三章 /『What I Want 』 6
テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』「……そういうことです」
当時、詩織は妊娠していました。検死の結果判ったのだといいましたっけ。僕は後から知らされたんですが。
実を言えば、俺は当時経験がなかったんですよ。一度だけ、そういう雰囲気になったことがありましたが……詩織が怖がったんで途中で止めました。だから、彼女が妊娠していたということは、俺の子である筈がないんです。
彼女が妊娠していたのだと教えられたのは、彼女の葬式のときでした。事故を目の当たりにして以来、しばらくの間頭がハッキリしていなかったんですが……焼香をあげようと前に出たとき、詩織のお父さんに殴り飛ばされて。それ以上娘に近づくな、と。
そのとき妊娠していたことを含めお前が殺したなどと色々と罵られて……まぁ俺が殺したというのは間違いではないんですが。
それでやっと全ての合点がいきましたね。ぐらんぐらんする頭で。
詩織が、その先輩の子どもを身篭って、そのことを知ったから俺らから離れて。誰にも相談していなかったんでしょうね。だから問い詰めれば明らかに態度が変わる。詩織の親父さんはどうやら俺が父親なのだと勘違いしていたようですが、誤解を解こうとも思いませんでしたよ。
あれは、本当に堪えた。まさか時間差であんな……。
「静」
「……八咫、というのは、いつだったか清水らと四人で自分の子どもにどんな名前を付けるかという話題になったとき、詩織が挙げたんです。男だったら『八咫』という名がいい、と。詩織の死後、詩織と同じ中学だった女の子に教えられて知ったんですが、当時詩織が熱を上げていた先輩というのはサッカー部だったそうで」
「サッカーに由来するものなんだ、八咫っていうのは」
彼は頷いた。
「子どもの父親が本当にそのサッカー部の先輩なのかどうかは、わかりませんけれど。別の奴の可能性だって残っています。答えは詩織にしかわからないから。……『八咫烏』という、霊鳥がいるそうですよ。日本神話で、神武天皇の軍勢を戦の勝利に導いたとされる天の御使い。現代においては、日本サッカーのシンボルマークになっていますね。そこから来ているんです、八咫、というのは」
そのカラスのマークなら、サッカーに疎い私だって見たことがあった。あの、三本足のカラスのことだ。どうしてカラスなんて不吉そうなものをマークにしたのだろうかと思っていたが、なるほど。あのカラスは不吉どころか、勝利のシンボル。縁起の良いものだったのか。
そして、だからあの時、静は自ら名乗っていた八咫という名前に対して『末期的』とさえ評した理由もわかった。確かに末期的かもしれない。
……詩織さんのことがあったから、裸になったくせに私の中に入ってくることを拒んだのか。怖いんです、と確かに静は言った。
その恐怖、一体何に向っているのだろうか。ぼんやりと判るような、判らないような。曖昧にしか判らないが、私は言葉にならない彼のその感情を正しく汲み取った様な気がする。
「静」
彼は大きく息を吸って、吐いた。ため息のような、深呼吸のような。
私が彼の頭を胸元に抱えるようにして引き寄せると、彼は手を私の背中に手を回して片手で抱きしめるような仕草をした。彼と触れ合っている部分が熱く感じる気がする。
遠くで救急車だかなんだかのサイレンが聞え、やがて遠ざかる。それ以外の音は聞えなくなっていった。 耳鳴りがするくらいの静けさが辺りに満ちる。
外はクリスマスに向けて落ちるかのように寒くなっていき、私たちはここで抱き合っている。互いの熱だけを感じてさえいれば、それで全てが事足りる気がする。完全に閉鎖した世界で、それはある意味で誰よりも幸せである状態かもしれない。
静は私の胸に顔を埋めて、目を閉じた。私は彼の髪にそっと口付けをする。
静は何も言わなかった。
私も何も言わない。
そしてやがて、私たちはそのままの姿勢で、眠りに落ちた。ゆっくりと、ゆっくりと。






