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2006-01-31 21:13:25

大仏次郎の「天皇の世紀」

テーマ:本の紹介

大仏次郎の「天皇の世紀」 が昨年12月から普及版(10巻)として朝日新聞社から再刊され、現在刊行中である。これは幕末から明治にかけてを描いた大河小説で朝日新聞に連載中に大仏が死去(昭和48年4月30日)、未完に終わったものである。朝日文庫からもでていたが、殆ど入手不可の状態で読みたいと思っていた本である。

この再刊について文芸評論家の新保祐司氏は朝日新聞の書評誌「一冊の本」2月号でで次のように述べている。「今日普通歴史を語るとき、歴史の現象を云々し、その解釈、評価を問題にしているだけではないか。また歴史小説になると、歴史上の人物に今日の人間観から感情移入しているだけではないか。「天皇の世紀」には史観と言うものすらない、結局は主観的なものなど吹き飛ばされてしまっている。あえて言えば、荘厳なる客観がある。歴史について書かれた本を自らの史観や歴史評価の型にはめて読むことしかできない、今日の知識人の頭には、「天皇の世紀」は何ものも語らないであろう。逆に資料の長い引用が多すぎると思われてしまうことが予想される。しかし、「天皇の世紀」の中では、歴史の「物自体」が時々ささやくのである」と述べている。

同じ幕末明治を描いた司馬遼太郎は下級武士が起こした明治の革命を認めるような姿勢があったが、大仏次郎はこの時代を「天皇の世紀」といったのはどんな意味があるのだろうか?明治天皇制についてどんな描きかたをしているのか興味あるところである。

ともすれば主観的に歴史を見ようとする司馬に対して新保氏がいう大仏の「荘厳なる客観」との違いを実際この本を読むことによって考えてみたい。特に描かれる人物像を対比的に読んでみたい。大仏の小説は北越戦争を描いた「金城自壊」で終わっているが、ここにでてくる長岡藩家老河井継之助どう描かれているのだろうか。同じ「一冊の本」のなかに鶴見俊輔氏は「負けにまわった鞍馬天狗」という題でエッセーを載せている。それによると、彼の著した「鞍馬天狗」は王政復古に打ち込んだが、その最後の始末を「天皇の世紀」の終わりに向かって河井継之助の終焉に描かれていると面白い解釈をしている。


大仏次郎著 天皇の世紀(10巻)  朝日新聞社  2005年12月~2006年8月刊

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2006-01-29 18:46:17

菜の花忌に寄せて

テーマ:読書雑感

今日のAsahi・comに次のような記事が載っている。 「作家の故司馬遼太郎さんの命日である2月12日の「菜の花忌」に向けて、司馬さんが愛した菜の花の苗を育て、司馬邸や「司馬遼太郎記念館」がある東大阪市の小阪・八戸ノ里地区を中心に街頭に植える運動が今年も始まった。来年2月は司馬さんの没後10年の節目にあたり、運動は広がりを見せている。」


司馬さんは菜の花やタンポポなどの黄色い花が好きだったと言われている。特に菜の花は高田屋嘉兵衛を描いた小説の題名「菜の花の沖」とも関係あるようだ。


海商・嘉兵衛は文化9年(1812年)幕府によるロシア船ディアナ号艦長ゴローニンの幽囚の報復として、国後島で副艦長のリコルドにより捕えられ、カムチャツカ半島ぺトロパブロフスク・カムチャツキーへ連行されるが、翌年帰国。帰国後の嘉兵衛は松前奉行を説き伏せ、ロシア側に侵略の意図がない事を納得させ、人質解放に尽力したことで知られている。幕府の蝦夷御用船頭になるが、1818年に隠居し古里の淡路島で過ごす。この小説の最後の部分に「菜の花」が出てくる。


「かれがその晩年を送るために都志本村に建てた屋敷は小さな野に囲まれていて季節には菜の花が、青い沖を残して野にいっぱい染め上げた。「嘉兵衛さん、蝦夷地で何をしたぞ」と村の人がきいたとき「この菜の花だ」と言った。」


その意味は、菜の花は実を結べば搾油業者に売られ、油になって諸国に運ばれる。それはエトロフ島の番小屋での夜なべ仕事の手元を照らし、その網でとれた魚が肥料になってこの都志の畑に帰ってくると説明したうえで、「わしはそういう廻り舞台の下の奈落にいたのだ、ただそれだけだ。」と司馬さんは嘉兵衛に言わせている。


