消えゆく媒介者 | 雨降る町のBAR歳時記

雨降る町のBAR歳時記

どこかのバーのマスターブログ。しがない店をやっていてもの思うこといろいろ。2、3日ごとに更新。

 
昔はけっこう本を読んでいたほうだが、ネットが普及してから読書量はどんどん減っている。店に誰も来ない日なんかにもっと読もうと思っているが、やっぱりネットを見ていることのほうが多い。
 
この10年で読んだ本の中で、僕にとって一番インパクトが大きかったのは精神科医・斎藤環の本だろう。この人の本はけっこう読んでいる。
 
もともと「ひきこもり」という現象を世に紹介して有名になった人だが、おカタイ医師かと思いきや、実はアニメや映画に精通していて、サブカルやおたく文化を考察した本もいろいろ書いている。
 
ときどき「精神科医になればよかったか?」と思うことはある(なれるかは別にして)。いろいろな人を見ているのは好きだから。でも実際のところ臨床医というのは朝から晩まで10分刻みで何十人という患者を診なければならないらしく、バーみたいに気軽に臨時休業というわけにもいかない。
これは、コミュニケーション能力至上主義が蔓延している現代について考察した小論集。
 
かつての学校は人と接するのが苦手でも、絵がうまかったり勉強ができたりしたら周囲から尊敬されたが、いまはちがう。いまは中身がなくても「コミュ力」が大事。仲間の中で自分のキャラを演じ続け、周囲から受け入れられなければ自分の居場所がない。誰もが他人から認められなければ自分を愛せなくなっている。
 
ところが、いくら認められてもそれはあくまでも自分がつくった「キャラ」であって、自分自身ではない。そこに乖離が生じる・・・という話。
 
マニアックな評論から、精神科医の心得みたいな話まで、ごちゃまぜに載っているが、面白いと思ったのは診察の場面での次のような話。
 
自己臭の患者に「僕、臭いますか?」と尋ねられて、とっさに「ぜんぜん臭わないよ。まあでも僕は鼻、悪いんだけどね」と答えて笑いで納めたことがある。こうした、あえて相殺するような言い回しを用いることは、治療の中では必ずしも「ゼロ」にはならない。筆者の考える「現状維持」とは、例えばそのような感覚である。
これは、特に若い患者から自分の容姿のことについてたずねられたときにどう答えるべきか?という話だが、バーでの会話にもあてはまるのかもしれない。
 
バーではよくお客さんから人生相談や身の上話なんかを聞くことがある。すると自分の意思に反していつのまにか「治療者」みたいな立場に立たされることもある。
 
あまり嘘はつけない性格なので、正直に意見したり反論したりすることもある。これは実は「僕には何もできない」と相手に暗に伝えている。でもこれはお客さんにとっては酷な返し方なんだろう。逆に聞きこみすぎてこっちまでドップリはまってもいけない。「聞いているフリしてうなずいていればいいんだ」と言う人もいるが、それもちがうような気がする。
 
なんだかはぐらかしているようでいて、決して「ゼロ」にはならない、そういう会話ができたら一番なんだろうと思う。
 
また、斎藤環は同じ本の中で、精神療法家は「消えゆく媒介者」でなければならないとも書いている。治療者は患者の人生に深くかかわるが、治癒したらきれいさっぱり忘れられてしまうくらいがちょうどいい。いつまでも患者に感謝され、頼られているとしたらそれは厳密には治癒したことにはならない、ということ。
 
これはメンタルな仕事に限らず、バーを含めどんな仕事にもたぶん当てはまる。その時は感謝されても、すぐに忘れられるくらいがいい。
 
僕はあくまでもバーという「場」を提供しているだけである。去る者は追わない。僕も人にほめられたりするのは(かなり)好きだし、頼られて悪い気はしない。でも僕は同時にけっこう面倒くさがりで、いつまでもベッタリというのはちょっと、というのがある。
 
そもそも、いくら他人に承認されたところで、誰も知らない、誰にも触れられない「本当の自分」は、いつもこの体の壁のこっち側にいる。そればっかりはどうしようもない。
 
<参考>