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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
清色城はザックリがかなりスゴイ城跡です。
訪問日は2015年12月29日です。

【写1】清色城

最初に目指すのは、駐車場のある入来小学校です。
ここは江戸時代に入来麓の地頭仮屋があった所でもあります。
左側に見える城址碑は「清色城跡」ですけどw

【図】清色城

案内板に描かれている縄張図を早速パクります。
★の「ココ」は、ここではなく登城口ですあせる
道が分かりづらいので、線入れました。

城域はかなり広く、平坦面は77か所もあるそうです。
その中で曲輪とされるのが16か所で、名前が伝わっているのが6か所です。
これだけ広大な城跡ですが、説明板によると「中規模」なんだそうです。
図に入れた線が遊歩道で、公に見て回れる範囲は限られています。

【写2】清色城

仮屋時代のままなのでしょうか。
小学校の正門にしては立派過ぎます。
この高低差が威圧感を感じさせます。
石段の上に見える門は、仮屋門でしょうか。

【写3】清色城

上2枚の写真では角度が浅くて見えませんが、城塁の前には水路があります。
これは堀跡でしょうか?
それにしては浅くて狭い、飾りのような感じです。
本来は、駐車場の幅いっぱいあったのかもしれません。

【写4】清色城

城跡へは小学校の脇の道を通って行きます。
登城口付近には車を停められる所はありません。
小学校前が正式な駐車場で、登城口までは徒歩3分程で着きます。
こんな距離なら、狭い路地に無理やり路駐する必要ありませんよね?

【写5】清色城

上の写真で路地の奥に見えていた登城口です。
立派な案内図があります合格
背後に既にスゴイのが見えちゃってますが、後ほどゆっくり。

【写6】清色城

さて、2つ上の登城口の写真で背後に写っていた城跡の入口です。
シラスを豪快に削った堀跡が左右に並んでいます恋の矢

【写7】清色城

どっちに進もうか迷いますが、とりあえず右へ。
深く掘り込まれた細い道が続きます。
攻め込んだ兵は垂直の壁を登れませんから、ここを通らざるを得ません。
城を守る兵は、上から敵を狙い撃ち出来ますネ!

【写8】清色城

松尾城の入口です。
矢印入りの案内はありますが、その通路は虎ロープで通せんぼされています。
奥の方を覗き込むと、倒木が重なりかなり荒れた感じがします。
この程度なら普段から通ってますけどね・・・w
しかし、「ダメ」という所には行きません。

【写9】清色城

とりあえず、規制線のない通れる道をズンズン進みます。
城内はだいたいこんな感じで、堀底が通路となっています。
鹿児島って、こういうお城が多いですね♪

【写10】清色城

道が分かれる所は、深い堀が合流する所でもあります。
こういう風景、城キチにはたまりませんよね?

【写11】清色城

とりあえず、もうすぐ日が暮れる時間帯なので、まずは本丸を目指します。
この囲まれた感じの所、本丸への入口となっています。
ここはその入口で、門があったように見えます。

【写12】清色城

本丸へは、両側を高い城壁に囲まれた坂を登らされます。
枡形虎口と坂虎口を足した感じしょうか。
守りが堅いですね!

【写13】清色城

登り切った所が本丸です。
かなり広い平坦地です。
上は平らなだけで、特に造作はありません。

【写14】清色城

とりあえず本丸を見たので、別ルートから外へ。
あちこち見ても変化に乏しそうだったので。
それでも、こういう豪快な堀は大好きですラブラブ


◆歴史◆

鎌倉時代から明治時代まで、入来院氏の本拠地でした。

1247年に鎌倉であった宝治合戦の恩賞として、渋谷光重が薩摩の地頭職に任命されました。
渋谷光重は次男以下5人の息子を薩摩に下向させ、5男・定心が入来院氏の祖となりました。
以来、明治維新に至るまで、清色が入来院氏の本拠となっています。

清色城でググると、歴史はだいたいこんな感じです。
600年も続いたお城が戦の舞台になっていないハズがない!
ということで、ちょっと頑張ったらいくつか出て来ました。
なるべくザックリまとめますあせる

1397年、入来院重頼が島津元久に降伏しました。

この当時は、島津氏が今川了俊と対立していました。
渋谷氏五家は今川了俊に味方し、島津氏と互角に争っていました。
しかし、1395年に今川了俊が失脚すると、島津氏が優勢となります。
1397年には島津元久が清色城を包囲し、入来院重頼が降伏。
入来院重頼は領地を失い、同族の鶴田氏を頼って落ち延びました。
その鶴田氏が島津元久に味方して1401年に没落し、菱刈氏を頼って落ち延びました。
島津元久と戦った島津伊久により、入来院重頼に鶴田の地が与えられました。

1410年、入来院重頼が清色城に復帰しました。

島津元久が清色城を拠点にして、島津伊久の孫・久世の守る碇山城を攻めました。
しかし、この城攻めの最中に島津元久は病に伏し、間もなく世を去りました。
島津元久には跡を継ぐ子がいなかったため、弟と娘婿が後継争いを始めました。
このため、入来院重頼は清色城を奪還することが出来ました。

その後の入来院氏は、総州家→奥州家→伊作家と同盟相手を変えました。
1520~30年代の入来院氏は、伊作家の島津忠良・島津貴久父子と蜜月関係でした。
入来院重聡の娘は島津貴久に嫁いており、島津義久、義弘、歳久らを生んでいます。

しかし、1544年に入来院重朝に謀反の噂が広がり、これを機に両者は袂を分かちます。
以後、入来院氏は祁答院氏、東郷氏や菱刈氏、蒲生氏らとともに島津家と争いました。

1570年、入来院重嗣が島津義久に降伏しました。

島津貴久の跡を継いだ島津義久は、周辺の勢力を次々に撃破して勢力を拡大しました。
1554年に岩剣城で初陣を飾ると、1557年に蒲生氏、1569年には菱刈氏を滅ぼしました。
入来院重嗣は、ともに抵抗していた東郷重尚を説得し、島津義久に降伏しました。
両氏は領地の殆どを没収されましたが、それぞれ本貫地だけは安堵されました。

1595年、入来院重豊が大隅国湯之尾郷に移されました。

豊臣秀吉の征伐を受けた後、島津家では和平派だった伊集院忠棟が台頭しました。
その伊集院忠棟が中心になって、1595年に大規模な領地替えがありました。
この時、入来院重豊は本貫地を離れ、大隅の湯之尾(大口の南側)へ移されました。
清色は島津家の直轄地となりました。

1613年、入来院重高が清色の地頭に復帰しました。

入来院重高は島津薩州家の出身で、最後の当主・島津忠辰の弟です。
島津忠辰が改易された後は小西行長の預けられていましたが、後に薩摩に復帰。
朝鮮半島や関ケ原では島津義弘とともに戦いました。
その功で頴娃の地を与えられると、頴娃久秀と名を改めました。
1605年に島津家久の上洛に従った際、入来院氏の娘婿になるよう命じられました。
この時に入来院重国と名を改めています。
そして、1613年に入来院氏の本貫地である清色に移され、名を入来院重高に改めました。

清色城の廃城がいつなのかは、サイト様により異なっています。
早い所から1595年、1613年、1615年とマチマチです。
麓が置かれているので、1615年以前であることは確実でしょうけど。


所在地:鹿児島県薩摩川内市入来町浦之名

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