第八十九話 巴里からの手紙(37歳 男 学芸員) | ねこバナ。

第八十九話 巴里からの手紙(37歳 男 学芸員)

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※ Sous les toits de Paris(28歳 男 画家)もどうぞ。

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無沙汰お許し下さい 送金有難う御座いました
御存知の通り到頭戦争が始まりましたので モウ帰る支度を始めた処です
巴里市内は未だ頽廃的な空気に包まれてゐます 深刻に考へてゐるのは領事館の役人とアジを飛ばす政治活動家位ひのものです
然し今度の戦争は大きく成るでせう ドイツ生れのモデル女は虐められるのを怖れて僕の家に逃げて来ました
丁度良い事に其女は絵も描いて居りましたので 僕の絵具やイーゼル等凡て使つて貰ひ 此処に住んで貰う事にしました
大家は敵国の人間だからと云つて差別はしないさうです 僕は其言葉を信じて日本に帰らうと思ひます
猫達は其モデル女に託して行く事にしました
モウ随分年をとつて了つたから 余り永くはないでせう 精一杯世話してやつて呉れと頼みました
先に荷物を送ります 一枚だけ残つた絵を入れて置きますから 着いたら直ぐに木枠に張つて下さい
僕が一番気に入つてゐる絵なのです 猫が沢山アトリヱで戯けてゐる絵です
日本の支那や満蒙の戦線も気懸りです 早く帰つて御目にかゝりたく思ひます
父様母様姉様に宜しくお伝へ下さい

兄様

一九三九年九月二十日

  *   *   *   *   *

「これが、叔父様がパリから出された手紙ですか」
「そうです」

僕は息を呑んだ。
藤田嗣治や岡鹿之助と親交のあった幻の画家、サキタノボルの手紙を目の当たりにしているのだから。

彼の巴里滞在記を、僕はサキタの甥に当たる人物、今僕の目の前にいるサキタ氏から送られて読んだ。
幾人かの画家の回想録に時折現れるサキタという画家。彼は一体何者なのだろうと思っていた矢先のことだった。
彼の実家は長野県の南、伊那谷のI市にある大きな材木問屋にあった。サキタノボルの巴里滞在記を読んですぐに、僕は伊那谷へと調査に向かったのだ。

「では、叔父様は日本に帰ってからは、画家としては活動されていないのですね」
「はい。二科とか独立とかの団体に知合いは沢山居たようで、手紙も残っています。ですが、そういう団体の利害とか派閥争いとか、そういうものに嫌気がさしたんでしょう。一度も出品することはなかったそうです」
「家で絵を描かれたことは」
「ありますよ。ほら、この絵がそうです」

そう言ってサキタ氏は、応接間の壁に掛けられた小さな油絵を指差した。
桜の木が生えた丘、そして遠くの山々が描かれている。伊那谷の風景だ。
しかし、ぼてぼてしたタッチは重く、魅力的とはいえない。色彩には見るべきものはありそうだが。

「あまり良くないでしょう」

そう言われて、僕は返答に窮した。

「はあ」
「いいんですよ。叔父貴はこれを、頼まれていやいや描いたのです。無理もない」
「この他には、日本で描いたものは何か」
「ああ、油絵はありませんが、スケッチがたくさんあります。ご覧になりますか?」

サキタ氏は、傍らに用意していた茶箱を開け、中の茶色くなった紙の束を取り出した。

「僕はこれは面白いと思うんですけどねえ」

彼はそう言って笑った。
端がぽろぽろと崩れそうな紙をめくってみると、そこには。

猫が。
ありとあらゆる猫のポーズが。紙一面に、びっしりと。
表情豊かに、しなやかに、愛情深く活写されている。
何枚も、何枚も、そんな驚くべき猫達の姿が続いた。
僕は貪るように、その紙をめくった。
なんという力量だ。

