2006-08-30 21:57:41

斎藤茂吉の戦争反省

テーマ:読書雑感

歌人、斉藤茂吉の歌が新制中学校国語教科書で出てきたことを今でも覚えている。

死にたまう母

死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

特に最初の歌はその環境に近いところに住んでいた東北の田舎の少年の琴線に触れるもがあった。後にこれは「赤光」という歌集の一部であることを知た。(大正2年)

茂吉は終戦間じかに故郷に疎開し大石田の名家の離れに住んで、そこで詠んだ歌集が「白き山」である。「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」は有名な歌で私の好きな歌である。ところがその歌集の中に次のような歌がある。「軍閥ということさへも知らざりしわれをおもえば涙しながる」全体から見てかなり異質である。この歌については多くの批判がある。

茂吉は戦時中多くの戦争賛美の歌を作ったことで知られている。同じ山形県人の藤沢周平も茂吉の日記「敵がニュウブリテン島二上陸シタ。敵!クタバレ、これを打殺サズバ止マズ(昭和18年)を引用し、「茂吉はこういうふうに熱狂的な戦争賛美であり、協力者であった」と批判している。現在は全集からも戦争賛美の歌は削除し読むことができないが、その彼が「軍閥ということさへも知らない」というのはいかにも白々しくおかしいというのである。これは一説によると「戦犯指定」を免れるための自己弁護の歌ではないかというのである。

偉大な作家を貶す気持ちはさらさらないが、茂吉にも触れられたくない過去があったのである。同じ「白き山」のなかに「追放といふことになりみづからの滅ぶる歌を悲しみなむか」と開き直りともとれる歌がある。彼にとって「戦争賛美は自分だけ一人でやったのではない」という気持ちがあるのだろう。

ふと茂吉を思い出したのは、昨今の靖国参拝問題にちなんで、まやぞろ「戦争責任」の問題提起をする動きがでてきたからである。A級戦犯の責任はさておき、多くの文化人、ジャーナリストたちは戦争中の行動についてどんな反省をしたのか。

その意味ではその後ろめたさをもらした茂吉の弱さが理解できる。彼のいかにも東北人らしい愚直さを感じるのだが・・・。今日改めて彼の歌集を読んでみた。やはり優れた歌が多い。

斎藤茂吉著 斎藤茂吉歌集 岩波文庫  1973年9月刊

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2006-08-27 22:21:26

吉村昭氏の尊厳死

テーマ:読書雑感

作家の吉村昭氏の死については、ブログで哀悼の意を捧げたが、吉村さんのお別れの会が24日開かれ、妻で作家の津村節子さんが発病から1年余りの闘病の様子を語った。それによると、吉村さんは昨春舌ガンを宣告され放射線治療を受け今年の2月に膵臓ガンがわかり全摘出手術を受け療養していたが,この7月に病状が悪化し、死の前日、点滴の管と首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートを自らの意思で引き抜いたという。吉村さんは「延命治療をしない」意向だったために、家族は治療を断念したという記事が載っていた。

私はこの記事を読んで吉村さんの著書「冷い夏、暑い夏」を思い出した。この本は吉村さんの私小説で、2歳違いの弟がガンにかかったときに、事実を弟に隠し通す決意する。周囲に対する厳重な口止め、弟に読ませるためのニセの日記まで用意する徹底ぶりである。

弟を愛し、よりよく死なせたいという彼の願いがひしひしと伝わってくる文章である。しかし、よく読むと吉村さんの心のゆれも伺われる。「不意に私の胸に、弟を死なせてやりたいと願いに近いものがかすめ過ぎた。・・・弟が激痛にあえいでいた頃、私は院長に延命より安楽を・・・と兄の立場をつたえたが、それは巷間、是非の論じられる安楽死とは本質的に異なる。私が安楽という言葉を口にしたのは、激痛をやわらげる方法を積極的に採用して欲しいと望んだからで、その方法をとることによって死が幾分早まってもやむを得ない。・・・・私が弟を死なせてやりたいと思うのは、安楽死という意味ではなく、あくまで自然死が条件である。」

