Tue, October 29, 2013

前期PS理論とオイラーの等式の統合の再考:+1が生命物質体、−1が純物質:氣と同一性自己(自我)

テーマ:GP陰陽哲理学:ガウス平面と陰陽論の統合
ふと思いついたので、書いておきたい。
 前期PS理論に自己認識方程式凸i*凹i⇒+1において、オイラーの等式を導入したが、その実数、つまり、+1と-1の解明に、膨大な努力を費やしたが、結局、混迷混乱の内に終り、前期PS理論は崩壊して、『海舌』氏はいわば後期PS理論(四元数をもちいたPS理論)へ移行し、私は脱数学主導の理論の探求に赴いたわけである。
 端的に、+1と-1の解釈に混乱を極めたと言っていい。私は『海舌』氏の説明は完全には納得していなかった。つまり、-1を超越的存在と考える仮説である。何故なら、-1は実数であり、これは、現象界に関係すると思われたからである。(また、先に、-1は太玄霊【太元霊:又新語】になるかと思ったが、私見では、太元霊は超越的であるから、-1に当てることはできないと思う。要検討ではあるが。
 とまれ、自己認識方程式を氣の方程式に変換して考えよう。即ち、

凹i(陰)*凸i(陽)⇒+1            ・・・Ⅰ

凹i(陰)☯凸i(陽)⇒+1(生命物質体)   ・・・Ⅱ

(尚、*を☯に入れ替えた)

ここで、不連続的差異論の視点を導入して、再度、前期PS理論に拠るオイラーの等式の現実的意味を提起したい。
 即ち、不連続的差異論は、自己の自我凸i(陽)のもつ自己同一性志向性を問題にしたのである。それは、他者である不連続的差異を否定するというものである。そして、他者=不連続的差異を凹i(陰)として、捉えて、混乱して言ったわけである。
 結局、不連続的差異としての他者(おそらく、二種類の他者ないし三種類の他者が存する。超越的根源的他者と対になる他者である。後者は内在的なものとその現前化としての外在的なものがあるだろう。)、つまり、太元霊は前期PS理論では提示できなかったと考えられる(『海舌』氏が以下の人間認識図の第3象限をそのようなディープな領域と捉えていたが、やはり、超越的な領域ではなく、単に内在的領域に過ぎないと考えられる。
 とまれ、陰陽極性において、凸i(陽)に拠る否定を考えてみると、それは、マイナス(この場合は凹)を掛けることである。即ち、

凹凹i*凸i⇒-1       ・・・Ⅲ

となる。

 さて、次に、オイラーの等式
e^{i \pi} + 1 = 0\,
を変形して、

-1=e^iπ

にする。
 この左辺の-1を上記の氣の方程式Ⅲに当てはめる。

すると、

凹凹i*凸i⇒e^iπ     ・・・Ⅳ

又は、

凹凹i(-陰)*凸i(陽)⇒e^iπ     ・・・Ⅴ

となる。
 そして、右辺e^iπを純物質と仮説するのである。そして、本来の氣の方程式ⅠないしⅡにおける+1を生命物質体と見るのである。つまり、それは、氣(陰陽共振)を内包・内在した生命物質体ということである。わかりやすく言えば、有機体的生命体である。正確に言えば、氣的有機体的生命物質体である。
 結局、整理すると、氣の方程式は二つの様態があるということになる。
 即ち、

1:


凹i(陰)*凸i(陽)⇒+1            ・・・Ⅰ

【又は、凹i(陰)☯凸i(陽)⇒+1(生命物質体)   ・・・Ⅱ】


2:

凹凹i(-陰)*凸i(陽)⇒e^iπ     ・・・Ⅴ

【又は、凹凹i*凸i⇒e^iπ=-1     ・・・Ⅵ】

である。
 1と2をまとめると、

凹凹i(-陰)*凸i(陽)⇒e^iπ     ・・・Ⅴ

のⅤの式を

凸i(陽)*凹i(陰)⇒-1(=e^iπ) ・・・Ⅶ

とし、

それに対して、

凹i(陰)☯凸i(陽)⇒+1(生命物質体)   ・・・Ⅱ

を対とする。

ここで、今回の私の直観のミソであるが、現象化・物質化には、陽(凸i)が優位に作用しているということである。
 今、ふと浮んだことであるが、Ⅶの式は、純物質化の方程式と言ったが、それは、死の方程式ではないかということである。
 つまり、Ⅱが生命の方程式とするなら、Ⅶは真逆の死の方程式のように思えたのである。あるいは、自我の方程式かもしれない。あるいは、大脳皮質の方程式かも。また、思ったのであるが、死の方程式かもしれないが、それより、自我、自己同一性の方程式と見た方が的確かもしれない。
 今の暫定的段階において、
 
