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2005-07-30 17:52:14

テロリストの心の中

テーマ:読書雑感

作家の藤原伊織さんが5月発売の「オール読物」6月号(文芸春秋)誌上で、自分の意思で、食道がんであることを公表した。進行度は、最も進行しているとされるステージ4の前期。5年生存率は約20%という。

毎日新聞のインタビューに藤原さんは「本当に何も変わってませんよ。50まで生きると思ってなかったから。団塊の世代で学園闘争の時代だったから、当時は『ドント・トラスト・オーバー・サーティー<30歳以上を信用するな>』なんて言われていた。30になった自分を想像できなかったぐらい。だからというわけでもないけど、もう十分という感じはありましたね」とその心境を語っている。(毎日新聞7月29日)

藤原さんは、1985年「ダックスフントのワープ」で第9回すばる文学賞を受賞して作家デビュー。1995年『テロリストのパラソル』で第41回江戸川乱歩賞を受賞。翌96年にはこの作品が直木賞を受賞している。2005年「ガン告知」と彼の作家人生は10年ごとに「節目」を迎えているようだ。

「テロリストのパラソル」は全共闘世代のテロリストの行動を描き話題を呼んだ作品である。ハードボイルドとも推理小説ともとれる内容であるが、今回読み返してみて何かに向かって行動しようとした全共闘世代に対する作者の思い入れみたいなものを感じた。

新宿中央公園での爆発事件そのものの真相解明はそれなりに面白いが、やや陳腐な感じもする。むしろ、そこに潜む主人公の島村圭介(菊地俊彦)、かっての仲間、園堂優子、桑野誠などが全共闘時代を思い出を引きずりながら生きてきた人間模様に惹かれる。

また、作者がテロリストとしての桑野に「ぼくはこの国全体に復讐したかった。ぼくをこんなことにしたこの国にね。この国はクズだ。・・・ぼくはこの国の内部を腐らせたいと思った。」といっことに対して、結局恋人とその夫を殺した彼に「お前は本物のテロリストになれなかった単に哀れな人殺しになっちまっただけなんだ」と主人公に言わせているのが印象的である。これは今起きている世界的なテロ事件が単なる集団殺人事件の謗りを免れない現状を見るにつけ、この作者の言葉は重い。

藤原さんはこれからは「これまでの愛読者をなくすかもしれないからリスクは大きいけど、時代小説を書きたいなと思ってね。でも勉強が大変なんですよ」と述べている。彼の時代小説を読んでみたい。早く健康を回復してほしい。

藤原伊織著 テロリストのパラソル  講談社 1995年9月刊

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2005-07-28 16:53:21

子ども兵の現実

テーマ:時評

NHKスペシャルはグローバル化の負の側面を背負ってきたアフリカの現状を伝える「アフリカゼロ年」という4回シリーズを放映した。その第3回は「子ども兵を生んだのは誰か~モザンビーク~」と言うテーマであった。

アフリカ各地で子ども兵の多くは、武装組織によって誘拐され、麻薬と暴力によって支配されて銃を持たされている。特に世界で初めて注目されたのは、1977年から92年のモザンビーク内戦であった。NHKは、90年に当時8歳だったフラニスという名の子ども兵を取材したが、再びモザンビークを訪ねてみると、彼は昨年に事故死していた。フラニスは23歳で世を去るまで、戦場の記憶に苦しみ続けていたという。このドキュメントは彼を追想しながら子ども兵の現実に迫っている。

モザンビークは1975年ポルトガルから独立。解放戦線((FRELIMO)が政権を握るが、1977年ポルトガル領時代の元秘密警察を母体とする反政府組織の民族抵抗運動 (RENAMO) との内戦が勃発する。内戦が長期化、1992年の国連の和平協定によりようやく終結した。この間特にRENAMOは子どもを誘拐し兵士として残酷な殺人機械に仕立て親を殺したりさせている。彼らはwolf childrenと呼ばれ恐れられた。

