クラブ「M・M」のビルの1階にある「笑寿し」は、最近新宿で勢力を

伸ばしてきた新興のすしチェーン店である。

このチェーンの売りは、明朗会計。

すしの値段が、ちゃんと表示されている点である。

念のため断っておくが、廻るおすしチェーンではない。



ル ミ:田嶋ちゃん、着いたわ、ここ、ここ。 



自動ドアが開いて、店内に入ると、20人ほどが座れる半円形の大きな

白木のカウンターがあり、そのすぐ横には、テーブル席、

奥には座敷が用意されていた。

時間が早いためか、お客は数えるほどしかいない。


カウンターの中には数名の板さんが、それぞれの仕事をこなしていたが

ルミ達の姿に気づくと口々に、大きな声で叫んだ。


板 前:らっしゃーい!


田 嶋:おっ、威勢がいいねぇ。すし屋はこうでなくちゃね。


板 前:ルミちゃん、今日はずいぶん早いね。


ル ミ:そう、今日は同伴日なので、食事しに来ちゃった。

    こちら、馴染みのお客さんで田嶋さんよ。


田 嶋:よろしく! 


板 前:こちらこそ、今後ともご贔屓にお願いしますね。

    おーい、あがり2丁ね。



二人が正面のカウンター席に座ると、仲居がお茶とおしぼりを運んできた。

田嶋はビールとつまみ用のお刺身を、ルミはにぎりを注文した。


田 嶋:ルミ、顔なんだね。


ル ミ:店が上のフロアだから、ちょくちょく顔出すだけよ。

    特に、お店が終わった後、ちょっと飲んだり食べたりするのに

    ちょうどいいの。 それに安いしね。


田 嶋:そうだな、すし屋にしては、全部のネタに値段がついてるね。

    これなら、安心して食べられるな。


ル ミ:でしょ、「時価」って書いてあると、怖くて手が出ないもの。

    それに、いくらっ? て聞くのも無粋な感じがして嫌だものね。


田 嶋:へぇ~、天下のルミちゃんでも、僕らと同じなんだね。


ル ミ:当たり前でしょ! こう見えても、ホステスってけっこう経費が

    かかるんですからね。 締めるとこは締めなくちゃ!


田 嶋:あはは、本気になってら!


ル ミ:もうっ、冗談だったの? 意地悪っ!


板 前:へい、お待ち



大きな下駄にのった、握り鮨がルミの前に出された。








田 嶋:ひゃー、うまそうだな


ル ミ:でしょ、本当に美味しいんだから


田 嶋:ルミ、ひとつ、食べてもいい?


ル ミ:ダメよ! 食べたければ田嶋ちゃんも注文したら?


田 嶋:ケチだな~、ルミ! ひとつくらいいじゃないか



そこへ、タイミングよく、田嶋の注文したお刺身がでてきた。





$新宿ばか物語 ~ ムード歌謡コレクション-すし刺身


$新宿ばか物語 ~ ムード歌謡コレクション-ジョッキ




田 嶋:ひょ~♪ こっちもうまそうだ!


ル ミ:さあさあ、田嶋ちゃん、ばか言ってないで乾杯しましょうよ!


田 嶋:そうだな、それじゃ乾杯~♪


ル ミ:乾杯~♪


田 嶋:あっっ、ビールが冷えててうまいな。

    生きてて良かったって実感できる瞬間だな


ル ミ:もう、田嶋ちゃんたら、オーバーなんだから。


田 嶋:ルミ、仕事が終わった後の1杯って、本当においしいんだぜ。

    これは、サラリーマンじゃないと実感できないかもな!


ル ミ:あら、私だって、それくらいわかってるつもりよ! 

    仕事の後のお酒って、同じもの飲んでも味が違うものね。


田 嶋:そう、そうなんだって、でも、サラリーマンって仕事中にお酒

    飲んでないだろ、だから、ルミがおいしいって感じてる感覚の

    100倍くらい、おいしいんだぜ、きっと!


ル ミ:ふーん・・・ じゃあ、そういうことにしといてあげるわ。


田 嶋:そうそう、そういうことにしといて(笑



お店のテレビからは、歌謡番組を流してるのだろう、「コモエスタ赤坂」が

流れてきた。



田 嶋:最近、この曲覚えたんだよ、ちょっと歌いやすいからね。


ル ミ:へえ~、じゃあ、後でうちの店で歌ってくれる?


田 嶋:いや、まだ人様の前で、お聞かせできる

    代物じゃないから、今度ね。


ル ミ:もう、いつもそれなんだから。


田 嶋:ところで、ルミ、すし屋に符丁があるの知ってる?