凸i(陽)*凹i(陰)⇒-1(=e^iπ) ・・・Ⅶ

のⅦの方程式を自我方程式とする。
 そして、このⅦに氣の方程式(生命の方程式と言えよう)が対になるのである。

即ち、

⓵氣の方程式(生命方程式)

凹i(陰)☯凸i(陽)⇒+1(生命物質体)   ・・・Ⅱ



⓶自我方程式(自己同一性方程式)

凸i(陽)*凹i(陰)⇒-1(=e^iπ) ・・・Ⅶ


となる。
 ⓵の方程式は、正に、陰陽方程式とも言えるもので、陰陽のバランスがとれて、共振調和和合するものである。
 それに対して⓶は、陽凸iが陰凹iに対して優位になるもので、陰陽共振が否定されるのである。
 ところで、純物質であるが、それは、やはり、-1が表現しているのではないだろうか。それと自己意識の陽凸iと重なるということではないだろうか。つまり、陽凸iと-1が重なった状態が自我であるということではないだろうか。つまり、陽と純物質が合一した状態ということである。
 そのように考えると、私が『海舌』氏から離脱した原因・理由がまた、彷彿としてくる。
 つまり、『海舌』氏は、あえて言えば、物質を+1と見て(実際は光と見ているが、光は物質形成するのでそう見ていいだろう。)、また、-1を超越的存在と見ていたのであるが、それは、真逆であるということである。それを私はNeo-PS理論(NPS理論) http://ameblo.jp/neomanichaeism/theme-10050415729.htmlで述べたのである。
 思えば、このNeo-PS理論の考えは、THRIVE(映画ThriveのトーラスとPS哲科学 http://ameblo.jp/neomanichaeism/theme-10054150901.html)で展開させたのである。
 上述から-1と自我意識を重ねると、より十全な視点が形成されると思われる。つまり、人間は一般には、-1の視点、つまり、唯物論の視点から現象を見ているということになる。
 ここで、光の問題が第一級の問題として存するのである。
 ここでも、前期PS理論は混乱していたと言える。つまり、陽凸iが光なのか、それとも、『海舌』氏が説いたように+1がそうなのかという問題でもある。
 今は作業仮説的に、暫定的に、思考実験的に述べるだけであるが、光は氣が本体である。つまり、陰陽共振が生命現象として発現する、いわば、直前に存するように思える。
 しかし、それをMP(メディア・ポイント:ガウス平面の原点)に見るのか、それとも⇒に見るのか、が問題である。
 思うに、両方でいいのではないだろうか。即ち、☯⇒(又は、以前の氣の方程式の意味で*⇒)を光の方程式と見ていいのではないだろうか。より分節化すれば、☯がデュナミス (アリストテレス哲学の用語であり、潜勢態と訳される)で、⇒がエネルゲイア (これもアリストテレス哲学の用語で、現実態と訳されるが、私は活動態と訳したい)と思われる。(因みに、同じく、アリストテレス哲学のエンテレケイアであるが、これは、実現態ないし結果態とでも訳したい。+1がそれに当たる。そう、生命物質体ということでもある。しかし、これを物質と取るのは重大な誤りと考えられる。)
 そのように考えると、自我(同一性的自己)は、現象(☯⇒+1)を、-1の視点ないし*⇒-1の視点から、言わば、正反対、裏返しに見ていることになる。そう、光☯⇒を、単に純物質-1の視点から見ていると思えるのである。(思うに、これは、陽凸iにおける同一性反射があると思えるのである。つまり、光☯⇒を自我【*⇒-1における*⇒】から視覚知覚しているということである。精緻な解明は後に行いたい。)
 言い換えると、光は本来、氣を本質とするものであるが、それを物質として錯誤しているということなのである。つまり、電磁波として、捉えているということである。(光、この場合、日光、陽光であるが、それを電磁波とするのは誤謬と考える。単に、電磁波という観測視点から日光を見ているに過ぎないのであり、それは、日光は電磁波ではない。この問題は重要なので、今は措いておく。)
 さて、議論がだいぶ複雑になってきたが、本稿の結論は上述の方程式に存する。即ち、


