2006-06-19 20:45:50

四章/『Balloon Explode』 7

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

 

  それからさらに三十分ほど、細々としたやり取りを私たちは交わした。諒の行きそうなところだとか、共通の友人や知人などについて。彼の交友範囲。いろいろなことを笹目刑事の、やんわりと「さあ、話してくれるかしら」というような口調に諭されるようにして聞かれて、私はもう何も隠し立てすることなく答えていった。
「じゃ、今回はこんなところかしらね」
 そういって二人は席を立った。私は二人を見送るため、玄関まで付いて行った。
「ご協力、ありがとうございます」 
 と敬礼して、青木刑事は先に出ていった。玄関口には、パンプスを履いた笹目刑事とスリッパを履いた私が残る。
「ねえ」
「……何か、まだ」
「その、顔」
 それだけで彼女が何を言いたいのか察しはついた。青年男子に何度も殴りつけられて、女性が左手一本で身を守れる訳がない。バスルームで確認したとおり、私の顔の左頬には、大きなアザができてしまっていた。一週間ほどで消えるだろうが、その間は絆創膏でも貼らないと仕方がないだろう。白粉で塗りたくらない限り、化粧では隠せそうにない。
「高内にされたのだったら、傷害罪で訴えることもできるけれど……」
 言葉の裏側に隠された、気遣わしげな思いが感じられる。おそらくは薄々と、笹目刑事は私が何をされたのか、殴られただけではない事を察しているのだろう。多分正確に。
「……別に、いいんです。大したことではないから」
 これで私が純潔を散らされたというのであれば、あるいはヒステリックに部屋に閉じ籠もってしまうという展開も在り得たのだろうが、残念ながら私はそこまで清い体ではない。殻に閉じ篭ってしまうほどには、私は純粋でもなければ弱くも強くもない。
  そりゃ勿論、ショックだった。できることなら、嘘であって欲しい。嫌な夢であって欲しい。でも嘘でも夢でもないことを、私は知っていた。私の体は傷つけられ、心を痛めつけられたのだ。私には確かに、アイツを訴え、法に拠って裁きを下して貰う権利があるだろう。
 だが、同時に、その権利を放棄する権利も与えられているのだ。私は放棄する権利を行使する。
「いいの?」
 気遣わしげに笹目さんが聞いてきた。私は頷く。
「もう、私は諒に何も求める気はありません。あいつが捕まろうと無事に逃げおおせようと……」
 とそこまで言って、私は目の前にいる人物が、当の諒を追いかける刑事であることを思い出した。ごめんなさい、と失言を謝罪すると、笹目さんは笑って先を促した。
「とにかく、もうアイツがどうなったって、私は知りません。私が訴え出ないのは、諒に対する同情などではなくて、諒を見捨てたから。完全な無関心ってことなんです。私の訴え出る出ないで刑が重くなろうと軽く済もうと、どうでもいいんです。私が諒に求めるのは、私にこれ以上の関わりを持たないこと」
「……もし、いつか彼がここに戻ってきたら」
「そのときこそ、アイツを暴行罪で訴えます。諒を捕まえたら、彼に伝えてください。私は、あなたと二度と関わる気はない、と」
「わかったわ」
 そして笹目刑事はバックからメモ帳を取り出してペンを走らせたあと、そのページを千切って私に差し出した。携帯電話の番号が書かれている。
「何かあったらここに連絡ちょうだい。こう見えても、わたし結構強いの。柔道と合気道は段持ちなのよ? 飛んで駆けつけてあげる」
 そう言われて、私は思わず彼女が、そのふわふわとした雰囲気のまま、ウルトラマンのように空を飛ぶシーンを思い浮かべてしまった。笑みがこぼれる。
「それでは、捜査のご協力、感謝いたします」
 最後だけは刑事らしく、びしりと敬礼を決めて、彼女は背後にあったドアから出て行った。向こうからドアノブを掴んでゆっくりと閉めて行ってくれたからだろう。あの、何かを断ち切る重苦しい音は聞えなかった。



  来客が辞して、一人きりなった部屋は静まり返っていた。私は寝室でベッドに横になる。最近になって気が付いたのだが、こういうときに部屋の色調が殆ど白一色だといただけない。気分が平坦に平坦に、どこまでも真っ平らになってしまう。海の中をゆっくりと沈んでいって、ふんわりと、心が海底に積もった塵芥に軟着陸する感じ。薄いグリーンの布団の中に潜り込んでうつ伏せになり、反対側の何も飾られていない広く白い壁を見詰めていたら思わず息を止めてしまっていた。
 今日だけで何度目かも、もはや見当がつかないほど繰り返したため息をつく。ため息のたびに幸せが逃げていくというのであれば、私は今朝までに、一生分の幸福を取り逃がしてしまったことになるだろう。そのまま肺を絞るかのようにして、限界まで息を吐いて、息を止める。体の中の酸素があっという間に使い果たされ、我慢しきれずに口を開いて空気を吸った。大きく大きく、息を吸った。繰り返しているうちに呼吸はまどろみを誘い、私はゆっくりと、何も考える必要のない世界へ沈み込んで行った。



