なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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こちらは甲府市内にあった勝山城跡です。
訪問日は2014年11月15日です。

【写1】勝山城

南西から撮った遠景です。
撮った場所の方がちょっとだけ高い気がします。
城内丸見えですよね?

【写2】勝山城

勝山城跡と間違えて最初に登った所です。
見た目はこっちの方が城キチ受けしそうです。
なので、間違えないように地図に×印を付けておきましたあせる
ただ、これだけ勝山城内の様子が見えると、ここを放置したなんてあり得ない気がします。

【写3】勝山城

勝山城のあった丘の南西麓から見た所です。
見上げるといっても全然高さが無く、すぐに登れちゃう気がします。
なぜここに城が築かれたかというと、当時は深田に囲まれていたからだそうです。

【写4】勝山城

城跡は全体的に果樹園となっており、農道が巡らされています。
城跡としてはかなり破壊された部類なのですが、そこかしこに面影は残っています。

【写5】勝山城

最初に場所を間違えた事もあり、本当にココが勝山城跡なのか不安でしたが・・・
途中でこの石碑を見つけて、間違っていなかったと確信出来ました。
石碑には「沼田めぐり 攻めるにかたし 勝山城」と彫られています合格

【写6】勝山城

果樹園を彷徨っていると、こんな光景に出会えました。
これ、どう見ても曲輪を仕切っている土塁ですよね?
後世、果樹園の境目にわざわざ土塁を盛ったなんて、多分無いと思いますので・・・

【写9】勝山城

その裏側です。
土塁の脇が少し窪んでいますが、堀があったのでしょうか?

【写7】勝山城

行ける所まで行きついた所がココです。
外周を囲む横堀と土塁のようです。
案外色々残ってますね恋の矢

【写8】勝山城

せっかくなので横堀を歩こうと思いましたが・・・
ここはビッシリ草で覆われていました。
真冬なら突撃しますが、まだまだ虫や蛇が活動している11月。
さすがに身の危険を感じたので、自粛しておきました。
まだまだ脳内は侵されていないようですw


◆歴史◆

油川氏の拠点でした。

築城年は不明ですが、武田氏一門の油川信恵が拠点としました。
油川信恵は甲斐守護・武田信昌の次男です。
父・武田信昌は嫡男・武田信縄よりも次男の油川信恵を溺愛しました。
そのため家督を油川信恵に継がせようとして、1492年頃から武力衝突が始まりました。

この争いは有力国人どうしの争いとリンクし、甲斐国内は真っ二つに割れました。
武田信昌・油川信恵は栗原氏や穴山氏、小山田氏の他、今川氏や伊勢宗瑞を味方にしました。
一方の武田信縄は甲斐国内の国人衆や関東管領・山内上杉氏を味方に対抗しました。
争いは一進一退を繰り返しましたが、1495年の大地震を機に一旦和睦しました。

1508年、油川信恵が戦死しました。

1505年に武田信昌が没すると、再び兄弟喧嘩が活発になりました。
その翌年に武田信縄は富士浅間に病気平癒の願文を捧げており、そのせいもありそうです。
そして1507年、武田信縄は37歳の若さで世を去り、まだ幼い武田信直が家督を継ぎました。
武田信直は後に武田信虎と改名しますが、この時はまだ10代前半でした。

しかし、まだ若い武田信虎は翌1508年、坊峰合戦で油川信恵に大勝します。
この戦で油川信恵だけでなくその子らや、岩手氏、栗原氏ら有力一門をも討ち取っています。
その後、小山田弥太郎に攻められますが、これも返り討ちにして討ち取りました。
武田信虎って、戦の天才だったんですねラブラブ
これにより、武田家中の争いは一旦落ち着きました。

1515年、今川軍により占拠されました。

武田家中では有力国人がまだまだ活発に活動していました。
1513年には河内地方の穴山氏で、親武田派の当主が殺され、反武田派が主導権を握りました。
この時穴山家の当主となった穴山信風は、今川氏親の家臣となりました。
穴山氏の領地である河内地方は、駿河との国境から甲府盆地南端にまで達しています。
そして、1515年には今川軍が穴山軍を従えて甲府盆地に侵攻して来ました。
大井信達など今川軍に呼応する有力国人も現れ、武田信虎は苦戦します。
この戦は2年続きましたが、斯波軍の遠江侵攻により、今川軍が撤退して終わりました。

1521年、再び今川軍に占拠されました。

武田信虎は1519年に躑躅ヶ崎館を築き、本拠を移しました。
この時に家臣や国人衆に、躑躅ヶ崎への集住を強制しました。
これに有力国人が反発し、再び甲斐国内で騒乱が始まります。
まずは大井信達、浦今井信是や栗原氏など、元々反抗的だった有力国人が挙兵しました。
この反乱は割とすぐに鎮圧出来たのですが・・・

1521年2月に今川家の重臣・福島正成が河内地方に侵攻しました。
穴山信風が今川氏親に再び従い、甲斐侵攻を促したためでした。
9月になると今川軍は攻勢を強め、甲府盆地南端に大井氏が築いた富田城を奪われました。
この時に勝山城も再び今川軍に占拠されています。
そのため、武田信虎は家族を要害山城へ移し、今川軍を迎撃しました。
10月に入ると武田軍が反撃に転じ、飯田河原の戦で今川軍に勝利しました。
11月には上条河原の戦で、今川軍の大将「福島某」を討ち取りました。
今川軍は翌年正月まで甲斐国内に留まりましたが、和睦したため撤退しました。

1582年、徳川家康により改修されました。

武田勝頼の滅亡と本能寺の変が立て続けに起こり、甲斐・信濃は大混乱に陥りました。
両国では織田家臣が追放され空白地となり、周辺勢力が切り取り次第の争いを始めました。
これが天正壬午の乱で、甲斐では徳川家康と北条氏直が争いました。
数に勝る北条軍は郡内地方を抑えた上、若神子城に陣取りました。
一方の徳川家康は、河内地方と伊那地方を抑え、新府城に本陣を置きました。
この時、徳川家康は甲府盆地内の城や城跡を改修し、兵を配置しました。
勝山城もその対象となり、改修が加えられています。
『甲斐国志』では「上曾根村勝山ノ旧塁を修シ」と書かれており、当時は廃城だったようです。
ただ、徳川家康は北条軍と和睦した後も、勝山城の改修を続けたそうです。
甲府城の築城も始めたので、甲斐でまた戦が起こることを想定していたのかもしれません。


所在地:山梨県甲府市上曽根

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