なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
梅君ヶ城跡には島津歳久を祀った平松神社があります。
訪問日は2015年12月29日です。

【写1】梅君ヶ城

梅君ヶ城跡には、道端に延びる石段を一直線に登る平松神社があります。
傾斜はそれ程キツクもないので、もしかしたら往時の登城路そのままかもしれません。
ただ、お城への道が一直線って、やっぱり無いですよね?あせる

【写2】梅君ヶ城

登り切った所には、かなり広い削平地があります。
さすがに、三州の盟主・島津義久の弟が居ただけあります。

【写3】梅君ヶ城

ということで、至る所に島津家の家紋があります恋の矢

【図】梅君ヶ城

来る前から気になっていましたが、地図では南側の小字が「城内」となっています。
平松神社はその外れにあり、南側の方が等高線的にもかなり広い平地がありそうです。

【写4】梅君ヶ城

それに、神社の前の道がこんな感じです。
道を通す時に崩したっぽいですが、堀切に見えなくもありません!

【写5】梅君ヶ城

ということで、反対側もちょっとだけ探索しました。
何かそれっぽいもの見つかればいいなと、少しだけ期待を込めて。
平松神社の真正面から山の中へと続く道があります。

【写6】梅君ヶ城

その道を進めるだけ進んだ所がココです。
地図で見るとここが一番高い所のようで、まとまった平地があります。
現状は軽い雑木林となっており、堀や土塁といった構築物は見当たりませんでした。
ただ、地名や地形などから、ここがお城の主要部だった可能性はありますよね?


◆歴史◆

1577年頃、島津歳久が梅を住まわせました。

1577年、島津義久は伊東義祐との決戦に勝ち、日向一国を奪いました。(伊東崩れ)
この時、島津歳久が佐土原で暮らしていた伊東権頭の未亡人・綱馬場を連れて帰りました。
綱馬場はココで暮らすこととなり、名を梅と改めました。

梅は新納忠堅の娘で、はじめは伊東権頭に嫁いでいました。
新納忠堅といっても???ですが、志布志で威勢を張った新納忠勝の子です。
新納忠勝は飫肥の島津豊州家、日向の伊東家、大隅の肝付家と争っていました。
どの勢力ともつるまず順調に勢力を拡大しましたが、周辺勢力が連合したため敗れ没落。
新納忠勝は領地を失い、佐土原の伊東氏を頼って落ち延びていました。

伊東氏の豊後への逃避行は苛烈を極めたそうで・・・
梅は逃げずに捕まり、そのまま連れて来られたんですね。

1580年、島津歳久が祁答院の領主となりました。

渋谷五家のうち、最後まで抵抗していた入来院氏、東郷氏が1570年に降伏しました。
その後、祁答院一帯1万8千石が島津歳久に与えられました。
それまでは吉田城の城主だったそうです。
島津歳久が祁答院を与えられる前から、梅は梅君ヶ城に居たとは考えにくく・・・
梅が梅君ヶ城に入ったのは、この時の可能性大ですね!
祁答院の領主となった島津歳久は、虎居城を居城としました。

島津歳久が居城とした?

梅君ヶ城をググると、「1587~92年頃、島津歳久の城だった」というのが多いです。
1587年といえば、豊臣秀吉に征伐された年です。
豊臣軍に対し、当初は島津四兄弟でただ一人、和睦派だったそうです。
しかし、いざ戦が始まると、四兄弟で最後まで抵抗したのが島津歳久でした。
豊臣軍が陣を移す際、自らの家臣を道案内に派遣してわざと険阻な道を進ませました。
そこで襲撃し、豊臣秀吉の駕籠に矢を射かけたりしています。
この策は事前に見破られており、駕籠には誰も乗っていませんでしたが・・・
とまぁこんな感じだったので、豊臣秀吉にはかなり嫌われました。

尚、豊臣軍がこの辺りに駐屯した際、豊臣秀吉の小姓が梅君ヶ城の屏風絵を盗みました。
絵が盗まれたことに気付いた島津歳久は、家臣に命じて豊臣秀吉に絵を返すよう訴えました。
これを聞いた豊臣秀吉は、絵を盗んだ小姓の指とともに絵を返したそうです。
小姓が居たのなら、豊臣秀吉もココに滞在した可能性が高いですね^^

九州征伐後、豊臣秀吉は島津義久・義弘・家久には朱印状を与えました。
しかし、四兄弟でただ一人、島津歳久にだけは朱印状を与えませんでした。
・・・つまり、所領を安堵していません。
なので、1587年以降は虎居城を追われ、ここを居城としたのかもしれません。

1592年、島津歳久が討伐されました。

島津家臣・梅北国兼が、朝鮮出兵でガラガラがった肥後・佐敷城を占領しました。
この事件により島津義弘は名護屋城への参陣が大幅に遅れ、大恥をかいています。
島津歳久にも朝鮮への出陣が命じられましたが・・・
病(中風)を理由に出陣を拒みました。
中風って何だろうとググると、脳出血による半身マヒだそうです。
半身マヒ状態で出陣って、普通に考えて無理ですよね?

ただ、直前にあった梅北国兼の乱に、島津歳久の家臣が多数加わっていました。
それ以前から豊臣秀吉に反抗的だったこともあり、島津義久に命じて討伐させました。
討伐を受けた島津歳久は自害を試みるも、体が動かず自害できませんでした。
最期は討伐兵もなかなか手を出せなかったのを「早く討て」と促したそうです。

梅はこの時に逃亡したとされ、以後の消息は不明です。
梅北国兼の乱では、乱の鎮圧後に妻が捕えられて名護屋城で火あぶりにされていました。
そのため、島津家全体で梅を匿ったものと思われます。

梅君ヶ城跡には現在、島津歳久と殉死した27名を祭神とする平松神社があります。


所在地:鹿児島県薩摩郡さつま町鶴田

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