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2005-08-31 21:11:30

俘囚の強制移住

テーマ:読書雑感

大和朝廷が蝦夷(えみし)を征討し捕虜になった者たち、いわゆる俘囚を日本各地に移住させたことが知られれている。このことについては小生のもう一つのブログ・From dewanokuniの古代蝦夷の強制移住 に書いてあるが、彼等がどこに移住しどんな生活したのかはあまり知られていない。これについて在野の民俗研究家菊地山哉(さんさい1890―1966)が、全国に散らばっている「別所」村が蝦夷の移住地であることを唱えている。

別所の意味は一般的には「新しく開いた土地」の意味で、菊地山哉はいろいろな理由をあげているが、俘囚村がその出入りが禁じられるなど差別の名残がある。俘囚長が信仰した「白山神社」が見られることをあげている。そして被差別民とは、大和朝廷側に攻められて捕虜になったり、山奥に隠れたりした蝦夷(えみし)や隼人(はやと)、国栖(くず)、土蜘蛛(つちぐも)などと呼ばれた原住民や、あるいは南方や大陸から移住してきた人々の末裔(まつえい)ではないのかと「別所と特殊部落の研究」で述べている。

菊地の研究は正史とはかけ離れ、アカデミズムからは長い間無視されてきたが、昨年、新潮社の前「新潮」編集長であった前田速夫氏が『余多歩き 菊池山哉の人と学問』という題名で、彼について始めての評伝を著した。(読売文学賞受賞)

この本で興味をひくのは、菊地が「白山神」に注目し、この神は日本原住民の信仰ではなかったかと全国各地の「別所村」を訪ねその因果関係を探っていることであるが、白山神に何を祈ったか肝心の点が考察されていない。

しかし、前田さんはこれはきわめて独創的な問題提起で、その非凡な着眼と被差別部落を探る方法論には、日本人の起源とその民俗宗教の全般を根本から見直すヒントがあると高く評価している。

俘囚が移住した村が全て被差別部落になったとは考えにくいが、差別を受けてきたのは事実である。前田さんは「余多は与太者、はみだし者に通じる。山哉が単身歩き、調査し、記録し、考え出した中には、大家が避けて出来なかった部分がある。徹底した在野精神、独力で未開分野を切り開くエネルギーこそが、専門化のあまり輝きを失った人文学を、再び豊かにする」と述べている事に、この本の意図を汲み取ることができる。

前田速夫著  余多歩き 菊池山哉の人と学問   晶文社 (2004-08-10出版)

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2005-08-30 20:03:56

司馬遼太郎の人間観

テーマ:読書雑感

書評誌「図書」9月号(岩波書店)に詩人の平出隆氏が「少年デザイナー子規」という題で、正岡子規が松山中学校時代に「図画」の時間に罫画を書き残していることを書いている。当時の松山中学校は自由のと気風と活気に満ちていたといわれている。この学校創設には岩村高俊愛媛権令(知事)が関係している。平出さんはこの岩村は「明治県政のあけぼのとしていわれる明治10年6月の県会主催でしられる。ほかにも多くの文化的な施策によって松山を中心とする愛媛を開明した」と述べている。

これを読んで司馬遼太郎の岩村観との違いに愕然とした。司馬さんは「坂の上の雲」でやはり松山中学校時代の子規にふれているが、「明治7年土佐出身の岩村高俊がやってきてこの方面に力を注ぎ、同8年東京から草間時福をという慶応出身の青年を呼んできて英学所(後に松山中学校)を立て草間を校長にした」と彼にについては誠にそっけない。

ところが、幕末の長岡藩の河井継之助について書いた作品「峠」では、この岩村をこき下ろしている。岩村は北越の戊辰戦争で官軍軍監であったが、河井が戦争する意思がない嘆願書をもって政府軍に会いに来た時、応対した岩村は高慢な態度でその嘆願書を拒否し追い払ってしまう。それがきっかけで北越戦争が始まるのである。司馬さんはこの岩村を、土佐から出てきてうろうろしているうち官軍軍監に命ぜられ、自然、寛容さに乏しく何事も高飛車の、権力好きの小僧(24歳)で「にわか権力者であった」と手厳しい評価をしている。彼の対応次第では「北越戦争は起きなかった」と河井の死を惜しんでいる。