司馬さんはこの「菜の花」を通して高田屋嘉兵衛の生涯を象徴的に描いていると言える。自然や社会の循環の中に彼の存在価値があったが、その価値がなくなると捨てられる運命も示唆している。「結局、高田屋は嘉兵衛とともに消えたといってよい」と司馬さんはいうのである。現代にも通じる問題を含んでいる。


2月12日は菜の花忌であるが、今年は2月25日東京・日比谷公会堂で菜の花忌シンポジューム が行われる。会場にも沢山の菜の花が飾られるはずである。


司馬遼太郎著   菜の花の沖(全6巻) 新潮文庫 2000年9月刊

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2006-01-28 17:10:48

「生類憐れみ令」異聞

テーマ:読書雑感

今日の日経のコラム「春秋」に目がいった。「1867年の今日、5代将軍徳川綱吉は、病人病牛馬の遺棄を禁じる令を発布した。口入れ業や牛馬宿を営む者に対し、使役する人間や牛馬が死にかけると捨ててしまう悪弊を絶てと厳命するもので、生類憐の令の始まりともされる。今年と同じ丙戌生まれの綱吉が高僧から「前世の罪滅ぼしに、生類特に干支の犬を大切にしなさい」と助言され、奇怪な政策をまじめに行った。いまだに目にするこの説は史学界では否定済みらしい。山室恭子著『黄門さまと犬公方』によれば「妄説として、ゴミ箱行きにしてよかろう」。


上記の山室さんの「黄門さまと犬公方」を以前に読んだことがある。それによると、生類憐れみ令は綱吉が「不仁で夷狄の風俗の如し」と当時の秩序の乱れを憂い、この悲惨な現状を変革し、「仁心」の涵養を図るためにこの政策へ導かれていったのではないかいという。 山室さんは綱吉の福祉政策(困窮者救恤)防火令、道交法などは、今までの政権が触れなかった政策を打ち出し、ひとまわり「大きな政府」を作り出すために「生類憐れみ」が牽引車になったという考えを示している。その文献調査によるとこの令の処罰件数は24年間で69件しかないという。


歴史的にこれが悪法であると言われるのは江戸の著名な学者新井白石が綱吉の次の家宣の時代に「此事(生類憐れみ)によりて罪かぶれる何十万にんといふ数しらず」と喧伝したためで、これこれが誤った綱吉像を定着させてしまった。その意味で白石の罪は大きいと山室さんさんは糾弾している。


日経の「春秋」コラム氏は「奇矯な暗君とされ、憐れみの令の過酷さが誇張して後世伝わったのは、後継政権が綱吉時代の非を唱えたのが一因だ。自分を良く見せるため前任の悪口を言うのは、世の習い。後任に誰を推すか明かさない小泉首相は、この習いに染まりそうにないのは誰かと、まだ考え中なのかもしれない。」と後継者選びに興味を示している。


私には後継者選びは興味がない。ただ綱吉の福祉政策は「大きな政府」(山室さんの言葉)を作ろうとしたが、現代の政治は「小さな政府」をつくるために福祉を切り捨てる政策に傾いているのではないか。こちらのほうが一番気になる。


コラム氏の記述で正確でない点が一つある。後継政権の家宣は確かに綱吉の政策の非を改めているが、この「生類憐れみ」は存続しようとしている。その悪口を言ったのは後継政権に仕えた新井白石である。いずれ権力にすりよる御用学者にご用心。


山室恭子著 黄門さまと犬公方  文春新書  1998年10月刊

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2006-01-26 19:19:27

芥川賞受賞作品「沖で待つ」を読む

テーマ:書評

先日、第百三十四回芥川賞は絲山秋子さんの「沖で待つ」に決まった。昨年の文学界9月号に掲載されたものである。発表当時は浅読みでそんなに印象がなかったが、読み返してみると考えさせられる問題があり、自分の鑑賞眼のなさにあきれている。80枚の短編であるので一気に読むことができる。

およその内容は、住宅機器メーカーに同期入社した「私」(主人公、独身女性)と「太っちゃん」と呼ばれる男性との交流を描いた作品である。「太っちゃん」は事故で不慮の死をとげるが、幽霊になった彼との対話が小説の最初と最後にでてくる。後は「私」と「太っちゃん」との交流や職場の回想が綴られている。

作者の絲山さんは実際住宅機器メーカーに就職した体験があるので、職場の様子がリアルに描かれている。この「私」と「太っちゃん」の関係は恋愛感情というより、温かい人間関係の絆で結ばれていることが文章の随所にでてくる。

