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2006-04-30 17:56:17

ゴヤはなぜ魔女の絵を描いたか?

テーマ:読書雑感


現在東京都美術館で「プラド美術館展」 が開かれている。その中でゴヤの作品7点が含まれているが、特に「魔女の飛翔」が話題になっているようである。今日のNHK新美術館もこの作品をとりあげ、彼が何故魔女を描いたのかについて「ゴヤが最も初期に描いた魔女の絵の1枚「魔女の飛翔」。以後、多くの魔女を描き続けた。社会風刺を刻んだ銅版画集「ロス・カプリチョス」では、さまざまな姿の魔女をキャラクターに起用。そして最晩年、スペインの動乱の時代を体験したゴヤが、その境地を描いた「黒い絵」にも登場する。しかしその魔女は恐ろしい姿へと変ぼうしていた。ゴヤが魔女に託した思いをたどる。」という問題意識でその意図に迫っている。

ゴヤは彼を最大のパトロンであったたオスナー公爵家のために6枚の魔女の絵を描いている。その一枚が「魔女の飛翔」で空中を浮遊する上半身裸の魔女が人間の屍を運び、その下を頭から布をかぶった男が驢馬を従えて歩いている姿である。すでに宮廷画家になったゴヤがこのような魔女を描くようになったのは「マドリード画帖」にも見られる。このことについてNHKの解説では、彼自身の聴覚の喪失、多くの子どもを失くす、それに1610年のログリニォ異端審問で魔女裁判が行われており、それを知った影響ではないかと述べていた。

ゴヤの内面に迫った堀田善衛著「ゴヤ」は、このことについてゴヤの活躍した18世紀のスペインはこの魔女裁判には殆ど関心がなく、ゴヤたちの魔女は「一面では迷信批判、他の面ではその絵画的面白さと人間狂気に対する批評としての応用、想像的に翼を与えるものとして積極性などがまじっているのが大部分」で、当初はそんなに大上段に描いたものではないことを指摘している。



しかし、「ロス・カプリチョス」(気まぐれ)になるとその内容がさらに厳しくなる。この銅版画に刻まれた彼自身のコメントは「理性に見放された想像力はありうべきもない怪を生じせしめる。理性と合体せしめられたならば、想像力はあらゆる芸術の母となり、その驚異の源泉となる」と述べているように、魔女の絵を通して風俗、迷信、政治、教会と批判の目を向けている。

堀田氏はその経緯を『「社会の過誤」「狂態と愚行」「偏見と欺瞞」「無知と利害」しかし道学者ぶって一方的に自分の方から酷評を加えているのではない。彼自身アラゴンの荒野から攻め上って現在の地位(首席宮廷画家)に至るまでいったいどれほどの策略や狂態、愚行、偏見、欺瞞等々を働き、何人の足を引っ張ったことか、振り返ってみればカッコの対話(絵の中の対話)はすべて自分自身へのものである。』とゴヤの自己批判でもあることも指摘している。しかし彼は267部刷って27部売り、残り240部を12日間で引き揚げている。自分に向けられる批判を恐れてだろうか?

そして最晩年の7枚の「黒い絵」である。自宅の壁に描いたのである。堀田氏はここでも「彼の想像力は・・自然や事件に対してではなく・・・おのれ自身に責任を負うことになる。しかしその自由と責任で描き出したものは画家自身の孤独、聾者、多くの子を死なせたこと、病苦、老齢、彼に独自な宿命的恐怖、死等でその他のものではなったことは注目しなければならない。」述べている。単なる体制批判でなくゴヤ自身の生き方が魔女の絵に向かったといえる。そのあまりにも人間的な生き方に息を飲む。NHK番組は魔女の絵からゴヤの光と影を描き出そうとした発想はよいが堀田のようにゴヤの内面までせまることができなかったのが惜しまれる。

堀田善衛著  ゴヤ(全4巻)  朝日文芸文庫   1994年9月刊

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2006-04-28 17:21:40

ある日本共産党批判

テーマ:読書雑感

「週刊朝日」 (5月5日~12日合併号)は[赤い共産党の黒い内幕]という題で、03年、日本共産党役員をセクハラ事件で罷免され、参議院議員を辞職。昨年7月離党した筆坂秀世氏へのインタビューを載せている。筆坂氏は先日、新潮社から「日本共産党」を出版しその内情を暴露したばかりである。この内容については不破哲三氏が赤旗で「筆坂秀世氏の本を読んで」 という題で批判を加えている。

