なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
大口城はよく「大口小学校の裏山」と紹介されている山城跡です。
訪問日は2015年12月29日です。

整備されていない山城跡へ行くとき、毎回「どこから登るんだろう?」と悩みます。
その悩んでる時間がまた「楽しい音譜」と感じます。
鉄オタが時刻表の数字の羅列を眺めてニヤニヤしてるのと同じです!たぶん
時刻表を眺めていれば、何時何分にどこってゴールに辿り着けますが・・・
まぁ、楽しみって人それぞれだからいいんです!

【写1】大口城

そんな感じで諸兄のサイトを拝見していましたが、ほぼ皆様小学校から登られていました。
しかし、私が訪問するのは、公務員様が法律で休むと定められた年末年始。
「たまたま居た先生に許可をもらって登る」なんて、ちょっと期待出来ない日です。

【写2】大口城

それでもなんとか登りたいと、今度は国土地理院様の地図をジッと眺めます。
城跡の山にたま~に点線描かれていることもありますので。
すると、数か所から城跡の山に入る点線が描かれていたような気がします。

【写3】大口城

独り言を書いている内に写真が数枚進みましたが、私は小学校の反対側から登りました。
結果論ですが、まともな登城路はこのブログを下から上へ読んで下さいあせる
この辺りの写真はやっちまった感タップリの「道無き直登絵日記」です。

【写4】大口城

国土地理院様の地図では、山の東や北東に点線が描かれていました。
そのため、山の北東から民家の合間の道を通って斜面に取りつき、そのまま勢いで直登。
そして、山の上に出られそうラブラブな風景がココです。
・・・あっという間に写真4枚分の解説終了ですw

【写5】大口城

そうして辿り着いた所にあったのがコレ。
「キケン」の反対側から登って来たのでしたあせるあせるあせる
これはUターンする方が危険ですよね?ということで、ここからまともな道となります。
ココは城跡の北端部に当たる場所です。

【写6】大口城

山上は南北にまっすぐ一本の道が通っています。
その脇には土塁が!

【写7】大口城

ひたすらこんな感じで道の両側が高くなっています。

【写8】大口城

Wikipediaには「空堀や土塁が多少見受けられるのみ」なんて書かれています。
今思ったのですが、これって堀底道でしょうか。

【写9】大口城

途中、右(西)へ下る道があり、そちらが小学校に通じているようです。
そのままずっと南へ進むと、左(東)に秋葉神社のある高台があります。

【写10】大口城

ずっとまっすぐな道で飽きていたので、もちろん登りました。
「神社」とは言っても、小さな祠があるだけです。

【写11】大口城

回れ右をして見える風景がこれです。
城内でも高い所なので、物見台があったんでしょうね!

【写12】大口城

さらに南へ進むと、今度は「展望場」の案内が。
・・・物見台はきっとこっちですねあせる

【写13】大口城

その途中に全く案内等は無いのですが、堀切があります。
せめてここだけでもきれいにしてくれると嬉しいのですが。

【写14】大口城

そして展望場です。

【写15】大口城

南北にまっすぐな道も間もなく終わり、「木之手自治会へ至る」の案内が現れます。
ここからは左(東)へ下る道に変わります。

【写16】大口城

ちゃんと麓から登ってくる「道」があったんですね・・・

【写17】大口城

その山道の入口がココで

【写18】大口城

その入口の入口がココです。
目印は「秋葉神社」の案内です。

【写19】大口城

その入口の入口近くに山上水天神社と木之手公民館があります。
ここにクルマを停めて秋葉神社へ向かえば、大口城跡を堪能できます。
いつもとは趣向を変え、結論を最後に持ってきてみました。
下の地図には公民館から秋葉神社までのルートを赤線で入れています。


◆歴史◆

1158年、平元衡により築かれたとされます。

保元の乱に勝利した平家が、一族を薩摩に配置したものと思われます。
平元衡は平信基の四男です。
平信基は平清盛の正室・時子の従兄弟で、一門の有力者として出世した人物です。
牛屎院と祁答院を領有した平元衡の子孫は、地名をとって牛屎姓を名乗るようになります。
「牛屎」の読み方には「うしくそ」「ねばり」の他にも諸説あり、ハッキリしません。

戦国時代に菱刈氏の城となりました。

牛屎氏がいつまで大口城の城主だったのか、ググってもパッとした成果なし。
1530年より前だと思われますが、牛屎越後守が日向国飯野へ移った事が何とかわかりました。
当時の飯野の領主は北原氏で、相良氏や菱刈氏と争っていました。
大口城を支配下に収めた菱刈氏は、相良氏とはツーカーでした。

菱刈重州が大口城を奪った1530年は、島津羽州家の島津忠明が城主でした。
その島津忠明は、島津奥州家の島津忠昌に従っていました。
この辺りでは、島津氏、相良氏、伊東氏が激しく争っていたようです。
牛屎越後守が頼った北原氏は、この頃は独立勢力でしたが、後に島津氏に従いました。

大口城を得た菱刈重州は、祁答院氏や東郷氏、蒲生氏らとともに島津氏と争いました。
しかし、次第に島津貴久・義久の勢いが増し、菱刈氏は劣勢となります。
1556年には島津軍に攻められた蒲生城救援に向かい、当主の菱刈重猛が自刃。
1569年には菱刈重州の弟・菱刈隆秋が島津軍に攻められ、大口城も落城しました。
菱刈重猛の子・重広は島津義久に降伏したものの、反抗姿勢は改まらなかったと伝わります。

島津家の城となり、麓は明治時代まで存続しました。

菱刈氏から奪った大口は、島津家屈指の武将・新納忠元の領地となりました。
新納忠元は、島津家の武功者数え上げる際にまず名が挙がるんだそうです。
ちなみに新納忠元が城主だった頃に「大口」という地名に改められたそうです。
それまでは「牛屎院」や「牛山院」と呼ばれていました。

新納忠元の没後は島津家の直轄地となり、大口小学校の所に地頭仮屋が置かれました。
大口麓は明治維新まで存続しました。


所在地:鹿児島県伊佐市大口里

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