2006-06-17 23:26:58

四章/『Balloon Explode』 6

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

 

  翌朝九時ちょうどに、再び仕事を休んだ私の部屋に来客があった。昨日の晩駅で声をかけてきた青木という刑事。彼は一歩後ろに控えていて、前に立っているのは、四十代半ばの、女性だった。ふわふわのパーマをかけた、微笑んだ顔がとても優しい女性だ。
  私よりも頭一つ分低い、笹目と名乗る彼女。本人が刑事と名乗らねば、あるいはこんな事態で出会うことがなければ、私はきっと無条件で保育園の先生かそれに類する仕事をされている方だろうと思うに違いない。
  青木刑事は私の顔を見た途端、一瞬眉をひそめた。そんなにすごい顔をしているだろうか、私。……すごいことになっているんだろうなぁ。
 彼女らをリビングに通して人数分のコーヒーを淹れた後、私は向かい合う席についてため息をついた。彼女らが来たのは他でもない、私が呼んだからで、その理由は諒の件以外にない。
「ではあなたは、青木に知らされるまで高内諒が犯罪を犯したのだと、知らなかったのですね」
  幾つかの質問がされて私がどこか力無く答える。そんなやり取りを十分も続けただろうか。笹目刑事はそう確認してきた。責めるのではなく、やんわりとした優しい言い方だ。
 私は、首肯する。諒が犯罪に関わっていただなんて、昨日の晩初めて知ったのだ。これは紛れも無い事実だった。諒は突然やって来て、結局最後まで自らの口からは来訪の理由も目的も教えてくれようとはしなかった。私は静に諒が来ている事を隠し、その後ろめたさもあってなるだけ諒に近づこうとはしなかった。
「あなたが、青木に高内諒の居場所を知らないといったのは、どうして」
「咄嗟に、出た嘘でした。まさか幾らなんでも、と思って。何かの間違いだろうと。もし本当なら」
「自首を勧めようと?」
 私は曖昧に頷いた。頷いた後で、そうだっただろうか、とも思う。あの時は、とにかく本人に確認することしか頭になかった。半ば混乱して、思考の方向が狭くなっていたのだ。
「……。そういえば」
 私は、諒の関わった事件というものの、具体的な内容をまだ聞いていなかった。昨晩のこともあって調べる気にもならなかった。結局、一睡もしていないのだったけれど、何かをしようとする気は起きなかったから。
  私が問うと、笹目さんは少し間を置いてから答えてくれた。
「どうせ、調べれば簡単にわかることだから」
 と一言置いて語ったのは、諒が現在同棲している女性に酷い怪我をさせたらしい、ということだった。
「後頭部を強く打って、現在も意識不明の重態なの」
「そんな」
「第一発見者は当日の夕方に部屋に遊びに来た、被害者の友人の女性ね。約束の時間にやってきて、鍵が開いているのに呼んでも誰も出ない。入ってみたら、被害者が倒れているのを見て慌てて一一九番通報した、と」
「部屋の中を物色した形跡は無いため、強盗の線は、まあ薄いと思われる。隣室の住人が言い争いのような声を聞いていることと被害者の後頭部傷跡から推測するに、被害者女性は高内諒と喧嘩し、突き飛ばされたか何かの拍子に後頭部を打った。動かなくなった被害者を見て、怖くなって高内は逃げ出してしまった。まぁ大体そんなところだろうというのが我々の見解だ。ま、真相を知っているのは当事者二人だけなので断定はできない。まぁ、実は自分で転んだだけという可能性も残っているからな」
 笹目さんの言葉を継いで、青木刑事が補足してくれた。
「……そうですか……」
 被害者の女性には気の毒なことではあるが、諒に明確な殺意や害意があったのでなければ、もしかしたらそう大きな罪にはならないかもしれない。
  諒の罪が軽くあって欲しいのかどうか、私にも今の自分の心は判断しかねる。複雑な気分だった。
「それだけなら、大したことないかも知れないんだけれどね。事件にはならず示談で済むかもしれないわ。けれど、万が一、このまま被害者が目を覚まさなかったり、あるいは身体のどこかに障害でも残ったりしたら、ちょっと洒落にならない事になるかもね」
 打った箇所が頭だ。その可能性は、充分に考えられる。
  笹目さんがため息をついて、私は視線を泳がせる。つまり、あの男に対する刑罰を重く、と願うことは、即ち被害者の症状悪化を願うことなのだ。
  逃げた男は、いまどこにいるのだろう。部屋に重く苦い沈黙が満ちた。