私はこのような暴露物の本は嫌いで読む気はしないが、週刊朝日のインタビューを読み、セクハラ問題の真相、処分問題、不破氏の絶対的権力、秘書問題などその次元の低い内容にうんざりしてしまった。

私は決して共産党を全面的に支持するものではなく、むしろ常に誤謬性のない考えや、反対意見に耳を貸そうとしない態度にも疑問をもっている。かって日本共産党を離党した安東仁兵衛を思い出し、彼の書いた「戦後日本共産党私記」を書架から取り出し読み返してみた。

安東は学生時代、「日本共産党東大細胞」のキャップとして活躍した人物である。この本を読むと安東は独自性を発揮し必ずしも党中央に従わなかったことが分かる。結局、安東はイタリアのトリアッチが唱えた構造改革を参考にした民主主義的社会主義革命路線を標榜するが、修正主義の批判を受け、一枚岩を標榜する党中央から受け入れらず離党してしまう。

安東はこの本でそのいきさつを理論対立を中心に描いている。そこには共産党中央の体質批判もあるが、彼の政治的信念や愚直に生きた姿が描かれている。彼は離党後も「アンジン」の名前で親しまれその理論実現に生涯をかけている。この本を著したのも離党後10年を経てからのことである。「私記」とは言いながら戦後日本の共産党史の内容になっている。

しかるに筆坂氏は離党1年も経っていないのに「日本共産党」の題名で書物を著している。その内容からしてまさに私記というべきもではないか。26日の赤旗は『週刊朝日』編集子の不見識」 を載せている。日本共産党を擁護する気持ちはないが、セクハラ問題を冤罪という筆坂氏に無理があり、なぜ週刊朝日がこれを載せたのか疑問が残る。

安東仁兵衛著  戦後日本共産党私記  文春文庫1995年5月刊

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2006-04-26 20:57:58

チェルノブイリ原発事故20周年に寄せて

テーマ:読書雑感

(写真はウクライナ・スラヴティチ市の記念式典 AFPによる)


今日の各紙はウクライナ(旧ソ連)のチェルノブイリ原子力発電所の事故から20周年を迎えた26日未明、首都キエフ市のチェルノブイリ教会で、事故による死者を悼む式典があり、原発に近接する強制避難区域からキエフ市内に移住した住民ら数百人が、手に灯を持ち祈りをささげ、献花したと報じている。

1986年4月26日、旧ソ連ウクライナ共和国のチェルノブイリ原発4号機で試験運転中に原子炉が爆発し、火災が発生。大量の放射性物質が大気中に放出された。欧州全域が汚染され、事故処理の従事者や周辺住民が被ばく、子どもに甲状腺がんが発生した。700万人以上が被曝。最終的な死者数はWHOの予測で9千人といわれるが、調査期間によってもっと多い統計を出しているところもある。特にベラルーシなど、チェルノブイリ原発の近接地域で子どもの甲状腺がんが多発。最近では大人にも甲状腺がんが増加しているという。

写真家本橋成一氏が、1991年、事故後5年を経たチェルノブイリ及びその被災地に通い始め、95年そこに暮らす人々を撮影した「無限抱擁」、97年映画「ナージャの村」公開、98年写真展「ナージャの村」で第17回土門拳賞受賞したことは記憶に新しい。

特にベラルーシ共和国のゴメリ州ドゥジチ村村中心に撮った「ナージャの村」はそこに移動をせずに暮らしている農民と強制移住されるさまが描かれている。特に愛くるしい小学生のナージャの写真が印象的である。このゴメリ州の人口はベラルーシ共和国の12%を占め、甲状腺ガンを患っている約53%がこの州の人たち言われている。日本にも小学生が治療に訪れた記事が載っている。

学校が・・・・。
見てごらん、すばらしい小川だよ。

学校が・・・・。
小さい。
ふるさとだね。
草木が生い茂っている。
ここ。

今日。
引っ越すの。
ええ。

あ、学校が・・・。

ナージャ&スペーター

本橋成一が写真を撮ったのは1997年。あれから8年。ナージャは既に中学生か高校生になっているはずである。無事に生活しているだろうか?この日ベラルーシは「欧州最後の独裁者」と批判されながら3月の大統領選で3選されたルカシェンコ大統領の退陣を求めて、野党支持者らがデモ行進を行うという。
本橋成一著  ナージャの村  平凡社 1998年6月刊