二人で車で工務店行く場面がでてくる。太っちゃんは熱を出しているので「私」が運転する。『「さては俺に惚れたな」「ばか、誰が惚れるか」けれど今宿を過ぎるころは太っちゃんは・・ぶるぶる震えていました。「悪いな」震えながら太っちゃんは言いました。「惚れても無駄だよ」私がいうと口の端で笑ったようでした。「現場に行ったらしゃきっとしなよ、今は寝てりゃいいんだから」仕事のためならそいつのために何だってしてやる。同期とはそんなものじゃないかと思っていました』という記述の中に同期の単なる友情とは違う濃密な人間関係がにじみ出ている。

選考委員の一人池澤夏樹さんも「同僚としての男女の友情という小説では難しいテーマであるが、それを上手に描いている。恋愛でもなければ、ただの友情でもない。現場で一緒に働きながら信頼しあう。そんな中で生まれた関係を過不足なく書き切った」と授賞理由を説明している。

しかし私が特に感じた一つは「太っちゃん」の人物像である。仕事はろくできないが、人がよくて皆に好かれる会社員の姿がが描き出されている。職場のベテランでやり手の地元出身の事務職・珠江さんがこの「太っちゃん」に惚れて結婚する。理由を聞いたら「ビビッときたのよ」という場面に噴出す。現代の「勝組」、「負組」の概念からすると「太っちゃん」は明らかに「負組」に属する。このような茫洋とした人物の魅力を絲山さんは限りなき愛情をもって描き出している。私はこの人物は現代の風潮に対するアンチテーゼとして描いたものと受け取った。

小説にはもう一つ、「私」と「太っちゃん」が「どちらかが先に死んだら、生き残った者が、死者の秘密を守るためにパソコンのハードディスクを壊す約束をする」場面がある。結局「私」は「太っちゃん」のハードデスクを壊すわけであるが、なぜ「太っちゃん」がこんな約束をしたのか、この小説の主題の一つになっている。

「私」は内容を見ないでHDDを破壊するが、「太っちゃん」が遺した大学ノートの書き込みからその内容がおぼろげに分かってくる。それは奥さんの珠江さんに宛てた下手糞な愛の詩の数々だったからだ。おそらく「太っちゃん」はこの稚拙な詩を妻や他人に見せたくなかったに違いない。結局「私」は「思わず「小学生かよあのデブ。と叫びたくなり」、奥さんも詩を見て笑い出す始末である。しかし、この稚拙な詩の表現しかできない「太っちゃん」の妻への愛情を汲み取ることができるのである。

その詩の中に次の詩が「私」の心に残ると作者は言わせている。

俺は沖で待つ
小さな船で船でお前がやってくるのを
俺は大船だ
何も怖くないぞ

つまり「「沖で待つ」はこの小説の題名になっているわけであるが、「私」は「太っちゃん」に死の予感があったと推察するが、死んでも「お前(妻)を待つ」という愛情表現が隠されていると受け取ったのであるが。

そして、最後に「私」との「太っちゃんの幽霊」との会話する場面で終わる。

「太っちゃんさあ」
「なんだよ」
「死んでからも太ったんじゃない?」
おまえな、ふつーねぇだろう、と言って太っちゃんは笑いました。

二人の同期の濃密な人間関係が凝縮された会話である。

絲山秋子著 沖で待つ  文学界9月号  2005年9月

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2006-01-23 22:16:11

「寒梅忌」に参加して

テーマ:読書雑感

kanbaiki2 昨日1月26日、藤沢周平を偲ぶ第7回「寒梅忌」が彼の出身地鶴岡市であった。第5回にも参加しており、これについては、寒梅忌感想記 として書いている。案内を受けたので出かけるかどうか逡巡した。というのも昨年末、羽越本線電車事故を受けた場所を通らなければならない。

朝から雪空で天気も悪い。しかも、鶴岡市まで行く羽越本線は昨年の大事故で昨日から開通したばかりで、なんとなく不安である。思いきって秋田から130kの雪道を車で行くことにした。午前8時出発。新庄市、戸沢村、庄内町を経て鶴岡市へ向かうが、案にたがわず途中に吹雪にあう。しかし、一瞬の晴れ間から見える最上川と周辺の山々の雪化粧は実に美しい。

午前11時すぎ鶴岡到着。前回来たときより雪の多いのに驚く。昼食をとり同時開催の「藤沢周平こころの絆展」を見学。藤沢作品の心象写真、原稿、映画ロケ地の写真、着物、書籍等が陳列されている。その中で鶴岡藤沢周平文学愛好会編集の「海坂藩の人々」という貴重な冊子(文献)を発見、早速購入。藤沢周平の作品に出てくる「登場人物」、「あらすじ」、「よみどころ」とよくまとまっている冊子である。限定版で他に買えないものである。