弟のガンについてその「生」について「熱い」思いで看病しながら、一方では延命よりも苦痛軽減のために何かを施し、それで命がみじかくなってもやむをえないという「冷い」冷静さを吐露している。題名の「冷い夏」、熱い夏は象徴的な表現である。

これは吉村さんが若いときに肋骨を切断する激痛の結核手術の体験もからんでいるといわれる。今回の「延命治療をしない」という吉村さんの尊厳死は、この自己体験、弟の死の体験による彼の死生観からきたものではないかと思えてならない。彼の書いた「冷い夏、熱い夏」は、そのままこの熱い夏に亡くなった吉村さん自身のものになってしまった。

吉村昭著  冷たい夏 熱い夏 新潮文庫  1990年6月刊

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2006-08-23 20:18:42

信州に上医あり

テーマ:読書雑感

終戦直後から農村地帯の集団検診普及などに努め「農村医学の父」と呼ばれた佐久総合病院名誉総長の若月俊一氏が22日午前5時5分、肺炎のため長野県佐久市の病院で死去した。96歳。

若月さんの波乱に富んだ生涯については同じ佐久病院勤務の医師で作家の南木佳士氏(なぎけいし、1889年「ダイヤモンドダスト」にて 第100回芥川賞を受賞)が「信州に上医ありー若月俊一と佐久病院ー」に書かれている。

戦前、東大医学部在学中、左翼運動にのめりこみ、治安維持法にひっかかり、無期停学。さらに医師になった東大分院時代、その著書のために同じく治安維持法違反で逮捕され1年間の拘留を受けている。終戦間じかの1945年3月、恩師のツテで現在の佐久病院に赴任している。当時の佐久病院は院長と女性医師がいただけの診療所だったといわれている。

若月さんは外科医として手術にあたり、さらにいろいろな企画を出して地域医療にあたり院長になって現在のような総合病院に発展させたのである。その歩みについては佐久総合病院のホームページである佐久総合病院の年表 で知ることができる。その中で1959年の長野県の八千穂村の全村健康管理の試みは画期的なことであり、現在の地方公共団体の集団検診など予防医療の先鞭をつけたものである。

しかしこれに対する病院内の若い医たちから批判を浴びている。医師たちへの労働強化、病院からの経費持ち出し、病院における医療内容の低下などについての若月さんへの病院経営批判である。



確かに的を突いた批判であるが、農村医療の低さを解決するために一緒にやってくれというと、その犠牲のなるのは嫌だと拒否したという。若月さんは医療矛盾をつくが、農民のために一緒に苦労しない医師に頭を痛めたようである。戦前の原体験から地域医療、特に農民一人一人の命を守ろうという若月さんの意図は若い医師には伝わらなかったのである。

今日の毎日新聞は若月さんの死についてふれ、さらに地域医療の現状と課題に迫っている。先日もブログに書いたが、全国の医療現場から地方病院勤務の厳しい診療科を避ける医師が増えているそうだ。「農村医療の経験を踏まえつつ都市と農村を一体とに捉えた医療が必要である。」(立身岩手大保健管理センター長)「住民が主役の医療、誰もが等しく受けられる質を担保した「肌着のような医療」こそ医療に土台だ」(日本農村医学会山根理事長)など関係者の叫びが聞こえるが、農村や離島など僻地での医師がいない状態の解消、専門医院と僻地を結ぶ診療支援の方法など国でも施策をあげているにもかかわらず、効果を挙げていないのが現状である。

「医学とは人々の幸せと命を守るものだ」と「実践医学」を訴えて農村医療に邁進した若月さんの活動は今曲がり角にきているいるようである。南木さんは「信州に上医あり」という題名は中国春秋時代の史書に「上医は国を医(いや)す」からとったという。彼は「しっかりとした知識と技術をもち患者の住む地域社会のさまざまな問題に取り組もうとするのが上医である」と述べているが、もはや地域(農村)医療は医師個人を越えた問題となっていることを若月さん死を通じて痛切に感じた次第である。

