Sun, March 29, 2015

PS(プラトニック・シナジー)理論からGP(ガウス平面)陰陽哲理学への発展:論文を執筆する時期だ

テーマ:GP陰陽哲理学:ガウス平面と陰陽論の統合
2年前の無双太極陰陽原理に比べて、現時点のGP陰陽哲理学はだいぶ安定してきた。そう、確立されてきたと言えよう。(参照を見られたい。)
 そろそろ、論文にして、発表してもいい頃である。
 2004年9月、ブログ上で、「海舌」氏と遭遇して、偶然生まれた不連続的差異論から見ると、既に、11年目に入るのである。
 思えば、試行錯誤、紆余曲折の連続であった。
 もっとも、重大のポイントは2013年における、それまでの共同作者の「海舌」氏との理論的分離であった。
 私はPS理論(プラトニック・シナジー理論)から離脱し、出発点の不連続的差異論に基づき、哲学主導の理論を構築しようとした。
 正に、試行錯誤、ほとんど混乱と言っていいような状況になった。しかし、PS理論の数学的公式(凸i*凹i⇒+1)が活用できることを発見して、ほぼ、今のGP陰陽哲理学が形成されたと言えよう。
 即ち、凸i*凹i⇒±1という新たな公式を、桜沢如一(ゆきかず)氏の無双原理の視点を活用して、形成したのである。
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 一見、PS理論に似ているが、「海舌」氏の仮説とは、ガウス平面的に左右逆になるのであった。
 ⇒+1が光であるのは、PS理論とGP陰陽哲理学とでは同じであるが、物質世界を「海舌」氏は、第一象限においたのである。 
 しかし、GP陰陽哲理学は、物質は第二象限に置かれるのである。
 私は陰陽原理に基づき、GP陰陽哲理学へと進展したのである。(尚、「海舌」氏はその後、ガウス平面的理論構築を放棄して、四元数(しげんすう)を用いて、立体的構築へと進んだ。)
 とまれ、PS理論における凸i*凹i⇒+1の解釈における混乱が分離・離脱の原因であったと言えよう。
 私自身の思考の相当の懐疑・混乱・混沌があった。
 一例をあげると、凸i*凹iであるが、私は陰陽共振・調和は、凸i*-凹iとなるのではないかと考えた。凹iの陰を否定しないといけないと考えたのである。すると、凸i*-凹i⇒-1となってしまい、齟齬が生じたのである。
 これは、私の思考の未熟さから来たのであった。「海舌」氏は正しかったのである。
 以下の「海舌」氏の人間認識図を見ていただくわかりやすいだろう。
 一番の相違点は、実軸-1の捉え方である。私は、-1を重力、質量の方向と見ているのであるが、「海舌」氏は、超越的存在と見たのである。(これは、オイラーの等式から来ていると思う。オイラーの等式 e^{i\pi} +1=0 を変形して、e^iπ=-1となる。この-1を究極のものと「海舌」氏は捉えたと思われる。)  また、虚軸の凸が光で、凹が闇とするのも、私と異なる。
 私は凸iを陽とし、凹iを陰としたのである。私の基本的思考は、陰陽論であったのである。
 以上簡単ながら、PS理論、「海舌」氏からの分離・離脱の原因を述べた。
 結局、GP陰陽哲理学は、PS理論の方程式を陰陽論に即して、変形した方程式、公式をもつと言える。
 PS理論はいわば母胎であったのである。「海舌」氏は数学・自然科学的な発想であったが、私は陰陽論を基礎にしたのである。この点が「海舌」氏と私の発想の根本的相違点であったと考えられる。
 とまれ、PS(プラトニック・シナジー)という用語であるが、それは、プラトンのイデア論に基づいている。しかし、今や、私はハイデッガーの存在論に立っているので、もはや、その用語は使用できないので、GP(ガウス平面)陰陽哲理学となったわけである。そう、簡単に言えば、PS理論を陰陽存在論化したのが、GP陰陽哲理学と言えよう。
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 付け加えれば、桜沢如一氏の無双原理の一元論(太極論ないし太一論)も取り入れているのが、PS理論との相違である。
 PS理論は、あくまで、二元的極性論であり、陰陽の根本の太極までは、捉えていなかった。
 とにかく、PS理論からの飛躍は、桜沢如一氏の『無双原理』を読んだことが大きいと言えよう。そこで、陰陽原理に即して、理論を発展させたのである。(しかし、先に述べたように、桜沢氏は、氣=物質としているのであり、私はこれを間違いと考えている。氣は物質より高次元存在と見るのである。)
 公式に関して言えば、PS理論の自己認識方程式凸i*凹i⇒+1を陰陽原理的に変形したと言えよう。
 とまれ、「海舌」氏の自己認識方程式とガウス平面(複素数平面)の導入は天才的に画期的であったと言えよう。
 この数学的哲理によって、陰陽原理の数理・科学的土台が構築されたと言っても言い過ぎではない。
 