会場には他県からの参加者も多く、遠く大坂、奈良から来られた方がいた。九州からの参加希望者もいたらしいが、東京の雪のために羽田空港で待たされ鶴岡行きを断念した方もおられるそうだ。司馬遼太郎ファンも多いが、藤沢周平の名もない市井の人々や弱者への思いやりをえがく作品に惹かれる人も多いと聞く。

会場前に藤沢周平の祭壇があり、お賽銭をあげ手を合わせ全体会場にはいる。会場はシンプルで周平の写真と寒梅が飾ってあるのみである。


午後1時追悼式が始まる。藤沢周平生前のビデオ上映「藤沢周平の・故郷へのメッセージ」同じ鶴岡出身の日本テレビ(当時)の石川牧子アナのインタビューに答えるものだが、実に口が重くやはり彼は東北人だと思わせる雰囲気である。黙祷後の萬年慶一氏の代表挨拶に感銘を受ける。「雪国には忍耐の歴史続いているが、しかしそこから共生の意識がうまれ、人々に対するやさしさが生まれた。藤沢周平の作品にもそれがにじみ出ている。」という趣旨の話をした。萬年さんは藤沢周平が湯田川中学校で教師をしていたころの教え子である。さすがは師・藤沢周平の薫陶を受け、今でも受け継いでいる教え子の姿がそこにあった。

対談は松田静子さん(元高校教師で著名な周平研究者)を進行に水戸部浩子さん(荘内日報社論説委員)と平田正さん(鶴岡印刷相談役)が対談。藤沢さんが高等小学を卒業後、「鶴岡印刷」に勤め、夜は鶴岡中学校夜間部に通うが、その時藤沢さんは鶴岡印刷の社長中村さんに親切にされたことを「半生の記」に書いている。その中村さんは今回の対談者の平田さんの祖母の実弟という因縁があるという。また水戸部さんは荘内日報記者として藤沢さんに何回の訪問して交流があった方である。

最初平田さんとの対談であった。平田さんと藤沢さんは同年齢(昭和2年生まれ)であるが、平田さんは旧制鶴岡中学校から旧制高校を経て東京帝大へのエリートコース、藤沢さんは同夜間部から苦学して山形師範へと進むが、その余りにも違う環境(地主と小作人)に当時の学校制度を思い浮かべる。

当時は二人は面識がなく、藤沢さんを知ったのは彼が作家になり、藤沢さんを囲む会「周談会」が東京で開かれ、平田さんも出席するようになってからだという。しかし、平田さんは偉ぶることなく、藤沢文学の信奉者として彼との交流を話していたことが印象的であった。平田さんは、庄内藩の清河八郎を主人公にした「回天の門」を書いていたころ、「清河はあまりで好きではないが、なぜテーマにしたのか」と聞いたら、「清河は庄内人の悪いところを持っているが、それを小説を書くことで解毒したい」と述べたこと、また藤沢作品と似ていると言われている山本周五郎について尋ねたら、反応がなかったことをあげ、山本周五郎とは一線を画していたのではないかと述べたのが印象的であった。


実は藤沢さんは山本周五郎全集の第20巻の差込の付録に「宿題 山本周五郎」という小文を書いている(「ふるさとへ廻る六部は」所収)それによると、周五郎作品はあまり読んでいないと断ったうえで、「周五郎作品に似ていると言われることも、やはり私などが自明のこととして描いていることが、じつは多分に周五郎さんが切り開いてくれた世界だということなどもかならずあるだろうと思うわけである。そういう点を論証するなどということなれば一朝一夕の仕事でないので、宿題は宿題として残すしかないけれど、・・・」と言いよどみ、「周五郎さんというひとは時代物という形のの小説で、もっともものを言いやすかったひとではなかったかと言う点」は似ているのではないかと述べている。藤沢さんは山本作品と違う何かを感じながら、それを「宿題」と述べたところに藤沢さんらしいおくゆかしさを感じる。

水戸部さんの対談から感じた点のひとつは「白き甕 小説 長塚節」を書いたとき、藤沢さんはそのための調査を綿密に行っている。そのとき節の遺族や関係者からの疑問や問い合わせが頻繁にあり、そのつど藤沢さんは長い返事をだしていたのを目にして、彼の礼儀正しさに感心したという。いかにも藤沢さんらしいエピソードである。