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2006-04-23 21:38:52

東北農民兵士と遺族たち

テーマ:書評

先日知人で地元の「農を語る会」の代表岩井川さんから、「遠い日の戦争―農民兵士と遺族たち」の小冊子を戴いた。これは秋田県羽後町貝沢地区を中心にした9家族が家族(夫、息子)を戦場に送り、今まで誰にも言わず(言えず)胸に秘めてきた遺族の声を地元に住み長い間農民運動に携わってき高橋良蔵さんが30年前からあたためてきたテーマを「農を語る会」のメンバーが聞き取りメモをしたものをまとめたものである。証言した人たちの多くは他界しており、ぎりぎりのまとめであったという。

東北の農民兵士と残された家族の記録については岩手の菊池敬一・大牟羅良編の「あの人は帰ってこなかった」(岩波新書1964年)や岩手県農村文化懇談会編『戦没農民兵士の手紙』(岩波新書1961))があるが、もう30年も経っており忘れ去られようとした。秋田の「農を語る会」がわずか9人であるが、その家族の苦しみを記録しまとめた意義は大きい。

その記録は慟哭の叫びであり目頭を熱くするものものが多い。チヨさんは6人の子どものうち最初の4人は母体の栄養不良で1年以内に早死にさせている。ようやく5番目と6番目の子どもを3反歩を田んぼを耕し日雇いをしながら子どもを育てた。一番おいしい食べ物は雄物川の水をご飯にかけて食べる「水かけまま(飯」だったという。

長男の真一さんが召集され、チヨさんは息子が戦場に向かわないうちに青森の大湊駐屯地に面会に行く。家に来た住所を手がかりに夕暮れ兵舎を見つけ駆け寄ると、一人の兵士の人影を見つけ、それが息子だと気付く。大声で「シーエチ(真一)アバ(母)だぁ」と叫ぶが面会不許可。真一さんはその2日後北千島海峡の戦場に赴き1ヵ月後戦死。18歳であった。

「シーエチ、アバだぁ」と秋田弁丸出しで叫んだチヨさんの言葉は、戦場に行くのを励ますものではなく、子を思う親の叫びである。彼女は息子の戦死について「いくら貧乏でも、三度の飯を食わぬことはない。しかし、息子をお国にあずけて死なせてしまった。ああ、あと終わりだ。それが全部だ。」息子の戦死を悔やみ、怒りを訴えたという。

「国にあずけて死なせた」という叫びは国の戦争責任への糾弾でもある。あの戦争は正義の戦争であったという妄言はさておき、戦争に導いた者たちの戦争責任も曖昧になりつつある。そして戦争の悲しみを直接知っている証言者も減っている現在我々は何をすべきか。この小冊子を読みながらすっかり考え込んでしまった。、題名が「遠い日の戦争」となっているが、遠い日の思い出に終わらせず、現在の問題として考えるべき内容をもっているのではないか。

 湯沢・雄勝農を語る会編・発行   遠い日の戦争―農民兵士と遺族たち 2006年2月刊

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2006-04-21 22:12:22

郷土の歴史を読む

テーマ:読書雑感

郷土の歴史本出版の一部の執筆を頼まれ史料を収集中である。担当が古代中世で史料に乏しく苦労している。現在、太閤検地のころの郷土の様子を調べている。当時わが郷土には「小野寺氏」が大きな勢力があったが、秀吉の命をうけ越後にいた上杉景勝の家臣色部長真(いろべながまさ)が天長18年(1590年)がこの地に乗り込んできて検地を行っている。

その様子を「中世の小野寺氏」史料集を通して読んでいるが、歴史小説を読むより面白い。秀吉は天正18年「出羽の国検地条々」を命じているが、田を上,中、下に分けて検地をしている。不満な城主、百姓は「一人も不残置なてきり二可申付候」と述べているのが目を惹く。「なてきり」とは「撫で斬り」即ち首をはねることである。豊臣政権の権力がこの東北の片隅の秋田南部まで及んでいたことがわかる。

そして検地により城主に朱印状を渡しているが、ちゃっかり豊臣の蔵入地(直轄地)を確保している。全国で200万石あったといわれる。検地は年貢を納める基準の他に地方の土地を確保(搾取)の意味もあったわけである。

