なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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高隈城は、登城記はあるものの登城路が紹介されたことのないお城だと思います。
ということで、まずは登城路の紹介や案内等が無い(わかりにくい)お城から書いていきます。
訪問日は2016年12月31日です。

【写1】高隈城

高隈城でググって必ず出て来るのが、この説明板です。
国道沿いにあるので「城跡コノ辺だったよな」なんて思ってると気付きます。
ただ、ここから見えるどこが城跡なのか、どうやって行くのかは説明板には記載ナシ。
諸兄のサイトのピンポイント地図と地形から、どうやって行くのかを推察しました。

【写2】高隈城

説明板があるのは、こんな感じで上り車線の路肩が広くなっている所です。
左手前に緩く下る道があり、城跡へはこの道を通って行きます。
説明板が山を背にしており、そっちへ行く道といえばこの1本ですけどw

ただ、この道はとても狭いうえ、排水路が道のすぐ脇にあります。
登城口まで200メートルも無いので、車はココに停めて置くことをお勧めします。
この道は手前の住民の方が通ると思われるので、邪魔にならないよう停めましょう。

【写3】高隈城

細道を下って行くと、すぐに何かの入口っぽい所に行き当たります。
両脇に土が盛られ、その手前には堀っぽい溝が・・・
どう見てもお城の門があったとしか思えない造形です恋の矢

その先の道が悪そうなので降りて様子を見ると、道はここでオシマイでした。
そんな情報も全く無かったので、もっと奥まで道が続いていると思っていましたが・・・
先ほどの駐車帯からでも、歩いてすぐの距離でした。

【写4】高隈城

さて、城門っぽい所から中に入ると、何やら広い場所に出ました。
お城への道はどこだろう???と目を凝らしましたが・・・
ハッキリとは見えませんでしたが、2つほどそれっぽく見える箇所がありました。
1つは広場の左奥にある杉林、もう1つは真正面にある斜面です。
慣れない人が見ても、全く見えないと思いますけどあせる
これも情報が全く無い状態なので、どちらなのかは勘に賭けるしかありませんでした。

私が引いたのはハズレでしたが、皆様には正解の方を逆送りで紹介します。
・・・ということで、正解は広場の左奥です。(この写真の右奥にある杉林です。)
ただし、ハズレの方にも遺構はありますので、後ほど紹介します。

※下の地図の赤線が当たりルート、黒線がハズレルートです。

【写5】高隈城

ここがその左奥にある登城路の入口です。
草や笹でカムフラージュされていますが、私にはちゃんと見えました。
・・・選んだのは別のでしたけどあせる
これが遠くからでも道に見えた時点で、ちょっとアレですw

【写6】高隈城

入口の草を掻き分けると、10メートル程で草が薄くなります。
それでも沢山木が倒れていて通りにくかったですけど・・・
ハズレの方は完全にただの藪かきだったので、それに比べればまだまともな道です。

【写7】高隈城

数十メートル進むと、目の前にいきなりこんなのが現れます。
本当は真正面と左と右(これ)がドーンと壁のように立ち塞がっているのですが・・・
レンズの焦点距離の関係で収まり切らず、とりあえずこれだけ撮りました。
ここで道?は3つに分かれますが、右の断崖にそって細道を登ります。
この右側にある断崖の上が三郭、真正面の断崖の上が主郭、左側のが外郭です。

私はこっちから登ってたら、ゼッタイに迷ったと思います。
ここで分かれる3つの道は、登城口側から見るといずれも登りだからです。
しかも、案内等は一切ナシ。
左の出郭方向に延びる堀底の方が、よっぽどしっかりした道に見えます。
矢印を入れた三郭沿いの細道も、辛うじてうっすら見える程度の崖っぷち道です。

【写8】高隈城

さて、三郭沿いに細道を回り込むと、こんな光景に出くわします。
左側が主郭、右側が三郭の堀切です。
自然地形でしょうけどw
この「堀底道」を進むと、だんだん高さが増して行きます。