また藤沢さんがあるTVで戦争未亡人にインタヴューを見たときのお話。アナウンサーが今まで一番苦しかったことは?と何度も聞かれても、曖昧な笑いを浮べ答えなかった彼女がそれを終えて帰る後姿が映し出され、おそらく嗚咽で肩が震えていたと藤沢さんは涙を浮べ水戸部さんに語ったことが忘れられないという。このエピソードからも、弱者への思いやりが藤沢作品の特色を物語っているという水戸部さんの話に頷く。以上二人の話は直接藤沢さんと交流した実話で藤沢さんの人間像や作風を知る上に大変参考になった。

講演は「藤沢周平と音楽」という題でシングソングライーターの小室等氏がギターを抱えて登場。熱烈な藤沢ファンでもある小室さんは堅苦しい藤沢文学でなく、自作の歌を披露しながら語るのが面白い。NHKのドラマ「蝉しぐれ」の音楽を担当した話、エッセー「ボレロ」(藤沢著小説の周辺の所収)に「早春のスケッチ」の音楽を担当した小室等の名前が出てくることなど、とりとめのない話の合間に歌を歌うという講演(口演?)である。しかし、藤沢さんは「生きる力」のメッセージを送っている。彼の作品は句読点が正確で、音読すると「よどみがなく」すらすら読めるなど音楽家らしい感性の言葉が飛び出す。

彼はNHKTVの「蝉しぐれ」の主題歌「遥かな愛」(及川恒平作詞、小室等作曲*TVでは普天間かおりさんが歌う)を歌ったが、目から涙が出ていた。運命にもて遊ばれた文四郎、ふくへの思いがあふれのだろうか。会場はシーンとなる。

講演途中、小室さんをこの会に紹介した佐高信さんが彼のの要請で壇上にあがる。この鶴岡出身の辛口評論家は小室さんと掛け合い漫才のごとくしゃべりあう。対談でも語られた藤沢さんの弱者への思いやり、やさしさに触れ、藤沢さんは「信長ぎらい」であったことを佐高さんが披露したが、これは有名な話で「ふるさとへ廻る六部は」に所収されている。

嫌いな理由は信長は多くの人間を殺戮したことをあげている。このことから佐高さんは小泉さんが信長を好きなのは「殺す側に」立っているから、藤沢さんは「殺される側」にいたから信長嫌いなのだと、現代の宰相を一刀両断のもと切捨てる。どうも佐高さんの話はいつものことながら簡単明瞭すぎる。

藤沢さんはこの文章の最後に次のように書いている。「たとえ先行き不透明だろうと、人物払底だろうと、われわれは民意を汲むことにつとめ、無力なものを虐げたりしない、われわれより少し賢い政府、指導者の舵取りで暮らしたいものである。安易にこわもての英雄を求めると、とんでもないババを引き当てる可能性がある。」この柔らかい言い方のほうが説得力がある。藤沢さんの言は将に現代を言い当てている。

小室さんが作曲、谷川俊太郎さんが作詞した「酒田市立鳥海小学校」の校歌「とうくまで」を会場にきていた同小学校6年生と歌い、さらに佐高さんおリクエストである「雨のベラルーシ小室等作詞・作曲」、未公開のもうひとつの「蝉しぐれ」を歌って講演はおわる。しっとりとした歌である。

外へ出たら吹雪、ゆっくり近くの温泉で泊まり今日の会の余韻に浸る予定であったが用事ができ帰らなければならない。例の事故の起きた場所の近くを通るときは猛吹雪で一寸先も見えず立ち往生。そして必死の思いで家にたどり着いた。帰ってから湯に浸り温厚な藤沢さんが現代の風潮に怒って吹雪かせたのでは?とあらぬ妄想をしながら、今日の「寒梅忌」を反芻した。

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2006-01-20 18:58:18

銀塩(フィルム)カメラがなくなる!

テーマ:時評

写真愛好家にとってはショッキングなニュースである。NIKONが銀塩カメラをF6とFM10だけ残し生産中止 し、デジタルカメラに移行する計画を発表。今度はコニカミノルタが、カメラ事業から今年3月末までに全面撤退 すると発表した。1873年創業のコニカと1928年創業のミノルタという老舗カメラメーカーが03年に経営統合したばかりである。

私の本格的に写真を写し始めたカメラ遍歴はミノルタからはじまる。最初の購入は1981年MINOLTA X700である。このMFカメラは焦点が合わせ易くずいぶん世話になった。県展、二科展に入選したのもこのカメラのおかげである。AFカメラが出てきて、MINOLTA α9000(1985年)を購入した。

