2006-05-27 21:15:14

三章 /『What I Want 』 6

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

「……そういうことです」
 当時、詩織は妊娠していました。検死の結果判ったのだといいましたっけ。僕は後から知らされたんですが。
  実を言えば、俺は当時経験がなかったんですよ。一度だけ、そういう雰囲気になったことがありましたが……詩織が怖がったんで途中で止めました。だから、彼女が妊娠していたということは、俺の子である筈がないんです。
 彼女が妊娠していたのだと教えられたのは、彼女の葬式のときでした。事故を目の当たりにして以来、しばらくの間頭がハッキリしていなかったんですが……焼香をあげようと前に出たとき、詩織のお父さんに殴り飛ばされて。それ以上娘に近づくな、と。
 そのとき妊娠していたことを含めお前が殺したなどと色々と罵られて……まぁ俺が殺したというのは間違いではないんですが。
  それでやっと全ての合点がいきましたね。ぐらんぐらんする頭で。
  詩織が、その先輩の子どもを身篭って、そのことを知ったから俺らから離れて。誰にも相談していなかったんでしょうね。だから問い詰めれば明らかに態度が変わる。詩織の親父さんはどうやら俺が父親なのだと勘違いしていたようですが、誤解を解こうとも思いませんでしたよ。
 あれは、本当に堪えた。まさか時間差であんな……。
「静」
「……八咫、というのは、いつだったか清水らと四人で自分の子どもにどんな名前を付けるかという話題になったとき、詩織が挙げたんです。男だったら『八咫』という名がいい、と。詩織の死後、詩織と同じ中学だった女の子に教えられて知ったんですが、当時詩織が熱を上げていた先輩というのはサッカー部だったそうで」
「サッカーに由来するものなんだ、八咫っていうのは」
 彼は頷いた。
「子どもの父親が本当にそのサッカー部の先輩なのかどうかは、わかりませんけれど。別の奴の可能性だって残っています。答えは詩織にしかわからないから。……『八咫烏』という、霊鳥がいるそうですよ。日本神話で、神武天皇の軍勢を戦の勝利に導いたとされる天の御使い。現代においては、日本サッカーのシンボルマークになっていますね。そこから来ているんです、八咫、というのは」
 そのカラスのマークなら、サッカーに疎い私だって見たことがあった。あの、三本足のカラスのことだ。どうしてカラスなんて不吉そうなものをマークにしたのだろうかと思っていたが、なるほど。あのカラスは不吉どころか、勝利のシンボル。縁起の良いものだったのか。
 そして、だからあの時、静は自ら名乗っていた八咫という名前に対して『末期的』とさえ評した理由もわかった。確かに末期的かもしれない。
  ……詩織さんのことがあったから、裸になったくせに私の中に入ってくることを拒んだのか。怖いんです、と確かに静は言った。
 その恐怖、一体何に向っているのだろうか。ぼんやりと判るような、判らないような。曖昧にしか判らないが、私は言葉にならない彼のその感情を正しく汲み取った様な気がする。
「静」
 彼は大きく息を吸って、吐いた。ため息のような、深呼吸のような。
 私が彼の頭を胸元に抱えるようにして引き寄せると、彼は手を私の背中に手を回して片手で抱きしめるような仕草をした。彼と触れ合っている部分が熱く感じる気がする。
 遠くで救急車だかなんだかのサイレンが聞え、やがて遠ざかる。それ以外の音は聞えなくなっていった。  耳鳴りがするくらいの静けさが辺りに満ちる。
  外はクリスマスに向けて落ちるかのように寒くなっていき、私たちはここで抱き合っている。互いの熱だけを感じてさえいれば、それで全てが事足りる気がする。完全に閉鎖した世界で、それはある意味で誰よりも幸せである状態かもしれない。 
  静は私の胸に顔を埋めて、目を閉じた。私は彼の髪にそっと口付けをする。
  静は何も言わなかった。
  私も何も言わない。
  そしてやがて、私たちはそのままの姿勢で、眠りに落ちた。ゆっくりと、ゆっくりと。


2006-05-26 23:51:28

三章 /『What I Want 』 5

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

 