司馬さんは佐賀の乱を起こした江藤新平についてかいた作品「歳月」でも、佐賀権令としてやっきて「佐賀の乱」を鎮圧した岩村について書いている。「息通たちは、おどろいた。とくに参議木戸孝允は、「人もあろうに、選りによって岩村高俊のようなキョロマをやるとは、じつに国家の大事をあやまるものだ」と言い、大久保をなじり、人事をひるがえすよう忠告した。キョロマというのは倨倣で無思慮な行動家、というほどの意味の長州言葉であり、・・」と書いている。

司馬さんは傲慢で無思慮の権力者を蛇蝎のように嫌っている。司馬さんの目から岩村がそのように映ったのだろう。その岩村が愛媛権令として松山に赴き、自由民権に理解をを示し、自由の気風みなぎる松山中学校創設に貢献したとはにわかに信じられなかったにちがいないない。

司馬遼太郎著  峠(下)新潮文庫 1975年5月刊 

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2005-08-28 15:13:49

「秘太刀馬の骨」の原作とドラマ

テーマ:読書雑感
NHKの金曜時代劇「秘太刀馬の骨」 が6回シリーズで26日より始まった。藤沢周平原作のドラマ化である。まだ第1回であるが原作との違いに戸惑いを覚えた。この作品は北国の藩で筆頭家老暗殺に使われた幻の秘剣「馬の骨」の探索を命じられた浅沼半十郎と石橋銀次郎が、藩内の執政をめぐる暗闘に翻弄されながら、剣客ひとりひとりと立会い、「馬の骨」の遣い手を探す内容になっている。

主人公は交渉役の浅沼半十郎であるが、ドラマでは実際に剣客に立ち会う石橋銀次郎を主役にし、立会いのシーンを主場面としている。しかし、この作品には半十郎の家庭生活、妻杉江とのかかわりが伏線にあり、これが作品を構成する重要な役割を果たしている。

杉江は小太刀の名手でもあるが、息子を死なせたショックでうつ状態になり、家庭を顧みなかった夫を恨みながら生活をしている。ところがドラマでは時に落ち込むことはあるが、漸く本来の明るさを取り戻した状態に描いている。違和感があるというのはこのことである。藤沢さんはこの杉江が次第に夫の行動を理解し最後に立ち直る様子を描いている。杉江があまり早く明るさを取り戻しては困るのである。

作家出久根達郎氏は解説で「私は間違っていたのである。馬の骨をたたき斬った剣だからと秘太刀の名称ばかりを思い込んでいたが、実はこの名には別の意味があったのだ。「どこの馬の骨ともわからぬ人」などという、どこにでもいる平凡な人という意味合いもあるのかもしれない。実はこの小説の「意外な人物」を示唆するキーワードであったのだ」と述べ杉江の存在に目を向けている。

最後の部分で、杉江が町で子供を人質に金をせびりとろうとする浪人を木刀で篭手をうち退散させる場面がある。杉江はいう。「ずいぶん手間取りました。さあはやく帰って旦那様をのお夜食を支度せぬと・・」という。そして半十郎の帰りを門前でまっている下僕伊助が、その様子を報告し、「むかしの奥さまにもどられたのだ。・・旦那さま、奥さまはもうご病人ではござりませぬ。お屋敷に入ればすぐそのことをがおわかりになりましょう。」という文章で終わる。これこそ藤沢さんが言いたかった事ではなかったか。NHKのドラマはあくまで秘太刀「馬の骨」にこだわっているようであるが、藤沢さんの隠された意図をどう表現するだろうか?

藤沢周平著 秘太刀馬の骨 文春文庫 1995年11月刊
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2005-08-26 17:26:27

高田屋嘉兵衛の民間外交

テーマ:読書雑感

8月24日のNHK「その時歴史は動いた」は「日露衝突を回避せよ~高田屋嘉兵衛 決死の交渉劇~」であった。この事件の発端は1807年(文化4)通商を求めるためにやってきたロシアのニコライ・レザノフが、フォボストフらロシア軍人2名を雇い択捉島や樺太に上陸し、略奪や放火など襲撃を行わせる。そのため日露関係は緊張、日本の対外姿勢は硬化していた。1811年、松前藩は測量のため千島列島へ訪れていたディアナ号を国後島で拿捕し、艦長ゴローニン海軍中将ら8名を捕らえ抑留した。

