくる。
  残念ながら、精神的ショックで物が食べられなくなるなんて事はなかった。生きていればおなかが減る。今月はともかく、来月ちゃんと食べ物が欲しければ働かざるを得ないのである。何て素敵な現実だろう。
精神的ショックと言うならむしろ、意外と平気な感じでいられる自分にショックを受けた。この私と、彼との三年なんてその程度なのか、と。
「んー、そんなもんじゃ、ないの」
 合コンの翌週末、部屋にやってきた美貴にそんなことを言ったらこう返された。
「大体さ、捨てられたからってさ、落ち込んだって意味無いしょ。捨てたあいつの為に落ち込む意味は無いし癪だし、捨てられた自分の為に落ち込んでもそりゃ自分に酔っているだけだよ」
 尤もである。
 確かに尤もで、美貴の言うことは正しい。正しいが、厳しい。
「まーね、そりゃフラれた直後ベッコベコに凹んでるなら励ましたりもするよ? 実際合コンセッティングしてあげたし。でもあんた、今結構元気じゃん」
「……まーね」
 実を言えば、元気なのだ。
 一時期は確かに食が細くなっていた。最初の一週間で体重も二キロほど落ち込んだ。殆ど食べていなかったせいだ。独りで部屋にいると、何もしないままで数時間椅子に座りっぱなしでボーっとしていたこともある。
 何もしていないのに夜はなんだか疲れていてぐっすり眠るし、かといえば突然彼の夢を見て目が覚める。一度など、彼と抱き合っている夢を見て跳ね起きたことがあった。そんなバカな、と驚いて。
 バカな、と飛び起きてすぐに気が付いた。私は、彼と抱き合って互いに体をまさぐっている夢を見て、バカな、と感じたのだ。それこそ、バカな、だ。私は、彼に戻ってきて欲しかったのではないのか?  それなのに、心のどこかでは、彼に再び抱かれることがありえないと認めている。イヤ、ありえない、というより、これは……拒否。
 確かに、あの日私たちは終わった。
 あの金属音を最後に、私たちの心はもう断ち切れたままだ。
 それでも、戻ってきて欲しいと、思って、いたのではなかったのだろうか。儚いと知っていた夢だ。希な望みであった。でも、本当に、いつの間にか。
 心が諦めてしまっていた。
「それで、いいんじゃないの?」
「……そうだけど」
 釈然としない。
 私が釈然としようとしまいと、時間は流れるしおなかは空く。仕方なく私は仕事に復帰し、サルにキーキー文句を言われながらも書類と電話とパソコンのディスプレイに追われる日々に戻っていった。働けばお腹が空いてくる。食べないと持たない。しばらくの間ろくに食べていないからか、何を食べても美味しい気がする。少し前まであれだけ食欲がなかったのに。食事は殆ど苦痛を伴うノルマのように思えたのに。この、体に、不足していた栄養が行き渡る感覚。
 与えられた仕事とは言え、取り合えず目の前には仕事が放られた。はっきり言って気乗りはしないのだが、やらないわけにはいかない。そうして渋々仕事を進めていると、いつの間にか集中している時間があったりして、我に返るわけだ。残念ながら、
『あなたの事を片時も忘れたことはないわ』
という台詞は私には口にする権利は無いらしい。
 自分でも信じられないくらい短い時間で、私は立ち直っていたのだ。いつの間にか。少なくとも、辛いのを隠して作り笑いをしていたのが、ある程度本心からの笑い顔に変わるほどには。
 そして同時に、諒に抱かれる夢を見た翌日から、次第に彼のことを考える時間が短くなる。バカな、と思った自分にそれこそバカな、と返したあの晩以来、だ。
 今頃、なにをしているのだろう。私と一緒だった頃なら、そろってテレビを見ている時間だ。今は、二人してお腹の子どもに音楽を聞かせていたりするのだろうか。……いや、彼ならそれはありえないだろう。決して、子どもが好きだというタイプではなかったから。
 でも、生まれてくる子どもには幸せになって欲しい。そういえば、子どもは一体どっちなのだろう。男の子だろうか、女の子だろうか。なんだか男の子のような気がする。
 気が付けば、彼と別れて一月が過ぎて、彼のことよりもむしろ、相手と子どのことばかりを考えるようになっていた。
 彼は、私のように彼女たちを捨てないだろうか。それが心配で、そして心配している自分が不思議だった。