  一抹の不満と充分な満足とともに、私たちは布団に包まって横になった。
「今でも、時々詩織の夢を見るんです。あの頃は殆ど毎晩だったと思うんですけれど」
「……どんな夢か、聞いていい」
  静は少し間を置いて俯く。
「イヤなら、無理しなくていいのよ」
「……事故の、時の夢が一番多いかな。その……なんていうのかな。夢って、支離滅裂に場面が繋がっていくじゃないですか。玄関のドアを開けたら学校で、大学で知り合った奴が同じ中学に通っているとか」
「うん」
 私にも経験がある。私の通った中学を舞台にした夢に、高校で知り合ったはずの美貴が出てきたりしていた。夢の中の彼女は現実と同じように、私を振り回すのだけれど。
「詩織とデートしていたら突然知らない男がやってきて、馴れ馴れしく詩織に話しかけてくる。俺は少しはなれたところでそれを見ていて、詩織とそいつは俺を置いて歩き出す。昼だったはずなのに夜になっていて、夏のプールに行った時のシーンであるはずなのに冬のあの日の晩になっていて」
 繋いだままの手に力が篭る。
「……あの時のように詩織は撥ねられて。大概はそこでやっぱり飛び起きるんですけれど。その先に続くことがあるんですよ。悪趣味なことに」
 静は言葉を切った。ため息をついて、再び口を開く。真っ直ぐ天井を見詰めている視線が揺らいだ。私はその横顔を間近から見ている。
「どう考えたって死んでしまっているはずの詩織が、立ち上がるんです。血をだらだらたらしながらいつもの笑顔でこっちを見ている。俺は動けずにいて、詩織もただこっちを見ているだけで、そのうち泣き出して、怯えるように泣き出して、俯いてあっちに歩いていく。バッグに、落としてしまった、その……えー」
「その、何」
 静の横顔が苦笑いした。
「えーっと、脳みそを」
「……」
「……まぁ、ソレを、拾って詰め込んで。どこかにふらふら歩いていく。頭が空っぽになっているからか、なんだか足元がおぼつかない。俺はその後姿を見ながら、目を覚ますんですよ」
 寝起きの気分は最悪です、と静は笑った。本当にあの直後はひどかった。何せ色んなパターンを見てきましたから。でも、決まって事故は起こるんですけれどね。
 自嘲気味に笑う静に、私は尋ねた。純粋な興味からだった。
「ところで、その事故。話には出てこなかったけれど、その……はねちゃった人はどうなったの?」
「それなら捕まりましたよ。いわゆる轢逃げだったんですけれど。詩織の葬式から三日かそれくらいに逮捕だったとか、刑事さんに聞きましたけれどね」
  その人は、酒に酔っていたのだという。当時三十半ばの男性で、事故の当日、粗暴な態度が元で仕事をクビになり、苛々して酒を飲んでいたらしい、と静は言った。
  詩織さんの直接の死因ははねられた際に石垣の角で頭部を強打したためだが、男ははねた相手の頭蓋骨が砕けるほどのスピードで車を走らせていた。例え塀に頭から突っ込まなくても、ただの女子高生が耐えられるとは思えない。
  その人は以前にも酒気帯び運転で捕まったことがあり、詩織さんをはねた際の業務上過失致死により、今でも服役中なのだという。
「殺してやろうか、とか思いませんでしたね、あの頃は。それどころじゃなくて」
「……どうして」
「詩織の、裏切りが堪えていたからですよ。犯人をどうのこうのどころじゃなかった。それより、自分がどうにかなりそうだった。……よりによって、詩織。置き土産に地雷をしかけていましてね」
「地雷?」
「……八咫、ですよ」
 八咫。詩織さんの話があまり強烈過ぎてすっかり忘れていた。
「そうよ、元は八咫って名前の、由来がなんなのかっていう話だったのよね」
 あの日、あのバーで静は言った。確か八咫というのは、
「……。……ッ」
 彼女の死。彼女の妊娠。彼女の裏切り。
  ハッとして、静を見た。嫌な連想。まさか。
 顔に、陰がおりている。表情は何も変わっていないのに、私の顔を見ながらどこか遠くを見ていた。本当に、どこか遠くを。
「……そういうことです」

2006-05-25 21:24:33

三章 /『What I Want 』 4

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』
  別に言葉にして誘われたわけではないのだけれど、私たちは『regenbogen』を出てそのまま殆ど無言で静の部屋に向った。繋いだ手は離れない。
  彼の部屋で、私たちは抱き合ってキスをする。最初は、唇が触れ合うだけの軽いキスを。僅かに見詰め合って唇を交わして、今度は私のほうから彼の歯茎に舌を這わせた。彼は躊躇うことなく応えてくれた。
  暖房が効くのも待っていられない。一枚一枚、静は丁寧に私の服を剥ぎ取っていく。一枚脱ぐごとに我慢できなくなって私たちは舌を絡めあった。
「オバサンでしょ」
 つけっ放しの灯りが恥ずかしくてそんな言葉を言ってみたら無言で乳首を吸われた。体を震わせて私は敏感に反応してしまう。
「綺麗ですよ」
  女の人の裸って、本当に綺麗だと思います。私だけじゃないんだ、と拗ねてみたら若葉さんは特別綺麗ですよなどとのたまう。みえみえなのに、嬉しくなってしまった。
  灯りを消して、私たちはベッドの中で抱き合った。
「やわらかい……」
  彼が囁く。
  裸になったけれど、最後まで挿入はしなかった。静が嫌がったからだ。
「もしかして」
 例の事件で、精神的なショックで……と思ったが、違うようだ。彼のものは、はちきれんばかりに大きくなっている。
「情けないけれど……怖いんですよ」
 私は、何が、とは問い返さなかった。正直に言って、私は彼の精を注がれてもいいとさえ思っていた。それで子どもができたって、静の子なら……。私の一番深いところまで、神聖な部分にまで彼に蹂躙されることを思っただけで下腹部が熱くなる。
  けど、彼が挿れたくないというのであれば別にそれでいいじゃないの。
  私は自分に言い聞かせると、その言葉は妙にストンと、私の中に染み渡った。セックスは私たちが一つになるための手段だが、唯一でもなければ絶対でもない。彼のために何かをしてあげたいと思った。思えば思うほど、私の中まで熱くなってしまう。
  私の空洞を埋めるものが無い、その物足りなさが無いわけではないけれど、それでも充分に私は感じて躯を震わせ、喘いだ。何度もやめてと懇願しながら心の中では望み、静はただしく私の望みを汲み取っては叶えてくれた。お返しにと言わんばかりに、私も静の身体に舌を這わせる。
  私は身体の内側が粘液になってしまうような気がした。どろどろに溶けてしまって彼と溶け合えるのなら、それはとても素敵なことだ。
  私は躯を震わせ、指の先の先までぎゅっと握りこんで、果てた。
  なんて、気持ちいい……。
2006-05-24 22:17:46

