2006-07-01 20:17:01

五章/『Cross road』 10

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

 

  苦しそうな声で、武志さんが弟に聞いた。弟は兄に、苦々しそうに答えた。
「どっちが早かったのか、俺は正確には知らない。けど、兄貴が付き合っていたって頃、確かに詩織と静は付き合っていたんだ。……静の言っていることは、全部本当だ」
 最後に縋る杖もへし折られて、武志さんの顔が蒼白になった。苦しそうに胸を押さえる。詩織、と彼は呻くようにこの場にはいない、しかし最大の原因を作った女性の名前を呟いた。
 誰かがため息をついた。私のものかもしれないし、清水くんのものかもしれない。つむじ風が走って、私は身震いをした。着ているコートの襟を掴んで引き寄せる。いつの間にか再び沈黙が場を支配した。
誰もが誰かが口を開くのを待っている。私とは神妙な面持ちで、清水くんは沈痛な面持ちで。静は表情が乏しくなってしまい、『先輩』を見ている。その瞳は、爛々と怒りに燃えているようであり、遠く詩織さんを睨んでいるようであり、そのくせどこか氷のように冷たかった。見下すような、哀れむかのような。
  武志さんはどこか心ここに在らずといった動揺した表情を浮かべている。
「そんな、詩織」
 その視線は静の後ろ、静が置いた花束に注がれている。線香の煙が北風に乗って揺らめいて。武志さんは、今、詩織さんと何を話しているのか。
  今はともかく昔は詩織さんの事を、本当に愛していたのだろう。短い時間、もう戻らない過去。それでも、詩織さんが武志さんを騙していたのだと知って、武志さんは本当に傷ついたのだ。詩織さんの言葉によって静が傷ついたように、静の言葉によって。
  静。
 静は、怒気を湛えた瞳で武志さんを睨みつけていた。マグマが火口から溢れ出しそうになっているのがありありとわかる。今まで静が背負い、悩み苦しんでいたもの全てを、どうすればより効果的にぶつける事ができるのか、算段しているようであった。
  でも……それはあなたが、本当にしたかったことなの?
  詩織さんとの関係に着けるべき決着は、こんな形を望んでいたの?
  あなたが苦しんでいるのは知っている。全部ではないけれど。あなたのその視線が遠くに向けられるたび、私はあなたの心の中の辛さを垣間見ている気がしたから。
  でも、違うでしょう。静。ねぇ、誰かをどれだけ傷つけても、それはあなたを楽にはしてくれないって、知っているでしょう?
  吹き付ける風はやっぱり身を切るように冷たくて……。そして私は、静が始めてあった晩に、寂しそうに笑ったことを思い出した。前の彼女と別れたのが、こんな風に寒かったのを覚えてる。そう、言っていた。
  詩織さん。
  亡くなったのは、可哀想だと思うけれど……。
「――……」
 静が何かを言いかけた途端。
「ねえ、静」
  足が動いて、いつの間にか私は静の隣に移動していた。それだけで、静は私の言いたいことを汲み取ったらしい。困惑と、幾分冷静さを取り戻したかのように彼は呟いた。
「……でも」
「これ以上は、もうやめて。何か言えば言うほど、あなたも一緒に傷つくだけよ。お願い」
 静が何か言おうとして開いた口を、何も言わずに閉ざす。不満と不安定と、怒り、寂しそうな泣きそうな……いろいろな感情の混じった瞳。
「言ったでしょう。越えられない壁なら、私が手を貸してもいいって。手を貸すから、ね? お願いだから」
 静は目を閉じて、ぐっと何かを飲み込むように眉根を寄せて。
小さく頷いた。
  ……良かった。
「詩織さん、ここで?」
 静が首肯する。そうか、この石垣の角で頭を打って……。静が見るという、詩織さんの悪夢。辺りの薄暗さと漂う寂しさ、確かにトラウマになりそうだ。
 私は無言でしゃがんで手を合わせ、瞑目した。詩織さん、どうか、どうか……。
 続く言葉を、私は継ぐことができない。詩織さんに何を祈るつもりだったのだろうか。
「ありがとう」
 静が呟くのが聞えた。立ち上がって静を見る。
 ふっ、と笑って、静は言った。よかった。哀しそうな泣きそうな笑顔だけど、笑ったくれた。静が、笑ってくれた。
 伸ばされた手が、私の左頬を撫でる。
「どうしたんですか、その顔。絆創膏」
「なんでもないの」
「……どうして若葉さんが泣くんですか」
「……わかんない」
 突然涙が溢れてきたのだ。
 静に、絆創膏のことを言われたからなのだろうか。詩織さんに、もう静を放してほしいからだろうか。
最近になって、やっとわかった事がある。泣くのは良い事なのだ。心が納得するための儀式なのだ。だから人は悲しいときに泣き、嬉しいときにも泣く。私が今、どうして泣いているのかは自分でもわからないのだけれども、それでも私は泣く必要があるから、きっと今泣いているんだ。静の代わりに? 詩織さんの代わりに?
  私がおずおずと手を差し出すと、静はそれを握ってくれた。そのまま引き寄せて私を抱きしめてくれる。
  ああ、静。静。
  静の肩に顔を埋めるようにして私は咽び泣き、やがて落ち着くまで、静はそのままずっと私の頭を撫でてくれた。