南木佳士著  信州に上医ありー若月俊一と佐久病院ー 岩波新書 1994年1月刊

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2006-08-20 13:27:55

ロシアの漁船襲撃・拿捕事件

テーマ:時評

北海道根室沖の北方領土・貝殻島付近で16日、日本のカニかご漁船「第31吉進丸がロシアの国境警備艇から銃撃を受け、拿捕された。乗組員の盛田光広さんが銃弾を受け、死亡した。その盛田さんのご遺体が昨日19日根室港に帰ってきた。

日本は千島列島の中の国後島・択捉島、色丹島、歯舞諸島は日本固有領土のと主張しているわけであるが、ロシアとの交渉はいまだ解決しない。この経緯については外務省のHP北方領土問題 に詳しい。

今回の事件は歯舞諸島の水晶島付近で操業中の蟹かご漁船がロシア国境警備局の警備艇により追跡され、貝殻島付近で銃撃・拿捕されたものである。元来この付近の海域での無許可操業は農水省や北海道当局も禁止しており、またカニ漁に関しては日本側には認められていなかったが、生活に追われた漁民の密猟が絶えない海域であったようだ。

それにしても、ロシア側の過剰な銃撃・拿捕には怒りを覚えるが、日本政府の普段の外交を怠ったツケが今回ってきた感じがする。政府はロシア当局に対し、北方領土は日本固有の領土であるとの前提に立って「日本領海内で起こった銃撃・拿捕事件であり、到底容認できない」と抗議しているが遅きに失した発言である。

この千島列島をめぐる日本ロシアの関係の歴史は古い。ロシア船ディアナ号は1811年国後南端の港に立ち寄り、船長ゴローニンが幕府に身柄を拘束される事件がおきている。それ以前にロシア船が日本船を襲ったりして警戒していた矢先ある。ゴローニンは2年間日本に幽囚されることになる。この2年間の生活を記録したのが「日本幽囚記」で、当時の貴重な北方史料になっている。

さてこのゴローニンを救出すべく同じデアナ号でやってきたのが、リコルド船長で水晶島から国後島へ航海中の高田屋嘉兵衛の観世丸を拿捕、彼を拉致する。このことについては司馬遼太郎の「菜の花の沖」に詳しい。結局リコルドは嘉兵衛の人柄を信じ、幕府との交渉に当たらせ、ゴローニンは無事帰国する。司馬は嘉兵衛の見事な民間外交を賞賛している。今回の事件で感じることは相手に抗議をすることも必要であるが、普段のお互いを信頼を獲得する国家間の信頼関係の構築である。最近の日本には相手を攻撃するだけの狭いナショナリズムが横行している感じがする。

ゴロヴィン著 井上満訳 日本幽囚記(上下)岩波文庫 1986年6月刊
司馬遼太郎著 菜の花の沖 (5巻、6巻) 新潮文庫  2000年9月刊

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2006-08-16 22:14:48

私にとっての8月15日

テーマ:読書雑感

今日の各紙とも8月15日の小泉首相靖国参拝が一面のトップを飾っている。まさに小泉劇場の最後ともいうべきワンマンショウである。彼が言うように「個人の心の問題」だとしたら、騒ぎたてることはあるまい。わたしは無視したい。それ以上に8月15日終戦の意味を考えたいと思っている。

1945年8月15日、私は9歳、小学校3年生であった。残念ながら天皇の玉音放送は聞いていない。しかし数時間後、学校の先輩たちを通して日本が戦争に負けたことが伝わった。その数日前からアメリカの飛行機が飛び、ビラを撒いたことを目撃しており、悪い予感はしていた。日本はどうなるのか友人たちと幼いながら不安を話し合ったことを覚えている。

作家の高見順は「『ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃたらみんな死ぬわね』と妻が言った。私もその気持ちだった。やはり戦争終結であった。君が代奏楽、内閣告諭、経過の発表。遂に敗けrたのだ。戦いに敗れたのだ。(敗戦日記)と述べているが、内容のわりに終戦の切実感が伝わってこない。