三章 /『What I Want 』 3

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

「お疲れ様」
 例のバー『regenbogen』で一週間ぶりに会う静は、やっぱり真っ黒な服装だった。黒いセーターにジーンズ、椅子に掛けられているのもやっぱり黒いダウンジャケットだった。
 道に迷ったこともあって、少し遅れてしまった。そのことを詫びると、先に来ていた静は、やっぱりしずかに笑うだけだった。
  今日はカウンターではなく、テーブルの席だった。静の向かい側に腰掛けると、すぐにこの間の女性バーテンがおしぼりを持ってきてくれた。私はカルア・ミルクを頼み、静は白のグラスワインを注文した。歳の割りに、なんだか渋い飲み方をするな、と思う。
  そのことを言うと、
「そうでもないですよ」とちょっと照れたように笑った。
  立ち去ろうとするお姉さんに、彼は続けてパスタとチーズの盛り合わせ、それにサラダを注文した。私の方を見て、何も食べていないんでしょう、とズバリ言い当てる。
「空きっ腹にお酒を入れると、あっという間に吸収されますよ」
 賢しげな忠告である。私はわざとらしく肩を竦めて言ってやった。
「酔いたい気分なのよ」
「何かあったんですか」
 目が笑っている。楽しんでるんだ。少し考える。視線を泳がせながら、テーブルに肘を着いて手を顎の辺りにやって、最後に彼のほうを見てみる。
「静に会えて、嬉しいのよ」
「僕もです」
 すました顔ですかさず返されて、私たちは破顔した。
  ああ、やっと静に会えた。どうしてだろう。私は、こんなにも静に会いたがっていた。そのことに気が付きもしないで。やっと会えた。やっと。
 私たちはお互いのことを話した。仕事のこと、学校のこと。美貴のこと、清水くんのこと。嫌な上司のこと、嫌いな講義のこと。この前ここに来たときより、ずっと饒舌に。静はしずかに私の話を聞きながら、自分の事も話してくれた。殆どが大学の話だったけれど、それで充分だった。
どうでもいい他愛無い会話がこんなにも心地いい。毛の長い滑らかな絨毯に寝そべっているかのようだ。どうして静は、私をこんな気分にさせてくれるのだろう。パズルのピースのように、心と心が繋がりあう気がする。
  俄かに話題が途切れて、私は何気に口を開いた。とっくに酔っているのだろう。でなければ、こんなことは言わなかったと思う。
「……前付き合っていた彼ね。わがままだったんだけれど」
 諒は、自分の思い通りにできないことを嫌がった。会う予定のあった晩に残業が入って私が少しでも遅れると、それだけで機嫌が悪くなっていた。それがいいとか悪いとかではなくて、彼はそういう人間だったのだ。
「私も、いけないのかも知れないわね。尽くしている自分に、どこか酔っていたのかも知れないわ」
「みんなそんなものじゃ、ないんですかね」
 そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。曖昧に私は頷く。
「でもね、やっぱり思うの。逆に彼のわがままと真っ向からぶつかっていたらって」
 それでも、彼は変わらなかっただろうし、それならきっと別れももっと早かったに違いない。
「別れは、早くなっていただろうけれど。彼はわがままだったから。時には私にいい格好しようとして、ちょっといいところに食事に連れて行ったてくれたりして。悪い人ではなかったのよ。ただ、自分勝手な部分を優先せずにはいられなかっただけ……なのかもしれないわね」
 静はため息をついて、やっぱりしずかに笑う。
「自分を捨てた男を、そんな風に言ってやるなんて」
「……別にアイツを全肯定したいわけじゃないのよ。もう終わっているんだから。でも、最近ね、多分静に会えたからなんだけれど」
 私は少し間を置いた。私の言いたいことが、正しく静に伝わるように言葉を選ぶ。
「時間はもう戻らないから。相手のことはともかくさ、私のことは、私が感じていたことは、全部否定することなんてできないじゃないの。今までの自分全部ひっくるめて今の私でしょう。だめだなって思う部分は、先ず其処をダメなんだって認めなきゃ改善もできないし、彼がしてくれた事で私が嬉しく感じたことは、素直に嬉しいと認めてもいいんじゃないかなって思うの」
  そんなことに、今更ながらに気が付くなんて。
「静の、あの話」
 静が、俯いていた顔を上げた。手元のコースターに、さっき彼が注文したカクテルが届いた。メキシコークという名の、テキーラをコーラで割った、黒いカクテルだ。
「あの話聞いて、私ずっと考えていたの。静はどうやって壁を乗り越えてきたのかって。ずっと泣きはらしたのかも知れないし、呆然としたまま未だに立ち往生しているのかも知れないわよね。それは私にもわからない。わからないんだけれど……」
 言葉を切って、静を見た。彼は、私と私の向こう側を一緒に見ている。酔って視線が少し潤んでいる。
「思ったの。壁って、必ずしも乗り越えなければならないとは限らないのよね。高すぎて乗り越えられないのなら、迂回してみてもいいし、乗り越えることに拘るなら梯子を用意してみてもいい。ツルハシで穴をあけることもできるし、シャベルで地面を掘ってくぐってもいい。ダイナマイトで爆破したっていいし、全部そのままにして別の道を探してみたっていいじゃないかって。あなたが望むなら、私は手を貸してあげるよ。喜んで」
「……どうして」
「だって、私は静にぶちまけたお陰で、こんなに早く立ち直れたんだと思ってるから。……大切なことは、自分が納得することなんじゃないかって思うの。逃げるのも立ち向かうのも、自分が不本意だったら何処までやったって不本意なままでしかない。そうでしょう?」
 私は静の瞳を、真っ直ぐに捉えた。こうして誰かを見つめることなんて、一体何時以来だろう?
「私は、これまでの私にも彼のしでかしたことにも納得できたの。納得……腑に落ちたというか、受け容れることができたというか。……静の、お陰だよ」
 しばらく、沈黙が降りた。彼が右手を伸ばして、私の左手に重ねる。思いの外温かかった。そして少しして、静は目を閉じてありがとうと呟いた。
一分ほどそうしていただろうか。手を離して彼は手元のグラスを持ち、一気に飲み干した。
 