モザンビーク内戦の背景を探っていくと、近隣諸国の思惑や東西冷戦などが複雑に絡み合い、その中で子ども兵が生み出されてきたことが分かる。内戦が終わってもかっての子ども兵たちや被害を受けた子ども達は頭痛や悪夢や胸の痛みに悩まされている。

以前、アメリカのドキュメンタリー映画監督マリア・オーセイミが著した「子どもたちの戦争」を読んだことがある。この本はレバノン、 ボスアニア ・ヘルチェゴビナ、モザンビーク、エルサルバドルへ渡り、戦争の砲火の中に暮らした子ども達の現実をカメラに収め、インタビューした記録である。この中で今回NHKが放映したモザンビークの子ども兵のことが詳述されている。

「兵士だった子どもたちは復讐心や悲しみだけでなく、深い後悔の念をいだいている。パブロは9歳で子ども時代をRENAMOのために戦って過ごした。今彼は、うばわれた無邪気さをとりもどすチャンスがもう一度与えられることをを願っている。「望みは、たったひとつだよ。おとなになったら、・・・小さな子どもになりたい。それだけさ」という元子ども兵の叫びに心が痛む。世界には未だ20万~30万の子ども兵がいるという。

マリア・オーセイミ著 落合恵子訳 子どもたちの戦争 講談社 1997年8月刊

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2005-07-26 18:23:42

山本周五郎受賞作品に思う

テーマ:読書雑感

平成17年度の第18回山本周五郎賞は 荻原浩の「 明日の記憶」と 垣根涼介の「君たちに明日はない 」に決まった。(5月17日発表)いずれも単行本として出版されているが、その内容の一部とサマリーが小説新潮7月号に載っている。

「 明日の記憶」は娘の結婚をひかえた50歳で若年性アルツハイマーの告知を受けた広告代理店の営業部長が同僚に悟られまいとメモをとり必死に記憶を繋ぎ止めようとする姿を、「君たちに明日はない」はリストラを専門に請け負う会社に勤め、「クビ切りの面接官」の仕事をしている主人公の姿を描いている。

奇しくも「明日」のキーワードで現代の社会の断面、サラリーマン像を描き、その中で主人公をとりまく人間関係を描いているのが特色である。平成13年受賞作品の許婚の男女が事情で別れ再開する乙川優三郎の「五年の梅」は山本周五郎の描く人生の機微と似通っており忘れられない作品であるが、今回の両作品の出だしはあまりにも現代的な内容の描写で戸惑いを覚えたのは事実である。全体として現代人の悩み、世相が文字として飛び込み、乙川作品のように素直に心に入ってこないのは柔軟な思考力の決如のせいかもしれない。

山本周五郎の「さぶ」は表具と経師の職人「さぶ」と「栄治」の物語であるが、江戸の市井の片隅で愚直なさぶと器用な栄治が辛さをこらえ心を分かちあって生きる純粋でひたむき行動と友情を描いている。それに比べ現代の病理現象のなかで様ざまな問題を抱え生きる現代職業人の姿には孤独さを感じてならない。

「さぶ」の時代も「世間が一般に不景気で、日本橋の大きな問屋筋でも倒産した店が少なくないという話しだし、町を歩けば「店じめいにつき投売り」とか閉めた店の大戸に貼った「売り家」の字などが目につかないことがなかった」と山本が描写してるように江戸とてのどかな時代ではなかった。その中で生きるのは容易いことではないはずなのに、懸命に助け合って生きていく姿に惹かれる。

「さぶ」の冒頭の「小雨が靄のようにけぶる夕方、両国橋を西から東へ、さぶが泣きながら渡っていた。双子縞の着物に、小倉の細い角帯、色の褪せた黒の前掛けをしめ、頭から濡れていた。雨と涙のぐしょぐしょになった顔を、ときどき手の甲でこするため、目のまわりや、頬が黒く斑になっている。ずんぐりした躯つきに顔もまるく、頭が尖っていた。・・」という描写には今回の作品は及ぶべきもない。