2006-06-16 21:39:34

四章/『Balloon Explode』 5

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

  長い長いトンネルの中を、歩いているかのような。煌々と人工の灯りに照らされながら、心だけは真っ暗闇の中に置き去りにしてひたすら我慢しているうちに、コトは終わった。男が体を震わせて、私の中に精を放ったのだ。私はもう何も感じなかった。放心して虚ろな視線を宙に彷徨わせる。ただ、擦り切れた粘膜のひりつくような痛みを、まるで他人ごとのように思っていた。
  自分が能面のような顔をしているのがわかる。その能面の瞳が、私の上に覆いかぶさっている人を見やる。激しく体を動かして息切れした男と、私の視線がぶつかった。交錯は一瞬。どこかに怯えを含んだ視線、それを恥じ入るかのように暴力によって精神的優位を回復しようと、男は散々張った私の頬を、また叩いた。
  私は、微笑を浮かべた。きっと普段の私がその笑みを見たら後ずさりして逃げ出すだろう。その視線と、男の視線が交わる。現在の体勢とは全く逆で、どちらの立場が上なのかは、傍から見ていても明らかだった。
「出て、行って」
 私を暴力で以っても従え得なかった男は、立って衣服を整えると、ハンガーに掛けてあった上着とテーブルの上の小物をかき集めて、そそくさと出て行った。
 いつだったか耳にしたのと、同じ金属音が響き渡る。
 五分ほどもそのままでいただろうか。室温のあまりの低さに、私は寒さを覚えた。当たり前だ。下半身丸出しで、寒くないわけが無い。起き上がろうと体を動かすと、捻り上げられた右肩と殴られた腹部と顔、無理矢理に入って来られた膣の四箇所が四種類の痛みを生み、私は呻いた。イヤ、本当に痛かったのは殴られたことではない。裏切られたことでも、レイプされたことでもなかった。男の見る目の無い自分でも、傷つけられた自分でも、あの時警察に本当のことを言わなかった自分でもない。それらはとても痛いのだけれど、ある意味ではとても些細なこと。
 全体で悲鳴を上げる身体を無理矢理起こして、衣服を整えた後、私は受話器を取った。迷わずに一一〇をプッシュする。
 痛いのは心だった。原因はあの男なのだけれど、あの男こそが原因なのだけれど、それだけではなかった。それ以外に原因なんて考えられないはずなのに。とにかく心が痛いのだった。心が痛くて痛くて、とても痛くて。
 コール音に待たされたのはホンの一、二秒。相手が名乗るのにかぶせて、私は高内諒と言う男が、たった今、この部屋を出て行ったことを告げた。
電話口で、誰かが何かを言っている。私はもはや上の空で受け答えをしていた。心を占めるのは一つのこと。
  会いたいよ、静。
  電話を切って、私はすぐにシャワーを浴びた。深夜だというのに、そんなことは知ったことではない。飛び上がるほど冷たい水を頭からざぶざぶと浴びて、身体の芯から凍えそうになったころになってやっとガス給湯器がその役目を全うしだした。蛇口を捻って水量と水温を調節する。少し熱めのお湯を浴びていると収縮した毛細血管が広がって、真っ青になっていた肌が赤みを帯び出す。
  安全日ではあったが、念のためにも、私は人指し指を折って爪が粘膜を傷つけないように注意しながら、体の中から精液を引っかき出した。不快なぬめりが指に纏わりつく。指を洗っては同じ行為を何度か繰り返し、できる限り白濁の残滓を取り除いた。後はもう自らの幸運を祈るしかない。
  失われた体温が取り戻されるに従って、腹と顔の殴られた痕が疼きだす。捻られた肩は大したことは無さそうだったが、バスルームの鏡に映した左頬と脇腹には大きな痣ができていた。
  体中を泡だらけにして、何度も何度もスポンジで身体をこする。熱いお湯を浴びて泡を流しては、再びボディーソープを身体に擦り付けた。
  静、静。
  何度目かに体中のシャボン玉を流しながら、たまらずに私はバスルームの床に蹲る。心地のよい熱さに調整された雨が降る中で、私は嗚咽を噛み殺した。我慢しても涙が溢れてくる。
  静の名前を呼んだ。誰も答えては、くれなかった。
  ……今の私のこと、静は……。
  詩織さんの行為を裏切りと、寂しそうに言い放った静。彼は、私の身に起こったことをどう思うだろうか。
  私、静に会う資格なくしちゃったかもしれない……。
  そう思って、私は再び涙を流した。どれだけ涙を流しても、シャワーが洗い流して、床に溜まっていくことすらなかった。