凹i(陰)☯凸i(陽)⇒+1(生命物質体)   ・・・Ⅱ



⓶自我方程式(自己同一性方程式)

凸i(陽)*凹i(陰)⇒-1(=e^iπ) ・・・Ⅶ


である。 
 しかし、⓶は、自我ー純物質方程式と呼ぶ方が的確と考える。
即ち、


⓷自我ー純物質方程式(自己同一性方程式)

凸i(陽)*凹i(陰)⇒-1(=e^iπ) ・・・Ⅶ



である。
 だから、整理し直すと、


➊氣の方程式(生命方程式)

凹i(陰)☯凸i(陽)⇒+1(生命物質体)   ・・・Ⅱ



➋自我ー純物質方程式(自己同一性方程式)

凸i(陽)*凹i(陰)⇒-1(=e^iπ) ・・・Ⅶ



となる。
 今はここで留める。

追記:今、ふと思ったが、氣⇒陰陽ではないだろうか。氣が先行し、それが陰陽に極性分化するということなのではないだろうか。あるいは、同時である。
 だから、陰陽極性が先にあって、氣が形成されるということではないと思う。
 しかし、氣⇒陰陽、即ち、氣が陰陽極性に先行するということならば、氣と太元霊(太玄霊)との関係が問題になる。
 しかし、氣⇒陰陽ならば、その氣は太玄霊と考えられる。
 そうならば、光の問題が出てくる。
 光とは何か。上記では、光☯⇒としたが、これは、陰陽共振が光を形成するということを意味するのである。
 整理すると、太玄霊⇒氣、氣=陰陽=☯である。
 では、氣が光なのか。そうではない。氣は不可視であるからである。氣の発現が光、日光である。
 思うに、上述では、光☯⇒であるが、これだと氣とあまり区別できていない。
 そこで、書き替えて、氣☯⇒+1における⇒と+1の接点が光とするのである。図式化が難しくなるが、とりあえず、

氣☯⇒|光|+1   ・・・Ⅷ

と図式化しておく。
 説明すれば、氣(陰陽☯)が生命物質体(+1)を成形するとき、氣が成形した+1にぶつかったときに発生するのが光ということになる。つまり、氣が生命体にぶつかったときの反射が光ということになるのである。簡単に言えば、氣の物質体による反射が光である。氣の反射としての光ということになる。
 ここで、D.H.ロレンスの『天道虫』における「黒い太陽dark sun」のことが関係するのである。そこで、登場人物のディオニスは、目に見える光とは闇(いわば、超光である)が物質に当たったときの反射であると述べているのである。
 それに今述べた視点を入れれば、ロレンスの「闇」とは氣ではないのかということになるのである。黒い太陽dark sunとは、端的に氣の太陽ということになろう。しかし、氣(陰陽☯)そのものを氣の太陽として見るのは無理があるだろう。それは、単に氣でしかないのであり、太陽ではないからである。
 だから、太玄霊までを考える必要があるだろう。そこで、

太玄霊⇒氣(陰陽☯)    ・・・Ⅸ

を考えて、この⇒と氣の接点に氣の太陽(黒い太陽dark sun)を考えたい。
 だから、Ⅸに黒い太陽を入れて、Ⅷを合わせると、

太玄霊⇒|黒い太陽|氣(陰陽☯)⇒|光|+1 ・・・Ⅹ

となる。
 接点がわかりにくいので、・を入れる。

太玄霊⇒・|黒い太陽|・氣(陰陽☯)⇒・|光|・+1   

・・・ⅩⅠ

となる。
 しかしながら、ガウス平面+オイラーの等式による前期PS理論では、太玄霊の位置が存しないのである。
 そこで、私は無双PS原理等を考えるようになったというのが経緯である。


参考:

人間認識図(『海舌』氏による)

Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光楽:太玄霊氣知行学(太玄霊的生命イデア論)

オイラーの等式 - Wikipedia


オイラーの等式(オイラーのとうしき、 : Euler's identity)とは、解析学 における等式

e^{i \pi} + 1 = 0\,

であり、その名はレオンハルト・オイラー にちなむ。ここに、

e\,: ネイピア数 、すなわち自然対数
i\,: 虚数単位 、すなわち2乗すると -1 となる複素数
\pi\,: 円周率 、すなわち直径 と円周の

である。

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