山本周五郎著  「さぶ」 新潮文庫   1965年12月刊

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2005-07-24 15:28:25

日米の歴史認識の違い

テーマ:時評

日本の共同通信、アメリカのAP通信社が合同で行った「日米合同世論調査」の結果が今日の共同通信が配信している新聞に載っている。全部で16の質問があるが、その中で「1945年、米国は広島と長崎に原爆を投下しました。あなたは、原爆の投下は、戦争終結のため、やむを得なかったことだと思いますか。それとも必要なかったことだと思いますか。」の質問に対してつぎのような回答があったことが目を惹いた。

戦争終結のため、やむを得なかったことだと思う。(日本側20.3 米国側67.6)原爆投下は必要なかったことだと思う。(日本側81.8 米国側 29.2)まったくの対照的な回答に両国の歴史認識の違いに驚く。アメリカには今でも原爆投下の正当性の考えが根強いようだ。

米国の海軍情報将校として参戦し戦後は外交官、さらには日本文学研究者として知られているサイデンステッカーさんは「私のニッポン日記」の中で、この原爆投下にふれているのを思い出した。

「原爆投下のニュースが入った。もうこれで、戦争が秋までもつれこむことはあるまい。ニュースを聞いて誰しもが考えはじめていた。私自身は、まず深い恐怖を感じたことを覚えている。しかしそれは道徳的な怒りというものでなかった。広島を訪れるものは誰しも道徳的憤激を感じなければならないことになっているらしいが、それとも多少違っていた。それに正直、ほっとしたという気持ちが混じっていたことも否めない。」として、「もしかりに本土上陸作戦が行われていたとすれば、日米双方とも、どれほどおびただしい人命を失っていただろう。」と述べている。

サイデンステッカーさんの率直な話しぶりはそれなりの説得力はあるが、それまでもよく聞いた論理で驚かなかった。しかし、原爆投下の被爆者の実態にふれもしないで、「広島を訪れるものは誰しも道徳的憤激を感じなければならないことになっているらしい」との物の言いかたに、日本文学の「もののあわれ」を研究した学者としてあるべき態度ではないと憤激した記憶が残っている。

川本東大大学院教授はこの原爆投下の調査の結果について「国対国の角を突き合わせるのではなく、名前があり、顔のある被爆者個人の物語を伝えていく。違った価値観でも合意できる部分を探し積み上げていく地道な努力が大切」と述べている。難しいことであるが両者の歴史認識の差を埋めていくためには必要なことである。

サイデンステッカー著 安西徹雄訳  私のニッポン日記  講談社現代新書 1982年5月刊

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2005-07-22 16:31:23

日韓の歴史に翻弄された王女

テーマ:読書雑感

20日の各紙は韓国の李王朝(李氏朝鮮)の血を引く李玖氏(73歳)が亡くなったことを報じている。李玖さん(イ・グ=朝鮮王朝の李王家に嫁いだ旧皇族梨本宮家出身の故李方子さんの二男)16日、東京都内のホテルで心臓まひのため死去。李王家の血統は途絶えることになる。李王家は日本日韓併合後皇族扱いを受けたが梨本宮家の方子さんと李王家最後の皇太子の李垠殿下との結婚は、日本の国策に基づく政略結婚だった。 植民地解放後の47年、皇籍離脱に伴い王家は消滅。反日策をとった李承晩大統領の反対で韓国に帰国できなかったが、63年に朴正煕大統領の配慮で帰国が実現。96年に韓国に永住した。(毎日新聞 7月20日)

李王朝26代の高宗には4人の子供がいる。4人とも異母兄妹であるが、特に末子である王女、徳恵翁主(トクヘオンジュ)は兄の李垠より悲惨で数奇な運命をたどっている。(*日本では李徳恵、通称、徳恵姫と呼ばれている。)