2006-05-11 22:48:06

一章/『Season of Waiting Snow』 8

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』
  ヤタさんが戻ってきて、しばらく会話が盛り上がったところで、二次会は河岸を変えて別々に飲もうということになった。言い出したのは美貴だ。
「清水クンともっと仲良くなりたーい、なんてー」
 既に君付け。なんとも分かりやすい誘い方である。彼の腕に体を預けるようにして、二人は雑踏の中に消えていった。
 本来、私たちにとってこの合コン、私の為に開かれたはずなのに、いつの間にか美貴にとっての趣旨は変わってしまっているらしい。いいけどさ。どちらかといえば、清水さんよりもヤタさんの方が好みではあるし、その辺り、美貴が気を利かせてくれたのかもしれない……多分。
「じゃ、折角だし俺らも行きましょうか」
「あ、うん……」
「少し歩いたところに、おいしいカクテルのバーがあるんですが、そこ行きましょう」
 私は清水よりもこっちのヤタさんのほうが、趣味といえば趣味ではある。それは認める。
ただ、彼とはさっきのレストランではあまり会話をしなかった。言葉の端々に、丁寧な人なのだというのは感じられたが、それだけだった。もっと言えば、電車でたまたま相席になったものに対する丁寧さ。親しい人間ではなく、全くの他人に向けるそれだった。だから、私は美貴のように即決で彼に体をゆだねようという気にはなれない、というのが今のところの本音である。
 ほんの少し、私たちは無言のまま歩いていた。ふと、彼が立ち止まって夜空を仰ぎ見る。どうしたのだろうと思って、私も彼の視線を追う。時刻は九時半を回って少し。星は全く見えない。
 ふと、何かが揺れた。気が付いたのは殆ど同時だった。
「あっ……」
「……道理で冷えこむ。雪だ」
 初雪。
 真っ黒な空からちらり、ちらりと遠慮がちに小さな白いものが降りてくる。それは次第に数を増して、ふわふわと舞い降りてくる。例年通りなら早くても十二月の半ばだというのに、気の早いことだ。
「……積もる?」
 歩きながら私が聞くと、彼は首を横に振った。
「まだ十一月ですから……。でも夜中に吹雪けば、もしかしたら車の屋根にくらいは」
「……別れたカレと、付き合いだしたのも初雪の日だったな……」
 あの、初めてのデート。ホテルに入るとき、チラリと雪が舞ったのだった。
ポロリと、呟いてしまった。言ったあとで、しまった、と思った。存外に酔っていたらしい。視線を感じてみれば、ヤタさんが私を見ていた。ゆっくりと視線を空に向けて、誰ともなしに口を開く。
「そうなんですか」
 え、と顔を見る。彼はヒールを履いた私よりも、少し背が高い。僅か視線を上げる形、彼の横顔。真っ直ぐ正面に向けられた視線がか弱く揺れた気がした。
 正面を向いて、でも視線だけは今ではない場所に焦点を当てながら。
  そのとき、向こうからやってきた白髪の男性と私の肩がぶつかった。
「あっ……」
  よろめいた私の手を、ヤタさんが捕まえて引っ張ってくれたお陰でどうにか尻餅をつかないで済んだ。ぶつかって来た男性は、少し慌てたが私が無事だと知ると、失礼しましたと頭を下げてそのまま行ってしまった。
「寒いから、早く行きましょう」
「そうね」
  顔を見合わせて、私たちは再び歩き出す。
  彼は私の手を取って歩き出した。強く掴んでいるわけでもないのに振りほどこうという気がしない。私は手袋をしていたが、彼の手の温もりが心地よく感じる。
 それから後は店に着くまでずっと無言だった。
吐く息が白い。頬を撫でる空気が、氷を孕んでいるように冷たい。
私は心の中で何か言い訳を考えながら、そもそもその言い訳は、一体誰に向けた何のための言い訳なのだろうと思っていた。なんとなく離しそびれたまま私たちは、店に入り座るまでずっと手を繋ぎっぱなしだった。
 いつでも、ふとした拍子に離れてしまいそうだったけれど、離すきっかけはカウンターに案内されるまで訪れることはなかった。
 
 
  