さきほどあげた色部長真の記録(色部文書、出羽の国の検地をしる一級史料))の中につぎにような記録がある。

出羽の国仙北郡蔵入地引渡覚写   最上への渡分

一、高寺  一、田代  一、湯沢  一、今泉 一、深ほり 一、岩崎(我が郷土)  一、、関口  一、松岡 一、八口内  一、あひ川

以上の地名は私の近隣の村の地名である。つまり太閤検地により当時この地を支配していた小野寺氏(当時義道)の土地を自分の蔵入地にしたが、これをこの地に進出を企てていた山形の最上義光に移管したいうのである。小野寺氏にとっては自分の土地が敵対ていた最上に土地が移動したわけで、その屈辱はいかばかりとこの平凡な史料の背後からうかがえるのである。

ところが、最上に土地が移ったのでここに住んでいた農民はこの地を捨てて横手に住んでいた小野寺義道の領内に逃げ出すことになる。山形留守居役の氏家尾張守は色部長真に呼び戻してほしいと手紙を出している。色部は中に挟まって苦しんだようであるが3月には任務を終えて帰ってしまう。その後我が郷土はどうなったのだろうか。史料を読みながらはるか中世の我が郷土の様子を想像するのもまた楽しである

小野寺彦次郎編  中世の小野寺氏 その伝承と歴史  創栄出版   1993年12月限定300部

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2006-04-17 20:33:17

寮歌を懐かしむ

テーマ:読書雑感
ハチ公物語」「遠き落日」「月光の夏」、最近では「秩父一揆」を描いた「草の乱」など社会派の映画監督である神山征二郎 氏が25作目として「北辰斜めにさすところ」の題で旧制高校の青春群像の映画を製作することが新聞記事に載っていた。

「北辰斜めにさすところ」 は旧制第七高等学校(現鹿児島大学)の寮歌である。私の学生時代は既に旧制高校はなくなっていたが、学生寮はそのままで残っており、よく寮歌を歌ったものである。私がいた旧制二高の「明善寮」では入寮と同時にまず「山紫に水清き」 を覚えることから始まった。その後一高寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」 を覚えたが、旧制五高(熊本大学)の「武夫原頭に」 と旧制七高の寮歌を寮の中で酒を酌み交わし歌ったことを覚えている。この「北辰斜めにさすところ」は短調で物悲しい曲である。

旧制高校に入学できるのは当時のエリートである。その歌詞は自負、悲憤慷慨に満ち戦後も「寮歌祭」など昔を偲ぶ人たちも絶えないが、そのエリート臭さが鼻持ならないという人もいるのはもっともな事である。

今回の映画はオフィシャル・サイト「北辰ななめにさすところ」 制作委員会によると「自由と自信を高らかに掲げ人生を語り合った寮友たちが戦争を体験し、特に軍医であった主人公が同郷の友を救えなかったことに自責と悔悟の念にかられる激動の昭和を描いた物語である。」と述べている。神山監督は単なる寮歌への郷愁として描かないのはさすがといえる。

過去に「日本寮歌集」が発行されたが既に絶版であった。寮歌そのものは過去の遺物であることは間違いないのだが、私自身、昭和30年代、貧乏学生で寮という閉鎖社会の中でくすぶり、歌うのは寮歌だけという時代でその意味で懐かしい。
                                     

日本寮歌集編集委員会  日本寮歌集 日本寮歌振興会 (国書刊行会) 1991/10出版
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2006-04-15 22:15:11

[1968年」は何があったか

テーマ:本の紹介

フランスのシラク大統領は10日、ドビルパン首相との会談後、若者の解雇を容易にするとして強い反対運動が起きていたCPEの撤回を発表した。このCPEは青年雇用を促進するためとして、労働者を新規に雇用する場合、企業に社会保障負担分の3年間免除などの特典を与える一方、自由に解雇できる「見習い期間」を通常1―3カ月から2年間に延長、26歳未満の青年に適用するもので、「不安定雇用を拡大する」として労組や学生団体は撤回を求めていた。この反CPE運動はデモ参加者が300万人に達する記録的な規模となり、1968年の「パリの5月革命」以来のものになったと新聞は報じている。