彼女は1925年、12歳で日本政府の命令で日本に留学させられる。女子学習院に入学するが無口で孤独であったといわれている。このことについては本馬恭子著「徳恵姫 李氏朝鮮最後の王女」に詳しい。本馬さんは「日本は朝鮮的なもののすべてから徳恵を遮断して引き離し、まったく日本人として教育しようとしたのである。それが日本の狙いであった。日朝一体のシンボルとして朝鮮王族を利用するために、日本人化することをもくろんだのである」と述べている。

この孤独な王女は民族的苦難と政治的圧力の狭間の中で精神分裂症になる。回復し学習院を卒業してすぐに旧対馬藩主の伯爵の子息、宗武志と結婚する。いわば強制結婚である。そして子どもを生んでまもなく再発。(松沢病院に15年間入院)戦後紆余曲折を経て離婚。1962年帰国している。12歳で日本につれてこられ47歳で母国に帰ったのである。

李徳恵と夫の宗武志について、本馬さんは「李徳恵はおそらくひとことも彼をとがめなかった。そして宗武志もあれほど韓国から反感や憎悪を向けられても、決して韓国の批判や非難めいたことを口にしなかった。それが愛する妻の故国だったからである」とのべている。

「おそらく徳恵翁主の生涯は今日なお韓国と日本の人々の相互理解のカギを握っているといえるでしょう」という本馬さんの言葉に日韓の歴史の真実を感情的にならず自国の立場を超えて知る必要があることを痛切に感じた次第である。

本馬恭子著  徳恵姫 李氏朝鮮最後の王女 葦書房  1998年12月刊

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2005-07-20 18:25:30

戦争と画家

テーマ:読書雑感
NHkの新日曜美術館(7月17日)は「清水登之・戦争に翻弄された画家」 というテーマで画家清水登之(とし)(1887~1945)について紹介していた。清水は明治40年渡米し絵を学び、戦前アメリカの画壇で評価された数少ない国際的な画家として知られている。大正13年には渡仏してサロン・ドートンヌに入選。帰国後は二科展に出品し、昭和5年には二科賞を受賞するが、同年独立美術協会の創立に参加している。

この清水はなぜか従軍画家として日中戦争の戦場に赴いている。彼は30年わたって几帳面に日記を書いていた。昭和20年の最後の日記だけは行方不明であったが、最近これが発見された。番組はこの最後の日記を中心に画家清水の晩年に迫っている。特に息子郁夫の戦死で受けたショックから、自らの命を縮めた晩年の思いを明らかにしている。

清水にかぎらず、戦争中多くの画家達は従軍画家として戦地に赴いている。画家、司修の書いた「戦争と美術」によれば、第一回大東亜美術展に出品した画家は藤田嗣治、向井潤吉、小磯良平、猪熊弦一郎、宮本三郎、川端竜子、福田豊四郎など錚々たるメンバーで清水登之も出品している。

司さんは当時の画家は「一途に聖戦と思い込んだ画家と、聖戦とあげつらうことによって世に出ようとする画家と、中国や南の島に出かけて絵が描けることを喜んだ画家と、こうもしなければ画家の命運を絶たれると心配している画家」と分類した画家、野見山暁治の言葉を紹介しているが、清水登之はなぜ出かけたのだろうか。このころの清水の日記には「人生に悩む発言(日記への記述)はさっぱり見られなくなった。“好むとか好まざるとか”いうよりも、むしろ巨大な時代の流れに、彼は自然と自らの身を託していくようになっていった…のだった。」と大川美術館の岡氏が述べているように戦争に疑問をもたずに出かけている。

しかし長男育夫の戦死により、戦争に対する清水のやり場のない怒りが最後の1945年の日記に切々とつづられている。そこには後悔もあったことだろう。司さんは画家達の戦争責任を問うているが、画家たちの間に若干の論争があったが、あまり責任を感じず戦後を走っていった画家が多いようだ。藤田嗣治のようにパリに出かけ二度と日本に帰らなかった画家もいる。その中で清水登之は真剣に悩み命縮めてしまったようだ。