【写9】高隈城

堀底道が一番高くなった所で、右手前に三郭に入る虎口があります。
「虎口」と言っても、ハッキリ見えるものではなくただ「ここから入るんだろな」程度ですが。
三郭は特に造形もなく、断崖の上を平らに馴らしただけに見えます。
この辺りのお城の特徴かもしれませんが、回り込んだ所に入口があるだけです。

標柱には「松尾城」と書かれていますが、高隈城の別名です。
表に「高隈城」と説明板で書いておきながら、現地では「松尾城」ってどうなんでしょう?
とはいえ、事前に別名は知っていたので、私はダイジョーブでした。

直登ハズレコースからここに辿り着き、ようやく自分の居る位置が把握出来ました。
とはいえ、私が持っていた日本城郭体系の図でも一部混乱はありましたけどあせる
ここでハズレルートと合流です。
(ハズレルートは三郭の反対側から直登ですw)

【写10】高隈城

堀底道のピークは、城キチなら「土橋」と呼ぶ構造になっています。
ただ、この土橋を塞ぐように、大きな木が倒れて道を塞いでいました。
三郭側から撮ったのがこの写真ですが・・・

【写11】高隈城

この倒木を越えた側から撮ったのがこの写真です。
道を完全に塞いでいて超邪魔でしたが、城キチなら越えられるハズです。
・・・意外と障害物レースは得意なのかもしれませんあせる
私の場合は、この倒木の下を潜り抜けました。

【写12】高隈城

倒木の所から土橋の先を撮ったのがこの写真です。
堀切の底から直角にまた堀切が見えるなんて、夢のような光景ですラブラブ
この左側が主郭で、右側が二郭です。

【写13】高隈城

堀切の底によじ登った所から見える光景です。
堀切の底で真正面に土塁とはw
両サイドの郭へは、この土塁の手前から回り込みます。

【写14】高隈城

奥の土塁の所から堀切を振り返りました。
堀切好きにはたまらない景色です恋の矢

【写15】高隈城

堀切を挟んで、低い方が二郭です。
ここも奥へ回り込んだ所に、緩い坂だけの虎口があります。

【写16】高隈城

主郭も奥へ回り込むだけの虎口から入ります。
ただ、他の郭よりも断然広いです。
しかも、ここだけは外周の所々に低い土塁が残っています。



【写17】高隈城

さて、今度はハズレコースを紹介します。
私が登ったルートですけどw
ここが最初の広場で真正面に見えた光景です。

何も無いただの直登だったらわざわざ紹介しません。
こちらのルートにも、明らかに人の手が加えられた遺構が残っています。

【写18】高隈城

山に入っていくそれらしい道を上がると・・・
そこには山の斜面に沿って数段の平地が並んでいました。
ただ、上がっていく道が見当たらず・・・
そんな巨大な階段を、4、5段登りました。
この段が腰郭です。

【写19】高隈城

最後の腰郭に登ると、今度は正面に高さ3メートル程の土塁が横たわっていました。
向こう側が窪んだ様子が分かったので、これまた直登で土塁を乗り越えます。
そこには数十メートルにわたって横堀がありました。
(地図の茶色の太線です)
日本城郭体系の図を見ながら???になり、自分がどこにいるのか混乱しましたけどw

【写20】高隈城

何となくで左の方に進むと、この土橋にぶつかります。
土橋の両脇は郭と相場は決まってる?ので、まずは手前側に登ってみました。
途中虎口っぽくなった所もあり、上は20×10メートルほどで細長く削平されていました。
ここは日本城郭体系の図には全く描かれていません。(三郭の北側です)
位置が全く把握出来てなかったので、「図のどこだろう?」なんて首を捻りましたけど。

今度は土橋の反対側に渡り、またしても道なき斜面をよじ登りました。
そこにあったのが「松尾城三ノ丸」の標柱でした。
ここで初めて自分の位置が把握できて、無事主郭を攻略したのでした。