その後、NIKONカメラに変更、知人から中古のNIKON F3(1980年発売)を購入。ニコンでは初の電子制御式絞り優先AE一眼レフである。さらにAFカメラNIKON F4を購入(1988)した。その後ニコンはF5、F6を製造したが、F4は現在でも私の愛用機である。(小型軽量機NIKONF80と併用)。その他、中盤カメラMAMIYA645、コンパクトカメラOLYMPUS XA、RICOH R1Sなども購入したが現在は殆ど使用していない。

以上カメラ遍歴を振り返ってみたが、そんなにカメラ数が多くないのは使い慣れたカメラを長く使用しているからである。それにしても私が世話になったカメラ会社の銀塩カメラが製造中止になるとは!時代の流れを感じる。

写真評論家、飯沢耕太郎の著書によると、写真は1400年初めの「小穴投影」を利用した「カメラ・オブスクラ」と呼ばれる装置から始まるという。いわゆる針穴写真機である。17世紀の著名なオランダ画家フェルメールもこれを使って絵を描いたという。19世紀の初頭には、銀塩が発明され現在のようなカメラができた。


写真の出現によって絵画観がどう変わったかをドイツの哲学者、ベンヤミンはその著書「複製技術時代の芸術作品」 で述べており参考(小生の書評参照)になる。デジタルの出現によって従来の写真がどう変わるのか、ベンヤミンが生きていたら聞いてみたい心境である。銀塩カメラができてまだ約150年、その変化についていけず、デジタルに踏み切れないこの頃である。

飯沢耕太郎著 写真美術館へようこそ 講談社 現代新書1996年2月刊  

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2006-01-18 19:07:16

人間ていいものかしら?

テーマ:読書雑感
昨夜は一時であるが月が出ていた。外の田んぼに出てみると、月に照らされ雪原が輝いており、遠くには明かりがちらほら見えた。雪国でなければ見られない幻想的な風景である。これを見ながら新美南吉の童話「手袋を買いに」 を思い出した。

子ぎつねが、人間の町へ手袋を買いにいくとき、母ぎつねは、子ぎつねの片方の手を、人間の手に変えて、「にんげんの手のほうをさし出すんだよ」言い聞かせるが、子ぎつねは間違えて、きつねの手を出してしまう。しかしも帽子屋のおじさんが手袋をくれたので、喜び勇んで母ぎつねのいる森に帰る物語である。そして最後の場面が印象的であある。

「母ちゃん、人間ってちっとも恐かないや」「どうして?」「坊、間違えてほんとうのお手々出しちゃったの。でも帽子屋さん、つかまえやしなかったもの。ちゃんとこんないい暖い手袋くれたもの」と言って手袋のはまった両手をパンパンやって見せました。 お母さん狐は、「まあ!」とあきれましたが、「ほんとうに人間はいいものかしら。」とつぶやきました。」

新美南吉の代表的な童話であり、以前に小学校の教科書に載っていたが、小学校の教師であった妻によると子どもたちは、なぜ子狐だけに手袋を買いにやらせたの?なぜ子狐の片方だけ人間の手にしたのか?などの疑問が出て、主題に迫るのに苦労したことをに聞いたことがある。

新美は狐の親子を通して人間信頼を謳いあげたかったのだろう。しかし最後の親狐の「ほうとうに人間はいいものかしら」という疑問符が気になる。郷里出身の著名な児童文学者であった滑川道夫も「母の愛情を流れにして、人間を恐れることを知らない子ども狐の純真な美しさを認めながらも、母ぎつねはなお疑いを残してこの作品は終わっている。」と述べている。

昨日はライブドアの証券取引法違反容疑、建築偽装証人喚問、そして幼女殺害死刑判決など、「人間不信」を感じさせるニュースが流れた。「ほうとうに人間はいいものかしら」という言葉を人間自身が疑わざるをえない事件である。

雪国の夜の雪原は数日前までの猛威を忘れたかのようには静まりかえっている。私はいくら厳しい自然であろうとこの郷土の風景・雰囲気をこよなく愛し、ここで生涯過ごすつもりでいる。願わくば「手袋を買いに来た子狐」の住む土地を都会の醜い文化で汚染しないでほしい。

新美南吉著  手袋を買いに  小学館文庫―新撰クラシックス  (2004-01-01出版)
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2006-01-16 17:24:23