司修著  戦争と美術  岩波新書  1992年7月刊
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2005-07-18 17:04:11

「星の王子さま」出版ラッシュ

テーマ:本の紹介

サン・デグジュベリの「星の王子さま」は岩波書店から内藤濯(あらう)訳で出版されていたが、今年1月岩波の独占的な翻訳出版券が切れた。サン・デグジュベリは1944年仏軍飛行士として飛び立ち行方不明になり、45年裁判所で死亡認定。著作権保護期間が50年、戦時加算の例外で10年以上延期されていたが、今年の1月から自由に翻訳できるようになったようだ。

今日の毎日新聞によると、この独占翻訳権が切れたために日本で新訳の出版ラッシュになったことが記事になっている。以下、発行(予定も含む)出版社を挙げてみると、

 タイトル         訳者           出版社
星の王子さま     三野博司(仏文学者)   論創社 
新訳星の王子さま   小島俊明(仏文学者)   中央公論新社
新訳星の王子さま   倉橋由美子(作家)     宝島社 
星の王子さま     池澤夏樹(作家)       集英社
題名検討中       川上勉(立命館大名誉教授) グラフ社 
題名検討中       検討中            新潮社

岩波は600万部売ったというから、各出版社とも売れると見こした発刊のようである。なぜこうもこの本が人気があるのであろうか。サン・デグジュベリの「夜間飛行」は郵便飛行業の草創期、死活を賭けて夜間飛行をする人間を描いたもので、そこには飛行士としての勇気、沈着、責任感、自己犠牲といった剛直な観念、仕事への熱意が描かれ感動的である。

それに比べ、「星の王子さま」は星を旅しながらいろいろな体験をして自分の星に帰っていく王子さまの話であるが、「星の王子さまの基調をなすものは大人の行動のきまじめさに対するイロニー、それらを踏みにじろうとするはかないものへの優しさ、みじみずしい無垢な感性とポエジーである」と山崎庸一郎氏は「夜間飛行」の解説でこの二つの小説を対比して述べている。

特に「星の王子さま」は、子供たちにとって王子さまの星の体験に共感できるのだろう。しかし、翻訳を終えて亡くなった倉橋由美子さんは、「この物語は子供のために書かれたとは思われない。」と述べているように、我々大人にも、愛や死についてて考えさせる内容を含んでいるように思われる。個人的にはサン・デグジュベリの小説では「夜間飛行」、エッセー集では「人間の土地」に魅力を感じる。

サン・デグジュベリ著 堀口大学訳 夜間飛行 1956年2月刊

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2005-07-16 18:37:49

丸山薫記念館を訪ねて

テーマ:読書雑感
昨日出羽三山神社(羽黒山)への黒川能奉納があり、それを見た帰り、国道112号線を通り西川町にさしかかったら、丸山薫記念館の表示が目についた.。丸山薫といえば三好達治と同じころ(旧制三高の同期)の詩人である。何故ここにという疑問にかられ、国道から山間の「岩根沢」地区に在る記念館に向かった。岩根沢は四方を山に囲まれた小さな村である。村人に尋ねようやく「丸山薫記念館」 を探しあてたら、中年の女性の方が案内してくれた。

丸山薫(1899~1974)は大分市生まれ、愛知県豊橋市で育つ。東京高等商船に入学したがそこを退学し旧制三高に移り卒業後東大国文科に入学している。実は丸山は昭和20年(1945〕年5月戦災で焼け出され旧制三高時代の友人の実家が山形県西山村(現西川町)であった関係でこの岩根沢に疎開して地元の小学校代用教員をしながら昭和23年7月までここで生活している。その関係で彼を慕う人々によって詩碑が建てられ、さらに彼の資料収集が行われ記念館ができたといういきさつがあることを知った。

丸山は抒情詩人として「帆、ランプ・鴎」の処女詩集などが知られているが、この岩根沢でも、「北国」「仙境」「花の芯」などの詩集を残している。記念館には彼の書による「北国」の冒頭の詩が掲げられていた。