2006-05-10 23:12:29

一章/『Season of Waiting Snow』 7

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』
  厳つい顔。決して造作の良い方ではないミズであったが、笑うと思いの外親しみやすい顔になる。それ以外にも気配りの良く効く男だった。同時に話術も巧みだ。それを美貴が言うと、
「中学からずっと陸上やってましてね。砲丸投げとハンマー投げ専門なんですけど。ホラ、体育会系ってアレじゃないスか。上下関係?」
  大学の部活の飲み会では、先輩のグラスが空になって五秒以内に継ぎ足さなければ殴られるのだという。
「うっわぁ」
 美貴が露骨に嫌な顔をした。根っからマイペース人間の美貴にとって見れば苦痛以外の何ものでもないだろう。そういった上下関係の中で、彼はコミュニケーション能力と接待の技術を身につけて行ったのだと笑った。何せ、相手の機嫌を損ねたら翌日の練習で無闇にしごかれるハメになるのだから。そりゃ必死にもなる。
「あまりの理不尽さに時々先輩に向って砲丸投げたくなりますよ。スッポヌケターとか言って」
「やらないの?」
「まさか。本気だろうと事故だろうと、やってしまえば同じ目に合うのは確実ですからね。柱に括りつけられて逃げられないようにされて」
 砲丸はボーリングの玉と同じ位の重さだから、当たり所が良かろうと悪かろうと充分死ねるとか、おどけながらミズは話をしてくれた。なるほど、ボーリングの玉がぶち当たれば、確かに人は死ぬだろう。良くて大怪我だ。
 評判以上に美味しいピッツァとビールのお陰もある。店の明るい雰囲気とこの席のノリがあっていることもある。それを差し置いても清水の話題はとても豊富で、ウイットに富み、場はものすごく盛り上がった。特に意気投合しているのは幹事の二人である。
「でね、合宿でですよ。そのマネージャーの先輩いつも俺の隣に来るんスよね。ちょっとなよって感じの色白の人。寝るときも風呂もですよ。まさか、とか思っているでしょ?  そのまさかだったんですってば! いや、笑いごっちゃ無いんですって。『清水君、僕のアニキになって』とか言われても、困りますって。生まれてはじめて告白されたのがよりによって男からですよ、そりゃショックで不登校にもなりますってば」
「清水って、ミズさんのことですかぁ」
「ああ、そう言えばまだ言ってませんでしたね。本名は清水と言うんです。だから、ネットではミズって名乗っているんですけど、英語の女性冠詞じゃないですからね。俺が女装してもキモいだけですから」
  美貴とケラケラ笑っていたら、向かいに座るヤタさんが、一言失礼、と残して席を立ってトイレに向っていった。
「ところで、ヤタさんと清水さんって、同じ部活ではないんですよね」
「ですよ。アイツとは、高校からのダチになるんですけどね。あ、学科はおんなじ経済学部ですけど」
「えー、清水さんって文系なんですか。見えなーい」
  美貴が再び笑った。
  しっかし、私たちは清水さんたちより結構年上なのに、美貴だけなんだか年下に見える。クルクル変わる笑顔に、要所で見せる鋭い眼つきのせいで年齢不詳になってしまうせいだ。いつでも誰かと和することの出来る、美貴ならではの能力だ。
  とは思うのだが、私たち、もう四捨五入すれば三十なのだからそれもどうかと思ってしまう。
そういえば、ヤタさんはあまり会話に参加していないような気がする。一緒になって笑ったりしてはいるのだが、時々、心ここにあらずといった感じでどこかを見詰めている。
 私が清水にそのことを聞くと、彼はため息をついて答えた。
「もうずっといつもあんな感じなんですよ、アイツ。たとえば、みんなで冗談言い合っているときでもフッと我に返ってしまったりって、ありませんか?」
 私が頷くと、清水はさらに続けた。
「アイツは、それがとても顕著なんですよ。なんて言えばいいんかなぁ。それをどうにかしてやりたい、と思って……」
「友達思いなんだー」
 美貴が言うと、清水くんの顔の笑みが、急に張り付いたようなものになった気がした。
「そんなんじゃあ、ないんですけどね」
2006-05-09 22:21:24