2006-05-23 21:18:46

三章 /『What I Want 』 2

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

  冬になるのと、冬が明けるのは、他の季節の移ろいと比べてハッキリしていると思う。吐く息が白いのにも、もう疾うに慣れてしまっていたことだったが、意識してみれば昨日より、今日のため息はより白くなっている気がする。
  昨日、どんよりと曇っていた空は予報どおり夕方からぱらぱらと雨を降らし出した。この雲が東の空に去っていけばまた大陸からの寒気が入り込み、街はさらに冬に包まれるだろう。その度に、クリスマスを叫ぶ声が大きくなる。
『でも今のクリスマスって、暦が何回も変わっているからキリストが生まれた日ではないらしいね』
 そうなんだ。知らなかった。
『それは夢のない話ね』
 そう返したら、静はまた変な事を書いてきた。
『そういえばサンタクロースって、みんな在り難がっているけれど、つまりは不法侵入者だよね』
  お弁当を食べながら思わず噴出しそうになってしまった。ますます夢のない話である。というか、それを言ってしまえば夢どころか身も蓋もない。
『プレゼントで帳消しにしてもらっているんじゃないの?』
『つまり、計画犯って事だ(笑)』
  静にかかれば紅いチャンチャンコの白髭爺は、犯罪者だそうである。そこまで捻くれたサンタクロース観というものを初めて聞いたわ、私。
  ペットボトルのお茶を飲み干して、私は携帯電話を手に席を立った。私は仕事があり彼には授業とアルバイトがある。だから、自然とメールをやり取りするのはお昼か夜以降の時間帯に限定された。
食事が終われば、雑誌を読むくらいしかすることの無い持て余していた時間も、他愛のないメールを送り送られるだけでこんなにも違う。幾日もしないうちに私はこの時間を楽しみにするようになった。
  静からのメールはその端々に、彼の性格が滲み出ているのが判る。静はいろんな物事を一歩下がって見ている風がある。さっきのサンタクロースの話にしても、そうやって当事者ではなくなることで、独特の観点を見出しているようだ。
  実を言えば、私たちはアレからまだ一度も顔を合わせていない。携帯の電波越しに声を聞いてすらいない。もう何度もメールのやり取りはしているというのに。
一度となく彼を食事に誘おうと思うのだが、メールの文面を書き上げるだけでなかなか送信のボタンを押すことができない。考えてみれば、齢二十五にして初めて男を誘おうとしているのである。それも、四つも年下である。
  ツバメ、という言葉が頭をよぎってしまった。
  そんなことに思い至ってしまったから、積極的になれないのだろうか。美貴の言っていたように、もうちょっと遊んでいるべきであったかもしれない。
  そういえば、美貴も、アレ以降も清水と連絡を取り合っているようだ。美貴に私と八咫――清水くんは本名を教えていないらしい――のことを突付かれたので、突付き返してみたら「けっこう相性良くって」と返された。あの晩かどうかは知らないが、やっぱり寝てみたらしい。今、一体何人いるの、とは聞かなかったけれども、話を聞く限り清水のほうも納得済みの関係であるそうなので、私はもう何も言わないことにした。
  ともかく、私と静の関係である。美貴に問われるまでも無く、非常に曖昧な状態であることは自覚していた。
  メル友と言えばそうなのだが、既に互いに自分のかなり深い部分を晒してしまっている。だから、上辺だけの同僚なんかよりもかなり親近感を感じているのは確かだ。
  とは言え、親友と言えるような仲ではなく、ましてや付き合っているとは言い難い。あるいは心の友とでも言ってしまおうか。いずれにしても、私と静との間にあるのは、これらに近いような、それでいて全く別のもののような感情なのだった。
  近すぎず、遠すぎず、だから取り繕う必要も何かを隠す必要も無い。そんな事が必要ないほど濃密で、同時に儚く脆い関係。僅かに指が絡まっているだけの、手を繋いでいるような状態は、壊れてしまえば、それで即お仕舞いだろう。
  下の窓の外をみる。曇ったままの空、雨は上がったみたいではあるけれど、今日はもう晴れることは無いだろう。そしてまた、ふと気が付けば冬が深くなっているのだ。
  ふう、とため息を付き、空のペットボトルをゴミ箱に捨てた。
  気が付けば季節が移ろい、空を見上げることも無くなっていた……というのは、現代の疲れてしまった社会人による、使い古された表現だと思っていた。自分が、社会人になるまでは。
  こうやって、私は人生をすり減らすのだろうか。ふとした拍子に季節がひとつ過ぎ去ってしまっている様な人生に眉をひそめながら。
  私が、こうやって時折季節を数えなおしていた時間を、静はどうやって過ごしてきたのだろうか。あの日の晩は、もうそれ以上あの話題には触れなかったから、アレ以後のことは、何も知らない。尋ねれば、静は教えてくれるだろうか。
  静に会いたい。このまま、メールだけをやり取りして関係を固定化させたくない。
  素直にそう思う。
  再び窓の外を見た。相変わらずの曇天で、鈍い色一色に空は塗り込められている。真っ青の青空ならともかく、灰色の空に触発されて行動を起こすというのはあまり無さそうな事態ではあるが、私は携帯電話を弄って、いつだったか書き上げたまま送れずにいた文章を呼び出した。
『会いたいの。こないだのバーに、今夜八時。どう?』
  敢えて一番真っ直ぐの物を選んで送ってみる。実を言えば、もう婉曲な言い方を選ぶことに、疲れた。何よりも、そんな言い方で自分を誤魔化すのに。
  シンプル・イズ・ベスト。『会いたいの』、そのたった一言に私の心は集約されるのだ。それでいい。それだけでいい。送ってみた後で思う。余計な装飾の全てを取っ払ってしまえば、こんなにも言葉は的確で、美しいとさえ感じてしまった。
  さほど待つ必要はなかった。返事は私が席に戻るのとほとんど同時だった。
  ディスプレイに出たのは、たった一言、『了解』とだけ。それが静からの返事である。
  その文字列を見て、私は目を閉じた。


