なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
二福城は遺構は無く、市街地の子安観音に城址碑があるだけです。
訪問日は2015年12月30日です。

【写1】二福城

二福城の城址碑は、市街地のかなり入り組んだ所にあります。
なかなか見つけられず、ちょっと諦めかけた時にようやく見つけました。
しかし、道が細くなかなか車を停められず・・・
仕方なく付近の道幅が広い所に路駐し、ダッシュで写真を撮りました。

【写2】二福城

ダッシュとはいえ、慌てないのがミソです。
ちゃんと裏側も見て来ました。
この辺り、日頃の「急ぐけど慌てない」が役に立ってる感じです。
一体どんな日常を送っているのやら・・・w
城址碑の裏側二面にわたって、二福城についての説明が彫られています。


◆歴史◆

薩摩氏が築きました

建久年間(1190~98年の間)に薩摩郡司・薩摩忠友により築かれたとされます。
薩摩氏は九州追捕使を務めた伊佐平次の子孫です。
伊佐平次の子孫は「伊佐平氏」と呼ばれ、薩摩各地を支配していました。
鎌倉時代になり地頭が配置されると、領地を巡って激しく争うようになります。

南北朝時代に島津総州家の城になりました。

1339年頃に島津貞久が碇山城を築き、守護所を木牟礼城から移しました。
島津氏は北朝方であり、南朝方の伊佐平氏と争っていました。
これらの状況から、この時期に薩摩氏が領地を奪われたものと思われます。

1421年、入来院氏の城になりました。

南北朝時代の島津氏は、九州探題の今川了俊と争っていました。
しかし、今川了俊が失脚し遠江へ帰ると、島津家中は真っ二つに割れて争い始めます。
争ったのは島津総州家の伊久と奥州家の元久です。
元々は薩摩守護・島津総州家内の親子喧嘩が発端だったのですが・・・
書き始めるとゼッタイ長くなるので、気になる方はググって下さいw

1419年、奥州家・島津久豊が、総州家・島津忠朝の永利城を攻め落としました。
島津久豊は島津元久の弟で、島津忠朝は島津伊久の次男です。
・・・たった一行で「島津」が4回も出て来るぐらいに関係がグチャグチャですあせる
居城を奪われた島津忠朝は、二福城に移り抵抗し続けました。
しかし、その2年後にも攻められた島津忠朝は、島津久豊に降伏しました。
島津忠朝の領地は、島津久豊に協力した入来院重長に与えらえました。

1570年、島津家久の城になりました。

戦国時代を通じて、入来院氏ら渋谷一族は島津氏と互角に争っていました。
しかし、島津義久の代になると島津氏が優勢となり、蒲生氏や菱刈氏等を屈服させました。
入来院重嗣は東郷重尚と連携して島津義久と争っていましたが・・・
連携していた蒲生氏、菱刈氏らが東から順に滅ぼされると、自ら島津義久に降伏しました。
この時に入来院氏、東郷氏は領地の大半を没収され、隈之城は島津氏の領地になりました。
隈之城は島津義久の弟・家久が地頭となり、二福城を拠点としました。

1615年、一国一城令により廃城となりました。

島津家久は1587年に日向国佐土原で、豊臣軍に降伏した直後に急死しました。
暗殺説もありますが、降伏前から病を患っていたそうです。
そうなると、隈之城は島津家久の子が継いだのかと思いましたが・・・
嫡男の島津豊久をググると、父の領地である佐土原を継いだと書かれていました。
ということで、島津家久が没した後の隈之城を誰が支配していたのか???です。

頑張ってググると、隈之城地頭として北郷宗二郎の名が出て来ました。
どのような人物だったのはか?ですあせる
北郷氏でググってみると、1595年に北郷三久が三股から平佐へ移されていました。
平佐はすぐ北なので、この時に一族の北郷宗二郎が隈之城の地頭になったものと思われます。
隈之城はその後島津家直轄領となり、薩摩川内市街の向田に地頭仮屋が置かれました。


所在地:鹿児島県薩摩川内市隈之城町(子安観音)

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