一章/『Season of Waiting Snow』 6

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

「……ワカ、若葉ッてば。聞いてるのぉ」
 我に返った。酔っていないつもりで、それなりに回っていたらしい。
「ゴメン。聞いてなかった」
「だからぁ、あんたももう男作っちゃえばいいじゃん。パパッと」
 私は、顔全体で「はぁ?」と聞き返した。
「だから、出来ないって言ったじゃん。私はあんたと違って、男見る目がありませんのでぇ。だいたい一晩限りなんてイヤよ……ああ、美貴。似合わない上に可愛くないからその顔やめて」
「一晩限りの割り切りって楽で良いんだけどね。それは人それぞれってコトで。」
怒った振りして頬を膨らませた美貴が元の表情に戻ってニマリと笑う。
「じっくり見極めればイイじゃん」
「パパッと作るのに?」
「そ、パパッと」
「ジックリ?」
「そりゃもうジックリコトコト煮込むかのように」
「矛盾してる気がするんだけど」
「でもないよぉー?」
 意味がわからない。
「どうやって?」
 美貴が、ニマッと笑った。お得意の小悪魔スマイル。
「アレ使って」
 指差した先にあるのは、パソコンだった。
「あれって……」
「あたしさぁ、今出会い系やっているんだけれどさ」
 そういえば、いつだったかそんなこといっていたなぁ。
「ちょうど合コンしようかって話になっているの。二対二で。まだこっちのメンツもう一人は決まっていないんだけど?」
「……いつ?」
 手にしていたグラスの中身を飲み干す。
「金曜日。明後日ね。イノッペが行かないっていうなら、別の娘誘うけど?」
 合コン、ね……。考えてみればいつ以来だろう。少なくとも、諒と付き合っていた間は一度も無い。
「断る理由も無いわ。行く」
 オッケー、と美貴が笑った。どうせ美貴のことだ、私のために設定したに決まっている。そのことを隠そうともしない。
 なんだかんだで、私はいつも美貴に世話を焼いてもらいっぱなしなのだった。アリガトね、と呟く。
「なんか言った?」
「ううん、なんでもない」
「そ」
 美貴は聞えないフリをしてくれた。
 


  *



 天気予報でも言っていたように、その日は非常に冷えこんだ。私と美貴は駅で落ち合い、街を歩く。雑踏の中で空を見上げると、どんよりとした雲が立ち込めていた。
 待ち合わせの場所は、あっさりと見つかった。街角で配っているフリーペーパーにも良く載っている小さなレントラン。手製のピッツァが最近好評なのだと誰かが噂していた。リクエストしたのは美貴らしい。
 そこにいたのは、事前に話にあった通り二人の青年だった。思ってたよりも若い。体格のがっしりした、ストリート系で固めた大柄で厳つい顔の男が、時計を見ながらもう一人と何か言葉を交わしていた。
 もう一人の青年は、ぼんやりとした感じて大柄な男の話を聞き流している。隣の彼とは対照的に、すらりと細い印象。黒いジャケット黒いシャツ、ジーンズからスニーカーまで、シルバーのネックチェーン以外全身  黒で固めた彼と私の視線が合った。
「もしかして、ミズさんたちですかー?」
 美貴の声で大柄も気が付いた。
「ミキ子さん?」
「はじめましてー」
 ミキ子とは、美貴の出会い系登録名だ。聞いたときになんて安直な……と突っ込んだら、アンタだったらどうするのよ、と問い返されて言葉に詰まる。パッと思いついたのは『ワッキー』だったが、答えずに誤魔化した。
 大柄……おそらく、彼がその出会い系サイトで、美貴に連絡を取り合っていた男なのだろう。美貴と互いに自己紹介して、彼は私にも挨拶してくれた。
「ミキ子さんからも話は聞いているでしょうが、自分がミズです。でもって、こいつ俺の同じ大学のダチで」
「……ヤタ、と言います」
 黒いほうが笑いながら名乗った。たった今清水と本名を名乗った男が、僅か顔をしかめた。どうしたのだろう。
「初めまして、私がミキの友達でワカバといいます」 
「まぁ取り敢えず、中入りましょうか。寒いんで」
「ですねー」と美貴が同意して、清水を先導に私たちは店へと入っていった。