2006-06-08 08:48:36

四章/『Balloon Explode』 4

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

「何よ」
「……ッ」
 諒はうろたえたようだった。付き合っていた間、私たちが真っ向から対立したことなんて、殆どなかった。いつも私が引いていたからだ。
「手、離して」
 諒の視線に、怒気が溢れた。目に見えてイラついているのがわかる。今まで通用していた方法が使えなくなったと気が付いたのだろう。
「聞えなかった? 手、離して頂戴」
「――……ッ」
「手を離したら、そのまま出て行って。でないと通報するわ」
 次の瞬間、渇いた音とともに左の頬に衝撃が走った。次の瞬間、私は諒に引っ叩かれたことを悟った。
「てめえ」
「何よ」
 苛立ちとともに、諒が睨みつける。私は、それを見てなおさら冷静になっていくのを感じた。頭の芯が、澄んだ音を立てて冷えていく。私のことを思い通りにできないから、なおさら諒は怒りが募るのだ。
 歯を食い縛るようにして、諒は私を睨みつけた。空いている右手を振るって、二度三度と私の顔といわず頭といわず、所構わず引っ叩いてくる。最初は手加減していたのが、段々と本気で力が込められ始めた。
なんて奴だ。痛い。幾ら喧嘩とはいえ、女性の顔を叩いてくるなんて。私が左手で顔を庇いながら丸くなり、それでも必死で、悲鳴を堪えていると、思いっきり体重を掛けられてソファに押し倒された。
「――ちょっ……」
 ヤバイ、と思ったときには彼は既に私の上に圧し掛かっていた。しまった、幾らなんでも、男一人の体重を押しのけるような真似、できるわけが無い。そして、次の瞬間。
「……ッ」
 思いっきり、一切の手加減無しで、私はお腹を殴りつけられた。思わず腹に手をやると、硬い拳骨が顔面を襲った。一瞬見えた諒は、怒りに我を忘れているようだった。
  痛みでちかちかする頭の片隅、どうしてか私はふと思った。諒は、なぜこんなに怒っているのだろう。幾ら怒っても私が思い通りにならないから? それとも、出て行けといったから? 警察に追われているという今の状況が不本意だからだろうか。
  どうでもいい。痛みに涙を浮かべ、私に圧し掛かる男を見る。お腹を押さえて体を句の字に折る私の、捲れたスカートの裾から手を突っ込んでショーツに手を掛けた。無理矢理に犯せば、大人しくなるとでも思ったのだろうか。いつだったか、諒が薄っぺらに感じたことがあったが、今は怒りで限界まで膨らんだ風船のように見えた。
  空っぽの人。
  諒と目が合う。精一杯の強がりに、私は侮蔑とともに諒を鼻で笑ってやった。怒りに顔を赤くして、セーターを掴んで捲り上げようとする。
  吐き気がするほどイヤだった。がむしゃらに体を動かし、じたばたともがいて抵抗する。更に諒は顔といわず体といわず、私を殴りつけた。掴まれたままの腕を捻りあげられ、私は小さな悲鳴を漏らす。それが、最後の抵抗だった。