魯迅と日中交流

テーマ:読書雑感

今日の「河北新報」(仙台市)に次のような内容の記事が載っている。「中国の文豪・魯迅が仙台留学時代に記した医学ノートを解読する東北大のプロジェクトに、市民ボランティアが協力している。これは国宝として中国・北京魯迅博物館に保存されていたが、昨年12月に複写したDVDが東北大に寄贈され、解読が始まったという。ノートは1904―06年、仙台医学専門学校(現東北大医学部)に在籍した魯迅が、解剖学総論、神経学といった講義の内容や臓器図などを書いた6冊で計900ページ以上に及び、一部には小説「藤野先生」で描かれた藤野厳九郎が添削した形跡も残っている。」

魯迅は仙台医学専門学校で学んだことが知られている。数年前東北大学片平キャンパスを通ったときに魯迅の胸像 があった。私たちの学生時代にはなかったものである。現在でも魯迅を忘れまいという証左であろう。彼が文学者として中国の近代化に貢献したことは有名である。私も、岩波書店から出た「魯迅選集」13巻を購入、彼の代表作、「阿Q正伝」「狂人日記」やエッセーを読み、魯迅のことはいつも頭にあった。

特に上記にある「藤野先生」は短いエッセイーであるが、感銘深く読み忘れられない。現在ではWEB上でも読むことができるので藤野先生 を挙げておくことにする。

その中で魯迅は医学生として藤野先生から解剖実習と局部解剖学の講義を受けるが、藤野先生が講義ノートを朱筆で添削してくれたことが書かれている。その一部が今回のノートにあるというのである。

しかし、「藤野先生」の中での魯迅の文章は心が痛む。「ある日、同級の学生会の幹事が、私の下宿へ来て、私のノートを見せてくれと言つた。取り出してやると、パラパラとめくつて見ただけで、持ち帰りはしなかつた。彼らが帰るとすぐ、郵便配達が分厚い手紙を届けてきた。開いてみると、最初の文句は──「汝悔い改めよ」 これは新約聖書の文句であろう。だが、最近、トルストイによつて引用されたものだ」


これは藤野先生の添削が誤解をうみ、魯迅は「前学年の解剖学の試験問題は、藤野先生がノートに印をつけてくれたので、私にはあらかじめわかつていた、だから、こんないい成績が取れたのだ、という意味のことが書いてあつた。そして終りは、匿名だつた。」という手紙を受け取る。抗議すると「幹事は八方奔走して、例の匿名の手紙を回牧しようと試みた。最後に、私からこのトルストイ式の手紙を彼らの手へ戻して、ケリがついた」とある。日本人の了見の狭さと姑息な行為に恥ずかしさを覚える。

結局、魯迅は「日露戦争」で「ロシアのスパイの嫌疑をかけられ銃殺される中国人の幻灯フィルムを見せられ、「万歳」と歓声をあげる学生の姿にいたたまれず、さきの試験漏洩嫌疑もからみ、学半ばにして仙台を去ることになる。しかし彼にとっては「藤野先生」は生涯忘れえぬ教師としてこのエッセーを残している。

「藤野先生」こと藤野厳九郎氏はその後郷里福井県芦原町(現あわら市)に帰り開業医として生涯を過ごす。地元では昭和59年、遺族から旧居が寄贈されたのを受けて「藤野厳九郎記念館」 として整備している。なお魯迅の郷里、中国浙江省紹興市と国際友好都市の関係を結んでいる。昨年、中国上海で「上海魯迅記念館「魯迅と仙台」特別展」が開かれ、魯迅の恩師である藤野厳九郎氏お孫さんの藤野幸弥氏も初めて中国を訪れ、魯迅のお孫さんの周令飛氏とともに参加いたしたそうである。

このように、「藤野先生」をはさんで日中交流があわら市や仙台市を中心に今でも行われていることは喜ばしいことである。最近の中国の行動はナショナリズムの高揚のせいか、必ずしも賛成でない面もあるが、それ以上に日本の一部に昔の「支那」の呼称で呼び捨てにして軽侮、揶揄、誹謗する動きに疑問を抱いている。私は魯迅が仙台で体験した悲しみを思うとき、その二の舞をしてはならないと強く感じている。

魯迅著 竹内好訳  魯迅選集(13巻)  岩波書店  1956年刊>
*「藤野先生」はこの中の第2巻「朝花夕拾」の中に掲載されている。

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2006-01-14 19:53:18

ヘミングウェーの滞在ホテル焼失

テーマ:読書雑感

今日の海外ウェブサイトREUTERSはFire razes Hemingway's Bahamas bar (へミングウェーのバハマのバーが焼失)の記事を載せている。それによると、カリブ海の島国バハマのビミニ島で13日早朝、米国の作家ヘミングウェーの博物館とゆかりのバーが入った木造のホテルThe Compleat Angler が全焼し、展示されていたヘミングウェーの写真や遺品が焼失したとのことである。しかし日本のメディアの報道は殆どない。

