なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
鶴亀城跡には行こうと思って止めて、やっぱり行って来ました。
訪問日は2016年12月30日です。

【写1】鶴亀城
拡大図

鶴亀城跡には現在、鹿屋市役所の支所と小学校などがあります。
ちょっとした城跡には、だいたい役所とか学校がありますよね。
ここには両方ともあります。

ということで、さっそく役所の前にある説明板をパクリました。
こうしてみるとかなりというか、ほぼ無くなっていますが・・・
曲輪の1つが小学校だったという事は、とんでもない広さだったんですね!

【写2】鶴亀城

そして、こちらが現在のお城ですw
現在は鹿屋市の支所ですが、2006年までは串良町役場でした。
今も昔もこの辺り一帯の中心なんですね!
Wikipediaの写真は建物が違ってちょいビビりましたが・・・
2009年頃に建て替えられたようです。

【写3】鶴亀城

役場は地頭仮屋の跡地だったようで、その石門も残されていました。
上の図では「消滅」の破線で囲まれてないので、地頭仮屋がそのまま役場になったようです。
ということは、この門は移動されず元の位置にそのまま残されているのかもしれません。

【写4】鶴亀城

支所の北側にあるこの山が、図でいう所の本丸のようです。
なーんだ、ちゃんと残ってるじゃないか!攻めるゾ!と気合を入れたものの・・・

【写5】鶴亀城

本丸の周囲はこんな感じ。
そういえば、消滅の破線が本丸の周囲を囲んでいます。
どうやら本丸へ入る道は削られてしまい、入り込めなくなってしまったようです。
ザンネンあせる

【写6】鶴亀城

道の反対側には、妙にお城お城っぽく凝りにこった小学校があります。
ここが三郭跡です。
ここに通うお子様達は、みんなお殿様気分なんだろなぁなんて、勝手に想像しちゃいます。
私の母校も100名城の1つの中にあったので(と、無関係な自慢をサラッとしますwww)

【写7】鶴亀城

開発されて消えてしまった平城跡探索に最近慣れて来たので、ちょっと探してみました。
ここはきっと堀跡だ!ここはきっと虎口があったに違いない!あ、土塁wwwwwww
・・・なんて異常なテンションで街を歩いているヤツがいたら、きっと私です。
声を掛けずにそっとしてあげて下さいネあせる

【写8】鶴亀城

さすがにココから何かを想像するのは難易度が高過ぎますが・・・

【写9】鶴亀城

上のグラウンドの奥に見えた土の山です。
見えましたでしょうか?w
三郭の端っこなのかもしれない、土塁っぽいから堀跡あるかもしれない、と思って来ました。
かな~り可能性を感じる意味深な土の塊の上に、ちょこんと石碑が乗っています。
きっと何かイイものが彫られているに違いない!と必死に覗き込みましたが何も見えず。
外側からはのっぺらぼうの、ただの石碑でした。
内側から見たら何か彫られているのかもしれませんが・・・
後ろを通り掛かった親子の視線が、ちょっとだけチクチクと痛かったです。


◆歴史◆

津野氏の地頭館があったようです。

『古城主由来記』には「島津久経時代津野四郎兵衛、鹿屋城主」の記述があるそうです。
島津久経は島津家2代当主で、鎌倉時代中頃の人物です。
ここは鹿屋城ではないのですが、鹿屋城の別名は亀鶴城でここは鶴亀城です。

『三国名勝図会』では津野四郎兵衛が正中年間(1324~26年)に串良院の地頭と書かれています。
串良院の地頭館がここ鶴亀城なので、津野氏はここら一帯の領主様だったようです。
付近の城跡がみんな津野氏関係なので、室町時代になって大きな城を築いたのでしょうか。

1470年頃に平田重宗により築かれたと伝わります。

平田重宗は島津家の家老で、ちょっと北の岩弘城主です。
岩弘城を築いたのも平田重宗で、ココより59年前の1411年だそうです。
ということは、晩年になり築いた隠居城ということでしょうか。

1495年、島津忠朝(豊州家)に攻め落とされました。

この頃は島津家当主の権威が失墜し、分家や重臣たちの争いが絶えない時期でした。
島津宗家の家老であった平田氏も例外ではなく、分家との主導権争いに巻き込まれました。
歴史では、平田氏の振る舞いに怒った島津忠昌が島津忠朝に討伐を命じた事になっていますが・・・
両者の争いを抑え切れず、平田氏に勝った島津忠朝を正当化した、とも見えます。
ということで、平田氏の領地は島津忠朝のものとなりました。
鶴亀城には島津忠朝の叔父・平山忠康が城主として入りました。

1523年、新納忠勝に攻められ降伏しました。

島津家と肝付家が対立し、そこに新納忠勝が乗っかって城を攻めました。
島津忠朝は城兵の開放を条件に、城を明け渡しました。

肝付家→島津家の城となります。

新納忠勝は周辺が混沌とした頃は勢力を拡大しました。
しかし、島津忠良・貴久父子が島津家中の争いを制すると、次第に旗色が悪くなりました。
というのも、周囲の争いにつけ込んで勢力を拡大したので、周りがみな敵になったのです。
そうして島津豊州家や北郷家、肝付家に攻められて、次第に領地を失って行きました。
この流れの中で、串良一帯は肝付家の領地となりました。

その肝付家も1550年代に島津貴久と手を切り、伊東家と組んで敵対するようになりました。
一時は島津家を圧倒するほどに勢力を拡大しましたが・・・
1560年代に本拠の高山城を奇襲により攻め落とされ、当主の肝付兼続が自害。
以後の当主が相次いで短命に終わり、1574年、ついに島津義久に屈しました。
その後、島津家に対する謀反の疑いを掛けられ、1580年にはすべての領地を没収されました。

1577年、島津忠長が地頭となりました。

肝付兼護が高山城以外の領地を没収されると、串良は島津忠長が地頭となりました。
島津忠長は、島津貴久の末弟・尚久の嫡男で、島津軍の主要な戦で活躍した武将です。
1598年には朝鮮・泗川の戦で、兵100人で朝鮮軍1万を打ち破ったそうです。
・・・流石に盛り過ぎだとは思いますが、島津軍は「鬼石曼子」と恐れられるようになります。
この時の功により、島津忠長は宮之城と祁答院を与えられ移りました。

その後は多分島津宗家の直轄地となり、江戸時代には外城として串良麓が置かれました。


所在地:鹿児島県鹿屋市串良町岡崎

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