2006-06-30 22:17:59

五章/『Cross road』 9

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

「……まさか、俺のこと知らないんじゃ」
「!」
 静の言葉に、私と清水くんが同時に息を飲む。あの話をしたとき、静は詩織さんの態度で隠し事を見抜いたと言った。恐ろしいまでの直観力が、また働いたのだ。それも、正しく。
「知らないって、何を。キミ、田崎くんだろ? 隆志の親友の」
 キョトンとした風に武志さんが答えた。
「やっぱり」
 驚愕に近い表情を取り戻して、静が清水くんを見た。清水くんは苦々しげな顔でそうだよ、と答えた。
「兄貴はなんもしらねぇよ」
「知らないって、なにをだよ」
  ひとりだけ事情を把握できていない武志さんが、いらだったように割って入った。先ほどの沈黙でもっとも居心地の悪さを感じていたのは彼だからだろう。
「そりゃ、俺はついこの間まで詩織が亡くなったこと知らなかったけどさぁ、知らなかったことで俺がどんだけ傷ついたか知らない奴になにか言われる筋合い」
 睨み付けられて、言葉が止まった。
 それが、爆弾の起爆スイッチだった。武志さんは、何も知らなかった。詩織さんが亡くなったことも、彼女が二股を掛けていたことも、その相手がここにいることも、静がどれだけ辛い思いを抱えて、これまでを過ごしてきたのかも。何も知らなかったとは言え、知らない者が持ちうる無邪気さと無神経さで、静のスイッチを入れてしまったのだ。
「知らなかったって。四年も? ずっと?」
  瞬間的に静の表情が怒りに染まり、そのまま次の段階に入った。即ち、完全な、無表情に。瞳だけが凄まじい光を放っている。ガンを飛ばすなんてものじゃない。気圧されるように私は一歩足を引いた。純粋な怒気で形作られたこれは、殆ど殺気だ。
「アンタ、本当に何にも知らなかったんだ。詩織が亡くなったことも最近知ったって……なんだよそれ。詩織がどんだけ独りで悩んで辛い思いしていたかなんて、まったく知らないんだ。ホントに、なんなんだよそれ」
 最後のは、清水くんに向けられた質問だった。彼は苦々しい表情を浮かべて、再び静の言葉を肯定した。
「詩織は、本当に兄貴には全部隠していたんだ。実家の電話番号や住所とかもだし、携帯以外に連絡できなかったって兄貴言ってた。本当に兄貴とのことは誰にも隠していたんだよ。バレないように兄貴にだって自分のこと伏せてたんだ。色々と。だから兄貴は本当に最近、詩織が死んだこと偶然知るまで、自分がフラれたものだと思ってて。……俺だってまさか兄貴が『先輩』だったなんて、夢にも思わなかったよ。知っていたら折を見て教えていたさ」
「隆志! 何の話だよ……詩織が苦しんだって――俺が、何を知らないって?」
「実は俺と詩織が、アンタよりも先に付き合っていたって話だよ。秋ごろから冬まで、詩織は二股掛けていたんだ、アンタと俺と」
「……なんだって」
  冷酷な声を掛けられて、次は武志さんが硬直する番だった。
「デタラメ言うなよ」
「ホントに全部隠していたんだ、詩織は……」
  重いため息を、静は吐いて続けた。「ああ、じゃあ若葉さんたち、もしかして墓参りじゃなくてこの鉢合せを食い止めるために来たんだ」
 私は肩を竦めた。
「その通りよ。失敗したけどね」
 もう誤魔化しきれない。認めざるを得ない。しかし、僅かなヒントで、しかも普通なら混乱とパニックに陥りそうなものなのに、静はどこまで言い当てるつもりだろう。たいした洞察力だ。
「隆志……あいつの言っていること、ほんとうなのか? 詩織、二股って」

2006-06-29 21:41:23

五章/『Cross road』 8

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

 