2006-05-08 21:54:44

一章/『Season of Waiting Snow』  5

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』
 美貴は、昔からこうだ。とっかえひっかえと言えば言葉は悪いが、事実その通りなのだから仕方が無い。
 何時だったか、美貴が恋愛はしたくないと言っていたのを思い出す。誰かを束縛するのも、自分が束縛されるのもイヤなのだと、遠い眼をしながら言っていた。どうしてそういう境地に至ったのか、私は詳しく知らない。中学の頃付き合っていた奴にとんでもない目に合わされたのだと言っていた。
「そうね、ちょっと若葉には似合わないかな、そういう遊び」
「まーね。自慢じゃないけど」
 その代わりと言うべきか、美貴はかなり遊んでいる。今だって私が知っているだけでも数人のセックスフレンドとやらがいるはずで、一晩限りというのであれば、多分とっくに四桁行っているのではないだろうか。
 たった一度だけ、そのことで美貴と大喧嘩をしたことがある。
 その時は徹底して美貴と、遅くまで私の部屋で言い争ったのだ。高校生の当時からかなり遊んでいた美貴に、幾ら貰ったという話を聞かされて私が大人ぶった顔して説教を始めたせいだった。どうして体を売ってはいけないのか、どうして色んな男に体を開いてはいけないのか、逆に、特定のオトコとだったらいいのか。
「どうしていけないのよ」
 なんども繰り返される疑問。
「だって」
 と、どこからか誰からかに習った言葉を私が吐くたびに、美貴は同じ言葉を繰り返した。
「どうして」
 たったそれだけの言葉を、私は論破できなかった。倫理観がどうの、貞操観がどうのと、イロイロな根拠を持ち出しながら、私は自分の考えがいかに幼稚で、自分の物ではなくて、薄っぺらいものだと突きつけれられた思いだった。幼稚、というのは売春がどうのこうのと言う以前に、私の中の考えが、どこかの誰かに与えられた、借り物だったということだ。
 同時に、私は多分そのとき初めて、世の中には自分とは違う人がいる、ということを知ったのだ。本当に、本当の意味で。
 以来そうしても意味が無い事だと分かっていたし、それ以上に彼女は自分で自分を弁えてやっているのだと分かったから何も言うことはしなくなった。その代わり、私はそれまで以上に美貴を友人として、信頼するようになった。認めた、と言い換えてもいい。
 美貴は賢い娘だった。勉強がどうこうなんて意味ではなく。自分がいる世界が、一歩裏に回ればヤバイ世界に繋がっているって知っていた。だから嵌り過ぎた挙句ヤバ目な泥沼なんかに突っ込むはずがないと私は確信していた。きっと、ギリギリのところは通っていたのかも知れないけど。
「だって、アタシはインスタントラブの人だから、これでいいの。あんまり長く深く付き合っていると心がふやけちゃうもん」
 なんて笑って言っていたっけ。
 それが彼女のやり方というのであれば、私にはそれ以上のことは言えない。思えば、それが私たちのルールだった。美貴は、このことに関して干渉は好まなかった。普段はアレだけべたついてくるくせに。この娘が何処でどんな人たちとナニをしたのだと楽しそうに語り、私も内心興味深々聞いていた(お陰で私は随分と耳年増になった)が、それだけだった。諭すのは、それでなくとも無駄だと私も悟ったのである。
 恋愛というものに対してものすごく斜に構えている美貴だが、その分遠くから客観的に観察しているとも言える。
 乾されてしまった私のグラスに、桃のチューハイを注ぐ美貴。
 自分の恋愛を「即席」と言い切ってしまった時の美貴の視線に、私は実験動物を見詰める様な、ある種の冷酷さを感じた気がする。
 突き放した感じ、断絶、対象物に対して、美貴は、距離を置く。その距離は絶対で、彼女から超えて行く事も無ければ、相手の方が近づいて来ればそれと同じだけ美貴は逃げるだろう。美貴は自分の心を、恋愛で満たして欲しいと思ってはいないのだ。
 美貴が、そんな境地に至った経緯を私は知らない。聞いたこともないし、興味がないと言えばそれは嘘になるが……そうする必要が無い限り、聞くべきではないと思っている。私たちのこの関係は気持ちの良い距離で保たれていたから。
 目の前で何かをしゃべっている美貴の顔を眺めながら、私はぼんやりと別のことを考えていた。
 どんな事でもいい。どんなに非人道的な行為、たとえ犯罪であろうと、逆に人に誇れるもの人に称えられる事何でもいい。とにかく、何かを突き抜けるほど突き詰めることが出来るのであれば、それは行を修めるのと同じなのではないだろうか、と。例えば僧のように。例えば芸術家のように。格闘家が命を削るかのようにしてまで減量するように。減量の挙句に待っているのは殴り合いだ。
 それは、どれもこれも未だ至らぬ『この先』を目指そうとする意志から生まれる。穴が開くほど自分を見詰めて突き詰めて、彼らは経る手段こそ異としていても、ホンの一握りの中の一握りだけが最後の最後、終に至る場所はきっと、ある程度似たような場所なのではないか。
 だったら、美貴だって。美貴が心を切り離し見知らぬ誰かに体を開き、それでも心を切り離し続け、一心に腰を振る男と腰を振る自分をじっと観察し続けることが出来るのであれば、いずれ世界の真理その一端に触れることが出来るのではないだろうか。たとえ美貴が通る道が、肉欲と虚飾、うわべと一瞬の快楽の世界であっても。
2006-05-06 19:27:36

