四章/『Balloon Explode』 7
テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』
それからさらに三十分ほど、細々としたやり取りを私たちは交わした。諒の行きそうなところだとか、共通の友人や知人などについて。彼の交友範囲。いろいろなことを笹目刑事の、やんわりと「さあ、話してくれるかしら」というような口調に諭されるようにして聞かれて、私はもう何も隠し立てすることなく答えていった。
「じゃ、今回はこんなところかしらね」
そういって二人は席を立った。私は二人を見送るため、玄関まで付いて行った。
「ご協力、ありがとうございます」
と敬礼して、青木刑事は先に出ていった。玄関口には、パンプスを履いた笹目刑事とスリッパを履いた私が残る。
「ねえ」
「……何か、まだ」
「その、顔」
それだけで彼女が何を言いたいのか察しはついた。青年男子に何度も殴りつけられて、女性が左手一本で身を守れる訳がない。バスルームで確認したとおり、私の顔の左頬には、大きなアザができてしまっていた。一週間ほどで消えるだろうが、その間は絆創膏でも貼らないと仕方がないだろう。白粉で塗りたくらない限り、化粧では隠せそうにない。
「高内にされたのだったら、傷害罪で訴えることもできるけれど……」
言葉の裏側に隠された、気遣わしげな思いが感じられる。おそらくは薄々と、笹目刑事は私が何をされたのか、殴られただけではない事を察しているのだろう。多分正確に。
「……別に、いいんです。大したことではないから」
これで私が純潔を散らされたというのであれば、あるいはヒステリックに部屋に閉じ籠もってしまうという展開も在り得たのだろうが、残念ながら私はそこまで清い体ではない。殻に閉じ篭ってしまうほどには、私は純粋でもなければ弱くも強くもない。
そりゃ勿論、ショックだった。できることなら、嘘であって欲しい。嫌な夢であって欲しい。でも嘘でも夢でもないことを、私は知っていた。私の体は傷つけられ、心を痛めつけられたのだ。私には確かに、アイツを訴え、法に拠って裁きを下して貰う権利があるだろう。
だが、同時に、その権利を放棄する権利も与えられているのだ。私は放棄する権利を行使する。
「いいの?」
気遣わしげに笹目さんが聞いてきた。私は頷く。
「もう、私は諒に何も求める気はありません。あいつが捕まろうと無事に逃げおおせようと……」
とそこまで言って、私は目の前にいる人物が、当の諒を追いかける刑事であることを思い出した。ごめんなさい、と失言を謝罪すると、笹目さんは笑って先を促した。
「とにかく、もうアイツがどうなったって、私は知りません。私が訴え出ないのは、諒に対する同情などではなくて、諒を見捨てたから。完全な無関心ってことなんです。私の訴え出る出ないで刑が重くなろうと軽く済もうと、どうでもいいんです。私が諒に求めるのは、私にこれ以上の関わりを持たないこと」
「……もし、いつか彼がここに戻ってきたら」
「そのときこそ、アイツを暴行罪で訴えます。諒を捕まえたら、彼に伝えてください。私は、あなたと二度と関わる気はない、と」
「わかったわ」
そして笹目刑事はバックからメモ帳を取り出してペンを走らせたあと、そのページを千切って私に差し出した。携帯電話の番号が書かれている。
「何かあったらここに連絡ちょうだい。こう見えても、わたし結構強いの。柔道と合気道は段持ちなのよ? 飛んで駆けつけてあげる」
そう言われて、私は思わず彼女が、そのふわふわとした雰囲気のまま、ウルトラマンのように空を飛ぶシーンを思い浮かべてしまった。笑みがこぼれる。
「それでは、捜査のご協力、感謝いたします」
最後だけは刑事らしく、びしりと敬礼を決めて、彼女は背後にあったドアから出て行った。向こうからドアノブを掴んでゆっくりと閉めて行ってくれたからだろう。あの、何かを断ち切る重苦しい音は聞えなかった。
来客が辞して、一人きりなった部屋は静まり返っていた。私は寝室でベッドに横になる。最近になって気が付いたのだが、こういうときに部屋の色調が殆ど白一色だといただけない。気分が平坦に平坦に、どこまでも真っ平らになってしまう。海の中をゆっくりと沈んでいって、ふんわりと、心が海底に積もった塵芥に軟着陸する感じ。薄いグリーンの布団の中に潜り込んでうつ伏せになり、反対側の何も飾られていない広く白い壁を見詰めていたら思わず息を止めてしまっていた。
今日だけで何度目かも、もはや見当がつかないほど繰り返したため息をつく。ため息のたびに幸せが逃げていくというのであれば、私は今朝までに、一生分の幸福を取り逃がしてしまったことになるだろう。そのまま肺を絞るかのようにして、限界まで息を吐いて、息を止める。体の中の酸素があっという間に使い果たされ、我慢しきれずに口を開いて空気を吸った。大きく大きく、息を吸った。繰り返しているうちに呼吸はまどろみを誘い、私はゆっくりと、何も考える必要のない世界へ沈み込んで行った。