  目的の駅に着いたのは、七時半少し。ちょうど詩織さんの事故があった時間帯だ。
 駅の構内をでると、身を切るような寒風が吹きつけて来る。見上げた空は真っ黒で、透き通るかのように真っ黒だった。彼我の明度差のせいで、星は見えない。
「こっち、タクシー乗り場」
 ドアを開けたタクシーに飛び乗ると、清水くんは行き先を告げた。
「十分くらいで着く」
 私は頷いた。駅前のタクシープールを出て、私たちの乗った車は走り出す。流れていく見慣れない景色に、静と、清水くんと、詩織さんが過ごしたという時間を重ねる。
 高校らしい、大きな建物を過ぎて路地に入ると、清水くんは運転手に指示を出した。そこを曲がって、次を右に。ここでいい。お金を払って、私たちはタクシーを降りた。
「そこ、曲がった先だ」
 薄暗い路地にぽつんと街灯が立っている。その向こう。
 角を曲がった先に、一人の男が立っていた。大学生くらいの黒尽くめの服装の男。足元には花束が供えられている。
「静」
 私の声で、彼はこちらを向いた。私の隣で清水くんが小さな声で、良かったと呟いたのが聞えた。間に合った。
 静は、しずかな視線を私と清水くんに向けた。深い深い、寂しそうな顔だ。今にもなきそう、と思う。
  その瞳が揺れて、凍った。私たちではなく、その後ろ――。
「……アレ、隆志?」
 静の視線の先に居たのは、ひょろりと背の高い、眼鏡を掛けたサラリーマン風の男だった。手には、カスミ草の花束が握られていた。静が詩織さんに手向けたのと、同じ花。きっと詩織さんが好きな花だったのだろう。
「何でお前、ここにいんの?  コッチ帰ってくるのは年末とか言って――」
「武志さんなんでここに……」
 静が絞るような声で言った。
「ああ、たしか君、田崎くんだっけか、一度家で会ったことあるなぁ。そっか、みんなで詩織の墓参りに来たんだ。……ありがとう」
 静がその身体を硬直させた。
『アリガトウ』
 その台詞は、この場合詩織さんの側に立っている人間が使う言葉だ。
清水くんもその場に固まっている。鉢合せの場面にまさか居合わせることになるなんて。しかも、静は気付いてしまった。もはやどうしようもない。それどころか、最後の余計な一言が、決定的だった。
 緊迫した雰囲気が漂い始め、明らかに友好的ではない態度の静に、裏事情をまったく知らない清水くんの兄――武志さんも口を噤んだ。
「武志さんが、詩織の『先輩』……?」
 驚愕、信じられないという視線を、向けられた清水くんは苦々しげに視線を外した。それは肯定と同意だった。
 しばらく沈黙が、場を支配した。私は僅かな衣擦れの音でさえ、静が爆発するきっかけになるのではと思い、身動きすらできなかった。なぜなら――静のその顔に浮かんでいる表情か次第に張り付いた能面のようになり、更にはどこか遠くを見るような視線を浮かべる以外、本当の無表情に近くなっていった。
「……まさか、俺のこと知らないんじゃ」
「!」

2006-06-28 22:43:09

五章/『Cross road』 7

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

 たったひとこと、それだけで私は事態を把握した。どうしよう。どうすればいい。そうだ、静に連絡――いや。
 静は、知らないのだ。清水くんのお兄さんが、詩織さんの『本命』のだとは。つい最近まで清水くん本人だって知らなかったことなのだ。それを静に知らせて、どうする?
 私は廊下に出ると、清水くんに電話をかけた。待たされたのはコールオン二回分だったが、それだけで私はとても焦ってしまう。
「もしもし、清水くん?」
『若葉さん……。メール、見てくれましたか』
「見た。でも、どうして急に?」
『アニキの奴、調べたんだって。詩織の事故がどこであったのか。問い合わせたら結構簡単に判ったって言っていたけど……』
「今日、静も詩織さんの墓参りに行ってるのよ? まさかとは思うけれど、鉢合せしたりしたら」
 最悪の事態もいいところだ。
『毎年、静の奴は詩織が事故にあった時間の前後に墓参りをしている。新聞にも事故の時間は載っていたから、もしかしたら』
 電話の向こうから聞える声は、僅かに震えていた。
『俺も今から静を追かける。次の超特急で、ギリギリ間に合うかもしれない』
 ……そうか。だからメールをくれたんだ。一瞬で心が決まった。
「私も行く」


 


 人が人にしてあげることのできる、最大のものはなんだろう。
  危機的状況から命を救ってあげることだろうか。医者だったら何人もの命を救うことができるだろう。事故現場で取り残された人々を救助しようとするレスキュー隊。
  絶望している人に、宗教的な導きで以って生きる希望を与えることだろうか。キリストや釈迦がそうしたように。
  いわゆるストリートチルドレンのために孤児院を作ってあげたり、貧しい農村に技術指導に行ったりすることだろうか。
  それとも。もっと身近な例で、夫婦よりそって五十年もずっと側にいてあげることだろうか。ずっと支えになってあげることだろうか。
  思いつくものどれもが当てはまりそうで、そのくせなんだか頼りの無い答えだった。揺るぎない答えがどこかに隠れているような、そんなものないような。
  神様は六日間をかけて世界を創ったという。天地創造の伝説だ。神様は七日目に安息を取って、天に帰って行った。そして出来上がったこの世界は、こんなに不完全だ。こんな中途半端なものを神様は作りたかったのだろうか。それとも残りは私たち地球に生きる者の手で完成させろということだろうか。
 だったら、まず教えて欲しい。私が静にしてあげることのできる、最大のものは何なのか。
 清水くんと隣り合う席、特急の震動に身を任せながら、私はずっとそんなことを考えていた。
 窓の向こうはもう真っ暗で、ぽつりぽつりと民家やコンビニや、国道を走る車のライトが流れては消えていった。車両の中はこんなにも明るいのに、何人も人が乗っているのに、私はやっぱり寂しくなるのだった。