2006-05-22 21:55:59

三章 /『What I Want 』 1

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

 

  私は、約束どおりに静に毎日メールを送っていた。内容はそれこそどうでもいいことばっかりだった。おはよう、とか、朝から寒いね、とか当たり障りのない事から、『今日、街中で元カレに似たヒト見かけてドキッとした』なんて、冗談めかしたホントのことまで。そんな言葉を並べて静の様子を探ろうとしている自分にちょっと嫌気が差す。
  あの時、沈黙が切れた後、私は彼に質問した。どうして、殆ど見ず知らずの私にそんな秘密を教えるのか、と。
「別に秘密にしているわけではないですけど」と静は笑う。名前の通り、しずかに。
「ほら。よく知っているヒトには中々言えない秘密でも、初対面の人には話しやすいって、ありませんか」
 それは、そうかもしれない。でも……。
「どうしてだろうって、自分でも考えていたんです。若葉さんが自分の事を曝け出してくれたっていうのもあるけれど。多分、自分の立場とか相手との関係とかを考えなくっていいってことではないかな、って」
 ネットなら、匿名性が高いしハンドルネームという偽名も用いることが出来る。ネカマではないが、望む自分を自由に演じることが出来る。
  それと同じで、相手の自分に対する評価を気にすることがなければ、それも互いに相手のこれまでを殆ど知らない人間なら、晒したところからスタートできるから。
 静も、きっと私と同じで、床屋が秘密を叫ぶ穴を欲していたように、私のような、彼の秘密をただ聞くだけの――心の内側を、曝け出すことの出来る相手が必要だったのだ。私がいつも美貴にするように、そしてバーで静にそうしたように。
 辛い過去、というのは心の中に溜め込んだままだと腐臭を放ち始める。それは時々吐き出してしまわないと、時に心を痛めつけてしまうのだ。
  私は美貴に吐き出すことが多い。でもそれは、私と美貴の間に、溜め込んでしまった毒を吐露しあえる、という関係を作り上げたからだ。静と清水との間にそれがあるとは限らない。だから、二人は本当の親友ではないとなんて言えないけれど。
「溜め込むのって、辛くなかった」
「……吐き出した後に、辛かったんだなって気がつくんですよ。何かの折に全部吐き出して、自分の心がどれだけ麻痺していたのかやっと分かるくらい。だから、かえって辛いというのとは違うかも」
 視線を泳がせながらそういった静。口元に僅かに浮かんでいる笑みは、一体何の笑みだろうか。死んだ詩織さんに対して。それとも、詩織さんに裏切られていた自分に対して?  あるいは、そうやって何処かしら自虐的な笑みを浮かべている今の自分に対してだろうか。
 恋人の死を目の当たりにするというのは、どれだけ衝撃的なことだっただろうか。それを淡々と……本当に、淡々と語れるようになるまで彼はどれだけの思いを抱えては吐き出したのだろうか。
 ちらりちらりと静の瞳の中で燠火が揺れる。
私は静に何をしてやることが出来るだろう。どれだけの事ができるかはわからないが、ただただ彼を抱きしめてあげたい。そう、思った。