一章/『Season of Waiting Snow』 4

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

「そりゃまたぁ。ご愁傷様」
「ほんっと、心の底から他人事と思っているでしょう、美貴」
「まぁね。実際他人事だし」
 私はがっくりとため息をついた。美貴に、恋愛相談なんか持ちかけた私が馬鹿だったのだ。昨日電話してから、同じ会話を何度も飽きずに繰り返されて、もうなんだか吉本の定番のコテコテギャグみたいなやり取り。お約束って奴。
 結局、私はあれからずっと、会社を休みっぱなしだった。今日で四日目か。精神的な部分はかなり回復したと思う。心のテンションの高さを示す針の位置が、マイナス百 から上がってきて、今はゼロ付近をうろついているというのを、回復したと言うならだけど。
 今は美貴と二人、私の部屋、散らかったままのリビングで昼間からヤケ酒を飲んでいる。ビールにワインにチューハイにウィスキー。ツマミも全部彼が残していったものだ。彼はもう戻ってこないのだから、構いやしない。
 一応、体調不良を理由に仕事を休んでいるだけに気が咎めないでもないが、さすがに根っから真面目体質の私だって、もうどうでもいい気になっていた。
 いや、さすがにアレかなと思って、頑張って昨日は出社したのだけれども、電車に乗り損ねて遅刻した挙句、結局半日で帰ってきたのだ。ずっと上の空で、目の前でドアが閉まるまで電車が来たことに気が付かず、廊下を歩けば人にぶつかり書類をぶちまけ、パソコンの前に座っても仕事のはかどらない事。完全に、尾を引きずっている状態で何も手が付かない。昼休みになったことも気が付かずにボーッとし続けて、
「体調が悪いのはわかったから、今日はもう帰れ」
 と例のサルに言われる始末である。
「どぉーせ、スッパリ忘れちゃえって言っても無駄なんでしょう、ワッキーの性格じゃねぇ」
「よくご理解していらっしゃること。あと、ワッキーはやめて」
 さすが高校以来の腐れ縁。ご名答である。
「伊達にワッカーと十年以上も一緒にいるわけではないので」
「……ワッカーもやめて」
 力なく言うと、にやり、と真っ白な歯を見せて笑いかけられた。つられて私もつい笑ってしまう。伊達だと思ってた、なんて言わないけどね。
 何だかんだで、笑うのはあの諒が出て行って以来だった。
 