2006-06-27 21:14:25

五章/『Cross road』 6

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

 毎年、静はこの時期に実家に帰るらしい。明日十二月二十三日が、詩織さんの命日だからだ。彼女の遺族に隠れてだが、事故現場に花と線香を供えるためである。墓の場所を、静は知らなかった。聞くわけにもいかないと笑っていた。
『じゃあ、行って来ます』とメールを残して、彼は電車に乗って行ってしまった。予定では今日と明日を実家で過ごし、明後日、イブ当日の夕方に帰ってくることになっている。そのまま荷物を駅のコインロッカーに預けてデートに行こうということになっていた。

 朝から浮かない顔をして、私はため息ばかりをついている。ここのところ私事で会社を休みまくって仕事が溜まっていて、それは片付いてきてはいるのだけど、そのことでサルに嫌味を言われるし、みんなには顔の絆創膏について聞かれるしやっぱり痣は明後日までには完全には消えそうにないし。十年来の親友は一体何人いるのかわからないボーイフレンドの部屋を渡り歩いて捕まらない。今カレは元カノの墓参りに行ってしまい、元カレには二度に渡って酷い目に合わされた。ホンの一ヶ月ちょっとの出来事である。
『詩織に、さよなら言ってくる』
 そういわれて私は困惑した。昨日の夜、電話でのことである。
「いいの、それで」
 何年も、忘れられなかったのに。
『一生縛られているわけにも、いかないから』
 それ以上、当事者でもない私に何を言う権利があっただろうか。静は何とか前に進もうとしていて、そのきっかけは私だ。嬉しくもあり、一方で本当にいいのかという困惑もあった。
 今日もまた、一段と冷え込む。どんよりと重い雲に覆われて、窓から見える銀杏の並木も寒そうに揺れている。天気予報では大陸からの寒気団がどうのこうので、年内一杯寒い日が続くとのことだった。
 何度目かのため息をついて、私は目の前のパソコンに向ってデータを打ち込み始めた。今日は残業明日は休日出勤。何が何でも明後日には静とデートをするのだから。そう思えば気合が入る。その一方で、諒にされた事と清水君の話が頭の片隅から、どうしても離れてはくれないのだった。



 清水くんから、メールがあったのは当の二十三日の夕方だった。午後四時という夏場だったらまだ太陽が傾き始める時間も、真冬の今ではもう沈みかけようとしている。
 どことなく忙しない職場の一角、自分の席でパソコンに向いながら書類と格闘していた私の携帯電話が鳴る。マナーモードにしていたお陰で、サルに睨まれずに済んだ。
 何かしら。何気にメールを開いた私は、書かれていた文章を読んで息を飲んだ。
『アニキが、今日詩織の墓参りに行くと言っている』

