なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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志布志城は2017年4月に続日本100名城に選ばれた、かなり大規模な山城です。
訪問日は2015年6月13日です。

【写1】志布志城

まずは新城があった志布志中学校です。
・・・行けるのはココまでですあせる
大きな台地を丸ごと1つ、曲輪として使っていました。

【写2】志布志城

中学校の前の道をさらに進むと、ちょっと開けた場所に出ます。
その中心に舗装された広い場所があり、ここが無料の観光駐車場です合格
これが無いと、ここら辺りでは車を停めるのに苦労すると思われます。

【写3】志布志城

すぐ近くにある志布志小学校が、城主様の居館跡であり、地頭仮屋の跡です。
背後の山が内城のあった山です。
校舎が瓦ぶきだったら。。。というのは、欲張り過ぎですねあせる

【写4】志布志城

小学校の隣には、平山氏庭園というのがあります。
とても貴重な庭園らしく観光の中心らしいのですが、私はスルーです。
だって、興味ありませんからw

【写5】志布志城

庭園前をスルーしてちょっと歩くと、未舗装の駐車場があります。
ここは小学校の駐車場で、その奥が登城口となっています。

【写6】志布志城

上の写真に写っていた自販機を真正面から撮ると、色々隠れていましたw

【写7】志布志城

そこから奥へ入って行くと、立派な説明板があります合格

【図1】志布志城

ということで、やはりパクリます。
事前にこの図を見ても想像がつきませんが、城内に入るとその規模に圧倒されます恋の矢

【写8】志布志城

早速道が分岐します。
まっすぐ進むべきか、登る脇道に入るべきか・・・
このような場所には必ず案内図が設置されており、現在地が示されています。
私のようなアレにはとても助かる配慮です合格
この図によれば、ここはどちらから進んでも城内に入ることができます。

【写9】志布志城

私は端から順に見たい!ということで、山中へ入る坂道を選びました。
最初に現れる曲輪は矢倉場です。
名前からして、ここから矢の雨が降り注ぎそうな感じがします。
ここにはかなり詳しい説明板がありましたが、他の曲輪にはありません。

【写10】志布志城

矢倉場から先の山上は、基本的に堀底道となります。
堀好きにはたまらない城跡ですラブラブ

【写11】志布志城

そして、城内の至る所にこのように現在地を示す案内図が設置されています。

【図2】志布志城

こんな感じのです。
これは一番奥で撮影したものです。

【写12】志布志城

矢倉場から東のルートを通ると、こんな場所に出ました。
上の図でいう所の、下に通じる搦手口の道です。
反対側もそうなのですが、脇から城外に通じる道はこんな感じになっています。

写真だけ追っかけてると、どこの堀切だったっけ?と考え込んでしまいました。
色々写真撮りながら、随所に設置されている図も撮っていたので場所がわかりました。
・・・ここだからわかったものの、他の城跡だと絶対に思い出せませんでしたあせる

【写13】志布志城

端から順にということで、次に目指したのが本丸です。
「本丸」という表現が適切なのかどうなのかはわかりませんがw
志布志城の内城の最重要箇所、ということは伝わるかと思います。
ここはその本丸の下に連なる曲輪の入口です。
通路はやっぱり堀底になっており、曲輪には「上がる」という表現がピッタリです。

【写14】志布志城

ということで、本丸です。
まぁ、城跡なんてこんなもんですw

【写15】志布志城

ここの分厚い土塁の上に、標柱付きの小さな石の祠がありました。
これは「三宝荒神」で、新納氏が城主だった時に祀ったお城の守り神だそうです。
周りはちゃんと手入れされているようで、大事に守られているんですね!
この手のものは、城跡が破壊されても残されている事が多いです。

【写16】志布志城

とにかく巨大なので、どんどん紹介します。
続いては、本丸と中野久尾の間の堀切です。
ここも鹿児島らしくザックリ掘られています。
明治までは日向国だったので、今風に言えば宮崎県ですがw

【写17】志布志城

この堀切を東→西へ進むと、突き当りは巨大な土の壁となっています。
ここは図を見て一番気になっていた「大空堀」の土塁です。
図では、大空堀の脇から上がって来る道が1本描かれていました。
その道は真っすぐ大空堀には繋がらず、しばらく並んでから合流するよう描かれています。
大空堀脇の土塁上に兵を配置して、上がって来る敵を迎撃したのでしょうか。