         「海舌」氏の人間認識図


追記:不思議なことに、たいへん影響を受けているはずの、シュタイナー霊学については何も言及されていない。
 しかし、応用陰陽ガウス平面には、自我と感性体(アストラル体)が虚軸に入り、そして、MPを霊としている点で、その影響があると言える。

         
            凸i陽
             |
             |
             
             我
             |
             |
-1地_____MP・______+1天
(重力)         |          (光)
             |
             
             性
             体
             |
             |
            凹i陰


      応用陰陽ガウス平面

(尚、MPはMedia Pointであり、原点・交点・次元転換点等であり、太極・太一、そして、霊である。)


 ただ、基本は陰陽原理である。シュタイナー霊学の一部を取り込んでいるのである。
 そう、太極ないし太一であるが、それは霊が刻印されていることになろう。太霊ということかもしれない。つまり、太霊⇒太極・太一かもしれない。
 この点は検討課題である。

追記2:シュタイナーは、エーテル体は、虚数で記述できることを述べていた。この点は、GP陰陽哲理学への一つの根拠となる。
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エーテル空間」ノート

https://r5.quicca.com/~steiner/novalisnova/steiner/aetherischenRaum/ar.html


参照:

作用反作用と陰陽対極性:陽主導は作用反作用が、陰主導は「コーラ」・受容体の力があろう

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12007299410.html

テーマ:GP陰陽哲理学:ガウス平面と陰陽論の統合

陰陽極性を、牽引と反発の矛盾力学と見ている。
これと、ニュートン力学の作用反作用はどういう関係にあるのだろうか。
これまで考えたことはなかったので少し考察してみたい。
 力1→に対して、正反対の力2←が対応するということが、ざっくり言えば、作用反作用の法則であろう。
 陰と陽の氣の対極性(両極性、双極性)力学を見てみよう。
陽の「力1」↓は陰へ作用する。確かに反作用として、「力2」↑が生じると言えよう。
 だから、この点で、陰陽極性においても、作用反作用は成り立つ。
 しかしながら、これは、陽の「力」の場合である。
 陰の場合の「力」は、陽とは正反対である。陰の「力」とは、共振力、共鳴力、共感力、親和力、調和力、等である。つまり、陰の「力1」↑は、反作用の「力2」↓をもたらさないのである。
 ある意味で、吸収、吸引する能力である。
陽が主導的であるとき、 陽の「力1」は、反作用の「力2」をもたらすが、陰が主導的であるとき、陰の「力1」は、反作用をもたらさずに、陽の「力2」を吸収し、共振するのである。
 いったい、これを「力」と言っていいのか問題である。
 果たして、陰に力があるのかも問題である。
 つまり、陰が主導的な場合とはどういう事態なのかである。
 陽が主導的な場合は、陰はただ受け身に過ぎず、陽に支配され、つまり、陽と同一性化され、反作用を引き起こされると言えよう。
 しかし、陰が主導的な場合は、いわば、積極的に陽を吸収し、共振調和をもたらすと考えられる。
 思うに、陽の力をforceとするなら、陰の力はpowerではないだろうか。あるいは、別のネーミング、命名が必要だろう。
 そう、プラトンが『ティマイオス』で述べた有名な「コーラ」の概念を想起する。
 どうも、陰の「力」とは、いわば、容器、場所、あるいは、子宮のような力ではないのか。受け入れる「力」である。感受性のようなものかもしれない。
 途中(今、帰宅しないといけないので、ここでひとまず、止める)。

 さて、続けよう。
 今の段階では、この陰の「力」はプラトンを借りて、「コーラ」ないし、「コーラの力」とするのがいいだろう。
 GP陰陽哲理学では、陰凹iの凹の形が正に、「コーラ」的と言えよう。
 ところで、今、最下部の記事を見たが、それによると、「コーラ」は、陰の「力」というよりも、陰主導の陰陽共振・調和のことかもしれないと思った。
 とまれ、陰主導、陰の「力」によって、陰陽共振・調和が生まれるのだから、そのような「コーラ」と陰の「力」は近いと言えよう。
 とまれ、「コーラ」を受容体と見るなら、やはり、陰の「力」でいいだろう。
 そう、だから、受容力としての陰の「力」ということになる。
 思うに、天才的人物はこれをもっていると思う。英国詩人のジョン・キーツはnegative capability(否定的能力:自己否定して、他者を感受する能力とでも言おうか)と言ったが、それは、正に、受容力に通じよう。
 とまれ、本題に戻ると、作用反作用と陰陽対極性の関係であるが、簡単にまとめれば、陽主導においては、作用反作用は成立すると思われるが、陰主導の場合 は、成り立たないと思う。陰の「力」である「コーラ」の力、受容体の力が作用するのであり、陽を受容し、共振調和して、光や自然を産み出すと考えられるの である。これは、反エントロピー的である。
 それに対して、陽主導の作用反作用はエントロピー的ではないだろうか。
 今はここで留めたい。

