なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
伊作城は島津伊作家の本拠地です。
訪問日は2015年12月30日です。

【写1】伊作城

駐車場にあった図の1つをパクリます。
図の黒い線が車道で、茶色い線が遊歩道、水色の線が堀です。
こうやって見ると、城域がかなり広いですネ!
何たって、島津伊作家ゆかりの城跡ですから恋の矢
この中で城の主郭は、中央から少しだけ西にある亀丸城です。
伊作城は山城ですが駐車場は城内にあり、険しい山登りはありません。

【写2】伊作城

まずは一番近くにある山ノ城を目指しました。
その山ノ城へ向かう道から振り返ってみた駐車場です。
曲輪の跡なのか、ガッツリ重機でやっちゃっただけのか・・・
位置的には麓から城内への侵入を防ぐための曲輪がありそうな所です。

【写3】伊作城

駐車場から山ノ城へ向かう遊歩道です。
歩きやすいのですが、あまりに真っすぐなのが気になります。

【写5】伊作城

最初の坂を登り切った所のすぐ脇には、こんな深い谷があります。
自然地形っぽいですが、もしかして掘っちゃったんでしょうか?
シラスなので、ある程度の加工はあったかもしれませんが。
上の図でここはしっかり水色なので、堀ということなのでしょう。
攻め上がる兵がこんな道を進まされると、守る方は敵を突き落とすだけでいいですね。

【写6】伊作城

最初に山登りは無いと書きましたが、山ノ城はその名の通りちょっとだけ登りますあせる

【写7】伊作城

坂道を登り切った所に、まとまった広さの曲輪があります。
ここが山ノ城かと思いましたが、案内は何も無し。
さらに奥へと道は続きます。
どうやらここはダミーの曲輪のようですね!

【写8】伊作城

上の曲輪の先でいったん下り道になりますが、その先にあるのがコレです。
幅10メートル、深さは5メートル程の堀切です。
ダミー曲輪から1列で下って来る敵を、対岸の曲輪から狙い撃ちする場所でしょうか。
・・・さっきから妄想モードが全開になっていましたあせる

【写9】伊作城

堀切の反対側に登った所からの眺めです。
虎口っぽく見えましたが、切り口がどうも後世っぽいですね・・・
薩摩式であれば、堀切から崖っぷちを回り込ませるのが正解のように思えます。
そっちの方はよく見てないので、道があったかどうかは?ですがあせる
山ノ城は山城らしい仕掛けが満載で、見応えがありました。
ただ、当日は16時到着で日没が近かったこともあり、山ノ城は堀切の所で泣く泣くUターンです。

【写10】伊作城

次に見たのは蔵之城跡です。
駐車場から舗装道を奥に進むと、右にカーブする所に入口があります。
わかるやすくするため〇印を付けましたが、心霊写真っぽくも見えますねあせる

【写11】伊作城

〇印を付けた所です。
紙製の案内が付いています。

【写12】伊作城

メジャーな城跡だけあって、遊歩道は充実していますね!

【写13】伊作城

・・・と言う間に曲輪に着きました。
先ほど山ノ城を見て来たので、こうもアッサリ着くと拍子抜けします。
ここは平坦に馴らされただけの平坦地で、土塁などの構築物は見当たりませんでした。

【写14】伊作城

一番奥に進むと、老朽化した木の橋がありました。
この橋の向こう側が、主郭である亀丸城です。
今こうやって見ると、橋の左脇をすり抜けられそうですが・・・
亀丸城へは元来た道を戻り、ちゃんと回り込んで行きましたあせる

【写15】伊作城

T字路を駐車場から見て奥へ進んだ右脇に、亀丸城への入口があります。
蔵之城と亀丸城の間が堀切になっていますが、道からは登り坂になっています。
そこにある案内図です。
さすがに主郭の亀丸城には色々と賑やかそうです。
すぐ右脇には、さっき渡れなかった木橋が見えています。