静かな祭

雪の降る日
谷底の部落で
静かな祭がある

太鼓も鳴らない
提灯も点らない
ただ家の中で
臼音だけがきこえる

息子が杵を振り上げる
娘達が餅をちぎって
それを山の神の祠に供える

神様は険しい崖を背負って
つもる雪の中に
いらっしゃる
ひっそりなりを鎮めて
仄青い夕暮れの中に
いらっしゃる

一見なんでもない描写であるが、この地を訪れてみて今でもこのような雰囲気のある村であることがわかる。山間のひっそりと生活している村人の生活のようすがにじみ出ている。館内にはその他、「鶴部」、「北の春」などこの岩根沢を詠った詩が掲げられていた。丸山は北国の山村生活の厳しさを見つめながらも、生命力にあふれた自然と風物を新鮮なタッチで描きだしている。彼は借りた住まいに「風過山房」の看板を掲げ村人と交流したという。地元の出版社は丸山薫を偲び、彼の岩根沢で詠んだ詩「北を夢む」を出版している。

丸山 薫著 丸山薫詩碑保存会編『北を夢む 丸山薫・岩根沢全詩集』 やまがだ文庫1992刊
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2005-07-13 18:27:25

2.26事件の青年将校の遺書発見

テーマ:読書雑感
2・26事件で、処刑された陸軍の青年将校ら17人分の遺書45枚が69年ぶりに見つかった。 処刑前に入っていた陸軍刑務所の看守にあてたものなどで、自宅に保管していた仙台市平田俊夫さんから、将校らの遺族で作る「仏心会」に届けられた。七十回忌が営まれる12日に公開される。(7月11日読売新聞)

平田さんによると、1930年代後半、父・平治さんを「花淵」という友人が訪ね、「今は公にできないので預かってほしい」と、油紙に包んだ遺書の束を置いていったという。 花淵氏は捕らえられた青年将校らの世話をしていた看守と見られている。

新聞に遺書のほかに、世話になった看守に向け「入所中ノ御厚情ヲ深謝シ奉ル 只吾人ノ真精神ハ兄等ノミゾ知ル」(丹生誠忠中尉)といった言葉が署名とともに毛筆で書かれていたことが紹介されている。この丹生中尉は処刑5時間前に書いた遺書を残している。「吾等十六将校の赤キ血ノ上二日本ハ建設セラルカ 読ミテ此処二至ル誰カ悲憤ノ血涙二袖ヲ絞ラザル・・・」青年将校らは農村の疲弊と財閥に対する反感、政党の腐敗を改革するために「天皇親政」の実現を図ったものといわれる。いわばテロ行為で是認はできないが、当時の日本の現状を憂うる心情が丹生中尉の遺書ににじみ出ている。

澤地久枝の著書「妻たちの二.二六事件」に、丹生中尉は妻の寸美子さんに贈った遺詠を紹介している。「強く生き優しく咲ける女郎花 死ぬる迄女房に惚れ候」澤地さんは「死ぬる迄女房に惚れ候と書いて自らは銃殺された男を、女は忘れられることはできるだろうか。愛されることは辛いことである。2.26事件の妻達が長い歳月、夫の思い出を捨てきれず、事件の影をひいて生きてきた一つの理由は死に直面した男の切々とした愛の呼びかけがからみついているためである。・・それは妻達にとって見えない呪縛となった。」と述べている。

澤地がさんが2.26事件で残された妻達を訪ね歩いたのは1971年のことである。既に鬼籍に入っておられる方が多いが、遺族の方々はおられると思う。国賊といわれながら生きてきた人たちを思うと切ない。先日遺族会の「仏心会」の世話役安田善三郎さん(被告安田優氏弟)はTVで「歴史を記録する上でも大切に残していきたい」と話しがらも「然しその行動を是認してはならない」と毅然として述べていたのが 印象的であった。