2006-06-26 20:49:15

五章/『Cross road』 5

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

 私はため息をついた。
「他に、このこと知っているのは」
「いや、誰もいないハズ」
 そこで一旦彼は一瞬迷った表情を見せ、口を開いた。
「……実は、大学に入って、静のやつ、同じサークル娘と付き合っていたことがあるんです。二人、かな。どっちも二ヶ月と続きはしなかったけれど」
 それは完全に初耳だった。それで、と目で清水くんの話を促す。
「その頃のアイツ、本当に荒んでいましたから。ガキみたいに不良になるとか、そういうのではなくて。なんというか、完全に、周りのことに対して興味を失ってるっつーか。今ではだいぶマシにはなっているけれど、それでも初対面の人とかには無愛想だったりしますしね」
 言われて思い至ったのは、合コンのとき初めて出会った静の、あの態度だった。どことなく上の空、そんな感じ。あの場がそれなりに盛り上がっていたのは、間違いなく清水くんがそんな静の態度を見越して彼を話題に引きずり込んでいたからだった。
「そんなあいつの、あの態度をクールって勘違いして寄ってくる娘は、最初はそこそこいたようですよ。んで、静を押し切って付き合うに至ったのが二人ばかり、と。でも、当時の静は何事にも無関心で、詩織と付き合っていた頃の惰性で生きているようなもんだったし、女の子の方は女の子の方で、静に自分の事を見て欲しいっつー感じのイケイケタイプだから、合うはずも無い。まぁやるこたヤってたようだけど、俺、二人目のほうから相談されましたからね。静の親友ってことで」
「相談?」
「言い方は遠回しだったけれど、要するに、静の奴、自分からはしてくれようとしない。ねだってもなかなか乗り気にならない。結局、指で満足させてくれるけれど、最後まで一度も挿れてくれないままだったって。ゴムつけていいからって言っても、男が嫌がる。コレじゃ普通と立場が逆ですよ。男が女にさせて貰えないってならとともかくさ。私の何がいけなかったのかな、と聞かれて、多分アンタに悪いところはなかっただろうよって、言えませんけどね」
……怖いんです、か。
私はあの時の静の台詞を思い出した。
 結局のところセックスというのは、生殖のために行う行為だ。得られる快感は生殖行為の回数を促進するための付随品、いわば本能からのご褒美であって、本来の目的ではない。だから、快感目的のセックスを避ける静の態度は、ある意味で非常に正しいものだと言える。たとえゴムを装着したとしても必ずしも避妊できるとは限らないからだ。あらゆる避妊方法や道具は確率を下げる事はできても、ゼロにはできないのである。見方を変えれば静の態度は、女の子に対しての責任感が強い、とも解釈できる。
「でも、清水くんはその二人に、詩織さんの話はしていないのよね」
 彼は手元のコーヒーを啜った。とっくにぬるくなっていることだろう。
「と言うよりも、静がその二人には、詩織とのことを話していないらしいんスよ。結局、別れ話になっても。だからって俺が、詩織の話をするわけにはいかないじゃないですか」
「じゃあ、どうして静は……」
 視線が泳いだ。どうして静は、私には、詩織さんの話をしたのだろうか。
「それは、もうあいつにしかわからない。あいつに聞いてみるしかない。俺がアイツから、若葉さんの話を聞く限りでは、若葉さんから曝け出したから、ではないでしょうかね。そう思うんですが」
「そう、かしら」
 そうかもしれない。そうでないかもしれない。あの時、私たちは互いの立場なんてどうでも良かった。床屋が王様の秘密を叫んでいた穴を求めていただけだ。お互いに。私がその穴として静を選び、だから静は私を選んだ、のかもしれない。あるいは私が彼よりも年上で、明らかにコレまでの女の子とは違っていたからかもしれない。答えは静にしかわからず、静にだってわからないかもしれない。
  伏せていた目を上げる。どちらでもいいことだった。
「とにかく、俺としては静から、若葉さんに詩織の事全部話したと言われてホントに驚いたんですよ。俺以外とその話することなんてなかったはずだから。……静の奴、いつも黒い服着ているでしょう。理由、知ってますか?」
 私は首を振った。知らない。似合っているから何も思わなかったのだけれど、改めて聞かれれば、ちょっと不思議だ。
「もしかして、喪服……」
「いや、そうではないんです。詩織に対する喪ではなくって、昔アイツ、黒い服が似合うね、と言われたそうなんですよ」
 思わず固まってしまった。誰に言われたのだなんて、考えるまでもない。
「アイツが入っているサークルもそう。詩織が生前、クラシックギターをやってみたいと言っていたからだそうですよ。偶々サークルの先輩に勧誘されて、詩織の話を思い出して、そのまま入ってしまったんだと。もっとも今では退部寸前の幽霊部員だそうですが」
 甘く見ていた。私が思っている以上に、静の心に詩織さんの影が、深く深く食い込んでいる。
 死者は生者と争わない。ただ、生者の心の中にたゆたうだけだ。それだけに、たちが悪いとも言える。もういいじゃないの、詩織さん。静を放してあげて。あなたは静を裏切って苦しめてしまったんだから、もう彼の中から出て行ってもいいじゃない。
 それとも。静のほうが、詩織さんの影の中に安息を求めているのだろうか。いや、きっとそうだ。
 だとしたら。
「私、何をしてあげられるかな」
 ポツリと呟いた言葉に、清水君が答えてくれた。
「俺ではしてあげられない事の、何かでしょう。よければ、あいつの支えになってあげて欲しい」
 俺は、とっくに静を裏切っていますからね。バレてないだけで。だから俺ではダメなんですよね……。
 裏切り。諒のことが頭を過ぎった。
もしかしたら私も似たようなものであるとは、言えなかった。


2006-06-24 21:09:35

五章/『Cross road』 4

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

「『先輩』てのは、俺の兄貴のことだったんだ」
「……ええッ?」
  清水くんと詩織さんは中学が同じだった。二人が親しくなったのは高校に入ってからのことだったので、詩織さんの憧れの先輩が、まさか二つ年上のお兄さんのことだったとは清水くんも思いもよらないことだったのだ。
「確かに、アニキは中学でサッカー部だったけど、ずっとベンチ要員で特別に上手かったというわけではなかったから……」
 それで完全に可能性外と思っていたらしい。確かに「憧れの」、と言われればエースストライカーを思い浮かべるだろう。
「アニキは別の高校に進学したんだ。んで、詩織と付き合いだしたのは大学に入ってから。確かに当時、年下の後輩と付き合ってる、と言う話はしていたけど。俺たち、あんまりそういう話はお互いしなかったから、誰のことかまでは聞いていなかったんだ。それで、詩織の葬式から少ししてさ。アニキの奴、すごい落ち込んでて。どうしても彼女と連絡を取れないんだって。フラれたって、思ったんだろうな。しばらくは落ち込んでいたんだけれど、春になってまた別に新しい彼女ができたから、それで立ち直ったんだ。俺もそのことはすっかり忘れていた」
「……どうして、今更になって」
「つい、この間のことなんだ。中学のころの同窓会か何かがあったらしい。そのとき、何かの話題で、詩織の事故死のことを耳に挟んだとかなんとか言っていた。詳しくは当時の新聞を調べたんだって。最後に、電話で俺に確認してきた。『お前が高二のとき、事故死した同級生って、山野詩織って言うのか』って。どうしてそんなこと聞くのかって問いただしたら、付き合っていたって言うんだ」
 何で、今更。本当にいまさらだ。いや、それだけだったらまだ良い。清水くんのお兄さんに罪はない。むしろ同情したいくらいだ。静のことが、なかったら。
 静の側に立っている私にしてみれば、清水くんのお兄さんは詩織さんを静から奪った、あるいは静を裏切った詩織さんの共犯であって、敵のように思える。だが清水くんにとって見れば静もお兄さんも身内であり、お兄さんにしてみれば、もしかしたら……いや、おそらく静と詩織さんが付き合っていて自分が詩織さんを寝取ったのだと思いも寄らない事実だったのではないだろうか。
 私は、清水くんに尋ねた。
「それで、……お兄さんは、知っているの? その、詩織さんの妊娠のこと」
 清水くんは、驚いた。どうしてそんなことを、という顔だ。
「静の奴、そこまで話していたんすか。はあ、びっくりした」
 彼は一間置いてから答えてくれた。「いや、知らないと思います。アニキが調べた新聞には、そこまで載っていなかったから」
「……知らないの」
 知らせるべきかどうか、清水くんも迷っている様だった。
「だって、つまり詩織と兄貴の子ということは、俺の甥か姪ってことですよね? それに思い至った俺でさえしばらく呆然として立ち直れなかったのに、自分の子が生まれることなく死んで、しかも自分はそのことを知らずにのうのうと四年も過ごしていただなんて、兄貴が知ったらどうなるか……」
 私はため息をついた。
「お兄さんのこと、本当に静は知らないのね」
 目の前の清水くんは申し訳無さそうに首肯した。
「でなければ、俺、とっくに絶縁されているでしょうね」
「だから、裏切らないで、かぁ」
 私はため息をついた。