参考:
http://www.buturigaku.net/main01/Mechanics/Mechanics08.html
2005年6月3日 ... ここでは、運動の法則の第3法則、作用反作用の法則について解説しよう。 例えば、机 の表面を手で押すとしよう。 押す力を強めるほど、手が感じる力は大きくなる。 これは、 手が机を押すと、机も同じ大きさの力で手を押し返すからだ。

プラトンの宇宙論:神秘主義思想史:So-netブログ

また、興味深いことに、「ティマイオス」ではこのイデア=「存在」と宇宙=「生成」に対する第3の説明し難いものが語られます。
これは「場所(コーラ)」です。
イデア=「原型」=「父」、宇宙=「模像」=「子」であるのに対して、この「場所」はすべてを受け入れる「受容器」=「乳母」だとも表現されます。
つまり、「場所」は一切の形・性質を欠いているので、それ自体を知覚することはできないけれど、イデアを受け入れることで宇宙を生むような根源的な素材 のような存在なのです。
デミウルゴスはこの素材を用いて宇宙を作ったのです。

db.10plus1.jp > ... > BACKNUMBER > 『10+1』 No.35 - キャッシュ

コーラ」とは、プラトンの宇宙創世論『ティマイオス』の用語で、場所のこと、それも たんなる空虚な場ではなく、そのなかに何かがあったり、誰かが割り当てられて住んで いるような場所のことである。製作者であるデミウルゴスは、範型となる形相を眺め ながら、それ ...


ジャック・デリダ『コーラプラトンの場』 | Flaschenpost

晩年のプラトンの対話篇『ティマイオス』には、造化の神デミウルゴスによる宇宙開闢が物語られるが、そのなかで存在の母胎のような場として、「受容 体であり、すべての誕生の乳母のごときもの」として語られる「コーラ(khôra)」。デリダによると、それを「定冠詞付きで」語ることはできない。 「コーラ」が、ある種の主体ないし実体として存在することを、あらかじめ想定することはできないのだ。

プラトンによると、「コーラ」は存在の二つの類、すなわち不易にして叡知的な存在と、滅びやすく生成状態にあり、感性的な存在とのあいだにある、 「第三の類」に属するわけだが、「コーラ」を語る言説を厳密に辿るならば、それはいかなる類別も、ジャンルの分類も、さらにはジェンダーをも逃れ去ってい く。それは「第三の類」でありながら、他の存在の類と対を、すなわちカップルをなさないのだ。デリダに言わせれば、「誕生の乳母のごとき」ものでありなが ら、「コーラは、一人の乳母ではないのと同様に一人の母ではなく、また一人の女でもない」。そのようなものとして「コーラ」は、事物を類別して同定するロ ゴス、あるいはミュトスとしての言葉を逃れ去る。もしかすると、そのことによって「コーラ」は、両者の分別そのものを問題にするのかもしれない。

とすれば、「コーラ」とは「コスモス」としての宇宙の存在を可能にする何かでありながら、その存在を語る論理、つまりプラトンのディアロゴスとして のロゴスに穿たれた穴である。デリダの『コーラ』は、この穴を厳密に歩測する試みと言えよう。その試みは、哲学すること自体を試す。それは哲学する言葉 を、深淵の前に立たせるのである。しかし、そこからこそ考えられうる次元があるのではないか。「コーラ」をめぐる思考は、言葉をそこへ誘うものでもあろ う。「彼女=それは、あらゆる人間-神学的図式から、あらゆる歴史=物語から、あらゆる啓示から、あらゆる真実から逃れ去る。前-起源的であり、あらゆる 世代=生殖の前かつ外にあって、それはもはや一つの過去や過ぎ去った一つの現在という意味すら持たない」。

しかし、そのような「コーラ」においてこそ、何ものかが存在するようになるとすれば、しかもデリダが言うように、「コーラとは、まさに、その『うえ に』、その主体に、それも、その主体にじかに、みずからを書き込みにやって来るものの総体ないしプロセス『である』」とすれば、それをどのように考えたら よいのか。もしかすると「コーラ」とは、そこにおいてある何ものかが存在する、立ち現われてくる、鳴り響いてくるようになる媒体であることそれ自体を指し 示す、未だ言葉ならざる言葉なのかもしれない。しかも、デリダによると「コーラ」となるのは、それ自体「独自の事物」でもある。そうだとすれば、宇宙の開 闢と関連づけられる「コーラ」は個としても遍在しうる存在の媒体そのものということにもなろう。

ただし、このことは忘れられてはならない。「コーラを思考するためには、はじまりよりも、すなわち宇宙の誕生よりも古いはじまりまで立ち戻る必要が あるのだ」。例えば、クリステヴァのような母胎の主体化と実体化に陥ることなく、思考を深淵に曝しながら、起源よりも古い次元を考え抜くこと。デリダの 『コーラ』は、思考をその危険へ誘うのである。

[守中高明訳、未來社、2004年]

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