【イメージ】高隈城
ということで、大雑把なイメージはこんな感じです。


◆歴史◆

正平のはじめ頃(1346~)、楡井頼仲が築いたと考えられています。

楡井頼仲は信濃源氏ですが、なぜか室町時代初期は志布志の領主でした。
どういう経緯でこんな遠くに移ったのか、理由は今でも謎とされています。
ただ、自分の意志で進んで来た、というのは無さそうな気がしますけどw

さて、楡井頼仲は南北朝時代に大隅で活躍した南朝方の武将です。
遅くとも1336年頃までには志布志城を中心に活動していたようです。
今でも続いている志布志の大慈寺は、1340年に楡井頼仲が建立したお寺です。

楡井頼仲ははじめからバリバリの南朝方、という訳ではなかったようです。
1342年に征西将軍・懐良親王が薩摩に入った頃から、南朝方として活動を始めています。
この頃は北朝方の畠山直顕・島津貞久と南朝方の肝付氏ら在地土豪が争っていました。
楡井頼仲は大隅の大族・肝付兼重と協力し、北朝方と戦いました。

1349年、肝付兼重が病死しました。

大隅で南朝方を代表した重鎮・肝付兼重が病死しました。
肝付氏の家督は肝付秋兼が継ぎましたが、あまりパッとしなかったようです。
すると、楡井頼仲がこの地方の南朝方を代表する武将になりました。
楡井頼仲は元々は志布志に拠っていましたが、この頃から鹿屋にも勢力を拡大しました。

1351年、禰寝清種に攻められました。

禰寝氏は、大隅半島の南西部の南大隅町や錦江町辺りを本拠とする北朝方の勢力です。
もともとはどちらでもなかったようですが、足利尊氏の求めに応じたようです。
日向からは畠山軍、薩摩からは島津軍、大隅からは禰寝軍が楡井頼仲を攻めました。
1351年7月11日に、楡井頼仲は高隈城に立て籠もり、禰寝清種に攻められました。
この時の籠城戦は、あちこちで落城したとも守り切ったとも書かれていますが・・・
その後の状況は楡井軍が圧倒的に不利なので、おそらく落城したものと思われます。
楡井氏撤退後の城主はハッキリしませんが、以後の状況から畠山直顕が支配したと思われます。

楡井頼仲は弟の楡井頼重とともに奮闘しましたが・・・
1351年8月には、本拠の志布志城も陥落してしまいました。
その後、志布志の胡麻﨑城を奪って勢力を若干回復しました。
しかし、形勢が逆転することはなく、楡井頼仲は1357年正月に大慈寺で自害しました。
楡井頼重も翌2月に禰寝清増との戦いで討死し、南九州の楡井氏は滅びました。

その後の高隈

畠山直顕は、島津貞久と対立するようになりました。
島津貞久は元々日向の守護職も兼ねており、後から来た畠山直顕を快く思っていませんでした。
両者は1357年の内に激突して、島津軍が勝利し、畠山直顕は豊後へ後退しました。
志布志城には島津氏久、そのすぐ脇の松尾城に新納実久が入っています。
高隈城には島津氏久の家臣・田代以久が入りました。

新納氏が高隈を支配するようになったと思われます。

1458年、新納忠続は島津宗家の命令により、日向国飫肥に移されました。
1484年、新納忠続は島津久逸(伊作家)の勢力拡大を恐れ対立。
島津宗家とともに戦い、島津久逸は1486年に降伏しました。
戦後、飫肥には島津豊州家の島津忠廉が入り、新納忠続は志布志に戻りました。

新納氏・肝付氏・禰寝氏による攻防戦がありました。

現地の説明板では、1538年と1542年に争いがあったと書かれています。
パッと読んだだけだと三つ巴なのか?と思ったのですが、調べてみるとチョット違いました。

まずは1538年の戦いから。

この時の高隈城は、新納忠勝の持ち城でした。
周辺の状況は、島津4家が絡む争いがありました。
直接争っていたのは、島津実久(薩州家)と島津忠良(伊作家)です。
この両者を和睦させようとしていたのが、島津忠朝(豊州家)でした。
しかし、この働きかけは失敗し、島津忠朝は島津実久に味方するようになりました。
この時、普段から島津忠朝と仲が悪かった新納忠勝は、島津忠良方となりました。