2006-06-03 22:02:43

四章/『Balloon Explode』 3

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

「関係ないのはわかっているわよッ」
 諒から引っぺがした毛布を叩きつける。柔らかい塊を至近距離から受けて彼はひっくり返った。
「あなたが、私から離れて勝手にやったことでしょう! 関係ないに決まっているじゃない! 私は全く関係ないわよ。ここに逃げ込んで巻き込んだのはアンタでしょうが!」
 それを、言うに事欠いて関係無いだと? 
「自分勝手にもほどがあるわよ!  出てって。今すぐ出て行って!」
何度も何度も毛布を掴んでは、諒に叩きつけた。
「ちょっ、どわっ、まて、待て、落ち着けップ」
「ほんとに、もういい加減にして。出て行って。あなたのそんな身勝手な部分、大ッ嫌いだからッ。出て行って。二度と私の前に姿を」
 毛布を思いっきり叩きつけようと、大きく振りかぶった腕を掴まれた。
「放しっ」
「……ってぇ。毛布でも叩きつけられれば結構痛いもんだな」
 掴まれた右の手首が、更に締め付けられる。身を起こした諒は、既に王様モードに入っていた。いや、独裁者、と言うべきか。怒りを滾らせた目で、私を睨みつける。思えば、諒と付き合っていた三年間、私はこの瞳に支配され続けていたのだ。私は恋人という名の所有物だった。諒の我が侭に付き合う自分に酔っていたという部分は少なからずある。
 でも、もう違う。私は捨てられることで、私になったのだ。諒はもう私の恋人などではないのだ。時々構ってくれる気まぐれなご主人様に、鼻を鳴らして体を摺り寄せる子犬のような私じゃない。
 そして、私はその視線を受けて、頭に上った血が降りて来て、一気に芯まで冷えたかのように冷静になった。今、私を支配するのは私の意志だ。私は微塵たりとも心を揺るがすことなく、それどころかより一層力強く真っ向から諒の視線を受けた。
「何よ」
「……ッ」
 諒はうろたえたようだった。付き合っていた間、私たちが真っ向から対立したことなんて、殆どなかった。いつも私が引いていたからだ。
「手、離して」
 諒の視線に、怒気が溢れた。目に見えてイラついているのがわかる。今まで通用していた方法が使えなくなったと気が付いたのだろう。
「聞えなかった? 手、離して頂戴」
「――……ッ」
「手を離したら、そのまま出て行って。でないと通報するわ」
 次の瞬間、渇いた音とともに左の頬に衝撃が走った。次の瞬間、私は諒に引っ叩かれたことを悟った。
「てめえ」
「何よ」
 苛立ちとともに、諒が睨みつける。

2006-06-02 21:11:22

四章/『Balloon Explode』 2

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

  ドアを開けると鍵を掛けることさえせず、私はどすどすと廊下を通った。バン、と乱暴にリビングの戸を開く。
「諒、諒!」
 見れば彼は電気を消したリビングのソファで寝ていた。私が貸した毛布に包まって。明かりをつけて毛布を引っぺがして、私は諒を叩き起こした。
「あなた、一体何したの。ついさっき、駅で警察の人に事情聴取されたわよ!」
 その一言で、寝ぼけた顔が一気に凍りついた。
「……おまえ、まさか」
「言っていないわよ、あなたが部屋にいるだなんて。どういうこと、説明してよ。何があったのよ。あなた何したの」
  諒は無言だった。それは肯定したも同然の態度だった。駅からここまで、内心で駆け出したい気持ちを抑えて冷静にゆっくりと歩いて帰ってくるまでの間、ずっと何かの間違いだと思っていたのに。
  沈黙。諒は答えない。
「……説明したくないのなら、今すぐ出て行って。いやなら警察呼ぶから」
 さっきの男は、青木茂と名乗った。南警察署の刑事で、ある傷害事件を担当しているのだという。
  ――その事件に、高内諒という男性が関わっている可能性がありまして。まぁあくまで可能性、の話ですが。
 青木刑事はそう言った。諒が、傷害事件に?
 ――現在彼の行方を捜索中なのですが。まぁ、もしかしたらあなたに頼ってきてはいないか、と。何か心当たりは。
  ――……いえ、何も……。ご存知かも知れませんが、私たちは既に別れているんです。それ以来、一度も会っていなければ連絡すら取っていません。
  咄嗟に出た嘘だった。今部屋にいるのだ、とそういえば良い。そうするべきだ、と判ってはいたのだが、そのときはそこまで頭が回らなかった。どうして吐いたのか自分でもわからない嘘を、ごり押しして私は逃げるようにしてその場を後にした。冷静に振舞ったつもりだが正直な話、自信は全くない。刑事という、ある意味では人間観察の専門職のような人の目を誤魔化せるとは思えない。
  あれは、殆どアタリをつけて私のところにやってきたのだ。とっくに私の部屋の位置までバレているに決まっている。もしかしたら、ここ数日見張られていた可能性だってあるのだ。
「だから、なのね。ずっとカーテンを閉め切って、私が帰ってくるまでずっと部屋の灯りをつけなかったのも、隠れていたから……」
  沈黙は肯定の証だった。間違いない、諒は、青木刑事が言っていた傷害事件の、参考人なのだ。あるいは犯人なのかもしれない。
「教えて。あなた、何をしたの」
 諒は視線を逸らして、答えた。
「……ッ。お前には関係ねぇよ」
 ――カァッ、と音を立てて血液が逆流して行くのを感じる。一気に顔が紅潮した。
「関係ないのはわかっているわよッ」