「あ、あの」

サキタ氏は呆気にとられていたらしい。

「あああ、すみません、つい夢中になって」
「面白いでしょ」
「面白い、なんてものじゃありません。これはすごい」
「そうですか」
「ええ。叔父様はやはり大した腕の持ち主ですよ。美術学校も出ているし、やはりパリで研鑽を積んだに違い在りません」
「はあ。しかし、残っているのは、これくらいで...」

「にゃーう」

と、応接間に一匹の猫が入って来た。
シャム猫のように、顔と尻尾、手足の先だけが黒っぽい。

「おお、ピピン、お客さんだよ。入って来ちゃいけないよ」
「構いませんよ、僕は猫が好きですから」

僕がそう言うと、サキタ氏は顔を綻ばせた。

「そうですか。いや、私も猫が好きでしてね。叔父貴も相当な猫好きだったので、随分影響されました」
「やはり」
「とはいっても、叔父貴が日本に戻って来れたのは昭和十四年。肺を病んでこの家で療養し、ようやく働ける身体になったら、従軍画家として満洲へ行ってしまいましたからね。そして」
「そして」

サキタ氏はふう、と溜息をついた。

「どういうわけか、大連の捕虜収容所を手伝う羽目になり、ハルピンの部隊に派遣になったところで終戦。行方不明になりました。恐らくソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留されたのでしょう」
「恐らく、とは」
「叔父貴と似た人物を知っているというシベリア抑留経験者が、十年ほど前に見つかったのです。勿論似ているというだけですがね」
「そうですか...」
「身体がそう強い人ではなかったですからねえ。シベリアの過酷な環境では、生きていけなかったでしょう」

僕は再び、猫のスケッチに目を落とした。

「残念ですね」
「はい」
「叔父様の作品を、この目で見たかったです」
「そうですね...」

ふと、先の手紙の文面が頭をよぎった。

「あの、叔父様はパリで描いた絵を、こちらの家に送って来られたのですよね」
「は、ああ、一枚だけしか残っていませんよ。しかも巻いたままでね」
「はあ」
「どんな状態になっているやら、私も怖くて開けなかったんですよ」

サキタ氏はそう言って、茶箱から巻かれたカンヴァスを取り出した。端は所々ほつれ、色もかなり変わっているようだ。
僕は手袋をはめ、サキタ氏からそれを受け取った。やはり扱いには注意が必要だ。
サキタ氏にも手伝ってもらい、ソファをどけて床に大きなスペースを作った。そしてゆっくりと、カンヴァスを開いた。
ぽろぽろと小さな絵の具の破片がこぼれ落ちる。慎重に指を動かす。サキタ氏は心配そうに見ている。

するするするする

「これは」

僕は息を呑んだ。

画面中央にやや俯き加減であぐらをかく男。
そして、その周りで戯ける猫、猫、猫。
藤田の描くような、野性的な猫ではない。
写実的でありながら、不思議と柔らかく、優しげで、愛らしい猫達。
しかし躍動感は失ってはいない。恐らく自画像と思われる男の周りを、楽しげに、さまざまなポーズで、踊り回っている。

「ほおお」

サキタ氏の口からも感嘆の声が漏れる。
カンヴァスの四隅に錘を置き、慎重に状態をチェックする。支持体に大きな問題はなさそうだ。修復の余地はある。

「サキタさん、この作品、ぜひ当館に御寄贈願えませんか」
「は」
「今まで知られることの無かった、叔父様の画業の最高傑作が、これです。間違いありません。修復すれば佐伯祐三や藤田嗣治と並べて展示できる程の出来映えです。私は自信を持って館長や審査会の委員に報告出来ます。ですから」
「ちょ、ちょっと待ってください。これは私の一存では決められません。親族で話し合わないと」
「そうですか...」

僕は反省した。少し舞い上がりすぎていたようだ。

「それに、パリ時代の油絵は、これだけなんですよ。本当にこれだけでいいんですか」

サキタ氏はそう訪ねた。もちろん、これだけというわけにはいかないだろう。

「そうですね。出来ることならば、猫を描いたスケッチも、一括して御寄贈願えれば、それが一番いいと思います。そうすればこの油絵の真意もよくわかるでしょうから」
「なるほど...」