ル ミ:うん、、お勘定のときに、板さんがレジに言ってるあれのことね?

    くわしくは知らないけど!


田 嶋:それそれ、数字の1がピンで2がリャンで、えっーと3は

    何だっけかな?  ねえねえ、大将、3はなんだっけ?


板 前:3はゲタ、4はダリ、5はメですが、お客さんこんな符丁

    覚えないでよ。

    せっかく、わからないように金額を言ってるのに、

    これが知れ渡ったら、元も子もなくなっちゃいますからね。


田 嶋:あはは、大丈夫だって、1時間もしたら忘れてるからね。

    なんか、これって粋な感じがするよな。


ル ミ:そうね、わけがわからないから、面白いのかもね。

    あっ、やだ、もうこんな時間。田嶋ちゃん遅刻、遅刻。


田 嶋:よし、じゃあ、そろそろいくか。 

    大将、ごちそうさま、お勘定して!


板 前:まいど~!、それじゃあ、ゲタメです。


田 嶋:おおっ、安いね~! それじゃあ、また、きまっす。


板 前:ありがとうございやしたっ!







    


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午後6時半過ぎの新宿駅、通勤ラッシュのピークは一段落したとは言え

まだ多くの人々が行き交い、中央改札口付近は混雑でごった返していた。


待ち合わせの時刻に、ほんの少しだけ遅れた田嶋だったが、改札を通り

抜けると、もうそこにはルミが待っていた。


同伴出勤のため、すでに化粧も衣装もお店の中さながらに準備してきた

ルミの格好は、明るい駅構内ではひときわ異彩を放っていた。



ル ミ: 田嶋ちゃーん、ここよ!



田嶋の姿を見つけると、ルミは大きく手を振った。



田 嶋: やあ、待たせちゃって、ごめん。


ル ミ: ううーん、私もちょっと前に来たばかりなの。

     でも、さすがに新宿駅は人が多くて目が回るわね。



田 嶋: そうだな、普段人混みに出ないルミにとっては、きついかもね。


ル ミ: そうでもないわよ、私だって、休みの日は買い物とかで、

     ちょくちょく来てるんだけど、この人混みが苦手なのよね。



田 嶋: 人混みが好きな奴って、あまりいないんじゃないか?



ル ミ: そんなことより、早く行かないと、ご飯を食べる時間がなくなるわ。


田 嶋: どうせ、ルミの店で飲んだり食べたりするから、俺は食べなくても

     いいけどな。


ル ミ: 何言ってんの、私が食べられなくなるでしょ。


田 嶋: はい、はい。


ル ミ: 田嶋ちゃん、返事は1回!


田 嶋: はいっ!!





バカを言いながら、ルミは田嶋の腕を取って、歌舞伎町方面へ歩き出した。

途中、ルミの格好を見て何人もの男が、振り返っては通り過ぎて行った。



田 嶋: ルミは注目度高いな!
 


ル ミ: こんな派手な格好してるから、仕方ないわ

     でも、この靖国通りを渡ったら、目立たなくなるから、大丈夫よ。



田 嶋: そうか、もう歌舞伎町だもんな、ところで、何を食べる?


ル ミ: 田嶋ちゃんさえ良かったら、お鮨なんかどうかしら。!








田 嶋: おっ、鮨か。 いいね、江戸っ子だってね♪


ル ミ: 神田の生まれよ・・・♪ もう、変な事言わせないでよ、ばかぁ~。



ル ミ: 時間がなくなっちやったから、うちの店のビルの鮨屋でいいかな?


田 嶋: 俺はどこでもいいよ。!





歌舞伎町の通りを抜け、コマ劇場を過ぎたあたりから、

人影が少なくなってきた。

集客のため、カラオケスタジオから流れ出ている

曲が聞こえてくると、ルミの店はもう目と鼻の先だ。






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年が変わって、いよいよ昭和50年代の幕開けである。


クラブ「M・M」のオープンから2ヶ月ほど経った週末の午後、

飯田橋のとあるオフィスの電話が鳴った。



事務員: はい、神楽坂商事です。 

     ええ、そうですが、少々お待ちくださいませ。




事務員は、電話を保留にすると内線の番号を廻した。


  プルルルルル~ プルルルルル~ ガチャ



事務員: 田嶋主任? 1番に外線です。 


田 嶋: どこから?


事務員: それが、加藤さんとおっしゃる女性の方なんですが、

     もしかしたら彼女ですか?



田 嶋: おいおい、いい加減な推測は迷惑だな。

     それに、知り合いに加藤なんていないし、誰だろう?