副艦長のリコルドはロシアへ帰還し翌年12年(文化9)に再び来日し釈放を求めるが日本側は拒絶。リコルドは報復措置として国後島沖で日本船の観世丸を拿捕。乗り合わせていた廻船商人の高田屋嘉兵衛らを抑留した。翌年13年(文化10)9月、ゴローニンは高田屋嘉兵衛と捕虜交換により解放され、ロシアへ帰国した。この一連の事件解決には高田屋嘉兵衛の交渉があったといわれている。

このいきさつについては司馬遼太郎の著書「菜の花の沖」に詳しい。司馬さんは嘉兵衛の才気とリコルドとの友情を描くとともに、リコルドの持っていった謝罪文は国書でないので受け取れないという日本(幕府)の頑迷さを批判している。「嘉兵衛は日本政府を愚かしく思った。ロシアであれ他の外国であれ幕府はそれと接触するのにおそれ、あなどりといった無用の感情を持ちすぎる。日本も国家なら相手も堂々たる国家ではないか。その使者は自国を愛し自国のために命もすてるというものたちである。その相手の立場を単に異人(えびす)であるという一個の観念のもとに切り捨てる、ことさら無神経になろうとしているのが幕吏であった」と書いている。

最近の日本外交も当時の幕府のように ある国へは妙にへり下ったり、ある国には居丈高になったりと一貫性がない。それに比べ嘉兵衛は日本人としてロシアの外交官ともいうべきリコルドに対して、言うべきことはキチンと言い、また相手に立場を考えて行動している。リコルドのその手記で、嘉兵衛の度量と開明性を高く評価している。

またその手記に「湾口では別れに臨んで乗組員は「ウラー(万歳)」を唱えた。それから宏量で開けた高田屋嘉兵衛に対して感謝と敬意を表すらめに全乗組員が殊の他、力を入れて「大将、ウラーと三唱した」と書かれている。このような嘉兵衛の功績に対して幕府の礼金は5両であったという。民を重んじない伝統は現在もまだ生きている。

司馬遼太郎著 「菜の花の沖」(6) 文春文庫  2000年9月刊

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2005-08-24 19:10:46

私見、小泉=信長論

テーマ:時評
加藤広の書いた「信長の棺」が話題を呼んでいるようである。この本は信長の武将大田牛一(信長公記の著者)を主人公に本能寺の変後、信長はどこへ消えたかという歴史ミステリーである。残念ながら未読であるが、小泉首相が最近興味をもって読んだことが報じされていた。

小泉さんが信長に興味をもっていることは知っていたが、改めて彼の最近の政治行動が信長と類似しているのではないかと思い、秋山駿氏の著書「信長」をネタ本に小泉=信長論を岡目八目に書いてみたい。

秋山さんは「戦国時代は可能性の時代である。秀吉は可能性の現実(兵隊なろう、武将になろうなど)を追求したが、信長は可能性を非現実に沿って追ったのである。・・非現実なものを追う可能性は自分の生が立っているところの足元を今日の現実というものを徹底して否定するのであり、また非現実なものを実現するために、あるいは現実を変形するために、徹底して裸の力を行使するものである。それが信長の戦争であった。」と述べている。

つまり信長の可能性の追求には現実のモデルがなく「徹底した非現実の実行者」と秋山さんはいうのである。戦争と政治は違うが、小泉さんの行動にも従来非現実と思われたもの(例えば郵政民営化)を現実に変形するために徹底した力を行使していると言える。これが小泉さんと信長の類似点の一つではないかと思う。

また信長の長島一揆での全滅作戦は秋山さんに言わせると、越前の一揆、石山本願寺、さらには家康などの同盟者、家臣団への警告であり、極めて政治的色彩の強いものではなかったかと分析している。「信長は根底から現実を改変し、人心一心したいのである。そのためには原理から走る行為の一貫性が大切であった」と述べている。ここに信長の非情さが伺われるが、小泉さんにもそれがみられる。

しかし、信長の徹底的な現実改変の真意が次第に政権内の部下に誤解されていく。彼の現実改変は日本をしだいに旧来の伝統や社会秩序を破壊するのではないかという疑問をもつものがでてくる。それが光秀であったと秋山さんはいうのである。我々は信長の改革に賛同する面もあるが、信長に対する光秀の抱いた不信にも理解できる。これは現在の小泉さんの政治行動についても同じである。あまり焦りすぎて手段を選ばぬ行動をとると「本能寺の変」的変動ががおきらないとも限らないのである。

秋山駿著 信長 新潮文庫 1999年12月刊
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2005-08-22 21:36:14

乃木将軍は無能力だったか?