ロイターはへミングウェーについて「彼の小説「老人と海」(The Old Man and The Sea)はバハマやキューバでの釣りの成果によて鼓舞されたものであると言われ、またこのビミニ島で「持つもの持たざるもの」(To Have and Have Not)を書いていると説明している。

「持つもの持たざるもの」は日本では1956年、河出書房から出ているが絶版である。レジスタンスのリーダーを密航させる手助けをするロマンスとアクションの物語で、1945年映画化され 日本では「脱出」の題で公開されている。

「老人と海」は説明するまでもなく、大海原における、3日間にわたる不眠不休のまさに命をかけ、大魚を相手に雄々しく闘う老人の姿を通して自然の厳粛さと人間の勇気を謳う闘争的な男の物語である。

訳した福田恆存の解説に「へミングウェーのハードボイルドリアリズムは描く人物がことごとく闘争的で、自己の負った痛手をみずから無視して戦います。というよりわざわざ敵を見出すといったほうがいいかもしれせん。・・勝ち抜き、生き抜くこと、これがヘミングウェーの登場人物の唯一の掟でありましょう。敗北者に同情をいだかない。それが「非情のリアリズム」でしょう」とのべいるが、この小説の最後の部分には少年のやさしにふれそこに人間の善意を表現しているように思われる。福田も「ヘミングウェーはこの作品で精神的に肯定されることによって倫理の道が開かれているように思われます。」と述べている。

最後の部分は「老人はライオンの夢を見ていた」で終わるが、前記の福田の解説を読みながらふとライオン・ヘアーのある人を思い出してしまった。

へミングウェー著 中田耕冶訳 持てるもの持たざるもの 河出新書  1956年刊
ヘミングウェー著 福田恆存訳  老人と海          新潮文庫 1966年刊 
 

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2006-01-12 16:08:50

暖地の人よ!

テーマ:時評
「暖地の人よ,雪国の苦しみをわかっていただこう」と叫んだのは江戸時代、「北越雪譜」を書iいた、越後国魚沼郡塩沢(現南魚沼市塩沢)の縮緬(ちりめん)商人、鈴木牧之(1772~1842)である。

現在TVではさかんに新潟県津南町長野県栄村 の豪雪の様子についてレポーターの高ぶった声が聞こえる。何のための報道なのだろうか。雪の多さや住民の苦しみを見世物にしている感じがして、同じ雪国に住んでいるものとって不愉快である。私も敢えて鈴木牧之の言葉「暖地の人よ」と叫びたい気持ちである。

この「北越雪譜」は雪国の生態、風俗が詳述され、江戸時代の貴重な資料になっている。特に雪害については現代でも解決できない問題を提起している。岩波文庫から原文が刊行されているが、現代文に訳した本も数冊出ている。その中でドイツ文学者の池内紀氏が訳したものが読みやすい。池内さんによると、鈴木牧之はほぼゲーテの世代にあたるという。「同じころのドイツ語がらくに読めて、一方母国語である日本語のほうが難儀するのはどうしてだろう?現代語のへだたりは両者でいったい,どのようにちがっているのか、それを実地に体験してみるのも面白いような気がした」と述べているが、この内容に惹かれるものがあったのだろう。

鈴木牧之はこの本で吹雪で死んだ若い夫婦と、母親の懐にいて死を免れた赤子のことについて、「親たちは・・二人して骸にとりつき、ただ涙にくれた。みるも哀れというほかなかった。ひとりの男が懐に抱いている赤子を姑にわたした。悲しみの涙に、一筋よろこびの涙がまじった」と書き、「暖地の人よ。雪国の苦しみをわかっていただこう。連日の晴天も一瞬にして吹雪になる。雪国の常のことだ。」と叫ぶのである。

彼は他に「なだれ」や「ほうら」(表層なだれ)の恐ろしさや「雪堀り」(除雪)の苦労についても書いている。「雪のためにどれほど体力を使い、費用を費やすものか。終日かかって掘ったというのに、夜の大雪で翌日はもとのもくあみ・・」と嘆いている。江戸以来、あるいはそれ以前から、自然の脅威を闘いながら生きてきたのに、近代文明はいまだこの苦労を解決できないでいる。

原作 鈴木牧之 現代語訳 池内紀 北越雪譜  小学館 1997年6月刊
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