2006-06-23 20:53:43

五章/『Cross road』 3

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

「頼みが、あるんです」
 居住まいを改めて開口一番に、清水くんはそういった。
「頼みって」
「静を裏切らないで下さい」
「それは……もちろん」
  裏切り。私の心は、その言葉に敏感に反応した。諒に殴られた痕が疼いた。もしかしたらもう手遅れかもしれない。思わず口に出そうになった。
  美貴が出て行ってすぐ、清水くんに電話をした。挨拶もそこそこに、電話口では話し辛いことであるので直接会って話がしたいと切り出される。
  できることならあまり出歩きたくはなかった。顔をジロジロと見られたくないからだ。かといって彼を部屋に呼ぶ気もなかったので、最寄り駅から少し離れた場所にある喫茶店を待ち合わせ場所に指定した。ここなら滅多に近寄らないので変な噂も立たないだろう。
  夕方の三時を回って少しして、清水くんは喫茶店に入ってきた。カウベルを鳴らして入ってきた時点で彼だとわかる。手を上げて清水君を呼ぶと、久しぶりです、と彼は笑いながら挨拶をし、私の顔を見た途端一瞬凍りついた。
「これ?  静にやられたのではないから、安心して」
 苦肉の策として大きな絆創膏をべったりと貼り付けていたので、その下がどうなっているのかわからないだろう。だが痛々しさだけはどうしたって拭いきれない。ああ、もう。今更になって諒に対して怒りが湧いてきた気がする。こんな置き土産、欲しくない。
  それ以上清水くんは何もいわなかったが、気にしているのは明らかだ。この場合気にするなという方が無茶というものだとわかっているが、仕方が無い。無理してでも無視してもらおう。
 そして清水くんは、人好きのする顔から笑みを消して真剣な表情を作ると、私にのたまったのだ。静を、裏切らないでと。
「私が、静を裏切る……裏切ると、思っているんだ」
 口調が固くなったのは、目の前にいる男の言葉に反応したからではなかった。だが、そんなこと思いも寄らない清水くんは失言してしまったと受け取ったようだ。
「いや、そうじゃなくて、違うんです……何て言ったらいいのかな。その」
 ちょっと考えた後、
「傷つけないで、と言うべきなのかな」
 と訂正した。どちらにしろ、私は望んで静を裏切る気も傷つける気もなかった。諒とのことは、静が知らないだけで知られればアウトかも知れないけれど。
 そしてどちらともなく、私たちは押し黙ってしまった。窓際のテーブル席。窓は真っ白に曇っていて、内外の気温差を教えている。カウンターに一人だけ、暇そうにしている大学生くらいの女の人が、頬杖をついて文庫を読んでいた。アルバイトのウェイターが近づいてきて、私が注文した紅茶を置いて清水くんに注文を尋ねた。彼はコーヒーを注文する。
「ねぇ。静についての話って、裏切るなってことだけ?」
 二人の間にわだかまっている沈黙を破ったのは私だった。
「いえ……最終的には、そこに行き着くんですが。その」
 言いよどむ。この間はお酒が入っていたからだろうか。あの時はあれだけ楽しそうに、面白おかしく色々とお喋りをしていたというのに。
「最初から、話します。全部」
 そう言って、清水氏は再び居住まいを正した。視線に宿った光に、私は心のどこかで嫌な予感を感じた。心のどこかが告げている。聞けば、メンドクサイ何かを抱え込むことになりそうだ、と。
 えてしてその予感は的中する。清水くんの話とは、静を裏切った女性の、思い人。つまりは詩織さんの『先輩』のことだったからである。