【写18】志布志城

これが大空堀です。
堀切のように両側が高くなっていますが、左側は土塁で、その外側は急斜面です。
なぜここまで土塁を高くする必要があったのか、築いた方にお話を聴いてみたいですね!
・・・コワイ系のお話は遠慮しますけどあせる

【写19】志布志城

大空堀を堪能したくて矢倉場方向に進むと、またまた右端に堀切っぽいのが現れます。
これが図で上側に描かれている(至沢目記)の道です。
傾斜がキツ過ぎて、私のような根性なしには到底通れなさそうな道ですあせる

【写20】志布志城

大空堀をUターンして、再び奥へと進みます。
先ほど通った堀切を通過し、次の堀切を堪能します。
ここは中野久尾と中野久尾の間にある堀切です。
同じ名前なので1つの曲輪かと思っていましたが、思いの外普通に堀切で切れていますw

【写21】志布志城

中野久尾の内部です。
まぁこんなもんです♪

【写22】志布志城

などと言い切らず、ちゃんと端っこの土塁も見て来ました。

【写23】志布志城

また元の大空堀に戻り、再び奥へ進みます。
次の堀切は、中野久尾と大野久尾の間を断ち切っています。
自然地形の谷をそのまま利用したのではないかという位、深く鋭い堀ですラブラブ

【写24】志布志城

大野久尾の入口は大空堀を奥へ進んだ所にあります。
ずっと堀底道歩いてるので、写真の数がハンパないですw

【写25】志布志城

ここが大野久尾の虎口です。
曲輪の入口なのに、かなり長い坂道になっています。
巨大坂虎口ですね!

【写26】志布志城

大野久尾の内部です。
奥には土塁があるようです。
ここは踏み込みませんでした。
とっくに靴はグズグズなので、気にする必要なかったのですがあせる

現地では事前に印刷しておいた図を見ながら見て回りましたが・・・
一番上の立体的な図を改めて見ると、大野久尾の奥がザックリ描かれています。
・・・これから訪ねる皆様は、ぜひここも見逃さないで下さいねあせる

【写27】志布志城

続いては、内城の隣にある松尾城です。
間に川まで流れているのですが、1つの城として扱われています。
1つの城なのか、1つの曲輪なのか。
鹿児島のお城って、曲輪の名前が「~~城」なので戸惑います。

松尾城の入口は、道端にしっかり案内があります。
鹿児島ではよく「松尾城」という名を見かけます。
だいたい主郭部を指していることが多いです。
どういう謂われがあるのだろうかと気になって調べましたが・・・
舌状台地の端を利用しているので「末尾」と呼ばれ、ちょっと洒落て「松尾」になった…
なんて書かれているサイト様があったような、無かったような。
気になって調べたくせに、記憶がちょっと曖昧ですあせる

【写28】志布志城

さて、登城口が舗装道だったので油断していましたが、再び現れた入口はガッツリ山の道。
もう靴の中はグチョグチョなので、今更気にするまでもないのですがw

【写29】志布志城

こちらは名は知られているものの、内城程メジャーでないせいか、ちょっとアレです。

【写30】志布志城

こんな所もあったりしました。

【写31】志布志城

内城とは構造がガラっと変わり、普通に山道を登る山城です。

【写32】志布志城

だいぶ登った所でいったん平坦になり、またちょっと登る感じになりました。
どうやら主要部に近づいたようです。

【写33】志布志城

急に道が険しくなったかと思ったら

【写34】志布志城

それっぽい曲輪に出ました。
祠があり、奥には土塁まであります。
主郭でしょうか?