2006-05-20 22:56:49

二章/『Night With You』 8

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

破局はクリスマス間近、のことでした。
 十二月の頭くらいから、どうも詩織の様子がおかしい。何かいつも不安げにしているし、俺のことを避けるようになりだした。俺だけでなく、皆から。クラスの奴や、先生たちからも。いつもどこかそわそわしている。一緒に帰ることも無くなった。清水やもう一人の子に聞いても、何でそんな態度を取られるのか判らない。詩織は、本当に自分ひとりで抱え込んでいたんです。
 それで、ずっとどこかギクシャクしたままでした。僕との会話を避ける。視線を逸らす。気が付かないふりをする。もう、避けているとかいないとかのレベルではなくて。
俺は放課後、詩織を呼び止めて、ムリヤリ一緒に帰りました。手を繋いで、ではなく、逃げられないように、強く掴んで。
 住宅街の中の、細い路地で、いつもそこでキスしていた場所。もう陽は完全に沈んで。その日が、とても寒かったのを覚えてます。本当に、寒くて、片隅で街灯が辺りを照らしてて、それが一層寒々しくて……。』


   *


 静はあまり感情を表すことなく、かといって感情を押し込めるでもなく語った。ただ聞いているだけであれば、それはどこにだって転がっている恋愛小説の一節を音読してもらっているかのようですらあった。意識していなければ、語り手本人の恋の古傷であることさえ忘れてしまうかのような。
 でも。
 詩織さんの事故のくだり。
「――考えるよりも早く、体が動いて。俺は叫びながら倒れた詩織に駆け寄って。後は、よく覚えていません。……以上が、俺と詩織のことの顛末です」
突然の急転直下で、静の話は幕を閉じた。最後まで淡々と、本当に淡々と。
「どうしたんですか、固まってしまって」
「そッ……そりゃ、固まりもするわよぉ」
 紅茶を啜りながら、静が問いかけてくる。
「ずいぶんと驚かれていましたが」
 私は肩を落とした。
「あのね、普通だったら驚くし、固まるわよ。だって突然詩織さん、その……」
「事故で亡くなって?」
「そう。ごく当たり前の失恋話みたいな感じだったからさ、ギリギリまで。だから不意を突かれちゃって。それに」
 それに、あまりに淡々と事故のシーンを語っているから。そう続けようとして私はやっぱり言葉を飲み込んだ。躊躇った、というべきだろうか。
 あまりに淡々と、他人事のように語っているから、ちょっとだけ作り話か何かだったと思った。そんな風な意味のことを言おうとしたのだ。だが、直前で静の瞳を思い出したのだ。あの、ここではないいつかを見詰める目。今ではないどこかに向けられた視線。
「それに……なんでしょう」
「ううん、なんでもないの」
 それが嘘だなんて思えなかった。私では推し量ることすら難しいが、静は確かに詩織さんとのことに苦しみ、今でも心に抱え込み背負い込みんでいるのだ。どれだけ辛かろうとも、放り出すことなく。
 私たちは少しの間話題を失って、無言で温くなった紅茶を啜った。


2006-05-19 21:09:34

二章/『Night With You』  7

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

  クリスマスが、しずかに近づいている。時間の歩みはとてもゆったりと、どこか忙しなく。確実に。それにあわせて周りが浮かれ騒いでいる。私はその喧騒の中を、買い物袋を抱えながら一人家路についていた。
 諒と付き合っていた約三年の間に、クリスマスを共に迎えたのは最初の年だけだった。二年目、彼は忙しいからイブ当日は会えない、と言い、仕方なく私は諦めた。もしかしたら今一緒にいる女性と過ごしていたのかもしれない。三回目のクリスマスは迎える前に関係が終わってしまった。
 別に今更、クリスマスにはしゃぐ歳でもないのだけれど、それでも浮かれ騒ぐ街の喧騒の中たった独りで歩いていると、とても自分が惨めな立場にいるのではないのだろうかと思ってしまう。そんなこと誰も言わない。街を行く人々は皆、隣にいる恋人か、部屋で待つ恋人かのことを考えていて私になど眼もくれない。
 クリスマスソングの流れる駅前の広場で面を上げて暗いどんよりとした空を見上げる。少し前から冬型の気圧配置で、だからあの晩チラリとだが雪も降った。しばらくは寒い日が続くという。今冬は例年以上に、寒い冬になるのかもしれない。
 広場の中央にある時計を見ると時刻は既に夜の九時を回っている。静の部屋で、紅茶を啜りながら彼の話を聞いたのがもう二十時間も前。それから、私の奢りで食事に行った。散々に飲んだ翌日だったから軽いものを、と彼が近所のうどん屋に連れて行って欲しいというので、仕方なくそうすることにした。御礼というからにはもっと形式ばったものがそれらしくていいかな、と私は考えていたのに、それがキツネうどんを奢るだけではちょっと格好が付かないな、と思う。
 そういったら、彼はじゃあ、今度また何か奢ってくださいと無邪気に笑う。全く……。
 静の話と、食事のときの彼を思い浮かべながら、私は誰も待っているはずのない自分の部屋へと足を進めた。