2006-06-01 20:44:25

四章/『Balloon Explode』 1

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

  三日が過ぎた。
  季節は雨とともに移ろう、というのが先週からの私の持論だ。静が教えてくれた。意識してみればなるほど、昨日の雨のせいか、確かに今日は一昨日よりも少し冷えこむようで、だとすれば、季節はいつの間にかまた一歩冬になったわけだ。
(冬になる、か)
 冬が来る、という表現よりも適切な気がする。しっくりとくる。
  ゴゴン、ゴゴンという定期的に響く音は私の乗る電車の走行音。車内はそれほどこんではいないから、四人掛けの席に一人で座ることができた。腕時計を見れば、時刻は九時少し前。後五分ほどで、この電車は静の利用する駅を通過するはずだった。窓の向こうは暗く、そしてビルのネオンや灯りが目に付いてなんだか雑然として汚く見える。
  相変わらずメールは交わしているのだけれど、あれから、静とは会っていない。たった三日のことだけれど。
「会いたいな……」
 呟きは誰の心にも届くことなく、空気に溶けてどこかへ流れて消えた。


  諒は、相変わらず部屋から出ずに一日中テレビを見ているようだった。毎日カーテンを閉め切った薄暗いリビングで。暗に何度も出て行けといったのだけれど、彼は聞かなかった。元彼がやって来て、部屋に居座っている。こんなこと静には言えない。回りまわって静の耳に入ることを恐れて、美貴にも知らせてはいなかった。
  時刻は午後九時を回り、駅の改札を出た私は少しだけ迷った。このまままっすぐ帰ろうか、それとも引き返して静の部屋に行こうか。正直、諒とは会いたくない。
  僅かな時間だけ歩を止め、やはりまた歩き出す。諒から逃げることもまたイヤだった。諒との事は私と諒の間で決着を付けるべきなのだから、静に頼るのは違うのではないかと思う。
  勿論、私はいざとなれば静を助けてやりたいと思う。だからこそ詩織さんのことで傷ついた静を慰めてやりたいと思う。そしていざという時、静に助けてもらいたいと思う。私が辛いときに、静に優しくして欲しいと思う。でも、違うのだ。これはそれとは、違うのだ。二人で慰めあった結果、自分の足で立ち上がれなくなるなんて嫌だ。
  この三日、私と諒は冷戦状態だった。私が仕事に出ているため、実際にともにしている時間は僅かなものだったが、そろそろ限界だと思う。
 私が何を聞いても、諒は生返事しかしない。余っている毛布を被ってリビングに寝泊りしている。唯一、寝室にだけは立ち入ろうとしないのが救いではあるのだが、もうそんなこといっていられない。今夜こそは事態を進展させてやる。
「ちょっと、いいかな」
「え」
  気合を入れて歩き出した私の前に、翌日、茶色いトレンチコート姿の男が寄って来た。厳つい顔の、四十台のがっしりとした体格。ひゅう、と音を立ててつむじ風が吹き通った。
「えー、あなたが井上若葉さん、で間違いはないかな」
「……そう、ですが。何か」
 見た目と違い、彼の態度と口調はとても紳士的で丁寧だ。声色は顔と同様厳ついものだったが。
「私はこういうものなんだが、ちょっと話を聞かせていただきたい。いいかな」
 取り出された物体に、私は息を飲んだ。黒い、手帳サイズの、縦開きの皮の定期入れのようなもの。写真。金色のマーク。実物を見るのは初めてだったが。
「……警察?」
 彼はしずかに頷いた。

2006-05-31 23:36:54

三章 /『What I Want 』 9

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

「……なんで、あなたがここにいるのよ、諒」
 一ヶ月前に出て行った顔だ。私を捨てていった奴だ。それまでは毎日のように顔を突き合わせていた男だ。私を裏切っていた元彼だ。諒、諒、諒! 
 どすどすと音を立ててリビングに踏み込んだ。中は、暗い。彼は灯りもつけず、カーテンまで締め切っていた中で、一人座っていた。
「なんでいまさら顔を出したのよ、どうして」
  テーブルの上にビニール袋を置いて、私は彼を睨みつけた。諒は私のほうを向かず、じっと別のところを見ている。その態度がさらにムカついて、私は彼の目の前に移動した。
「あなた私に酷いことして、終わりにしたんでしょ。どうしてここにいるの。男としての責任はどうなったの」
 諒なら、確かに合鍵を持っている。私が渡したのだから。あれ以来一度も顔を合わせる事も無ければ結局メールすら送っていない。そもそも合鍵の存在自体を忘れていた。
 だけど、だからと言って彼がこの部屋に入り込んでいい道理はない。不法侵入だ。いや、そんなことは問題ではないのだ。それは、重要なことではないのだ。
 なんで、私の中で全て終わった後にのこのことやって来るんだ、この男は……!
「ちょっと、答えてよ、りょ……」
  目が合った。途端に何も言えなくなった。
  愛しさや恋しさが込み上げてきたのではない。そんなもの微塵たりとも湧かなかった。湧いたのは、困惑。
「……諒? どうしたの」
  直感的な何かが私の中に生まれた。何か、あったのか。
  そこで初めて諒が口を開いた。重く、抑揚の乏しい声で。
「……何でもねぇよ。それより、何か食わせてくれないか。昨日から何も食ってねんだわ」
 困惑が、疑念に変わる。
「どうしたの」
  しかし彼はもう答えようとはしなかった。視線を逸らして、またあらぬ方向を見る。何を見ているのだろう。視線の先にあるのはただの白い壁だ。見ているのはもっと別の、ここではない何か。
  でも、静のそれとは似ているようで違う行為だと、直感的に思った。静は忘れ得ない過去をなんとか苦痛と共に抱えようとしていたのに対して、諒のそれは何かから必死に逃げようとしているようだ。何かに心囚われて視線を外せないのは同じなのに、決定的に方向が違う。
「分かったわよ」
 ため息とともに口を吐いて出たのは、意図したものとは別のものだった。本当は、何があったのかを聞こうと思ったのだ。
 私は部屋の電灯を点けると、買い物袋を持って台所へと移動した。ふと振り返って彼を見る。驚いて僅かに息を呑んだ。明るく光に染まった部屋の中で、諒は、私の知っている彼とは思えないほど小さく、今にも萎んでしまいそうに見えたから。