太平出版社がシリーズ「戦争の証言」20巻を発行したが、その中の一冊、小熊宗克の「 死の影に生きて 太平洋戦争下の中学生勤労動員日記」を読んだ衝撃は忘れられない。

戦争は終わってしまった!? 考えもみなかったことが突然起こった。頭が空っぽになった。目の前が黒くなったり、赤くなったりした。冗談じゃないと思った。そんなばかなことがあるのか。この期におよんで何事だ。陛下、なぜ降伏したのですか。この私はいったいどうなるのですか。私はこの汚名をどうしてぬぐったらよいのですか。この戦争を止められては絶対困る。・・・・陛下なぜ最後まで戦わないのですか。なぜ「朕のために死ね」とおっしゃらないのですか。

このような純粋な軍国少年がたくさんいたに違いない。近くの年上の旧制中学生たちの中にも、軍事工場動員、さらには「予科練を」希望したの人がいることを知っている。戦争終結はこのような軍国少年の気持ちを混乱におとしいれたのである。戦争は多くの戦死者、犠牲者を出したばかりでなく、人間の精神まで錯乱させたのではないか。私は自分のかぼそい体験をもとに61年前の8月15日、日本人がどんな気持ちで終戦をむかえたかをもっと知りたい。靖国参拝のパフォーマンスにつきあっておられないのである。

小熊宗克著著 死の影に生きて 太平洋戦争下の中学生勤労動員日記  太平出版社 発行年月 1979年刊10月 刊

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2006-08-12 19:08:27

「お盆」考

テーマ:読書雑感

明日は「お盆」である。これはサンスクリット語のウラバンナを漢語で「盂蘭盆」になりそれが省略されて「お盆」になったといわれているが、柳田國男によれば、お盆は祖先の霊が家に還ってくる日であり、仏教の教えにない日本固有のものであるという説を唱えている。

柳田は、土地のよってこの霊を「ご先祖様」「ホトケサマ」というのが普通で、「ショウロウサマ」(精霊)という地域もあるという。この「精霊」は個人の霊魂であり、その精霊を「ホトケサマ」と呼んでいることに柳田は疑問を投げかけている。根本的にはお盆に還ってくるのは「仏様」ではなく先祖の「霊魂」であるというのが柳田の考えである。

それにしてもお盆の古くから伝わる民俗的風習が次第に失われてきている。以前には「ホカイ」といって墓地の前に精霊棚をつくり「食べ物」をを供える風習があった。棚の上に蓮の葉を置きそこにご馳走を供えるものであり、墓の近所の子供たちが虎視眈々とそれをねらっていた記憶がある。この風習も不衛生の名の下に無くなってしまった。柳田によると、秋田地方には「焼ホウカイ」といって盆の14日未明に餅を搗いて供える風習があったことを「秋田風俗問状答書」に書かれてあることが紹介されている。

柳田は「年中行事覚書」の中で、お盆に関して1.新精霊のある家のお盆のようす、2.盆棚の作り方と名称、3・万霊祭(家の先祖以外の所謂「無縁墓」の供養)、4.水手向け(鉢に水を盛って盆棚に供える場合水鉢に何を入れるか)、5魂迎え、魂送りのための食べ物名)、6.迎え火、送り火、7.盆小屋と辻飯(盆の終わりに少年たちが小屋をかけ煮炊きの食事をする風習)などを調べているが、柳田がいたころの時代と違いこれらの風習を殆ど調査不能になってしまった。

わが家に関しては、先祖以外の墓地を「無縁仏」として今でも手厚く祭り、「辻飯」も盆の最後の日、「送り火」にお握りを焼くことを最近まで続けていた。しかし、社会全体としては先祖の霊を祭るためのさまざまな民俗行事は殆ど無くなってしまった。