テーマ:読書雑感

評論家、関川夏生氏が月刊誌「文学界」に司馬遼太郎の「『坂の上の雲』を読む」を連載中であるが、その7月号に乃木希典の旅順攻撃の評価についてふれている。乃木は参謀の伊知地とともに海軍の策定した203高地攻撃に見向きもせず、大要塞の玄関口から攻め込んでいく真正直な戦法をとる。そのため、190日を要し日本側の死傷者を6万人という世界史上にもない未曾有の流血記録を作っている。結局ぎりぎりの段階で児玉源太郎が総司令部の仕事を一時捨てて旅順にやってきて主導権をにぎり203高地攻撃をし旅順攻撃は急展開をしたといわれている。

そのため乃木将軍の軍人としての「無能力説」が言われているが、司馬遼太郎もこの作品の中で「驚嘆すべきことは、乃木軍の最高幹部軍の無能よりも、命令のまま黙々と埋め草になって死んでいったこの明治という時代の無名日本人の温順さであった」と乃木らの作戦を批判している。

関川さんは司馬の批判について「司馬遼太郎はその性としてスタイリストと精神主義者を好きでありませんでした。戦争体験者として戦後的合理主義者を愛する作家である彼が乃木に注ぐ冷たい視線は自然と思われます」と述べている。しかし、司馬さんはこの旅順攻撃について乃木軍だけ責められないことを述べている。日本陸軍そのものがこの大要塞の認識について実に疎漏であったことを指摘している。

このことに関連して夏川さんは、かって評論家、福田恒存氏が「乃木無能論」に対して反論をしたことを紹介している。福田氏は「203高地が取れたのは第1回、第2回の総攻撃で本命の東北正面を主攻し敵兵力に大打撃を与えたからである」と述べ乃木軍が行った第1回第、2回の正面攻撃よりも第3回の203高地攻撃の死者が遥かに多いことを指摘している。そして「司馬氏は将軍(乃木)を軍人戦略家として否定しながらその宿命的な生涯を同情をもって書いている」と述べている。

そいわれると司馬さんは、ステッセルと乃木の会談にもふれ、ステッセルが尊大さのない乃木に感激しその尊敬は生涯変わらなかったと言うことを紹介している。特にステッセルが地元で死刑の宣告をしたときに助命の願いを出しているという。このような乃木の人間性にもかかわらず、旅順攻撃の作戦で多くの日本人を無意味に死地に追いやったことが我慢ならいようだ。ここに司馬遼太郎の真骨頂を見た。

司馬遼太郎著 坂の上の雲 4巻 5巻 文春文庫 1978年3月刊

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2005-08-20 20:59:00

衆愚政治

テーマ:時評
古代アテネの軍人・政治家ペリクレスは雄弁で知性をそなえ、公正で愛国心の持ち主だったため、多数の市民から信頼をえた。彼は民主政への移行をはたし、貧民を始め全市民を政治に参加させることに意をそそいだと言われている。ペリクレス時代はアテネは学問と芸術の中心ともなった。

しかし、紀元前431年にアテネとスパルタの間でペロポネソス戦争が勃発し、彼はペストにおそわれ死去した。その後を受け継いだクレオンらデマゴゴス(民衆指導者)らは国政の最高機関である民会を牛じり、無知な民衆に主戦論を扇動し戦争に向わせアテネは敗北する。プラトンらは紀元前5世紀から4世紀にかけてのアテネの民主政は民会に参加した無知な民衆につけこみ迎合させ、民主政治(democracy)を衆愚政治(mobocracy)に堕落させたと厳しく批判した。このデマゴゴスが demagogue(デマゴーグ)の語源になっている。

長々と古代ギリシャの歴史を述べたが、今回の「郵政解散」による選挙は、国民にその政策よりも造反者に対する復讐劇を煽り、アテネの民主政のように政治に目くらましをしている感じがしてならない。衆愚政治といわれないように国民は冷静にその政策に目を向けるべきである。また政治のトップはペリクレスであるべきでクレオンにはなってほしくない。古代ギリシャの喜劇作家アリストパネスはその著書「騎士」の中で次のようにクレオンを風刺している。