2006-05-30 21:09:10

三章 /『What I Want 』 8

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

 

  私たちは静の案内してくれたラーメン屋に行き、その味を堪能した。静が太鼓判を押しただけあって無茶苦茶美味しかった。私は思わず目を見張ったくらいだ。
  麺はなんてことのない細い縮れ麺だったが、乳白色のとんこつスープがあまりにも美味しかったのだ。一口啜って思わず静の方を見たら、彼は目で答えた。美味しいでしょう、と。私は無言で頷いた。こんなに美味しいとんこつスープを口にしたのは確かにはじめてだ。しつこくない程度にコクがあり、サラリとしていてまろやか。とろけるようなチャーシューと共に味わうと、それだけでお金を払うに値すると思ったほどである。
 そのラーメン屋は彼の大学の近くにあったので、結局街に出ることはしないで大学の構内や近くの公園を回った。彼の通う大学のキャンパスのメインストリートには銀杏の並木が並んでいて、残念ながらもう完全に散ってしまっていたけれど、節くれたその枝の先に見える冬晴れの空と日差しが心地よい。休日の大学は、閑散としていて愁気を誘った。冬を感じる。
 公園で売っていたたこ焼きを、日当たりの良いベンチに並んで頬張りながら、私たちは他愛のないおしゃべりに興じた。彼のことや私のことではなく、もっと普通の世間話が話題だった。あの芸能人がどうのこうの、政治家の問題発言がどうのこうの。見てみたい映画、面白かった小説。時々は話題がなくなって沈黙がおりても、私たちはその雰囲気すらも楽しんでいた。かさかさと音を立てて、足元の落ち葉が風に惑う。今ここだけは、本当に時間が止まっているかのような穏やかな世界だ。
 やがて日が暮れ始め、風が冷たさを増して、私たちは手を繋いで公園を後にした。
「本当に送らなくても?」
 駅の改札で、静はそう言ってきた。私が切符を買おうとする静を押しとどめたのだ。部屋に連れて行きたくない、というのではない。私の部屋と彼の部屋は大学を挟んで逆方向になる。本当は夕食も一緒にしたかったけれど、丸二日同じ服を着ていたこともあって、早く着替えたいという欲求が勝っていた。でもさすがにそんなこと、言えない。乙女心という奴である。
 どことなくしゅん、としている静が可愛くて、私は彼にキスしてやろうかとイタズラ心が芽生えたが、さすがにそれは止めた。人目がありすぎる。
「またメールするわね」
「うん」
 そして私たちは手を振って別れた。帰ったら、速攻でメールしよう。
 