1968年の「パリ5月革命」とは、自由と平等と自治を掲げ、フランスのパリで、1千万人の労働者・学生がベトナム戦争反対、ソ連の圧制反対、大学改革を求めてゼネストを行なったものである。この年は日本でも東大を中心に全共闘が大学の改革を求めて過激な運動を起こした年でもある。既に仕事についていた私にとって世界・日本の若者の正義感に燃えた闘争をまぶしく傍観していた記憶がある。

この1968年は国際的にいろいろな事件や運動が重なったことについて、最近アメリカを代表する知識人のひとりで、シャープな歴史解釈と独自の視点には定評があるコラムニストとして著名なニューヨーク在住のカーランスキー,マークが「1968―世界が揺れた年」という本を著したことを知った。

1968年―世界中の普通の人々が、時を同じくして体制に反対する行動を起こした年だった。ベトナム反戦運動、公民権運動の高まりとキング牧師の暗殺、パリの「五月革命」、プラハの春。学生は通りに出て戦車の前に身を投げ出すなど世界各国の民衆にとって激動の年であったが、ベトナムでは最悪の戦死者を出し、キング牧師もロバート・ケネディも暗殺され、プラハの春は踏みにじられた年でもあったとこの本は紹介している。

将にそこに怒れる若者の姿があった。その人たちは現在日本では団塊の世代として定年を迎えようとしている。私はその前の世代であるがまぶしく見えた彼らには最早そのよう意気がみられない気がする。また何事にも怒らず体制に順応する若者が増えているのも気になる。こんなこというと老いぼれの戯言と冷笑されるだけかもしれない。

カーランスキー,マーク著  来住道子訳 1968―世界が揺れた年〈前・後編〉ソニー・マガジンズ (2006-03-10出版)

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2006-04-13 18:12:22

清張の「霧の旗」を思い出す

テーマ:読書雑感

昼ごろ車を運転していたら、秋田県弁護士会が「電話による無料法律相談」で「相続・遺言110番の実施」をしているラジオのニュースが流れた。現在地区の人権擁護委員をやっているが時々これと同じ相談をもちかけられる。弁護士さんや公証役場の公証人に相談するようにというが、必ずいくら費用がかかるかと尋ねられる。どうも敷居が高くて行きにくいようだ。まして普通の民事・刑事裁判ではかなり経費がかかるという懸念が先にたってしまう。

ふと、松本清張の小説「霧の旗」を思い出した。この小説の主人公、柳田桐子が、兄の殺人容疑の弁護を頼んだ高名な弁護士大塚欽三に弁護料が高いことを理由に断わられることからこの物語が始まる。桐子はいう「兄は助からないかもしれません。80万円あったら助かったかもしれませんが、不幸でした。貧乏人は裁判にも絶望しなければならないことがよく分かりましたわ。」と電話で事務員に告げる場面がある。結局兄は有罪で獄死するが、ここから桐子の復讐劇が始まり、後悔、あやまる大塚弁護士をとことんまで追い詰め彼の社会的地位を奈落の底に突き落とす。

ここで考えるのは大塚弁護士は所謂悪徳弁護士ではない。彼は密かにこの事件を調べ冤罪であることにも気付き、さらに恋人の女性を殺人容疑を救う(証拠は桐子が握っている)ために献身的な努力をしている。むしろ善意の人間である。桐子の復讐には理不尽な側面もある。

それにも関わらず、松本清張は主人公に最後まで徹底的に復讐させている。これは、主人公を通して現在の裁判制度や弁護制度への警鐘を彼は投げかけたのかもしれない。弁護士に頼むと金がかかるという神話(?)は今でも生きている。私は秋田県弁護士会が無料で電話相談をしているというニュースを聞き、弁護士さんの姿勢も変わってきていることを感じたのであった。まして人権擁護委員の中に弁護士さんもおり、その姿勢にはいつも学んでいる。

4月10日、日本司法センター「法テラス」 が設立された。この10月から業務を開始するそうである。これは「誰に相談してよいかわからない」「専門家に相談したいけどお金がない」などに日常生活の悩み相談の窓口だそうである。これだと「霧の旗」の桐子がわざわざ九州から東京の弁護士へ頼みに行かなくても相談がでそうである。

松本清張著    霧の旗    新潮文庫  1981年10月刊

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2006-04-11 17:52:58

N響指揮者アシュケナージの憂い

テーマ:読書雑感

4月9日の「N響アワー」は司会者が高橋美鈴アナに代わり作曲家・池辺晋一郎との組み合わせになった。当日はウラディーミル・アシュケナージ指揮・NHK交響楽団でプロメテウス (火の詩)作品60 (スクリャービン)と交響曲 第6番 ロ短調 作品74 「悲愴」から (チャイコフスキー)が演奏された。

