終章/『Street Toward Snow Night』 3
テーマ:連載小説 『カクテルワルツ』
彼女は沈痛な面持ちで頷いた。
「些細なことだったんです。前々から諒くん、ちょっとしたことが上手く行かないと怒り出すことがあったんですけど。……その日、私が出かけるつもりだと言ったら『明日はお前が行きたいって言っていたレストランに連れて行ってやろうと思ったのに』って。よりによって、友達と行く予定だったのがそのレストランだったんです。それで……」
なるほど。諒が怒りそうな理由だ。彼はそういう、自分の格好が付かないような状態を最も嫌うのだ。あるいはそれが仕事のようにどうしても頭を下げなければならないような状態ならともかく、恋人同士のことなら、諒はどうしても我慢ができない。
「引っ叩かれて、突き飛ばされて、頭を打ったんです。それで私は意識を失って。ぶつけた時に少し切ったみたいですから、ちょっと見た目派手に出血とかしたみたいですよぉ」
にこやかに笑う。けど言っている内容は全然笑えないわね。一歩間違えたら意識は戻らず、二歩間違えたら死んでいたかも知れない。ほんの少しの違いで障害だって残ったかも知れないというのに。
「……大したことなくて、よかったわ」
ハイ、と彼女は明るく同意したが、言葉とは裏腹に表情は沈んで行った。
「これまでも叩かれることは、たまにありました。でもそのたびに、我慢することで彼が収まるのならって……そういうのに酔っていたんです」
ああ、私と同じだ。聞いていて耳が痛い。美貴にも指摘されたことだけれど、こうして客観的に自分の態度を見せられると辛いものがある。惚れていた弱みなのかしらねぇ、それって。
それとも諒の嗅覚は、そういうタチの女を見つけるのに長けているのだろうか。
あるいは。男とは、すべからくその様な性質の存在であるのか?
私は後ろに立つ静をチラリと見た。彼は両手を挙げて恭順の意を示す。僕は女の人を叩いたりしませんってば。
ふむ、よろしい。
「実は、井上さんと諒くんが、ずっと付き合っているのは知っていました。略奪愛成功っていうのにも、ちょっと優越感持っていたんです」
……言うじゃない。
「でも、限界です」
「それって、諒を捨てるってこと」
「はい」
確認すると、キッパリと、彼女は言い放った。両眼に湛える光には確固たる意志が宿っている。これは他の誰が説得しても、たとえ諒本人が頭を下げても無駄だろう。
それもやむなし、か。諒は自分の仕出かしたことのツケを払わされることになったのだから。
「聞けば、私は友達が来るまで放置されていたそうじゃないですか。思い通りに行かなければ叩く、恋人を殴って救急車も呼ばない。しかもそのまま逃げて失踪する。私だけなら我慢もします。でも、そんな酷い人に」
彼女は、そっと自分のお腹に手をやった。
「血が繋がっているとはいえ、この子の父親を務めてもらうわけには行きません」
そうか。すっかり忘れていたが、彼女は、もう母親なのだ。気を緩めばどこかおっとりしている優しい顔なのに、さっきの意志の光がどこから湧くのかと思ったらなんてことは無い。彼女には、場合によっては自分の命を投げ出してでも守ろうとする存在が、既に宿っているのだ。
「あなた、立派ね」
「そうでもないですよ」
「うらやましいわ」
それは、掛け値なしの本心だった。
「今、何ヶ月なのかしら」
「まだ四ヶ月です。寝ていたせいでなにか悪い影響があったかもしれないって心配しましたけど、お医者さんは全然心配ないって。良かった」
彼女はそっとお腹を押さえた。全然目立たないでしょう、と笑う。
「もうすぐ膨らんでくるそうですわ。見た目おデブさんになるのはちょっとイヤですけれど、幸せの詰まった風船だと思えば、嬉しさの方が大きいかな」
「……ところで、そのお腹の子どもって、どっち? 男の子、女の子?」
美方さんはさあ、と答えた。確認しようと思えばできるのだけれど、知らないで想像するのも楽しいからまだ聞かずにいるのだという。
「でも、どうせ名前を決めるのに迷うのが判っているから、早めに知っていたほうがいいんですけれどねぇ」
そう言って、彼女はちょっと困ったように笑った。







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