なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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武田信義は甲斐武田氏の初代当主です。
訪問日は2014年11月16日です。

【写1】武田信義館

現場には、こんなベタな案内があります。
わかりやすいですね合格
実はもう写ってますw

【写2】武田信義館

外から見たらこんな感じです!!
甲斐武田家初代のお屋敷がこんなに狭い訳ないですけどw

【写3】武田信義館

周りが住宅や畑になっているので、まぁこんな感じです。
説明板にはどこかに土塁があるような事が書かれていましたが、わかりませんでしたあせる


◆歴史◆

平安時代末に源氏が甲斐にやって来ました。

武田信義は新羅三郎・源義光の曾孫で、甲斐武田氏の祖とされる人物です。
この頃は、領地の地名を姓として名乗ることが多かった時代です。
甲府駅の北側から武田神社にかけての地名が「武田」なので、そこ由来?なんて思いましたが・・・
実は武田姓の由来は、遠く常陸国にありました。

甲斐に武田氏の祖先がやって来たのは1130年です。
それまでは新羅三郎・源義光の本拠地である常陸に居ました。
武田信義の祖父・源義清は、那珂郡武田郷を分知されて「武田冠者」を名乗っていました。
元々武田郷は地元の有力者・平清幹の領地でしたが、源義清の父・義光が譲られたものでした。

しかし、源義清の子・清光が、領地を接する大掾盛幹と対立しました。
大掾盛幹は平清幹の子で、伯父で佐竹氏の祖となる源義業の義理の兄弟でもありました。
そのため源義清・清光父子は朝廷に訴えられ、1130年に甲斐への配流処分となりました。
尚、武田信義は源清光の子で1128年生まれなので、この時既に生まれていました。

甲斐に流された源清光は、当初市河郷(市川大門辺り)に館を構えました。
その後、八ヶ岳南麓(逸見荘)に進出した源清光は、逸見清光と名乗るようになりました。
武田信義には一覧双生児の兄・逸見光長がいます。
この辺りは逸見荘から近いので、武田信義が父から領地を分知されたものと思われます。
武田信義は1140年に、ここから近い武田八幡神社で元服しました。

1180年、武田信義は源頼朝、木曽義仲とともに源氏の棟梁となりました。

以仁王が平家討伐の令旨を発すると挙兵し、駿河に侵攻して駿河守護となりました。
その後、源頼朝の平家討伐・木曽義仲討伐に協力し、壇之浦の戦いにも参戦しています。
しかし、甲斐源氏の勢力が強大過ぎたため、源頼朝に危険視され粛清の対象となりました。

1181年、武田信義は駿河守護を解任されました。

後白河法皇が源頼朝の討伐を武田信義に命じた、という噂が流れました。
すると、源頼朝は武田信義を鎌倉に呼び出し、駿河守護を解任した上、起請文を書かせました。

1184年には一ノ谷や備前での平家討伐戦で、次男の板垣兼信が大活躍しました。
しかし、土肥実平の下に配置されることを命じられ拒否しますが、訴えは退けられました。

その1ヶ月ちょい後、今度は嫡男・一条忠類が鎌倉に呼び出されて暗殺されました。
一条忠類は父・武田信義の代わりに駿河へ赴き、実際の支配を任されていました。
暗殺される直前には朝廷から武蔵守に叙任されていたようで・・・
甲斐・遠江・信濃・武蔵を領有して駿河にも影響力があり、鎌倉を包囲していました。

板垣兼信は兄が誅殺された後、甲斐源氏を背負って立つ存在でした。
しかし、徐々に地頭職を解任され、1190年にはついに隠岐島へ流されてしまいました。

武田信義の弟で養子となった説のある安田義定は、遠江守護でした。
平家討伐に功があり、鎌倉幕府が樹立されると、源頼朝の隣に館を構える程でした。
しかし、1194年に子が宮廷の女官に艶書を送ったとして、領地を没収されました。
源頼朝が安田義定を追討する動きを見せると自害しましたが、どこかで梟首されています。

同じく弟で養子になった説のある加賀美遠光は優遇され、信濃守護に任命されます。
嫡男・加賀美朝光は平家とのつながりが強かったため滅ぼされましたが・・・
次男の小笠原長清が父の跡を継ぎ、一時没落はするものの信濃守護を継いでいきます。

武田信義の没年には諸説あります。

『吾妻鑑』では1186年に病没したと記されています。
しかし、1190年に源頼朝の上洛に随行し、1194年には東大寺造営の際にも名が見られます。
そのため、この頃まで存命していた可能性があります。

家督は五男の武田信光が継ぎました。

武田信光は1180年に駿河で駿河国目代・橘遠茂を生け捕りにする功を挙げました。
甲斐源氏が源頼朝の平家討伐に従った際も、武田信光の館で使者を迎えて歓待しました。
武田信光は木曽義仲とはとても仲が良かったそうですが・・・・・・
信濃の支配権を巡って対立し、その事が木曽義仲討伐の口火になった、という説もあります。
他の兄弟一族が粛清される中で、武田信光は源頼朝の信頼を勝ち得ていました。
甲斐源氏の絆を分断する策だった、という説もありますが。

ライバルの兄・武田有義は1188年、鶴岡八幡宮で満座の前で源頼朝に面罵されました。
この事が原因で、甲斐源氏内での求心力が一気に弟・武田信光に移りました。
また、1200年には梶原景時との内通を疑われ、武田有義は消息を絶ちました。
これらは武田信光が絡んでいたという見方もありますが・・・
その後続いた甲斐武田氏は、武田信光の子孫です。


所在地:山梨県韮崎市神山町武田

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