皆さまコンバンハ。
もしかして、もしかすると年明け初のブログ投稿!?
今日は“手放し”と“気づき”についての独り言です。
トラウマだったり、辛い思い出だったり、
過去の様々なことを手放しているはずなのに、
やっぱり全然手放せていなかったっていうこと、ありますよね。
ないかな?私は全然あるw いや、むしろめっちゃあるww
まあ、それに関連しているような、少し掠ってるようなお話です。
私は旅行へ行ったりすると、
「なんでこんな写真撮ったんだ…?」
と自分でも首を傾げたくなるような何の変哲もない写真を撮ったりするクセが昔からあります。
特に、学生時代の写真は酷いもんで、
「そこ同じ場所だよね」っていう風景を角度を変えて何枚も撮ってたり。
誰か、友人と一緒に写るとか、人間を撮るっていう思いつきが一切ないのは、
おたくあるあるなんだと思ってました。
←フィギュアと風景を撮るとかはあるけど、そこに自分は入らない
多分、なんとなくですけど「そこ」に対する思い入れみたいなものが強かったのではないかと。「そこ」で私は何を感じたかとか。「そこ」にどれだけ興味を持ったか、とか。
私にとっては「自分の思い」が重要なのであって、
誰とどんな風に過ごしたか、というのは二の次だったんでしょうね。
話が変わりますが、私は趣味で文章を書いたりしているのですが、
「うわ、この単語また出た…orz」
と嫌でも感じるのが「私は」+「思う」の組み合わせ。
それって主観ですよね。だって「思う」のはたいてい「私」ですから。
ということは、さっきの写真の話に通じますが、ちょっと極端な言い方になりますけれど、
私は「こだわり」というか「思い入れ」がだいぶ強いんじゃないかなって思うんです。
←出た、「私」は「思う」の組み合わせwww
色々なものを手放しているようで手放せないでいるのは、
結局はそういうことなんじゃないかなって。
許せないと思っていたこと、悲しかったこと、満たされなかったこと、腹立たしいこと、
屈辱的だったことも含めて(もちろん、良い思い出も!)全部が
「生きている間の私の体験」として、実は大事に大事に
一つ残らず離すまいと抱えていた宝物だったのではないかと思った時に、
オセロのピースが全部ひっくり返ったような、
「は~…、なるほど~」と思わず唸りたくなるような感覚を覚えました。
逆に、それに気づかないと手放せなかったのかもしれないです。
手放せたのかどうかもよくわかりませんが…、
今はわりと「あ~、あんなことあったけど、良い思い出だったな」っていう気持ちです。
いや、もしかしたら「えー違うよw」なんて数年後に思ってるかもしれないけど、
なんか今はこれで納得。
なんせ「私」は「思う」が強い人間なので、
自分が納得できないと次に進めないんです、多分www
これに気づかせてくれた人とは、別にスピリチュアルな話をしていたわけじゃなく、
ごくごく普通の話をしていただけなんですが…、(しかも別に一対一とかじゃなかった)
人生どこからヒントがやってくるかなんてわかんないもんですね。
さあ、手放しの7つのステップの、最後のボトルを使い終わりますよ。