  *
 

『……俺と、詩織が会ったのは高校の入学式の日で。別に一目惚れとか、そんなんじゃないんですよ。俺らはたまたま同じ高校の同じクラスに割り振られただけで。中学も違っていたから、自己紹介で互いに名前を初めて聞いたくらいです。やっぱり同じクラスだった清水とも、その日が出会いでした。
 俺はどういうわけか、清水と仲良くなりました。アイツはホラ、お調子者というか、クラスでも人気が出るタイプの奴じゃないですか。みんなの前でふざけた真似をしながら笑いを取るタイプ。俺はそういうのは苦手な方だから、ま、それで清水になつかれたってのはあるんじゃないかと思います。互いに自分にないものを持ってる、って奴ですか。
 詩織は、ごくごく普通の女子でした。顔は悪くなかったし、性格もそこそこ。何処にでもいる、普通の女の子でした。俺と詩織が仲良くなったのは、これも清水のお陰でしてね。少しして本人から聞いたんですが、あいつは、詩織がよく一緒にいた女子のことが好きだったらしいんです。
 だから、アイツはよく俺を連れて、彼女たちのグループに話しかけたりからかったり。清水と詩織は同じ中学出身だったそうで、話題には事欠きませんよね。俺はダシにされるために清水に付き合いましたとも。
その、清水が惚れていた女の子はちょっと気が強い系の子だったから、ふざける清水とからかわれて怒るその女の子を、俺と詩織とで宥めるっていうパターンが続いて、お陰で俺らは仲が良くなっていったんです。
 二年に上がって、清水と清水の好きな女の子は別のクラスになりましたが、俺たちは一緒でした。ずっと四人で行動していたから、それが普通になっていたから、ですよね。多分、自惚れではなくて、本当にクラス内で詩織と一番仲良くしていたのは俺だったと思います。女子を含めて。一緒にいるのが当たり前みたいな感じになっていたんですかね。清水達もよく遊びに来るから、あまり二人っきりってことは少なかったんですけれど。
 何時から俺は詩織のことを好きになっていたのか、二年の夏休みが始まるとき、終業式の後、俺から告白して、詩織は受けてくれました。
 そして夏休みは、もう有頂天ですよね。幸せの絶頂。初めての彼女だし、何せ夏休み。そりゃもう三日と置かずに会っていましたよ。街をブラブラするだけのデートや、四人で海に行ったり祭りに行ったり花火大会見に行ったり。また会おう、明日は大丈夫か、明後日は?  そんな風に別れ際に約束を取り付けて。考えてみれば、それが束縛みたいに感じていたのかな……。
 夏も終わりかけたある日、夕暮れの公園を歩いているとき俺らは初めてキスをしました。その日のことはもうそれだけしか覚えていません。それくらい、強烈なイメージだったんです。
 学校が始まって、俺らは一緒に下校するようになりました。清水と一緒に俺は陸上やっていたから、詩織はいつも待っていてくれて。学校から駅までの短い距離ですけれど、そこはわざと遠回りしたり、ずっと他愛のない雑談をして。人気の無い道ではたまにはキスしてみたりして。
本当に、その時の俺は何もかもが上手く行っていると信じるだけの馬鹿でした。部活があったから、休みはずっとデートって事はさすがにできませんでしたけど。
俺は、それでも、幸せだったんです。本当に。幸せだったんです。
詩織の奴は、どんな気持ちで俺と付き合っていたのか、もう今となってはわからないけど、もしかしたら……後悔していたのかもしれないですね。

 破局はクリスマス間近、のことでした。

2006-05-18 21:07:08

二章/『Night With You』  6

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

  私たちは、知っている様で、実は何も知らない。
 言わなくても当然ではあるのだけれど、見えている事と知っている事は全く意味が違う。
 例えば、あなたは自分の父親のことをどれだけ知っていますか?  
 インタビューされて私は絶句した。マイクを向けられて硬直する。インタビュアーは諒だった。
 名前、知っている。誕生日と年齢、もしかしたら知らないという人もいるかも知れない。母親との馴れ初めは? 会社の上司が勧めた見合いであると、本人に聞いたことがある。
 子供の頃、父は何に夢中になっている人でしたか?  ……知らない。
 父が一番好きなことはなんですか? ……いつも野球を見ているけど、何処のファンなのかはよく知らない。それが、一番好きなことなのかは知らない。
 父の最近の趣味は?  知らない。
 父が、これまでの人生で一番辛いと思ったときのことを知っていますか?  ……知らない。
 では、一番嬉しいと思ったときのことは?  悲しいと思ったときのことは?
 知らない、知らない、知らないだらけ。ちょっと、裏側をほじくるような質問をされるともう無理だ。知らないことでいっぱいだ。一緒に暮していた頃ならともかく、私は今一人暮らしだ。もう、年に何度も会わない生活をずっと続けている。本当に、何も知らないのだ。
 自分の両親でさえこの始末。祖父母となればもう「知っている」なんて答えることはできない。自分の根源であるというのに、私は、私たちは、友人のことよりも知らないでいるなんて。
「お前、何にも知らないじゃん。そんなんでよく俺の彼女だとかいってられるよな」
 諒がせせら笑って背を向けた。
「俺に子どもができるまで、知らなかったしナァー?」
  それはあなたがッ……。
 去り往く背中に声をかけようとしたら、諒はもうどこにもいなかった。影も形も。
 知らない、知らない。 
「お前、何も知らないじゃん」
  モノだって同じだ。免許を持っているから、私は自動車を運転する事はできる。できるが、どうしてアクセルを踏むと自動車が走り出すのかその仕組みを私は知らない。
  電車が走るのはどんな仕組みなのだろう。コンビニにお菓子が並んでいるのはどうして。流通の仕組みは? モノを食べて美味しいと感じる仕組みは?  花が育つのはどうして?  夜が来るのは何故。
  知っていること、知らないこと。分かること、判らないこと。敢えて目を逸らしたモノ、知らないとすら気が付かずに見過ごしている不思議、そこらに隠れている疑問、疑問、疑問。
  その全てに疑問を持っていてはきりがないから、それはわかる人たちに任せておこう。そうすれば私はアクセルを踏んで車でお出かけできるのだから。
 そして私は独りになる。
 どろどろに溶けてしまったアスファルトが冷たくて、私は歩き出したのに、不自然なくらいに白い空に静が「雪だね」とどこかを向いて言った。気が付けば私は高校の教室にいる。隣の教室では美貴と清水が体をぶつけ合っているハズだ。精の出ること。 
  悪づいても静は答えてくれない。じっとどこかを見ながら、ただそこにいるだけだ。
「静」
 話しかけると、首を振って否定された。
「俺の名前は八咫ですよ。……俺のこと、何か知ってますか?」
 聞かれたので、首を振った。
「……なんにも」
 ため息を吐いたら、眼が覚めた。