 私たちが出会ったのは、高校一年生の、夏だった。今でも美貴が初めて登校した日の朝のことを私はよく覚えている。
 とても暑くなりそうな、蝉のうるさい一日の朝。梳かせば腰の辺りまで届きそうな長い髪をポニーテイルにして、彼女は教室に入ってきた。
 突然の闖入者に、期末試験を直前に控え慌しく教科書とノートを見せ合っていたクラスメイトたちは、しんと静まり返る。そんな私たちに一瞥をくれて、彼女は入学式以来、ずっと主が不在だった廊下側の一番後ろの席にむかう。私の隣の席だ。
「そこ、アタシの席らしいんだ。どいてもらえる」
 静かなのに、よく通る声で彼女は言った。声と同じように静かで、落ち着いた視線で。ちょっとつり眼だから、なんだか怒っているように見えた気がする。
 その机中心に談笑していた男子たちは気圧されて場を譲った。
 少し遅れて、担任の先生が入ってきた。迫田という結構年の行った小太りの先生だったが、彼はそのまま始まったホームルームの場で彼女のことを手短に紹介した。何でも入学式の数日前に事故に遭い、しばらく入院とリハビリを重ねていたのだそうだ。
「福間美貴、と言います。よろしく」
 その場で立って挨拶した美人の彼女に、男子たちがあからさまな視線を投げかける。私はそれを他人事として受け止めながら、
(なんとまぁ、漫画みたいな)
 と思っていたのだが、まさか偶々席が隣だった私に彼女が声をかけてこようとは思いもよらなかった。いや、あとでちょっと考えれば真っ先に声を掛けられるのは私で当たり前なのだと思ったのだけど。
 彼女はじっと私を見詰めて、少し間をおいて突如相好を崩し、眉根を寄せ困った顔をしながら、手を合わせた。真顔ではとても冷たい印象の眼は、表情が変われば愛くるしささえ漂うのだから不思議なものだ。
「な、なに」
 ビビリまくる私に、彼女は一言。
「ゴメン、ノート見せて」
 と言った。
 聞けば、間もなく期末試験であるというのに、教科書を開いたことすらないのだと言う。考えてみればそれもそのはずで、勉強よりもとりあえず歩けるようになるほうが大事なことではあるだろう。
 と半ば同情したら、
「いやぁ入院中時間はあったんだけれどねぇ。カッコいいお医者さんがいたから……」
 とか言うし。何のことやら首を傾げたが、ちょいちょいと手招きされて耳を貸すと、詳しい話を聞いて私は目を白黒させた。彼女は二ヶ月の入院期間で三人の医者と関係を持ったのだとかお金がどうこうとかなんとか。
 当時の私はまだ未経験ではあったが、友人の中にはもうとっくに済ませている娘もいて、わいわいきゃあきゃあ言いながら心の中ではちょっと憧れないでもなかった。
 勿論、世の中には自分の体を商品として見ている娘だっていることは知っていた。そういう娘たちはそういう娘たちで固まっているから、あまり、私には縁の無い世界だとばかり思っていた。少なくとも、美貴と出会うまでは。
 私はあんぐりと口を開けたまま、美貴のことを眺めていた。なんなんだ、このムスメッ子は。なんでそんなことをこんなあっけらかんと、たった今知り合ったばかりの……いや、私はまだ自己紹介もしていない。そんな赤の他人も同然の人間に話すことが出来る?
「ね、ノート見せて、ね? お願い」
 だがまあ、事情があって入院していたんだし、例え彼女がそーいった人なのだとしても、ノートを見せる事を断る理由にはならないわよねぇ。自分に言い聞かせてみる。大体次の席替えまでは隣同士、クラス替えまでは同じ教室の住民である。断りづらくて渋々、というのが、正直なところだった。
「仕方ないなぁ」
「アリガトゥッ……えっと」
「ああ、名前? 井上若葉っていうの」
「ありがとわかっち!」
 がくッときた。いきなりあだ名である。馴れ馴れしいを通り越して、図々しい。
 そう思ったけれど。美貴がニカッと笑ったので、なんとなく許してしまった。
 その日一日ずっとノートを見せ続け、美貴は私に纏わりつくようになった。ころころ変わる表情、少し釣り目のクールな顔立ち。なんだか野生の猫に懐かれた気分だった。そうね、野生の、猫。少なくとも『野良』とは思えなかった。
 じっと真顔をされれば少し冷たい感じの彼女の顔も、笑みを浮かべればとても人懐っこい感じがして嫌いではなかった。私は殆ど専属の家庭教師になって彼女の勉強をみることになる。
 結果だけ言えば、美貴の試験結果は散々たるものだった。殆ど授業を受けることなく、しかも準備期間がたった五日ではそれも仕方が無いだろう。美貴は笑って気にしなかったし、教師も入院という事情があるから追試は免除である。私はと言えば、彼女について一からしっかり復習したお陰で、そこそこ良い成績を修めたのだった。
 


「でもま、いい機会なんじゃない。たっぷり休んじゃえばいいじゃん」
「……他人事だと思って」
「だから、他人事なんてだって。アタシのことじゃないもん。自分の事だったらもっと話が早いって」
「どんな風に?」
 美貴は少し考えて、こう宣まった。
「ぱーっとクラブでも行って、適当な男に声を掛けて踊って、そのままベッドで体をぶつけ合う、かな」
 両手を挙げて「パーッと」のポーズの美貴を尻目に、私はため息をついて、グラスの中の液体を飲み干した。温くなったビールは苦くて重い。今日は、なんだか酔いが回るのが遅いみたいだ。
「私にできるわけないじゃん。そんなの」
 やりたくもない。
 美貴は、昔からこうだ。とっかえひっかえと言えば言葉は悪いが、事実その通りなのだから仕方が無い。