クレオンがくたばったらば
さぞや陽は麗らかに照り輝こう
・・・・・
年寄りどもがこう言い返すのを聞いた
「もしあの男がこの国で
威勢を失ったらば大変じゃ
大切な台所道具が2つもなくなるぞ
すりこ木と杓子がだ」

最後のフレーズは「すりこ木と杓子」でアテネを引っかき回しているという当てこすりである。小泉さんも来年の9月に引退を仄めかしているが、後世の人にアリストパネスのような皮肉を言われないように願いたい。

アリストパネス著・高津 春繁【ほか訳】 ギリシア喜劇〈1〉アリストパネス〈上〉 ちくま文庫  1986・7刊
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2005-08-18 20:07:55

「あの戦争は何だったか」を読む

テーマ:書評
保阪正康氏の近著「あの戦争は何だったか」を読了。戦後六十年の間、太平洋戦争は様々に語られてきたが、著者はその歴史観が「侵略史観」や「自虐史観」などの単純な善悪二元論であったことを排し、その全体像をとらえ「あの戦争はなにだったか」を分かりやすく述べたのがこの本である。著者の太平洋戦争批判の視点は「なぜあのような目的の曖昧な戦争が3年8ヶ月も続けたのかの説明責任が果たされていないこと」と「戦争指導者たちに歴史上戦争に駆り立てる権利が与えられていない」の2点である。

著者はまず旧日本軍の構造を説明し、どうして戦争をしなければならなかったかに迫る。日本は日独伊三国同盟を結び資源(石油)を求め南部仏印に進駐、これをアメリカが抑えると図式があったことは知られている。アメリカと戦っても勝ち目がないのに開戦したのは陸軍の暴走であるというのが一般的な見方であるが保阪さんはこの開戦の黒幕を海軍であるという新しい視点を出しているのが目を惹く。日中戦争で陸軍が戦果をあげているがのに対し海軍が陽が当らなかったからというのである。

また保阪さんはすでに昭和17年のミッドウェー、ガダルカナルでの敗北で戦争が泥沼に入り、既に18年には英米中はカイロ宣言で日本の無条件降伏を勧めることを話をしているのにもかかわらず、日本は無為無策のまま戦争を続けたことに疑問を投げかけている。保阪さんは「戦術はあっても戦略がなかったのが太平洋戦争の致命的欠陥であった」と分析している。大局を見て退くことを知らなかったために国民に戦況も教えず無責任な言辞を弄し、最後には本土空襲、原爆投下という事態を招いた。

以上が保阪さんの見方の主要点である。開戦の先頭にたっていた東条首相兼陸相や海軍にしても勝利の自信がなかたったが、天皇が海軍大臣と軍令部総長に対米戦争を問うたら「相当の確信をもって奉答」したので、天皇は木戸内大臣に東条に「予定通り進むように伝えた」と「木戸孝一日記」にあり、黒幕が海軍というより誰もが見通しのないまま戦争に走ったと考えるのが筋である気がする。だから後半で保阪さんも指摘しているように、無為無策のまま敗戦を迎えたというのが自然である。

この戦争は一方が正義、他方が不正義というよりも帝国主義勢力間の争いに起因すると考えるが、この本は戦争のプロセスに潜んでいるこの国の体質を知ることができる貴重な本である。


保阪正康著  あの戦争は何であったか  新潮選書  2005年7月刊
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2005-08-16 20:21:49

記者魂

テーマ:読書雑感

最近、時の権力を直視し時代に警鐘を鳴らす骨のある新聞記者にお目にかからない。迎合したり、時流に乗っている記者のなんと多いことか。昭和7年の5.15事件で犬養毅首相が急進軍人の凶弾で倒れたとき全国の新聞が沈黙したが、福岡日日新聞の編集長菊竹惇(筆名六鼓)だけが軍部批判の論説を載せ、平和のための論陣をはったことで知られている。過去にこんな記者もいた。

今日の毎日新聞の「記者の目」で牧太郎(社会部)の書いた「戦後60年、「小泉翼賛政治」の亡霊」サブタイトルが「言論も堕落、危うい日本」という題で現代の政治、言論機関に痛烈な批判を加えている。

