なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
獅子吼城は、この辺では珍しく石を多用したお城でした。
訪問日は2014年11月16日です。

★私がここで紹介している登城路は、2016年末より通行止めとなっていました★
★城跡へは西側にある根小屋神社の所から登れるようです★
★来春までにはそちらのルートで再挑戦しようと思います★


【写1】獅子吼城

獅子吼城跡への登城口付近の風景です。
道端に城の説明板があり、これが目印です。
目の前にそれっぽい山がありますが、城跡は左の山道の先にあり写っていません。
ここら辺は道が狭く、車だと停める場所に苦労しそうです。
ストビューを見ていてたら、下の地図のヘアピン手前に2か所停めておけそうな所がありました。

【写2】獅子吼城

登城口は、とてもいい雰囲気です恋の矢
世の中にはそう感じる人も居る、ということでw

【写3】獅子吼城

登城路はしばらくは杉が鬱蒼と茂った中を進みます。
道自体はとてもはっきりしているので、山中で迷うことは無いと思います。
登城口から4分歩いた所に、大きな堀切と竪堀があります。

【写4】獅子吼城

尾根筋を断ち切った後、そのまま下に落ちていく竪堀・・・
セオリー通りですラブラブ

【写5】獅子吼城

せっかくなので、振り返ってもう1枚撮りました。

【写6】獅子吼城

登城口から7分程歩くと、杉林が薄くなり明るくなります。
ここまで来れば、城跡はもう目の前です。

【写7】獅子吼城

下から見上げると、とても直登できそうには見えません。
おまけに岩がゴツゴツと露出しています。

【写8】獅子吼城

という事で、寄せ手はこれ見よがしに付けられた土塁沿いに、横に進むしかありません。

【写9】獅子吼城

そして、奥まで進み切った所で、上に向かう細い道が現れます。
この道は1人通るのがやっとなので、段々に付けられた腰曲輪から狙い撃ちにされます。

【写10】獅子吼城

下から見ても岩ゴツゴツでしたが、上に行くと整然と積まれた石垣が現れます。
この辺は後北条軍が入った時に整備したものなんでしょうね!

【写11】獅子吼城

登城口から14分で主郭に辿り着きました。

【写12】獅子吼城

ここに至るまでに色々な防御機構がありましたが、主郭自体は至ってシンプルです。
登城口のある東側に、ちょこっと土塁があるだけです。

【写13】獅子吼城

上の写真で手前に写っている白い板がこれです。
展望台によくあって、ここから見えるアレが何、という親切なヤツです。

【写14】獅子吼城

そして、ここから見える展望がコレですwww
きっと昔はよく見えた、という事にしておきます。

【写15】獅子吼城

主郭シンプル~なんて思いながら散策していましたが、見つけちゃいました。
獅子吼城の城址標柱です。
完全に朽ち果てて、伐採された木の枝と一緒に積まれていました。
また新しいの立ててくれると嬉しいのですが・・・・


◆歴史◆

築城年代は不明です。

獅子吼城は江草城とも呼ばれ、江草氏の城だったようです。
『甲斐国志』では、応永(1394~1428年の間)に江草信泰の居城だったと記しています。
江草信泰は甲斐守護・武田信満の三男で、備後の江草氏の養子になったようです。
そのため、江草氏の子孫は備後で栄えますが、江草信泰当人はずっとここに残ったようです。
なぜ遠く離れた備後に?なんて思いましたが、父の武田信満は甲斐と安芸両国の守護でした。
そして、なぜ甲斐に残ったのか?なんて思い色々ググってみると・・・
江草信泰は25歳で没したそうです。
病死なのか、戦死なのかは?ですが、行かなかったというより行けなかったかもしれません。

今井氏が城主となりました。

江草信泰の遺領は、甥の今井信経が「兵庫助」の名とともに継ぎました。
甥っ子(弟の子)ということで、今井氏も甲斐守護・武田氏の一族です。
今井氏はその子の代で表今井家と浦今井家に分かれ、獅子吼城は浦今井家の城となりました。
表今井家は兄・今井信乂の系統で、甲斐守護の武田家に付き従いました。
一方、浦今井家は弟・今井信慶の系統で、武田家とは事あるごとに反発しました。

1509年、小尾弥十郎が乗っ取りました。

いくらググっても、この前後の出来事は不明、としか出て来ません。
なので、勝手に推測しちゃいます。
だって、ブログですからw

浦今井家はこの年、諏訪頼満に攻められています。
この戦では、今井信是の弟・平三が諏訪軍により討ち取られています。
同じ頃、武田信虎は叔父・油川信恵を前年に滅ぼし、甲斐統一へ大きく前進していました。
しかし、大井氏や栗原氏など、まだ従わない有力国人も多く、不安定な時期でした。
もし、諏訪頼満が武田信虎に浦今井氏を挟み撃ちにしようと持ち掛けたらどうなるでしょうか?
小尾氏は津金衆に属する一族で、武田氏に従っていました。

もしかしたら小尾氏が獅子吼城を乗っ取り、野戦で諏訪軍が今井軍を叩いたのかもしれません。
今井信是は諏訪頼満と和睦し、その娘を今井信是の子・信隣の正室に迎えました。
直接戦っていた諏訪軍が勝ったため、城は今井信是に返されたものと思われます。

1532年、武田信虎に攻められました。

今井信是は、1520年に大井信達らとともに大規模な反乱を起こしました。
この時に武田信虎に大敗を喫し、降伏の条件として子の今井信元に家督を譲りました。

その今井信元も、1531年に飯富氏、大井氏、栗原氏らと共に反乱を起こしました。
この時は、姑の諏訪頼満からの援軍も来る本格的な挙兵でした。
しかし、2月に大井信業が討死し、4月には河原辺で連合軍が武田軍に大敗しました。
今井信元は獅子吼城に籠城して抵抗を続けましたが、翌年9月に開城し降伏しました。
この戦に勝った事が、武田信虎の甲斐統一達成とされています。
以後の今井信元の動向はよくわかりませんが、甥の今井信昌が武田家に仕えています。

1582年、後北条軍により改修されました。

織田信長により武田勝頼が滅ぼされ、甲斐・信濃にはその家臣がやって来ました。
しかし、その3か月後には本能寺の変があり、各地で織田家臣排斥の動きが激しくなりました。
そのため、織田家臣は命からがら逃げだし、中には河尻秀隆のように討たれる者もありました。
支配者が居ない空白地となった甲斐・信濃を、周辺の大名が奪い合う戦が始まりました。

甲斐では徳川家康が新府城、北条氏直が若神子城に布陣し、睨み合う状況が続きました。
その中で、北条氏直は若神子城の背後にあった獅子吼城を改修し、兵を置きました。
この時の獅子吼城の事が「江草小屋」と表現されており、既に城でなかった可能性があります。
徳川家康は服部半蔵と津金衆に獅子吼城の攻略を命じ、夜襲により陥落しました。
その後、徳川家康と北条氏直が和睦すると、獅子吼城は廃城となりました。


所在地:山梨県北杜市須玉町江草

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