澤地久枝著  妻たちの二.二六事件  中公文庫  1975年2月刊
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2005-07-11 18:44:35

血にまみれたロンドン

テーマ:時評

ロンドン同時爆破テロは痛ましい事件である。このテロへの英米のトップの声明は次の通りである。

「テロの犠牲者とその家族にお悔やみ申し上げます。我々全ての国々がテロの標的になったのです。テロの首謀者は人命への敬意がない。私たちは団結してテロと対決します。これは一国への攻撃ではなく、全ての国々と文明への攻撃です」(ブレア首相)

「(アメリカの)政府当局などに連絡をとってロンドンのテロについて伝えた。アメリカ国民も出勤の時間なので特に警戒するよう指示した。テロへの戦いは続きます。各国首脳の強い姿勢に感心しました。彼らの戦いへの決意は私と同じです。私たちはテロには決して屈しない」(ブッシュ大統領)

また日本の政治家の反応も、小泉首相が「テロに屈することなく、テロとの戦いを続けていかなければならない。いつどこで起こるか分からない。今後とも十分にテロ対策をしなければならない」と述べている。今日の新聞WEBでは某大臣が「テロをたたきつぶす」と乱暴な言葉の談話(午後は何故か消えていた)を載せていた。

この声明や談話の中のテロと「対決する」、「戦う」「たたきつぶす」ということはどういうとか。アフガニスタンやイラクに兵を送ったように戦争することなのか。テロ行動を発見したら一般市民の犠牲を考えずに抑圧することなのか。しかしそのような対決・戦いでテロはなくならない。むしろ増えている


9・11事件のとき、アメリカの言語学者ノーム・チョムスキーは記者の質問に答えている。

「あのテロ攻撃は憎しみの行為と呼ばれてきた。この憎しみはどこからきたと思いますか」

チョムスキー「CIAとその仲間が動員したイスラム過激派(かってアメリカはアフガンに侵出したソ連に対抗するためにイスラム原理主義者を募り武器を与え訓練した。)にとって、憎しみこそ彼らの表現なのだ。米国はその憎悪と暴力が自分の敵に向けられたときは喜んでそれを支持した。・・・それが米国とその同盟者に向けられたのは嬉しくない。中東の住民にとって彼等のもつ感情に曖昧さがない。」

「平和を取り戻すために西側世界の市民に何ができるのか」

チョムスキー それは何を市民が求めるかで決まる。おなじみのパターンによる暴力の環のエスカレーションを望むなら、米国に呼びかけ、ビンラディンの「悪魔の罠」に嵌らせ、無辜の人々を大量虐殺すればよい。暴力のレベルを落とすことを望むなら、自分達の影響力を使い大国を全然違う方向に向きを変えさえることだ。・・・それにはテロの背後に潜むものを調べる意思が含まれる。しばしば耳にすることはそんなことを検討してはならない。すればテロを正当化になるという考え方だ。コメントする価値もない。愚かな破壊的な意見である。」

チョムスキーは「アメリカに報復する資格がない」とアメリカの過去の行動を厳しく批判しアフガンやイラク攻撃に反対した学者として知られている。今から4年前の彼の発言は、力(戦争など)で押しても解決しなかったことから、傾聴すべき意見である。

テロが起きた翌朝のロンドンの市民の様子を新聞は次にように伝えてている。「通勤ラッシュを襲った英爆破テロから一夜明けた8日朝、ロンドンは再び通勤の時間を迎えた。大半の地下鉄が不通となり、主要鉄道駅も閉鎖されるなか「出勤することが、テロに屈しない姿勢になる」と考えた人々は、普段通り職場に向かった。ただ自宅待機を呼びかける企業もあり、ガーディアン紙は「普段より静か」と伝えた(Asahi.com8日)テロと対決すると居丈高に叫ぶ人達よりロンドン市民の姿勢に共感する。

ノーム・チョムスキー著 9.11 アメリカに報復する資格がない 文芸春秋社 2001年11月

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