2006-06-22 21:01:57

五章/『Cross road』 2

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

「会いたいに、決まっているじゃないの」
  私は即答した。
「じゃ、会うしかないじゃないの。ワカちんの思い人は、そんなに器の小さな人でもなさそうな気がするけどね」
「ありがとう……でも、ワカちんはやめて」
 結局、美貴は何時だって私の背中を押してくれるのだ。この関係は、昔からずっと変わってはいなかった。私は美貴に一歩分の勇気を貰う。美貴は、私を目印にして戻ってくる。だからあたしは道を踏み外さずに済んでいるのだよ、と胸を張って美貴は答えるだろう。
「じゃー、あたしもう出るわ」
「どこか、行くって言っていたわねそういえば」
「うん。えーっと、予定が潰れたからエステにでもって。予約しといた。若葉も行く?」
「やめとく」
 即答。一度連れて行ってもらったことがあった。導かれたそこは、超高級エステである。あらゆる手法でもって、一回五時間以上もかけて全身を磨き上げるのだ。一体、幾らかかるのか想像もできない。
「タダなのに」
 だからイヤだったりするのだけれど……。一見さんお断り、会員になるにも何万という入会費が要るというのに。いったいどういう繋がりで、美貴がそのエステに顔パスできるのか、聞きたいような聞きたくないような。
「ま、でもちょっと安心した」
「何が?」
「だって、元彼が警察追われてて、しかも殴られたんでしょ? フラれるよりもつらいことじゃないの。一晩一緒にいたけど、思ったほど落ち込んではいないなって」
 殴られただけでは済まなかったんだけどね。
「うん。丸一日、ぶっ通しで寝ていたら、取り合えずニュートラルには戻ったみたい。塞ぎこんでいる、っていうのが、もったいないっていうのもあるんだけれど」
 精神的に参ったけれど、それは静に対してどうこうの話であって、諒に対してはあまり何も思うことはないのだった。笹目刑事に、諒との絶縁を告げたからだろうか。勿論、美貴がずっと隣にいてくれたというのも、大きな要因ではあるのだ。美貴がいる限り、私がこの街で独りぼっちになることは無い。
「ところでさ、若葉の顔のせいで忘れていたんだけど」
 失礼な。まるで私の元の顔が見るに堪えないもののような言い方は誤解を招くからやめて欲しい。そりゃ、今はインパクトあるだろうけれど。
「隆志くんが、イノイノに話があるんだって。今日だったら何時でもいいから電話頂戴だって。ケー番送るね」
 携帯電話を弄って、美貴が私宛にメールを送ってくれた。って、ちょっと、待って。
「誰、隆志とイノイノって」
 コートを纏いながら美貴が答える。
「井上若葉だから、イノイノ。ワカワカの事だって。隆志ってのは、清水くんの下のお名前のことよん」
 そうぽんぽん新しい呼び名を作られて、対応できるわけない。そしてワカワカもイノイノもやめて欲しい。ため息とともに心から思う。
それはさて置き。
「清水くんから……?」
 私は首を傾げた。彼と私の接点は、あの日の合コン。それ一回きりだ。後はもう、静と美貴という共通の知り合いが二人いる事くらいしかないが、一体何の用だというのだろう。話って……?
 というか。
「美貴ってば、まだ清水くんと関係が続いてたのね」
「ちょっと意外だった?」
 正直意外だった。にやりと美貴が笑う。いたずらっ子のような笑みだ。てっきりニ、三度くらいで終わっているのではなかろうかと、私は思っていたのだけど。
「なんかね、ヤタさん絡みらしいよ。話って。ちょっと興味湧かなくも無いけど、あんまり深入りして欲しくないようだったから内容は聞いていないわ。直接聞いてちようだいな」
 私は首肯した。静の、話。なんだろう。というか、清水くんもそろそろ美貴にも静の本名教えてあげればいいのに。もしかしたら美貴は、ヤタを本名だと勘違いしているかも知れない。
「わかった。あとで電話してみる」
 じゃあね。私がいなくなった瞬間に鬱モードに入ってリストカッティングとかしないでね。後片付けが大変だから。自分が掃除するわけでもないくせに変な憎まれ口を残し、完全防寒を整えて美貴は出て行った。
閉じるドアから僅かに覗いた十二月の鉛色の空。テレビはいつの間に番組が変わって、お笑い芸人がどこかのレストランで、おいしそうな肉料理に舌鼓を打っているところだった。
 私は、首を傾げながらも、早速清水氏に電話することにした。