うん、うん、とサキタ氏はうなずき、ぽんと膝を叩いた。

「判りました。あなた、ここまで熱心に叔父貴のことを調べてくださった。全くの無名画家だった叔父貴をね。あなたの熱意に応えられるよう、親族を説得しましょう」
「ありがとうございます」

僕は深々と頭を下げた。

  *   *   *   *   *

一年後。
僕の勤める美術館で、ちいさな企画展が開催された。

「サキタノボルと巴里の日本人画家 ~巴里の空の下で、猫と共に~」

藤田嗣治、前田寛治、佐伯祐三らの作品が並ぶ展示室を過ぎ、ちいさな部屋に入ると、そこには修復を終えたサキタの作品が一点。
壁の真ん中に、画家と猫達の戯けたアトリエの風景が、浮かび上がった。
そして、その周りには、夥しい数の猫のスケッチを、壁を埋め尽くさんばかりに展示した。

作品解説を、僕はこう書いた。

「この無名の画家は、猫に一方ならぬ愛情をもっていたらしい。ここに描かれた猫それぞれに、画家の鋭い、しかし愛情に満ちた視線を、私達は感じることができる。大正末期から昭和初期にかけて海を渡り、恵まれた環境の中でディレッタンティズムに耽溺しながらも、彼は猫という、人間には無い魅力を持った不可思議な存在に惹かれ、その魅力を余すところ無く描き出した。
 そこには、戦争へと突き進む欧州にあってなお多くの民族が集まり、頽廃的な都市生活の中で自身のアイデンティティを探し求めた、エコール・ド・パリの終焉を飾る画家達に共通する空気を感じる。しかし彼が他の画家と異なるのは、人間社会を映す鏡としてではなく、あくまで自己との関係の中のみに猫を位置づけ、その本性にやさしさをもって迫り、描き得たことである。それは社会に背を向けたニヒリズムによるものか、あるいはもっと自己を社会から遠ざけていた何かが存在したのか。未だ不明である。
 帰朝後、彼は日本の洋画壇に作品を発表することなく、満洲に従軍し、そこで消息を絶った。彼の油彩作品は、今のところこの一点しか現存が確認されていない。
 ところで彼は滞欧当時、パリの画廊で個展を開き、猫の絵を何点か売っている。もしかすると、まだ彼の描いた猫の絵が、パリの片隅に眠っているかもしれない。それを発掘する日がいつか来ることを願っている」

大盛況とはいかなかったが、有り難いことに展覧会には多数の関心が寄せられ、サキタノボルの名は、広く世に知られるようになった。

  *   *   *   *   *

さらに一年後。

「こんなに有名になって、叔父貴は本望でしょうか」

サキタ氏はぽつりと言った。

「自分が猫を描いていれば、それで満足だった人ですからねえ。テレビで特集されたり、本が出たりしたけど、どうもピンとこなくて」
「わかります」

その原因を作った張本人は、僕なのだ。なんだか申し訳ない気がした。

「しかし、絵は人の目に触れることで、その真価を発揮するのです。叔父様の仕事が公になったことは、決して悪いことではありません」
「そうですね。ええ、そうだと思います」

しかしサキタ氏は、まだ総てを受け容れるという気持ちではないようだ。

「それで、もう目処はついたのですか」
「ええ、まあ」
「見つかるといいですねえ」
「サキタさんのおかげですよ」
「いえいえ、私は...ただ家のモノを出しただけですから」
「それが大事なのです。ほんとうに、ありがとうございます」

僕は深々と頭を下げた。そして、暇を告げた。

「では、行ってまいります」
「何か判ったら、お知らせください」
「はい、では」

サキタ氏と握手をして、僕は彼の家をあとにした。
明日には、僕は機上の人となる。目指すはパリ。
サキタノボルの猫に会うために。
胸が高鳴る。

「にゃーお」

振り向くと、あのシャム猫が、僕をじっと見て、尻尾を振った。
僕は手を振り返し、少し浮かれながら、車へと走った。


おしまい





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