それにもかかわらずお盆の帰省ラッシュはすごい。新しいお盆の「年中行事」といってよいのかもしれない。明日のお盆に当たり、お墓や先祖に供える「盆花」の高価に家内は悲鳴をあげている。昔は自宅の畑、山野の花で間に合ったのに・・・。

柳田國男著  年中行事覚書(柳田國男全集16巻)ちくま書房 1990年5月刊

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2006-08-09 20:29:10

原爆忌

テーマ:読書雑感

6日の広島原爆記念式典に継いで今日9日長崎の記念式典が行われた。秋葉広島市長は「人類は今、すべての国が核兵器の奴隷となるか、自由となるかの岐路に立たされている」と指摘。核廃絶が進んでいない現状について「世界政治のリーダーたちは『核兵器が持つ唯一の役割は廃絶されることにある』との声を無視し続けている」と批判し、伊藤長崎市長も「米国、北朝鮮、パキスタン、イスラエル、イラン、インドの核保有国や核開発疑惑国を名指しし、核不拡散体制が崩壊の危機に直面していると指摘。「核兵器の威力に頼ろうとする国々は、被爆者をはじめ平和を願う人々の声に謙虚に耳を傾け、核軍縮と核不拡散に誠実に取り組むべきだ」と訴えた。それにくらべ小泉首相の挨拶は原稿の棒読みで誠意の感じられない乏しい内容であった。

原爆被害の悲惨さ、今でも原爆病に悩む人々が多くいることにやりきれない思いである。しかし私は「反戦平和」を声高に叫ぶ前に被爆者の声に真摯に耳を傾けることが必要であると思っている。今日井伏鱒二の「黒い雨」を読み返してみた。ここには閑間(しずま)重松、シゲ子夫妻と姪の矢須子(工場勤務)の被爆体験が日記を通して描かれている。

8月7日の矢須子の日記から「昨日、宇品工場合宿所へ移ることに決定したが、実行不可能のため中止。おじさんの言葉に従って古市へ避難。おばさんもご一緒。工場の事務所で、おじさん落涙数行。広島は焼けこげの街、灰の街、死の街、滅亡の街。累々たる死骸は、無言の非戦論。今日は工場の損害調査。」

8月7日の重松の日記から「護国神社の堤のわきに銃を立銃(たてつつ)にし持った歩哨が立っていた。近寄って見ると堤に背を持たせ目をぱっちり開いた死人の歩哨であった。襟の階級章をみると陸軍一等兵である。なんとなく品格のある顔だちだ。「あらキグチゴヘイのような」シゲ子はそういった。実はキグチゴヘイの故事を思い出していたところだが「こら、失言だぞ」とシゲ子を叱った。

この内容には文学者としての井伏鱒二の静かであるが戦争呪詛の叫びが聞こえる。そして原爆病に蝕まれていく姪矢須子へのいたわりがにじみ出ている。核廃絶、不拡散の政治的叫びも必要である。そのためにも次第に老齢化している被爆体験者の声を収録し、そして若い人々に伝えていく義務があるとこの本を読み返し強く感じたのである。

井伏鱒二著  黒い雨  新潮文庫  1970年8月刊

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2006-08-04 20:00:01

吉村昭氏の死を惜しむ

テーマ:読書雑感

作家家吉村昭氏が7月31日亡くなった。(79歳)。 吉村氏は」学生時代に肺結核で死と向き合った経験から文学を志し、66年に「星への旅」で太宰治賞。その後「戦艦武蔵」などで記録文学の新境地を開いたが、歴史小説を次々に手掛たことで知られている。特に史実に丹念に調べた小説には定評がある。

私は司馬遼太郎、藤沢周平、吉村昭の歴史小説が好きであるが、三者三様の特色があり、その中で確実な史料に基づいた吉村昭氏の小説にも惹かれる。読んだ作品を列記すると、長英逃亡、生麦事件、桜田門外の変 落日の宴、天狗争乱、ふぉん・しいほるとの娘、破獄、仮釈放、ニコライ遭難、敵討、関東大震災、アメリカ彦蔵、戦艦武蔵、ポーツマスの旗などで、熱烈な吉村ファンからすると少ないのかも知れない。