【写35】志布志城

奥の土塁を堪能していると、脇に隠し通路を見つけました。
これは「奥へ進め!」という暗示でしょうか。
・・・結構独りで激しく妄想しながら山中を歩き回っていますあせる

【写36】志布志城

どうやらその先にも進んだようですが、写真はこれでオシマイです。
奥に続く道が見えているので、ここが終点ではなさそうですが・・・
次の写真はいきなり高山城でしたあせるあせるあせる


◆歴史◆

写真だけで既にかなり長くなっているので、歴史はザックリ紹介します。

築城年代、築城者ともに不明です。

平安時代末に近くに救仁郷氏がおり、もしかしたら、というのはあります。
鎌倉時代初期に救仁郷平八成直という人物が、松尾城に居たという記録があるらしいです。
ただ、北西の松山城も「松尾城」と呼ばれることがあり、ココの事なのかは?です。

室町時代始め頃、南朝方の楡井頼仲が拠点としました。

ハッキリ登場するのは室町時代に入ってからです。
遅くとも、1332年までには楡井頼仲が志布志城に居たようです。
楡井頼仲は南朝方の武将で、近隣の救仁郷氏の領地をかなり奪っていたようです。
なので、元々志布志城も救仁郷氏の城だったかもしれません。
楡井頼仲は日向の北朝方である畠山直顕と激しく争いました。
そして、1351年に志布志城を奪われ、大崎の胡麻ヶ崎城で抵抗を続けました。
しかし、武運に恵まれず、1358年に禰寝増清との戦に敗れ、志布志近郊で自害しました。

1358年、島津氏久の城になりました。

楡井頼仲が戦死した後、島津氏久が畠山直顕と志布志で戦い勝利しました。
その後、畠山直顕は南朝方の菊池武光の遠征軍にも大敗しています。
さらに島津氏久がトドメを刺し、畠山直顕はつてを頼って豊後へ落ち延びました。
島津氏久は島津師久の弟で、大隅・日向の守護でした。
志布志城はしばらく島津氏久の居城だったようで、新納時久が松尾城に入りました。
尚、新納時久のお墓が矢倉場にあるそうです。

1538年、島津豊州家の城になりました。

島津氏久の時代以降、志布志は島津一族である新納氏の本拠地となりました。
戦国時代になると、島津一族どうしで争うようになります。
大きく分けると島津実久(薩州家) vs 島津勝久(宗家)です。
1538年に島津勝久が追放されると、島津忠良が島津実久と争うようになります。
大隅・日向南部では、島津豊州家と北郷氏が薩州方、肝付氏が島津忠良に味方しました。
そんな中新納忠勝はどちらにも味方せず、両陣営の争いの隙を突いて勢力を拡大しました。
すると、1538年に島津豊州家・北郷氏・肝付氏が連合軍を組み、志布志を攻撃。
新納軍は敗退し、志布志を失いました。
新納氏の領地は山分けされ、志布志は島津忠朝(豊州家)の領地となりました。

1562年、肝付兼続の城になりました。

新納氏打倒に協力した肝付兼続でしたが、普段は島津豊州家・北郷氏とは争っていました。
肝付兼続は島津忠良と姻戚関係を結び、大隅半島で勢力を拡大していました。
1542年には北郷氏の百引城、1544年にはすぐ西の安楽城、1546年には蓬原城を奪いました。
肝付兼続は1558年に島津貴久とは手を切り、日向の伊東義祐と同盟を結びました。
そして南北から島津豊州家・北郷氏を攻め、1562年に志布志攻略に成功しました。
この頃が肝付氏の最盛期でした。

1577年、島津義久の城になりました。

肝付兼続は伊東義祐と組むことで、島津豊州家と北郷氏を滅亡寸前まで追い込みました。
しかし、島津貴久・義久が次第に反撃に転じ、1566年の戦で肝付兼続が自害しました。
あとを継いだ肝付良兼は父譲りの勇将で、島津軍と互角に渡り合う奮闘を見せていました。
その肝付良兼は1571年に島津軍に攻められた伊地知重興を救援後、病により急死しました。
そこから肝付家中は騰勢を失い、1574年に肝付兼亮がついに降伏しました。
肝付兼亮は1577年、伊東義祐と通じて謀反を企んだ事が露見し、日向へ追放。
肝付氏の家督は肝付兼護が継ぎましたが、高山城1城を残し、領地は全て没収されました。

1615年、廃城となりました。

一国一城令により廃城となり、志布志麓となりました。
建物は破壊されたものの縄張りは維持され、地頭仮屋が志布志小学校の場所に置かれました。


所在地:鹿児島県志布志市志布志町帖

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