2006-05-02 21:57:44

一章/『Season of Waiting Snow』 3

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

  結局私は部屋から一歩も出ずに一日を過ごした。折角着替えたのだから、傷心旅行にでも行けばいいのだろうけれど。生憎ながら私以外の人たちは普段と変わらない平日の朝。出勤ラッシュの時間帯に、いつものように満員のホームで電車を待つ自分が思い浮かんで結局やめた。
  どんなことでもそうなんだろうけれど、衝動的でも継続的計画的であろうと、何かを実行するためには瞬発的な勢いと意志が必要で、今の私にはそのどちらもまるで足りない。
  ベッドに腰掛けて横になったり立ち上がったり、リビングに移動してみたり。散らかったリビングの片づけをする気は起きなかった。何か食べようかとも思ったが、食欲が湧かないのでやっぱり止めた。
 気が付けば、陽は完全に沈んでしまって部屋の中は真っ暗だった。喉が少し痛い。寒くてエアコンを付けっぱなしにしたせいだ。室内が乾燥している。
メイクを落として着替えてベッドに潜り込んで、一度だけ、彼にメールを打とうかと思った。でも、何を書いて送ればいいのかさっぱりわからない。帰ってきて、と縋る言葉だろうか。それとも、もう会えないのね、と別れを受け容れる言葉だろうか。いっそ、あんたなんかこっちからお断りよ、と切り捨てる言葉を送ろうか……なんてウソ、思っても、実行なんかどうせできやしない。
  仮に何か書いて送って。……無視されたら? 受信拒否されていたら、既にアドレスが代わっていたら?
送ってしまえば、私はきっと期待を込めて返事を待つだろう。どんな言葉でもいいから、彼からのリアクションを待つだろう。
「きっとあの人だって、本音では私に会いたいんだろうから」
  なんて根拠のない期待。ずっと待ち、二時間三時間。明日の朝まで。そわそわと落ち着かない様子で、まるで初めてのデートに早く着いてしまった女子中学生のように。一時間後には返事が来るだろう。もしかしたら直接部屋に来るかも知れない。仕事があるからまだ私からのメールを見ていないだけかも。なんて、自分に都合のいい言葉を自分自身に言い聞かせながら。
  そして返事が来ないまま昼を迎え陽が沈み、今と同じ時間になる頃、落胆は俄か期待を込めていた分、もっと深いどん底に私を突き落とすのだ。
  知っている。きっとそうなることを、私は知っている。
  仮にメールを読むことはあっても、それ以上はない。
  もし彼が戻る可能性があるとすれば、彼自ら私を必要とするときだ。私の言葉は、悪戯に彼の心を頑なにしてしまうだろう。
  折り畳み式の最新機種。彼とお揃いについこないだ買い換えたばかりだ。携帯電話を手にとってディスプレイを覗き込めば画面は真っ黒で何も映っていやしない。
「あれ……」
  思い出した。電源、切りっぱなしだったんだっけ。体調を心配してくれる会社の友人からのメールを貰って、ありがたかったけど鬱陶しさのほうが勝っていたから切ったんだっけ。
いっそこのままにしていてもいいかなぁ。
  とは思ったけれど、それでは彼はもちろん友人との連絡も取り辛くなってしまうことになる。改めて現代社会における、現代人の携帯電話依存率の高さに驚くばかりだ。携帯電話を持っていては現実と決別するのは難しいみたい。
  仕方なく電源を入れてみて、メールを受信する。会社の友人数人がお見舞いのメールをくれていた以外、迷惑メールが三つばかり。彼からのものは無かった。
 キーを操作して彼の番号を呼び出してみる。メールじゃなくて電話してみようか。
 でも。
 出てくれないだけならまだいい。
  着信拒否されていたらどうしよう。メールを受信しないなら、着信拒否だって当たり前だ。そのことまで確認してしまえば、一縷の望みも、空想の余地すら奪われてしまう。
 怖くなって私は、結局何もしないで布団に潜り込んだ。
 昨日はほとんど徹夜だったから、何だかんだで疲れていた。身も心も。眼を閉じていくぶんもしない内に眠りに落ちた。 


  …………………………
  ………………
  ……深夜、自分が泣いていることに気が付いて、私は眠りから覚めた。突っ伏していたから、枕の一部が 濡れている。
  どんな夢を見ていたのだろう。思い出せない。でも、きっと彼が出てきたのは疑いようの無かったことだった。
  どんな夢だっけ。何か、楽しかった時の夢だろうか。水族館にいってはしゃいだのはついこの間のことだというのに。それともやっぱり、諒が出て行くときの夢だったのかしら。
  考え出したらきりが無い。再び眠りに付けなくて、結局私は今夜も目が覚めたまま朝を迎えることになる。
 ……しばらくの間、私はしばしば涙を流しながら夜半に目を覚ますようになった。目を覚ますたびに彼の顔を思い出せなくなる気がする。
 怖い。嫌だ。忘れたくない。
 お願いだから、行かないで。独りに、しないで。


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