その中で特に忘れられないのは「長英逃亡」で、これは水沢藩出身の蘭学者長英が江戸の日本橋小伝馬町の座敷牢から脱獄し全国を逃亡したさまを描いたものである。吉村さんは歴史エッセー「史実を歩く」(文春新書1998年)でこの長英逃亡ののコースを訪ね歩き入念な調査をしたことを書いている。

このことについては小生のブログ「日月抄」の2003年12月18日の「長英の逃亡ルート」 にも書いているが、長英が故郷の母親に会いに行く場面がある。長英は新潟の直江津に滞在したことは確かであるが、阿賀野川を船でさかのぼり、「越後の国境沿いに待っていた鈴木忠吉の子分の手引きで奥州に入り大雪の北に向かった」とあり、水沢の手前の前沢で母親と会うことになる。この奥州に入ったコースは、この小説でも書かれておらずいつも疑問に思っていた。

吉村氏のの調査では長英は母親と会い、道を戻って米沢の地に入ったと「史実を歩く」に書いており、長英は水沢に入る(戻る)には奥羽山脈をどこかで縦断しなければならない。私は今では歴史的道路となってしまったが、現在の秋田県東成瀬村から岩手県胆沢町を経て水沢に抜けるコース(手倉越え)ではなかったかと今でも思っている。。吉村さんはこれについては何も書いていない。いつかお手紙を出して聞いてみたいと思ったが遂にできないでしまった。吉村氏の歴史小説は私に郷土の歴史的なロマンを膨らませてくれた。その死を惜しんでいる。

吉村昭著  長英逃亡 新潮文庫 1889年9月刊

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2006-08-01 21:26:39

死者を食う蟹

テーマ:読書雑感
日本文藝家協会編の「ベストエッセー2006」 を光村図書から発売中で,選ばれたエッセイ78篇を収録している。HPにはその執筆者一覧 を載せている。

この本を購入しようとした矢先、岩波の書評誌「図書」8月号に、この「図書」から、7人の方の作品が採用されていることを知った。早速バックナンバーを調べてみると、その中に詩人小池昌代の「死者を食う蟹」がある。これは私には頭に残っている忘れられないエッセーである。

友人たちと「食べられないものの話」をしていたとき、詩人会田綱雄の詩を思い出したというのである。会田は「戦争のあった年にとれる蟹は大変おいしい、なぜならその蟹は死者を食ったから」という話を昭和15年「南京特務機関」にいて占領され虐殺された側(中国)から聞いたというのである。この口承をもとに詩「伝説」を書いたことを小池さんは紹介している。

わたしたちがやがてまた
わたしたちのははのように
痩せほそったちいさなからだを
かるく
かるく
湖に捨てにいくだろう
そしてわたしたちのぬけがらを
蟹はあとかたもなく食いつくすだろう
むかし
わたしたちのちちははのぬけがらを
あとかたもなく食いつくしたように
それがわたくしたちのねがいである
(伝説の一部)

小池さんは「戦争というのは二者の鮮やか対立線をひく。勝者と敗者、加害者と被害者。そういう観点から語られるけれども、この詩においては背景に「戦争」がありながら、もはや加害者と被害者といういう二項だては無効なものになっている。「生者」と「死者」というたてかたがあるだけだ。そしてふたつは、対立でなく、連綿と続く、同一線上のものとしてとらえている。」と解釈している。

人間は蟹を食べる連鎖が続いている。つまり人間の残酷な生は蟹を通して鮮やかに見えてくる。最初に死者を食った蟹を食った人にわれわれがつながっているからである。

このように考えてくると戦争は「死者」と「生者」しかいないという会田の詩から、いくら戦争に正義の御旗と振りかざしたとしても、いたいけな多くの子供が殺害されたレバノンにおけるイスラエルの行動は「死者」を食った蟹を食べ続けているような気きがしてならない。

小池昌代作  「死者を食う蟹」   図書(岩波書店) 2005年1月号
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