なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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平山城は、遠くから見ると真っ平らな山の上にあったお城でした。
別名「川辺城」とも呼ばれています。
訪問日は2015年12月31日です。

【写1】平山城(川辺)

南西の交差点から撮りました。
遠目にもかなり目立つ山?というか台地です。
カクッ、カクッとした見た目が、巨大城郭を連想させます。
実際巨大ですけどw

信号待ちで「アッ」と思い、慌ててカメラをごそごそ取り出しました。
撮る瞬間信号が青になりましたが、後続車が居なくてラッキーでしたあせる

【写2】平山城(川辺)

車でこの台地を登ると、一面綺麗に馴らされたグラウンドになっています。
その道端には、現状の縄張り図・・・ではなく、案内図がありました。

【写3】平山城(川辺)

これをジッと眺めて、どこがどうだったのか想像してみて下さい。
・・・難易度がちょっと高過ぎますねあせる

【写4】平山城(川辺)

丁度真ん中辺りにこんな建物があります。
真ん中にある白い板が、平山城についての説明板です。

【写5】平山城(川辺)

その左脇には、こんな図も合格
さっきの図と重ね合わせて、どこがどうなっちゃったのかを考えてみましょう。
こうして見ると、本城(二の丸)がそのまま小学校になったようです。

【写6】平山城(川辺)

ここも遺構は全く無いらしいのですが・・・
西の端っこにある神社周辺は、何となくそれっぽい感じがします。
ここは西側の坂道を登り切ってすぐの所です。
パッと見でも重機土塁っぽいですけどあせる


◆歴史◆

平安時代末頃に、川辺道房が築いたとされます。

川辺氏は伊作氏から派生した一族で、薩摩平氏に属します。
周辺には頴娃氏や指宿氏など、同族が多くありました。
鎌倉時代初期にあった承久の乱で川辺氏は没落しました。
室町時代に入り島津氏に討伐されるまでは、ココを本拠としたようです。

1393年、島津伊久の城として史料に現れます。

築城年代や築城者は不詳ですが、総州家の島津伊久の城として登場するのが初見です。
登場したのは、子の島津守久に平山城が攻められた時の事です。
この親子がなぜ戦をする程の不仲になったのかはよくわかりませんが・・・
川辺町風土記では、島津守久は気性が荒く、島津伊久が将来を危ぶんだと書かれています。
島津伊久は、親子喧嘩の仲裁を甥で島津奥州家2代目の島津元久に依頼。
その見事な仲裁ぶりに惚れ込んだ島津伊久は、島津家の家宝と薩摩守護職を譲りました。

1400年、島津伊久と島津元久が対立し始めました。

島津元久は、養子に迎えていた島津伊久の三男・久照と伊久一族の娘を離婚させました。
さらに、島津伊久の領地である薩摩国内に、勝手に清水城を築いて支配するようになりました。
これに激怒した島津伊久は、島津元久と争うようになります。

1401年、室町幕府と鶴田氏以外の渋谷一族の支持を得て、島津元久を鶴田合戦で破りました。
その後、島津元久は伊集院頼久や伊作家の島津久義の協力を得て、一進一退となります。
そして1404年に、室町幕府の仲介によりいったん和睦しました。

1407年、島津元久が攻め取りました。

1407年に島津伊久が川内の平佐城で没しました。
すると、島津元久は総州家の支配していた南薩摩へ侵攻。
島津伊久の次男が守る川内の平佐城や川辺の平山城(ココ)などを攻め落としました。

1413~17年の間、伊集院頼久が島津久豊と争いました。

島津元久の跡継ぎの子は出家しており、島津元久が没すると家督争いが始まりました。
争ったのは島津元久の弟・島津久豊と、島津元久の娘婿の父・伊集院頼久です。
伊集院頼久は、ココ平山城を拠点にしました。
島津久豊が伊集院頼久討伐を命じた総州家の島津久世は、伊集院方に寝返りました。
これにより、伊集院頼久が優位に立ちました。
その後は騙し騙されを繰り返し、最終的には島津久豊が勝利しています。

1450年、島津忠国が伊集院煕久を攻め滅ぼしました。

伊集院頼久が島津久豊に降伏した後、伊集院氏はしばらく大人しく従っていました。
しかし、島津久豊の子の代になると、伊集院頼久の子・煕久が島津忠国に叛旗を翻しました。
発端は、島津忠国が石谷の地を町田高久に与えた事でした。
伊集院頼久が島津久豊に降伏した際、和解の証として娘を島津久豊に嫁がせました。
その時の化粧料として添えられたのが、石谷の地でした。
既に島津久豊も姉も他界していましたが、弟の伊集院煕久には我慢出来ない出来事でした。
しかし、戦は島津忠国が勝利し、伊集院煕久は行方知れずとなりました。

1476年頃、島津薩州家の領地になったと思われます。

伊集院氏没落後の川辺は、たぶん島津久豊の領地になったものと思われます。
島津久豊の曾孫・島津忠昌は、かなりグダグダな当主でした。
あまりにグダグダ過ぎて、各地で反島津の謀反が起きました。
島津忠昌の奥州家と争った薩州家の島津国久も例外ではなく、この頃南薩摩を奪いました。

1526~27年
奥州家の島津勝久と薩州家の島津実久が争ったとき、島津忠良は島津勝久に味方しました。
その際に島津勝久は、島津忠良の嫡男・貴久を養子として家督と薩摩守護職を譲りました。
しかし、たった1ヶ月で前言を翻し、島津勝久は守護に復帰しました。

1534~35年
その後、島津勝久の姑である薩州家の島津実久が、島津勝久を操って好き放題しました。
すると、それを疎ましく思い始めた島津勝久が、島津実久と争うようになります。
しかし、人望ゼロの島津勝久は重臣達の諫言には耳を貸さず、次第に家臣が離れて行きました。
この流れを読んだ島津実久は鹿児島を攻め、島津勝久は帖佐、後に豊後へと逃れました。

1537~39年
島津忠良は、渋谷一族を味方につけ薩摩の南北を分断し、薩摩南部を獲りにかかりました。
鹿児島で敗れた島津実久は谷山城も失い、平山城に籠もりました。
この時に島津忠良は、鹿児島・谷山・吉田・伊集院と加世田・川辺の交換を提案しました。
しかし、この和睦案を突っぱねた島津実久は連敗を重ね、ついに出水以外の地を失いました。

1539年、島津忠良の直轄地となり、江戸時代には外城となりました。

薩州家の島津実久は、1553年に没するまで島津忠良・貴久父子には降伏しませんでした。
しかし、その子の島津義虎は島津貴久に従い、薩摩統一が果たされました。

島津忠良が攻め落としてからの平山城については、よくわからず・・・
この辺りが平和になり、戦の話に出て来なくなったためと思われます。
江戸時代には南側に地頭仮屋が置かれ、川辺麓と呼ばれました。


所在地:鹿児島県南九州市川辺町平山(諏訪運動公園)

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