なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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虎居城は、河川改修のため陸の孤島となりました。
訪問日は2015年12月29日です。

【写】虎居城

虎居城は、川内川が大きく蛇行している所にあります。
三方を川に囲まれた天然の要害です!
しかし、航空写真で見ると、お城の付け根でザックリぶった切られています。
これは推込分水路(しごめぶんすいろ)といって、大雨の時に水を逃がすための水路です。
普段はご覧の通り立入禁止となっており、付け根側からは見ることができません。
対岸の土手からは見えそうですがあせる

この地形ゆえに、城跡の対岸では昔からよく洪水があったそうです。
その洪水対策として鶴田ダムが1965年に建設されました。
しかし、想定を超える大雨により、1972年と2006年の二度洪水が起きました。
ダムはその都度スケールアップしたようですが・・・
2006年の雨量でも洪水にならないようにと新たに造られたのが、ここの推込分水路です。

計算上は分水路だけで水位が2m下がるのだとか。
対岸の土手も2mかさ上げされており、2006年の雨量でも1mの余裕が出来るそうです。
そのおかげでしょうか、2011年の完成以降に虎居では洪水が起きていません。

この分水路は普段は水が流れておらず、大雨の時にだけ水を逃がすようになっています。
というのも、この地形のおかげで鮎やホタルが数多く生息しているそうです。
・・・バリケードの脇を通った跡があるのは、鮎釣りの人達でしょうか?w

完全に掘り込んで流路を変えると、生態系への影響が大きいというからなんでしょうね。
とはいえ、この分水路により虎居城跡のかなりの部分が消えて無くなりました。
ググって見ると普段は立入禁止ですが、頻繁に見学会があるようです。
でも、城跡まで行く見学会は無いようですあせる


◆歴史◆

平安時代に大前氏により築かれたとされます。

大前氏は薩摩国の在国司で、東郷や祁答院を中心に栄えた在地土豪です。
鎌倉時代に周辺に渋谷氏が地頭として配置されると、次第に争うようになりました。

室町時代に渋谷氏が居城とするようになりました。

大前氏と渋谷一族の争いは詳細不明ですが、室町時代までには大前氏は滅びたようです。
その後に虎居城に入った渋谷一族が、祁答院姓を名乗るようになります。
祁答院氏は島津氏や他の渋谷一族と争いながら、勢力を拡大しました。
一時は大隅国帖佐にまで版図を拡げました。
しかし、1557年には盟友・蒲生範清が、島津貴久との戦に敗れました。
1566年には祁答院良重が妻に殺害され、祁答院氏は一気に没落しました。
領地の運営不能となったため、重臣達の合議により領地は入来院重嗣に譲渡されました。

1569年、島津氏の領地となりました。

入来院重嗣は、東郷重尚とともに島津貴久に抵抗を続けていました。
しかし、菱刈隆秋が島津義久に敗れて大口城を失うと、緩衝地帯が無くなりました。
そのためでしょうか、入来院重嗣は東郷重尚を説いて島津義久に降伏。
両氏は全領地を差し出して本貫地だけ安堵され、残りの領地は全て没収されました。

1580年、島津歳久が城主となりました。

入来院氏・東郷氏が降伏してからここまでの間が?ですが・・・
島津歳久が祁答院1万8千石を加増され、虎居城を居城とするようになります。

1592年、島津歳久が討伐されました。

1587年の九州征伐により、島津家は豊臣秀吉に降伏しました。
しかし、その後も島津歳久は事あるごとに反抗し続けていました。
それでも領地を召し上げられることは無かったようですが・・・

1592年、豊臣秀吉が朝鮮へ出兵するに当たり、島津歳久にも出陣の命令が来ました。
しかし、島津歳久は中風(脳出血による半身マヒ)を患っており、出陣を断りました。
これを謀反と捉えた豊臣秀吉は、兄の島津義久に島津歳久討伐を命じました。
直前にあった梅北一揆に、島津歳久の家臣が多く参加していたことも要因だったようです。
兄の軍勢に攻められた島津歳久は、竜ヶ水で自害しました。

この仕打ちを不服として、島津歳久の妻・悦窓夫人と娘・湯之尾が虎居城に籠城しました。
籠城戦は1ヶ月に及びましたが、島津義久の懐柔により和睦しました。
和睦の条件は、湯之尾の子・島津常久が大人になったら領地を返すという内容でした。
島津常久(当時4歳)は、1595年まで虎居城に居続けた後、日置へ移りました。

1595年、北郷時久が城主となりました。

島津家中で所領の大移動があり、北郷時久が都城から祁答院へ移って来ました。
北郷時久はこの時に都城を懐かしみ、地名を宮之城に改めています。
この大移動は豊臣秀吉を後ろ盾に権勢を奮った伊集院忠棟によるものとされます。
伊集院忠棟はこの時に、一気に8万石の大領主となりました。

1599年、伊集院忠棟が暗殺されたことで、子・忠真が反島津の兵を挙げました。
この乱(庄内の乱)は1年近く続き、徳川家康の仲介によりようやく鎮圧されました。
この時に島津軍として参戦した北郷氏の軍勢が大活躍しました。
その恩賞として、北郷氏は旧領の都城へ戻りました。

1600年、島津忠長が城主となりました。

北郷氏が都城へ戻ると、島津忠長が城主となりました。
島津忠長は、島津貴久の末弟の子です。
京で晒されていた従兄弟・島津歳久の首を奪還した人物です。
朝鮮半島では、僅か100の兵で1万の明軍を破る神業をやってのけました。
以後、島津忠長の家系が宮之城島津家として続きました。

江戸時代の宮之城は、盈進小学校の場所に地頭仮屋がありました。
そのため、一国一城令で虎居城は廃城になったものと思われます。


所在地:鹿児島県薩摩郡さつま町宮之城屋地

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