  *


 静と過ごした休日から、二日。
 諒との一件で仕事を休み続けたため、私は毎日忙しく日々を過ごしていた。ここのところようやっと落ち着いてきた位だ。
  ガタンゴトンと揺れる電車の中で、完全に暗くなった窓の外を透かし見ていると、とてもとても居た堪れない気分に陥る。それは都会の電車も田舎の電車であっても変わらない。
  ビルの窓の灯りや、遠くで瞬くネオンの看板。広い広い田畑の、時折ぽつんと見える農家の灯りや、あるいは並んで走る車のライト。そのどれもこれもが、人がそこにいる証であって、どうして明るい電車の中にいる私のほうが切ない思いに駆られねばならないのだろう。
  きっとそれは、あちらにはいっぱい人がいて、こちらの私が一人きりで眺めているからだ。答えは出ているのに不思議で仕方がない。きっとこれからも、電車に乗って窓の向こうに意識をやるたびに、納得の行くくせに理不尽な切なさに囚われるのだろう。
  冷蔵庫の中に碌なものが入っていないので、電車を降りてその足で近所のスーパーに行き買い物をした。深夜まで営業しているから、実に重宝する。近いうちに静を呼んで、一緒に鍋でもつつこうかしら。
  スーパーからさらに歩いて五分、結構な量の荷物を抱えてマンションの階段を登る。築年数が経っているためエレベーターなどという近代設備など存在しないのが玉に瑕なのだ。もっとも、家賃はそれなりに安いし日当たりはいいし私が入る直前にリフォームもされていたらしいので、三階まで階段を登るという苦労をちょっとしたエクササイズだと考えれば、立地等を考えてもかなりいい物件のはずだ。三階一番奥が私の部屋。南側と東側に窓がついている為、リビングはとても明るいのである。
「そういえば、結局リビング片付けたのって、ついこないだだっけ」
 苦笑しながらバッグから鍵を取り出し、キーホールに差し込む。捻るとガチャンと手ごたえがあった。よっこらせ、と言わんばかりに荷物を持って玄関に足を踏み入れると、ぐにゃりと変な感触があった。
 ああ、出しっぱなしにしていたのかな、靴……。
 抱えた荷物から覗き込むようにして、それを目にした瞬間、体が固まった。
「……なんで」
  玄関にスニーカーが脱ぎ散らしてあった。見覚えのある、男物のスニーカー。
  一気に、頭に血が上った。叩きつけるような勢いで壁際のスイッチを入れる。すぐに廊下に灯りが点り、真っ暗なリビングのソファに人影が見えた。シルエットだけだが、見覚えの在る背中。間違いない。
「……なんで、あなたがここにいるのよ、諒」


2006-05-29 21:36:54

三章 /『What I Want 』 7

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

  休みの日に昼まで眠るのは、とても悪甘い誘惑だ。首をめぐらしてテーブルの上の時計を見ると、既に正午を回っていた。カーテンの隙間から差し込んでくる日差しは明るく外が晴れていることを教えてくれていたが、暖かい布団の中以上の魅力は感じられない。特に今日は予定もない。このままずっとここにいたいなぁ、なんて考えてしまう。
 いつの間にか背中向けて丸まっている静の背中にそっと抱きつくと、彼は身じろぎして欠伸した。
「……おはようございます」
「起こしちゃったかしら」
 向きを変えた静は、私の髪を掻き揚げてじっと顔を覗き込んできた。
「どうしたの」
「若葉さん」
「なあに」
「ありがとう」
「……うん」
 そして私たちはキスをした。昨晩の貪りあうような、舌と舌を絡めあうディープなものではない。唇が触れ合うだけの、とてもとても優しいフレンチキス。ただそれだけで私たちは満たされあうことができるのだと知った。
 唇が離れて、私がありがとうと言うと、静は照れてまたキスをしてくれた。それが、少し嬉しい。


 交代でシャワーを浴びて、服を着て。暖房で暖めた部屋に二人遅めの昼食をどうしようかと話をしていると静の携帯が鳴った。メールの着信らしい。
「清水からだ」
 思えば、私と静の関係の始まりは清水と美貴から始まったのである。どうしようもない妄想だけれど、もしあの日、私が間違えて静の携帯電話を持って帰らなかったら、今頃私たちはやっぱりただの他人同士だっただろう。
「美貴さんと、ラブラブデートしているんだって」
「……あー、そりゃまた」
 美貴にしては珍しい。デートまでするなんて。よっぽど気に入ったんだな? 私は自分の携帯を取り出すと、美貴にメールを打った。
『清水くんと仲がいいことでうらやましい限りダワ』
 程なくして美貴から返事が返ってきた。
『でっしょー? でもあげないからね』
 いらないわよ、私には静がいるもの。そう思って、自分でもびっくりした。まさかここまでのめり込みかけているとは。私、自分で思っているより惚れっぽいのだろうか。
「お二人はデートですか。じゃ、俺らもデートに行きますか」
 静が言う。そうね、それがいい。
「私、フランス料理のフルコースって食べたことがないなぁ」
 ととぼけた感じで言ったら、
「そうですね。俺もです。ところで、昨晩は結局割り勘だったし、こないだのお礼で若葉さんが奢ってくれるってことですよね」
 見事に返された。
「……私、美味しいラーメン屋さんってあまり行ったことがないなぁ」
 変なこというんじゃなかった。静は笑って立ち上がった。
「美味しいところにご案内いたしますよ」


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