【写16】伊作城

堀切から亀丸城へと入る道です。
亀丸城はこの階段を登り切ってすぐです。

【写17】伊作城

亀丸城です。
さすが主郭だけあって、綺麗に平らに馴らされて広さも十分です。
奥の方に石碑がいっぱい並んでいますネラブラブ

【写20】伊作城

石碑はちょっと上の図にある通りの並びです。

【写18】伊作城

その中で目立つ石碑が2つあります。
こちらは亀丸城の城址碑です。
郭単体での城址碑というのは珍しいですね。

【写19】伊作城

もう1つの目立つ石碑は「日新公御誕生地」と彫られています。
日新公とは島津忠良のことで、島津貴久の父親です。
島津宗家と薩州家の争いに絡み、最終的に勝ち残ったのが伊作家の島津忠良です。
その礎を築いたという意味で、傑出した人物だったのでしょう。

【写21】伊作城

石碑の後ろには、横一線に土塁があります。
セオリー通りこの後ろには堀切があり、その向こう側が御仮屋城です。
今回は日没が迫っていたためここで切り上げましたが、時間があればフルに見たい所でした。


◆歴史◆

島津伊作家の本拠地でした。

島津伊作家は、島津家3代目・島津久経の三男・島津久長を祖とします。
島津久長は鎌倉時代末から室町時代はじめの人物で、元の襲来に備え博多を守っていました。
1284年に父・島津久経が没した後に博多から薩摩に移り、この時に亀丸城を築いたとされます。
島津久長の家系は代々伊作を本拠としたことから、伊作家と呼ばれるようになります。

1346年、南朝方の伊集院忠国に攻められました。

2代目の島津宗久は、宗家の島津貞久とともに足利尊氏に従いました。
足利尊氏が九州に落ち延びた時や、京都奪還の際に活躍しました。
その後、薩摩で南朝方が優勢になると薩摩に戻り、伊集院忠国と戦いました。
野戦では伊集院軍に敗れたものの、伊作城に籠城して凌ぎました。

4代目の島津久義は、島津奥州家と総州家の争いに巻き込まれました。

1400年代はじめ頃、奥州家の島津元久と総州家の島津伊久が争いました。
元は島津伊久の親子喧嘩で、父の島津伊久が奥州家に加勢を頼んだことに端を発します。
なぜかというと、島津伊久は加勢の見返りに、島津宗家の家督と守護職を与えたからです。
よっぽど子に継がせたくなかったんですね・・・w

と、長くなりそうなのではしょりますあせる

伊作家の島津久義は、奥州家の島津元久に味方しました。
島津元久には家督を継ぐ子がいなかったため、没後にやっぱり争いが起きました。
争ったのは島津元久の娘婿である伊集院頼久と、島津元久の弟・島津久豊です。
島津久義は伊集院頼久に味方しましたが、のちに伊集院頼久とともに島津久豊に降伏しました。

1422年、伊作家でクーデターが起きました。

島津久義の弟・十忠が兄を殺し、伊作家の家督乗っ取りを図りました。
島津久義の子・勝久は、島津久豊の命令で総州家の木牟礼城を攻めていました。
島津久義の嫡孫・教久は家臣に守られ、亀丸城に籠城して抵抗しました。
ところが、島津久豊は島津十忠を支持し、援軍を出しませんでした。
伊作家ゆかりの豪族や家臣達が命乞いをし、島津勝久を肥後へ追放することで決着しました。

ちなみに、島津久豊に攻められていた総州家の島津守久と久林も肥後へ逃れています。
亡命先で鉢合わせにならなかったか、余計な心配をしてしまいましたあせる

1433年、島津教久が家督を継ぎました。

伊作家を乗っ取った島津十忠ですが、後に島津久豊の怒りに触れ行方知れずとなりました。
それがいつ何をしたからなのかは、いくらググっても出て来ませんでしたが・・・
11年前に家臣に守られて亀丸城に籠城した島津教久の復帰が許され、家督を継ぎました。

