五章/『Cross road』 10
テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』
苦しそうな声で、武志さんが弟に聞いた。弟は兄に、苦々しそうに答えた。
「どっちが早かったのか、俺は正確には知らない。けど、兄貴が付き合っていたって頃、確かに詩織と静は付き合っていたんだ。……静の言っていることは、全部本当だ」
最後に縋る杖もへし折られて、武志さんの顔が蒼白になった。苦しそうに胸を押さえる。詩織、と彼は呻くようにこの場にはいない、しかし最大の原因を作った女性の名前を呟いた。
誰かがため息をついた。私のものかもしれないし、清水くんのものかもしれない。つむじ風が走って、私は身震いをした。着ているコートの襟を掴んで引き寄せる。いつの間にか再び沈黙が場を支配した。
誰もが誰かが口を開くのを待っている。私とは神妙な面持ちで、清水くんは沈痛な面持ちで。静は表情が乏しくなってしまい、『先輩』を見ている。その瞳は、爛々と怒りに燃えているようであり、遠く詩織さんを睨んでいるようであり、そのくせどこか氷のように冷たかった。見下すような、哀れむかのような。
武志さんはどこか心ここに在らずといった動揺した表情を浮かべている。
「そんな、詩織」
その視線は静の後ろ、静が置いた花束に注がれている。線香の煙が北風に乗って揺らめいて。武志さんは、今、詩織さんと何を話しているのか。
今はともかく昔は詩織さんの事を、本当に愛していたのだろう。短い時間、もう戻らない過去。それでも、詩織さんが武志さんを騙していたのだと知って、武志さんは本当に傷ついたのだ。詩織さんの言葉によって静が傷ついたように、静の言葉によって。
静。
静は、怒気を湛えた瞳で武志さんを睨みつけていた。マグマが火口から溢れ出しそうになっているのがありありとわかる。今まで静が背負い、悩み苦しんでいたもの全てを、どうすればより効果的にぶつける事ができるのか、算段しているようであった。
でも……それはあなたが、本当にしたかったことなの?
詩織さんとの関係に着けるべき決着は、こんな形を望んでいたの?
あなたが苦しんでいるのは知っている。全部ではないけれど。あなたのその視線が遠くに向けられるたび、私はあなたの心の中の辛さを垣間見ている気がしたから。
でも、違うでしょう。静。ねぇ、誰かをどれだけ傷つけても、それはあなたを楽にはしてくれないって、知っているでしょう?
吹き付ける風はやっぱり身を切るように冷たくて……。そして私は、静が始めてあった晩に、寂しそうに笑ったことを思い出した。前の彼女と別れたのが、こんな風に寒かったのを覚えてる。そう、言っていた。
詩織さん。
亡くなったのは、可哀想だと思うけれど……。
「――……」
静が何かを言いかけた途端。
「ねえ、静」
足が動いて、いつの間にか私は静の隣に移動していた。それだけで、静は私の言いたいことを汲み取ったらしい。困惑と、幾分冷静さを取り戻したかのように彼は呟いた。
「……でも」
「これ以上は、もうやめて。何か言えば言うほど、あなたも一緒に傷つくだけよ。お願い」
静が何か言おうとして開いた口を、何も言わずに閉ざす。不満と不安定と、怒り、寂しそうな泣きそうな……いろいろな感情の混じった瞳。
「言ったでしょう。越えられない壁なら、私が手を貸してもいいって。手を貸すから、ね? お願いだから」
静は目を閉じて、ぐっと何かを飲み込むように眉根を寄せて。
小さく頷いた。
……良かった。
「詩織さん、ここで?」
静が首肯する。そうか、この石垣の角で頭を打って……。静が見るという、詩織さんの悪夢。辺りの薄暗さと漂う寂しさ、確かにトラウマになりそうだ。
私は無言でしゃがんで手を合わせ、瞑目した。詩織さん、どうか、どうか……。
続く言葉を、私は継ぐことができない。詩織さんに何を祈るつもりだったのだろうか。
「ありがとう」
静が呟くのが聞えた。立ち上がって静を見る。
ふっ、と笑って、静は言った。よかった。哀しそうな泣きそうな笑顔だけど、笑ったくれた。静が、笑ってくれた。
伸ばされた手が、私の左頬を撫でる。
「どうしたんですか、その顔。絆創膏」
「なんでもないの」
「……どうして若葉さんが泣くんですか」
「……わかんない」
突然涙が溢れてきたのだ。
静に、絆創膏のことを言われたからなのだろうか。詩織さんに、もう静を放してほしいからだろうか。
最近になって、やっとわかった事がある。泣くのは良い事なのだ。心が納得するための儀式なのだ。だから人は悲しいときに泣き、嬉しいときにも泣く。私が今、どうして泣いているのかは自分でもわからないのだけれども、それでも私は泣く必要があるから、きっと今泣いているんだ。静の代わりに? 詩織さんの代わりに?
私がおずおずと手を差し出すと、静はそれを握ってくれた。そのまま引き寄せて私を抱きしめてくれる。
ああ、静。静。
静の肩に顔を埋めるようにして私は咽び泣き、やがて落ち着くまで、静はそのままずっと私の頭を撫でてくれた。