まず小泉政治について次のように述べている。「政党人・小泉純一郎は「靖国」を“おもちゃ”にしている。衆院選を郵政民営化一本で戦うために終戦記念日の参拝を取りやめた。「平和と戦争の諸問題」は最も重いテーマなのに、彼はこれを人気取りの道具に使い、選挙になると決まって争点外にする。イラク派兵も、憲法も……そして、彼の「私的激情」が日本をアメリカの軍事的属国に仕立て上げていく。郵政は踏み絵。ぶっ壊す!の掛け声が、自民党を「誰も文句の言えない私党」にする。戦後60年。翼賛政治が亡霊のように頭をもたげた。」

また8月14日の朝日新聞の社説「なぜ戦争を続けたか 戦後60年に考える 」は戦争をもっと早く止める手立てはなかっか論じているが、「検閲があったとはいえ、新聞も追従する紙面を作った。重い戒めとしたい」と報道責任を数行で済ましたことについて、「この言い逃れこそが、言論の堕落ではないのか」と批判している。

この激越な文章に異論があろうが、一新聞記者の遠慮のない歯に衣を着せぬ表現に惹かれる。現代政治・報道批判の一つとして傾聴したい。牧さんは47歳で脳溢血になり半身不随の記者(現在60歳)である。彼はオーム事件を追いつめたことでも知られている。その著書「新聞記者で死にたい」は闘病に打ち勝ち「もう一度社会悪と格闘するまで死ねない」と踏ん張っている記録である。8年前の著書であるが、今日のコラムを読んで未だ健在であることを知った。

彼は最後に「希代のアジテーター・小泉純一郎の「私的激情」が「道理」を負かし、政党は混乱し、マスコミはむしろ「激情」をあおっている。この国は危うい」と結んである。牧太郎を木鐸記者ととるか煽動記者ととるかは個人の自由であるが、私は彼の言動に菊竹六鼓の記者魂の影を見た。

牧太郎著 新聞記者で死にたい。 中公新書  1998年4月刊

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2005-08-14 20:13:38

「特攻」と日本人(書評)

テーマ:書評
平洋戦争末期、若き学徒兵が日本陸海軍の「特攻」(特別攻撃隊)として、主に水上艦を対象に航空機などによる体当たりで行った自爆攻撃した。昭和史研究者として知られている著者がこの特攻隊員の行動の真意、軍部の特攻作戦と責任問題などについて書いた近作である。

戦後60年経ってなぜ「特攻論」なのか。特攻を美化したり、彼等の死は無駄であったという考え方など「英霊論」「犬死論」の見方が多いが、不条理な戦争の中で何故彼等は死ななければならなかったのか正確に歴史の中に汲み取り定着させるべきであるという問題意識からこの本を書いている。

著者は残された隊員の遺書・日記を丹念に読み解いているが、彼等の国家観、生死感を知ることができる。ある者は「権力主義国家日本」の敗北を予想し、ある者は神州不滅を絶叫し皇国護持を唱えている。著者がこの二つを対比して前者は自由主義者として「歴史」から「時代」へ、後者は「模範的な臣民」として「時代」から「歴史」への問題を投げかけていると分析している。そして、従来前者の視点からの特攻論が多かったが後者の視点からも考えるべきであると主張しているのが目につく。

いずれにしても彼等は特攻隊として死に臨むわけだが、著者は「「英霊」でなければ「犬死」でもない。一部の論者が賛えるように、生死を達観してお国のために笑顔で逝ったとか、国を想う純粋な気持ちで死地に赴いたなどというのは彼等に対して極めて非礼である。そういう仮託は生者のあまりにも得手勝手のエゴイズムである。」と述べている。これが著者の一番言いたかったことだと感じた。

未だ20歳を超えたばかりの若者をこのように死地に赴かせたのは誰か。参謀本部と航空本部(反対)には意見の対立があったが、作戦参謀に押し切られた経緯があるようである。結局、第一航空艦隊指令長官の大西瀧次朗が責任をとり自決するが、彼にだけ責任をとらせ、陸軍上層部の責任回避が行われたという。戦時指導者の無責任体制のしわよせが学徒兵たちー特攻隊員に負わされてしまったことに怒りを感じざるを得ない。

特攻隊員は戦時指導者の「十死零生」の兵器になるよう押し付けられ最後は諦観の境地で受け入れたのではないかという著者の考えに深い悲しみも覚えるのである。祖国愛というトリックで特攻隊員を美化してはいけないことがこの本を読んでの感想である。明日は終戦記念日、特攻隊員の御霊は靖国参拝を望んでいるのだろうか?

保阪正康著 「特攻」と日本人  講談社現代新書 (2005-07-20出版)
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