2006-05-17 20:54:05

二章/『Night With You』 5

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

「ガキのころは完全に名前負けしていましたけれどね。騒々しくって。改名しなさいって先生に怒られたことがある」
 肩を竦めて、八咫は――静は、微笑んだ。そうなのか、ちょっと、今の彼からは想像できないなぁ。
でも。
「じゃあ、あの八咫って、どういう理由で……?」
 少し迷うように視線を彷徨わせて、彼は紅茶を啜った。
「始めは、インターネットのハンドルネームで使い出したんです。別に静をまんま使うのでも良かったんですが、なんていうか、その……」
 少し自分の心の中を探るような顔つきを見せて、彼は続ける。
「別の人間になりたかったのかなぁ」
 そこで、言葉が切れた。再び、何かを探り出そうとしながら口を開く。
「ホントのところは自分でもよく判らないんです。あの頃の俺は、本当に自分がイヤで嫌で、出来ることなら別の人間になりたかった。できれば、全部捨てたかったと思っていて……」
 自分を、捨てたかった。
 自分を、変えたいのではなくて。
「ガキの戯言なんですが、ね。所詮は。自分は自分以外の何ものにもなれない事くらい、今はもう知っています。それで、ですよ」
 八咫、と名乗ったのだという。
「別にネットをしなければしないでも良かったけれど、多少興味がなかったと言えば嘘だし、書き込みしようとすれば名前がいる。匿名性の高いインターネットなら、自分以外の何かになれる……というより、演じることができる。もっとも、それで選んだ名前が八咫っていうのも、末期的ではありますけれどね」
「……そんなに、悪い意味なの? その八咫って」
「いや、そんなことは無いですけど。ちょっと、人の名前から借りてきているものですから」
……借り物。
なんとなく気が付いた。 
「その、貸してくれた人って、もしかして清水さんと共通の知り合いかしら」
 静は、少し驚いた後で、首肯した。
「どうして、知っているんですか?」
 私は、静が八咫と名乗ったときの清水の反応を教えてあげた。あの、一瞬の表情の変化。
「……あいつとはもう高校の頃からだから、ざっと五年くらいの付き合いですかね」
 ずっと仲良かったからあいつ、全部、知っているんですよ。ネットで俺が八咫と名乗っているのも、その理由も。
「全部って……聞いて、いいのかしら?」
 すると、静は名前の通りしずかに笑って、昨日はあなたが話してくれましたから、と言って、口を開いた。
「そもそも、八咫っていうのは、当時付き合っていた俺の、彼女の、子どもの名前なんですけど」
「子ども」
こども。
そう言われて、私の胸に去来したのは諒とその彼女の子どものことだった。その彼女はきっと当時私と同じ年頃の女性。外見的特徴も何も聞いていないのにしっとりとしたロングの黒髪で、和服の似合いそうな美人だ。きっと、静の当時の彼女もそんな大人の女性だったに違いない。胸に抱いているのは、まだ髪も生え揃っていない小さな子ども――八咫。
少なくとも高校生ではないだろうと思ったのだが。
「彼女っていうのが、一年のころから仲の良かった同級生で」
 ……違ってた。最近なんだか、激しく妄想する癖がついてしまっている気がする。
「どうかしました、若葉さん」
「いや、いいの。続けて」
「その……彼女は、詩織というんですが、詩織は事故に遭って死んでしまって」
――え。
 事故で。
「そのときの検死の結果、妊娠していたことが判って……ああ、あまり人に話したことなんかないから話が混乱してますね……。ちょっと順を追って、最初から話します」
 死んだ。
 話題のいきなりの変化に、私は彼の顔を凝視した。
 死んだ? 妊娠? 学生……だったんだよね。そんな。
正面に座る、静は、視線をマグカップに置いている。こっちの方を見てはいなかったが、彼の目に映っているのは、揺らぐ紅茶の紅い水面ではないだろう。ずっと前の、今ではない、高校時代の、いつか。
室内の気温が、少し下がった気がする。
 そして静は、ゆっくりと、順を追って、彼の高校時代の話を始めた。
 静と、詩織さんの、高校のときの話を。


Amebaおすすめキーワード

    アメーバに会員登録して、ブログをつくろう! powered by Ameba (アメーバ)|ブログを中心とした登録無料サイト