2006-06-20 21:15:55

五章/『Cross road』 1

テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』

  クリスマス・イヴを今週末に控えて、街の浮かれ具合はまさに絶頂に達しようとしていた。コンビニでもデパートでも商店街でも狂ったかのようにクリスマスソングが流れて、有名どころのケーキ屋では、特注ケーキの予約は既に一杯になっているのだとかなんとか。テレビのレポーターが浮かれ騒ぐ街に出て、そこ往くカップルやら夫婦やらにインタビューしている。
『お二人は、クリスマスはどのようにして過ごすご予定でしょうか?』
『えー、ラブラブ?』
 幸せそうに満面の笑みを浮かべる、大学生くらいの女の子と、半ばちょっと困った感じの男の子。あるいは、並んで歩いているムッツリと押し黙ったような壮年期の男性と慎ましい笑みを浮かべた淑女。
 そもそもクリスマスとはキリスト教の聖日であって、キリスト教徒でもない人が祝うのはお門違いもいいところなのだし、ましてや、間違っても恋人たちのための日であるわけでもない。よくよくと冷静になって考えてみれば、全くもって奇妙なことだ。
「そんなこと言ったって、お祝い事は多いほどいいわ」
「それは、そうだけれど。クリスマス以外に何があったっけ」
 美貴がぼやいて、私が応える。いつも通りの掛け合い。
  私たちはリビングのテーブルに向かい合って座ってテレビを見ていた。
  美貴はパパと行くはずだった、クリスマスから年末年始に掛けての海外旅行の予定が、当のパパに緊急の仕事が入ったため突然のキャンセルになり、そのせいでちょっとご機嫌斜めだった。サイパンだかグァムだかをまわり、常夏の島でまったく寒くないクリスマスと正月を過ごすはずだったらしい。
  ……うらやましくなんて、ないわよ?
 テレビ番組が、コマーシャルに切り替わった。コマーシャルの端々にさえクリスマスの文字が浮かんでいる。季節がら仕方ないことかもしれないのだが、もうちょっと本来の意味に立ち戻って、敬虔な態度にはならないものだろうかと思わないでもない。
「んで、今年はどうするの、ワカは」
「……何を?」
「だから、クリスマス・イヴの過ごし方。ヤタさんと一緒に過ごすんじゃないの」
「その予定だけど」
「言っておくけど、あたしはダメだからね。穴が空いたところにイロイロ詰め込んじゃって、デートの約束時間調整するのに大変なんだから」
 期待してないわよ、どうせ。一昨年だったか、一日で五人とデートしたとか、言っていたっけ。
笹目刑事たちの来訪から、二日。諒が出て行ってから、やはり二日。静とは、あれからまだ一度も会っていなかった。何度か携帯電話の電波越しで話をして、イヴの晩は一緒に過ごそうということになっていた。なってはいたが、実のところ私は乗り気ではないのだった。困ったことに。
「顔、のせい?」
 美貴が、心配そうに覗き込んできた。
「それも、だけど」
 たった二日では顔の痣は消えなかった。骨に異常は無いようだから、痕は残らないが、あと五日では消えるほどでもなさそうだ。
 昨日まで、美貴にさえ諒が来ていたことを知らせずにいた。予定が潰れたために何の前触れもなくやってきた美貴は、私の顔をみて大声を上げた。何事かと思って隣の人が伺ってきたくらいである。
 どうしたの、それ。誰にやられたの、それ。
 質問攻めにあって、私は白状せざるを得なかった。そうしないと美貴はずっと私を解放してはくれそうになかったから。
 諒の来訪から失踪、その翌日に警察がやってきたことを、レイプされたことを除いて掻い摘んで話すと、美貴は涙を流して私を抱きしめた。辛かったでしょう、と言っては、顔に沈み込んでいる痣を撫でる。手当て、という言葉があるが、気のパワーが云々というのではなく、本当にそれだけで私は癒されるのを感じる。ダメージを受けてしまった肉体が回復するというよりも、むしろ、肉体の痛んだ部分を担当する心が回復するからだと思う。
 殆ど丸一日を夢の中で過ごしたら、目が覚めたときは昨日の朝だった。日は昇っていないから、カーテンの向こうも部屋の中も真っ暗だった。眠りすぎで、身体がだるかった。赤ん坊の頃から数えて、こんなに眠りっぱなしだったというのは記録的だ。自分でもちょっと驚いた。
  静からのメールが寝ている間に届いていたらしい。内容はどうでもいいことだったのだが、私は冗談に笑うことのできるような状態ではなかったにも拘らず、無理矢理に冗談を返した。電話がかかって来て、取ることを拒めなかったのは私の弱さだったと思う。
  静に会いたかった。
  かといってつい先日自分の身に起こったことを静に教えることも、できなかった。
  最初諒に捨てられた直後、静に泣きつく事ができたのは、それは私がもう何も持っていないと思ったからだった。でも今は、静に、裏切られたと思われることが怖い。あっちが勝手に入り込んだのだとは言え、追い出せなかったのは事実だから。あの、どこも見ていない視線を、私に向けてもらいたくないのだ。
 だというのに。私はどんな顔をして静に会えばいいのだろうか。どんな顔をしたって怪我を隠せないというのに。この顔を見て何も思わないなんてありえない。問われて白を切ったって、どうしたって諒の影を隠しおおせるとは思えない。階段でコケたとでも言うべきか? 
  しばらくすれば。そう、しばらくして年明けくらいには、顔もきっと元通りになっているだろう。それまで会わずに済めば、隠し通すことも不可能ではないだろう。クリスマスのデートは、適当な嘘をつけば延期する事だってできるだろう。
「会いたくないの」
 美貴が問う。
「会いたいに、決まっているじゃないの」
 私は即答した。

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