     まあ、出てみるか。




田嶋はビジネスフォンの点滅しているボタンを押した。



田 嶋: 電話代わりました、田嶋ですが・・・



ル ミ: あっ、田嶋ちゃん! お久しぶりです。
 
     クラブ「M・M」のルミで~す。

     ごめんね、会社に電話しちゃって。



田 嶋: なんだ、ルミか。 

     脅かすなよ、加藤って言うから誰かと思ったよ。



ル ミ: なんだとは、ご挨拶ね、2ヶ月ぶりだというのに! 

     嘘でもいいから、もっとうれしそうにできないの?

     あれから、1回も顔出さないなんて、さみしいじゃない。

     それに、加藤は私の本名よ、前に教えたじゃないの、忘れたの?



田 嶋: ゴメン、ゴメン。 そうだったかな?

     それにしても、会社まで電話をかけてくるって事は、

     何かあったのか?



ル ミ: そうなの、お願いがあるんだけど、今日の夜 空いてない?



田 嶋: 何か怖いな...まあ、予定はないけど。



ル ミ: ああ、良かった。 田嶋ちゃんお願い、今日同伴してくれない?

     この通りよ!



田 嶋: この通りって言われても、電話じゃわかんないしな。

     いったいどうしたんだい?



ル ミ: それがね、うちの店、毎月最終金曜日が、同伴デーなんだけど、

     今日約束してたお客さんが、急にドタキャンしてきたのよ。

     それで、困っちゃって、田嶋ちゃんに白羽の矢を立てた

     というわけなの。



田 嶋: うーん、まあ、給料日の後だし、そういう事情なら

     しょうがないから、付き合ってやるよ。



ル ミ: キャー、うれしいわ。 さすが、田嶋ちゃんね、

     ここぞという時には頼りになるわ~

     その代わり、精一杯サービスさせて頂きますから。



田 嶋: はいはい! 話半分で聞いとくよ。

     それじゃあ、店の近くの喫茶店ででも、落ち合うか?



ル ミ: ううん、それじゃ、悪いから、新宿駅までお迎えに上がります。

     そして、途中で食事でもして行きましょうよ。



田 嶋: なんか言葉遣いが、ちょっと気持ち悪いけど、

     ルミがそういうなら、俺に異存はないよ。



ル ミ: じゃあ、だいたい20時頃までにお店に入らなきゃいけないので、

     18時半頃、大丈夫かしら?


田 嶋: オッケー、じゃあ、中央口の改札で待ってるから。










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本日最後の曲が終わると、店内がパッと明るくなった。


絞っていた照明を最大限に明るくして、営業が終わったことを

お客に知らせるためだ。


同時にそれは、ホステスや歌の世界に浸っていたユートピアから、

現実の世界へと引き戻される瞬間でもあった。




田 嶋:おっと、急に明るくなると眩しいなぁ。



田嶋はルミに話かけると、そのままじっとルミの顔を見つめていた。


ル ミ:えっ、何! 


田 嶋:いや~、こんな白日の下でルミの顔を、まともに拝見できる

    チャンスなんかそうそうないからね。

    目に焼き付けようと思ってさ。




ル ミ:しまった! そんなにジロジロ見ないでよ。 

    お化粧も取れかかってるんだから、恥ずかしいじゃない。

    それに、私、明るいところ苦手なんだな~。





ルミは顔を両手で隠しながら、田嶋に背を向けた。




田 嶋:大丈夫、ルミはすっぴんでも、きれいだからね。



ル ミ:どうして、わかるのよ、すっぴんの私 見たことないくせに。



田 嶋:わかるよ、ルミみたいな美人は、統計的にみて

    素顔もきれいなんだから。



ル ミ:へぇっ、でも私、すっぴんでお店に来た事があるんだけど、

    マネージャーは私のこと、誰だかわからなかったわよ。



田 嶋:それは、きれいだとかそうじゃないとかに関係ないんじゃないのか?

    単に化粧してないから、認識できなかったという事だろ?



ル ミ:それは・・・、そうね。



田 嶋:じゃあ、今度、ルミのすっぴん 見せてくれる?



ル ミ:それだけは、絶対にイヤ! 

    芸能人は歯が命、ホステスは顔が命なのよ!



田 嶋:はっはっはっ、半分冗談だよ。



ル ミ:じゃあ、後の半分は?



田 嶋:見たいような、見たくないような、やっぱ見たいな。 



ル ミ:それだけは、絶対にイヤ!