1459年、島津奥州家から来た島津久逸が家督を継ぎました。

島津教久が没すると、その子・犬安丸がわずか1歳で家督を継ぎました。
しかし、1459年に伊集院諏訪神社の祭礼に出席後、急死してしまいました。
毒殺説もある程ですが、そこは記録に無いのか抹消されたのか、謎に包まれたままです。
伊作には、島津奥州家(宗家)島津忠国の三男・島津久逸が入り、伊作家の名跡を継ぎました。

この頃の島津奥州家は、かなりグダグダでした。
島津忠国は人望が無く、相次ぐ謀反は弟の島津用久に任せて自身は隠居していました。
島津用久が発給した文書には守護と書かれており、守護職を譲られていたようです。
しかし、謀反がひと通り落ち着くと島津忠国は復帰し、やはりというか、弟ともめ始めました。
最終的に弟に出水を与えて兄弟喧嘩は落ち着きましたが、今度は家臣や一族が騒ぎ始めます。
そして、嫡男・島津立久がクーデターを起こし、島津忠国は蟄居を余儀なくされました。
このクーデターがあったのが1459年です。
その後の島津久逸の行動から、伊作家の家督相続は島津立久が黒幕だったのかもしれません。
島津犬安丸が島津忠国側だという前提があれば、ですがあせる

島津久逸は島津宗家と争いました。

兄で当主の島津立久との兄弟仲は良かったようです。
その兄の命令により、島津久逸は日向国櫛間(現在の串間)へ移りました。
しかし、島津立久が没すると、島津家中は再びグチャグチャとなりました。
島津逸久と不仲だった飫肥の新納忠続は、島津久逸を伊作へ戻すよう島津忠昌に訴えました。
島津忠昌があっさり認めると、島津久逸は伊東氏・大友氏を味方にして叛旗を翻しました。
島津久逸らの連合軍は、一時は守護の島津忠昌の清水城を落城寸前まで追い詰めました。
しかし、その後一族の援軍を得た島津忠昌が盛り返し、最終的に島津久逸は伊作へ戻りました。
1484年の出来事でした。

1494年、島津久逸の嫡男・島津善久が、馬丁に殺されました。

すでに相当長くなってきたので、以下ザックリで行きますあせる

1500年、島津久逸が戦死。島津善久の未亡人・常盤が当主となる。
1501年、常盤が南の田布施領主・相州家の島津運久と再婚。
1506年、島津善久の遺児・菊三郎が元服し、島津忠良となって伊作家を継ぐ
1512年、常盤再婚時の約束通り、島津忠良が相州家の家督・領地を継ぐ
1526年、宗家の島津忠兼が薩州家の島津実久と対立。島津忠良の子・貴久を養子とする。
1527年、4月 島津忠兼は隠居して伊作城入りし、島津貴久が宗家の家督と守護職を継ぐ。
1527年、5月 島津忠兼が家督と守護職を返せと言い出す。
1527年、6月 島津実久が挙兵。島津貴久は田布施へ逃れ、島津忠兼が復帰。
1527年、7月 島津忠良が伊作城を奪還し入城。
1533年、島津忠良・貴久父子が反撃を開始し、南郷城を攻略。
1534年、島津実久が鹿児島を占領し、島津勝久は帖佐へ逃れる。
1539年、島津勝久は再び島津忠良を頼り和解。島津貴久が鹿児島へ復帰。

色々あり過ぎて、いつも通り書くと大変な事になりそうですあせる
面白いんですけどね・・・w

1545年、島津貴久は本拠を一宇治城へ移しました。

鹿児島に復帰した島津貴久は、再び対立した島津勝久を追放し、宗家を継ぎました。
薩摩の大半を治めたのは島津貴久でしたが、正式な守護は島津実久のままでした。
島津貴久が正式に守護として認められたのは、島津実久が没した1553年の事でした。
その後の島津家は三州を統一後、一気に領地を拡大しました。

伊作城にはその後も城番が置かれ、廃城後も特別な地であり続けました。


所在地:鹿児島県日置市吹上町麓

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