アシュケナージの指揮を生で聞いたのは2002年11月サントリー・ホールで、チェコ・フィルのスメタナ作曲「わが祖国」の演奏である。アシュケナージの指揮は彼のピアノ演奏と違い、なんとなくぎこちなくやや違和感を覚えたが、その後N響の指揮者に迎えられ何回となくTV等で聞くにつけそれも感じなくなった。

1937年旧ソ連のゴーリキ生まれ。モスクワ音楽院で学び,1955年のショパン国際ピアノ・コンクールで第2位。1962年のチャイコフスキー国際音楽コンクールのピアノ部門で,ジョン・オグドンと第1位を分け合いピアニストとしてはあまりにも有名である。1960年に旧ソ連からロンドンへ亡命し,本格的に指揮活動を始めるようになるのは1970年代といわれている。

旧ソ連体制の芸術に対する国家の無知、無理解、横暴さ、理不尽さについてはショスタコーヴィチが証言している。アシュケナージもその体制に絶えられなかったこともあろうが、アイスランド出身の若い女流ピアニストへの愛を貫いて祖国ソ連を捨てたといわれる。

このことについて詩人清岡卓行は詩「羊雲」の中で次のように詠っている。

・・・・
そのディスクは たしか
異国の少女への愛のために亡命した
若きピアニストがいっしんに弾く
<軍馬>という綽名の
起伏の多いコンチェルト。
彼が捨てた祖国の古い音楽

ぼくは急ぎ足で
取引先に向かう。
しかしよく晴れた秋の空の羊雲
ぼくは亡命していないのに
祖国への
遙かな悲しみ。

この若いピアニストはアシュケナージであり、<軍馬>とはチャイコフスキーの[ピアノ協奏曲第一番変ロ短調」に付けらた綽名といわれている。私はアシュケナージの祖国の音楽の指揮を聞きながら、この清岡の詩を思い出した。スクリャービンのプロメテウス (火の詩)の壮大な音楽のときは感じなかったが、悲愴を指揮する彼の表情が憂いに充ち沈んでいるように見えたのは私の先入観のせいかもしれない。

清岡卓行作詩  羊雲(四季のスケッチより) 中央公論社  1983年12月刊

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2006-04-09 19:28:28

死者を弔う

テーマ:読書雑感

東北の早春はまだ肌寒い。4月を迎えたというのに時々粉雪は舞い落ちる。この時期、知人、友人の最期を見送った。希望の春というのになんとなくわびしい気持ちである。そのとき、井上靖の書いた詩を思い出した。

春の日記から  -ある人の死にー   井上靖

雪が舞い、歇んで、暫く春の陽射しが降った。そしてま
た冬が立ち返って、白いものがちらちらした。とまどい
ながら、それでも嫩葉がいっせいに芽吹きだした。嫩葉
が芽吹きだしたので、あなたはあわただしく席を譲った
のだ。

その晩、春の風が吹いた。風の音は長くあとをひいて聞
えていて、次第にかぼそくなり、やがて消えた。風の音
がもう聞えなくなった時、あなたは何事か起らねばなら
ぬと信じたのだ。しかし、何事も起らなかったので、あ
あなたは自分が姿を消したのだ。

ある人の死を想う見事な挽歌である。深い静寂のなかに知人の死を見送る言葉が平易のなかに沈積した内容を包んでいる。北国の早春の雰囲気と死者を悼む声がハーモニーとなって表現されている。

作家の井上靖の小説は昔から愛読しているが、彼が詩人であったことは意外としられていない。この詩は詩集「運河」のなかの収められている詩であるが、最初の詩集「北国」のあとがきで「詩とは厳しく言えば、恐らく呪術であろう。呪術そのものに違いない。そして私はついにその呪術を発見できなっかた詩人ということになるだろう。 私は小説を書き出してから、自分の詩をノートに収めてある作品から、何篇かの小説を書いている。詩として優れた生命を持ち得なかった文章のいくつかは私の小説の発想の母体になっている。」井上靖の小説には詩人の魂が宿っていたのである。

この井上靖の詩を亡き友人、知人に贈りその死を弔いたい。

井上靖著  井上靖全詩集  新潮文庫  1983年8月刊

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