田 嶋:そのセリフは、さっきも聞いたな。、





そこへ明日香が戻ってきた。




明日香:田嶋さん、ルミちゃん遅くなってしまって、ごめんなさいね。



田 嶋:ぜんぜん、OKですよ。

    二人で楽しくやってますから。



明日香:そうか、却って、私がいない方がよかったかしら?



ル ミ:ママ、そんなこと、まったく・・ないですから。



明日香:そんなにむきになる所をみると、図星だな!



ル ミ:違いますって!



明日香:ますます、怪しいぞ。 ね、田嶋さん?



田 嶋:ええ、まあ、僕はどっちでも、いいんですけど。

    それより、ママが帰ってきたから、そろそろ、帰るかな。




明日香:まあ、ごめんなさい、お引止めしちゃって。


    
ル ミ:いいのよママ、田嶋ちゃん、どうせヒマなんだから。



田 嶋:はいはい、仰せのとおりです。



明日香:ふふふ、やっぱり、二人は仲がいいわね。息がぴったりだわ。

    じゃあ、そろそろ行く? 下まで送らせてね。



田 嶋:ママ、ここでいいですよ。 ルミもいるしね。



明日香:田嶋さん、そうはいかないわ、これは私の仕事です、

    お邪魔でも、お見送りしますからね。



田 嶋:わかりました、じゃあ、お願いします。、




こうして、田嶋の長い長い1日が終わったのである。 <つづく>








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明日香: 田嶋さん、ごめんなさい。

     マネージャーに呼ばれたから、ちょっと失礼しますね。

田 嶋: どうぞ、どうぞ、こっちは気にしないでください。




ステージでは、あきらが、ルミのリクエスト曲を歌っていた。

そして、その曲が終わった途端に、田嶋は奇声を上げた。



田 嶋: ブラボー! あきら! うまいぞ!
    

ル ミ: 田嶋ちゃん、恥ずかしいから、そんな大声出すのやめてよ。


田 嶋: いいじゃないか、本当に感激したんだから!


ル ミ: でも、ほら、あきらさんだって、ちょっと迷惑な顔してるわよ。





田嶋はステージ上のあきらの顔を凝視した。





田 嶋: えっ!・・・・・! オッホン!

     それにしても、あきらさん、いい声してるし、歌がうまいねぇ。


ル ミ: なによ、急に話題変えちゃって。

     でも、そりゃあそうよ! あきらさん、昔、レコード出したこと

     あるのよ。


田 嶋: へぇ~ どおりでうまいはずだ。 元プロ歌手か!


ル ミ: でも、売れなかったらしいわ。 

     歌がうまくてもダメなのよね、あの世界は。

     今はタレント性が求められる時代だものね。





ルミは知った風な口を聞いたが、あながち、まちがいではなかった。




田 嶋: そうだな、でも、ルミ達の商売も同じことが言えるんじゃないのか?



ル ミ: ほんとよね、だいたいお店のナンバーワンって、

     とびっきりの美人は少ないし、顔だけ良くったって、

     お客様はつかないわ。 


     お客様を飽きさせない話題と話術、それにきめ細かい気配り

     がないとね。


     
田 嶋: じゃあ、ルミにも可能性があるわけだ。



ル ミ: 何よ、私、そんなに不細工かしら?



田 嶋: ち、違うったら! 話術と気配りの方だろ。ナンバーワンの

     条件ってさ!

     ルミちゃんの話術にかかったら、どんなお客もイチコロさ!!



ル ミ: こんな時だけ、「ちゃん」付けで呼んじゃって、何さ。 

     うーん、でも、何か騙されてるような気がするな?



田 嶋: 気のせい、気のせいだから。


ル ミ: まあ、今日のところは大目に見とくわね。


田 嶋: ありがたい、ルミちゃん、さまさま、大明神さま!


ル ミ: もう、いつもその手で、誤魔化されちゃうんだから。



     

田 嶋: ところで、このステージ終わると、もう閉店だろう?


ル ミ: そう、みたいね。


田 嶋: じゃあ、俺もそろそろ、帰る支度を始めるかな!


ル ミ: 田嶋ちゃん、帰り支度って、私から逃げる魂胆?


田 嶋: いや、別に、そんなわけじゃ。 


ル ミ: じゃあ、慌てることはないでしょ、ママが戻ってくるまで

     いいでしょ?




田 嶋: そりゃあ~、いいけど・・ いいですとも・・ はい、いいです。


ル ミ: あ~、良かった。 さすが、田嶋ちゃんね。 頼りになるわ~


田 嶋: 頼りにって・・・。


ル ミ: 田嶋ちゃん、何か言った?




ステージでは、本日最後の演奏が始まった。










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