1538年、島津忠朝は新納忠勝を攻めて志布志を攻略し、新納忠勝は没落しました。
新納忠勝とともに島津忠良方だった肝付兼続は、多分火事場泥的に高隈を手に入れました。
この時、肝付兼続の家臣・禰寝清年の強烈なおねだりに負け、高隈を譲ったそうです。

続いて1542年の戦い?です。

この時は肝付兼続が禰寝清年から高隈の地を取り上げています。
理由は両者をググっても書かれていませんが・・・
禰寝清年は島津忠良と島津実久の和睦に奔走していたそうです。
肝付兼続が大嫌いな島津忠朝寄りの言動があったかどうか・・・
思い当りそうな事と言えば、これくらいしかありません。
この後も禰寝氏は肝付氏に従い続けているので、何か懲罰的な事があったんだと思います。

肝付兼続が島津貴久と決別しました。

肝付兼続は、島津忠良の長女・御南を正室とし、妹を島津貴久に嫁がせています。
ですが、肝付兼続の島津豊州家嫌いは、かなり徹底していたようです。
肝付兼続は、島津忠広(豊州家)が1545年に島津貴久に従うようになってからも争っています。
島津貴久は肝付兼続を何度もたしなめたと思われますが・・・

1558年、肝付兼続は日向の伊東義祐と同盟を結んだため、島津貴久との関係が完全に切れます。
1561年、肝付兼続は廻城を奪い、援軍に駆け付けた島津貴久の弟・忠将を討ち取りました。

・・・おいおい、ヤバイだろ?www

1566年、島津貴久は肝付兼続の本拠・高山城を攻め落としました。
肝付兼続のその後は不明ですが、隠居していた志布志で間もなく没した説が濃厚です。
1568年、肝付良兼は伊東義祐の飫肥攻めに加勢し、島津家は飫肥を手放すこととなりました。
島津豊州家の領地は、伊東義祐と肝付良兼とで山分けしたそうです。
肝付良兼は1571年にも島津軍を撃退するなど、まだまだ勢力は健在でした。
同年、肝付良兼は病死し、異母弟の肝付兼亮が家督を継ぎました。
肝付兼亮の代になると、伊地知氏や禰寝氏ら重臣が相次いで島津氏に寝返りました。
そして1574年、ついに島津貴久の子・義久に降りました。
しかし、肝付兼亮はその後も悪態をつき続けたようで、日向へ追放されました。

1578年、伊集院忠棟の領地となりました。

伊集院忠棟は島津義久の筆頭家老でした。
肝付氏追放で高隈の地が空いたようで、何かの功で与えられたようです。
その後、豊臣秀吉による島津征伐では和議を唱え、豊臣秀吉にも評価されたようです。
1593年には都城8万石へ移されました。

1595年、細川藤孝の領地となりました。

高隈城ってまだあったんでしょうか?と、つい口走りそうになりますけどw
細川藤孝に与えられたという事は、この辺り一帯は豊臣家の領地だったという事ですね。

1599年、島津家に返還されました。

朝鮮出兵の功として、島津家に与えられた領地に高隈が含まれています。
島津家は豊臣秀吉に征伐された後、分断策がとられていました。
豊臣家は、ことさらに島津義弘(義久の弟)を丁重に扱っていました。
そのため、島津家中は自然と義久派と義弘派の二派に分かれました。
朝鮮半島へ渡ったのは島津義弘なので、義弘に与えられたのが自然かもしれません。

1600年、関ケ原の戦では島津義弘が西軍として戦いました。
西軍に味方した大名はたいがい潰されていますが・・・
この時、島津義久は知らぬ存ぜぬを貫き通し、島津家の改易を免れました。
実は兄弟仲はとてもうまく行ってたんじゃない?なんて思わされます。

その後、1615年に一国一城令が出されると、高隈にも地頭仮屋が造られたそうです。
その場所は?ですがあせる


所在地:鹿児島県鹿屋市上高隈町

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