なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
大村城は大軣小学校の裏山にありました。
訪問日は2015年12月29日です。

【写1】大村城

城跡へ行くには、大軣小学校を目印にします。
校舎のすぐ脇は、誰でも車を停められる感じの広い駐車場になっています。
これだけ垣根の無い小学校というのも、今の御時世では珍しいです。

しかし、地図見て驚いたのは、ここ薩摩川内市なんですね。
しかも、姶良市がすぐ東隣だなんて、平成の大合併おそるべし!

・・・ツッコミ所はそこじゃありませんね?
目印にしている小学校の名前、たぶん地元の方じゃないと読めません。
私も調べようとして「大●小学校」でググったら出て来ましたw
読み方は「だいごう」なのだそうです。
「軣」は「轟」の俗字だとか。

【写2】大村城

早速、裏山めがけて突入です!
辺りを見渡せば、すぐに山へ通じる道が見つかります。

【写3】大村城

そうやって山へ向かって一直線に進むと、山に入る所に標柱があります合格
ヤブ城ばかり訪ねていると、たまにあるこういうのに癒されます音譜

【写4】大村城

山中へ入って間もなく、こんな感じの所に出ます。
両側から迫る土の壁は、迫力満点!
右側はすぐ小学校なので、馬だしの土塁代わりでしょうか?
それにしてもよく掘りましたね恋の矢

【写5】大村城

挨拶代わりの大きな堀に興奮しつつ、ズンズン突き進んだ突き当りがここです。
突き進んだなんて書いていますが、写真の時間を見ると、小学校から3分後の風景です。
道はココで終わり、ここから先はガッツリ竹藪となります。

多少草が濃いヤブなら、真冬だからと掻き分けます。
そんな覚悟でココを訪ねたのですが、想像していたのとは違って放置された竹藪でした、
竹がビッシリ倒れた竹藪ほど、歩きづらいものはありません。

【写6】大村城

それでも、期待が大きかった所なので、ちょっとだけ頑張りました。
ほんの10メートル程ですがあせる
辛うじて登り切った所の堀切だけは捉えました。

【写7】大村城

その脇にあった廃れた建物には「立入禁止」の板が。
板の傾きが、施設の廃れっぷりを物語っています。
わざわざ立入禁止にしなくても、こんな所まで来るのは城キチぐらいですあせる
しかし、この施設って稼働しているのでしょうか?w

【写8】大村城

ヤブ搔きは、入口だけ頑張れば道が通じる事もよくありますが・・・
周りを見渡してもこんな感じで、どこかへ進めそうな気配はありませんでした。

ちなみに、ここが2郭の跡地で、主郭は東側の竹藪の奥です。
今更ながら、大村城の縄張図の写真をネットで見つけましたあせる
この図を行く前に見つけていれば、荒れた竹藪の中を歩いたかもしれません。


◆歴史◆

大前氏により平安時代に築かれました。

大前(おおくま)氏は祁答院の郡司で、祁答院を中心に栄えた在地土豪です。
大村城周辺が旧・祁答院町の中心地だったそうで、大昔から栄えていたんですね!
ハッキリとした築城年代は特定されていませんが、1142年以前だとされています。

1190年、滝聞道房の居城となりました。

滝聞道房は、元々は南東の滝聞城を居城としていました。
源平合戦の頃なので、源氏寄りの大前一族が生き残ったという事でしょうか。
滝聞道房の子孫はのち、地名をとって大村姓を名乗るようになります。

1336年、吉岡将重に攻められ落城しました。

鎌倉時代になると、全国各地に地頭が配置されました。
ちゃんと調べるまでは、荘園と地頭が同じ土地を二重支配していたと思っていました。
当初はそうではなく、源氏方の領地と平家滅亡で空いた土地に置かれたようです。
薩摩には相模の渋谷氏が、かなり広大な領地を治める地頭に任命されました。
実際に下向して来たのは、北条得宗家による有力御家人粛清の頃となりますが・・・
しかし、時間が経つにつれて領地を接する渋谷氏と大前氏は争うようになりました。
両者の争いの経過などは不詳ですが、最終的には大前氏がいつの間にか滅んでいます。

その一局面だと思いますが、大前一族の大村城が、渋谷一族の祁答院氏に攻められました。
その結果、城主・大前太郎は滝聞城へ退き、祁答院氏庶流の吉岡将重が城主となりました。

1357年、島津氏久に攻められ落城しました。

南北朝時代には、室町幕府(北朝)と朝廷(南朝)が争っていました。
祁答院氏ら渋谷一族は南朝に味方し、北朝方の島津氏久と戦いました。
島津氏久は日向の畠山直顕と争う中で、一時的に南朝に味方したこともありますがw
城主は祁答院一族の吉岡将重でしたが、島津氏久の軍勢に討たれました。
島津家臣の平田親宗または本田氏が城主になったとされます。

1380年頃、祁答院氏の城になっていました。

経緯はサッパリ?ですが、この頃に祁答院重茂の次男・重義が城主となっています。
この頃は島津氏久が今川了俊との争いで、北朝方になったり南朝方になったりします。
ということで、離合集散が激しく繰り返された中で、島津氏から返されたのでしょうか?
祁答院重義は大村姓を名乗るようになります。

1485年、祁答院本家が大村城を攻めました。

この頃の薩摩では、島津宗家の力が衰えて分家が勢力争いをしていました。
渋谷一族も島津家と激しく対立し、文明の大合戦と呼ばれる大きな戦がありました。
詳細はサッパリ?ですが祁答院重慶が大村城を攻め、領地に加えています。
帖佐の島津忠廉が大村氏を滅ぼし、祁答院氏が大村を奪還したのでしょうか?
それとも、複雑に絡み合う情勢に、大村氏は祁答院本家と袂を分かったのでしょうか?
だいたいどこも結果しか書かれていないので、追いかけようもないですあせる

祁答院氏が没落し、領地が入来院氏に譲渡されました。

1566年、祁答院良重が妻に殺され、領地経営が困難となりました。
そのため、祁答院家重臣の合議により、領地は入来院重嗣に譲渡されました。

1570年、入来院重嗣が島津義久に降伏しました。

入来院氏をはじめ、渋谷一族は島津家と抗争を続けていました。
しかし、島津義久が次々と敵対勢力を駆逐し、1569年には菱刈氏を滅ぼしました。
隣接する同盟者を失い、入来院重嗣は東郷重尚を説いて、ともに島津義久に降伏しました。
島津義久は、両者の本貫地を残して領地を没収しています。

その後

祁答院は、島津歳久→北郷時久→島津忠長の領地となりました。
北郷時久の時に地名が「宮之城」と改められ、島津忠長の家系が明治まで治めました。
大村城は一国一城令で廃城となり、大軣小学校のある場所に地頭仮屋が置かれました。
寛政(1789~1801年の間)頃に、薩摩藩の直轄地となったようです。


所在地:鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手

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