なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
横須賀城は、横須賀城跡公園として綺麗に整備されています。
訪問日は2011年4月2日です。

【写1】横須賀城

早速説明板にあった図をパクリます^^
明治になるまであったお城だけあって、こういうのがちゃんと残ってますね恋の矢
ここに載せた図では小さくて見えないのですが、右下と左下の門が大手門です。
大手門は1つしか造られない事が多く珍しいので、「両頭の城」とも呼ばれています。

【写2】横須賀城

さて、私が撮った写真というと、本丸周辺の石垣ばかり。
まだ土塁や堀にそれ程興味を示さなかった頃でしたあせる
きっと、何かのスイッチがポチッと押されて今に至るんでしょうね・・・

【写3】横須賀城

まぁ、でも、素直にこういうのは大好きですラブラブ
当時はまだ「ふぅ~ん」ぐらいに思わなかったのですが・・・
ここの石垣って、石が丸いと思いませんか?

【写4】横須賀城

それは、川原石を積んだからだと説明板に書かれていました。
石の色を見て何となく想像がつくと思いますが、ほぼ復元です。
ただ、発掘調査ではちゃんと丸っこい石で組まれた石垣が出土しています。
リアリティーを追及すべく、オリジナルと同じ大井川の川原石を使用しています。

【写6】横須賀城

そして、一番高い所にはちゃんとコレがあります合格
もちろん城址碑は大好きですが、今では城址碑の無い城跡にも足を運ぶようになりました。
これを成長と呼ぶか、病の進行と呼ぶかは意見が割れます、よね?


◆歴史◆

1580年、徳川家康が家臣・大須賀康高に命じて築きました。

1574年に武田勝頼に奪われた高天神城奪還の拠点として築かれました。
城主には馬伏塚城の守将を務めていた猛将・大須賀康高が就きました。

翌年には長篠の戦で織田・徳川連合軍が武田軍を撃破。
徳川家康は攻勢を強め、諏訪原城を武田軍から奪還しました。
しかし、高天神城奪還には至らず、遠江を巡る争いは続きました。

1578年、越後の上杉謙信が没すると、家督を巡って2人の養子が争いを始めました。
御館の乱と呼ばれる越後の騒乱に、武田勝頼も巻き込まれ、結果として敵を増やしました。
徳川家康はこの機を逃さず、高天神城包囲網の拠点として横須賀城を築きました。

1581年、徳川家康が高天神城を奪還しました。

高天神城を囲むように徳川方の城塞が築かれ、武田軍は遠江を維持するのが困難になりました。
武田勝頼は上杉景勝、北条氏政、徳川家康、織田信長と四方を敵に囲まれていたのです。
そのため、高天神城が徳川軍に攻められても、ろくに援軍を送ることも出来ませんでした。
この状況に目を付けたのが織田信長で、徳川家康に高天神城を兵糧攻めにするよう提案。
これは、武田勝頼に味方しても援軍は来ず、悲惨な目に遭うぞというパフォーマンスでした。
高天神城が落城すると武田勝頼は声望が大きく失墜し、他家へ寝返る武将が続出しました。

1590年、徳川家康が関東へ移り、渡瀬繁詮が城主となりました。

渡瀬繁詮ってどんな人物だったのだろう?とググってみました。
一番上に出て来たWikipediaでは「由良国繁の次男」と書かれていました。
由良国繁は館林城や金山城や桐生城など、群馬の右端の出っ張った辺りの武将です。
・・・説明がちょっとアレですがあせる
場所的には上杉家、北条家、佐竹家などが鎬を削り合った激戦地。
生き残りを掛けて天下人・豊臣秀吉に近づいたのか?と思いました。

ただ、別のサイト様では、播磨の渡瀬氏ではないか?という別の説もありました。
こちらの渡瀬氏は三木城の別所氏に仕えていましたが、敗れて羽柴秀吉の家臣となりました。
以後、各地の戦で戦功を挙げ、ついに3万石の大名に抜擢されたとしています。

・・・ついつい深入りしてしまいましたが、要するに出自不明ということですあせる
家紋や婚姻関係(三木氏に近い有馬氏から妻を迎えていた)などから、後者っぽいですね。

1595年、有馬豊氏が城主となりました。

渡瀬繁詮もすごいスピードで出世したのですが・・・
豊臣秀次の家老であったことが災いし、連座して改易されました。
身柄を佐竹氏に預けることとなりましたが、その途上で自害してしまいました。
渡瀬繁詮の子には所領の継承が許されず、妻の実家である有馬氏が継承しました。
有馬豊氏は豊臣秀吉の死後、徳川家康に近づき、関ケ原の戦では東軍につきました。
この功によって丹波福知山6万石に出世し、最終的には筑後久留米21万石の大名になりました。

1600年、大須賀康高の養子・大須賀忠政が城主となりました。

有馬豊氏が丹波へ移ると、横須賀城は大須賀忠政が城主となりました。
養父は初代城主・大須賀康高ですが、実父は榊原康政です。
知名度では圧倒的に榊原康政の方が上ですが・・・大須賀忠政は、榊原康政の嫡男でした。
徳川四天王の榊原康政が自らの後継者を差し出す大須賀康高って、実はスゴイんですね!

1615年、幕府領となりました。

館林藩の榊原家が跡継ぎが無く絶えそうになり、徳川家康が動きました。
大須賀家の2代目・大須賀忠次に、実家の榊原家を継ぐ意志の有無を問うています。
その結果、榊原家を継承することとなり、館林藩へと移りました。
・・・とは言っても、この時の大須賀忠次は10歳でしたけどw
徳川家康が、四天王の一家が絶えることを惜しんだためとされています。

1619年、横須賀藩が再び立藩されました。

能見松平家の松平重勝が入り、横須賀藩が再立藩されました。
その後、1622年に井上正就、1645年に本多利長が藩主となりました。

1682年、西尾忠成が城主となり、以後8代続きました。

本田利長が悪政により改易され、西尾忠政が藩主となりました。
以後、西尾氏が8代続いて明治を迎えます。

1869年、廃城となりました。

幕末の横須賀藩内は幕府方と新政府方に分かれましたが・・・
最終的に新政府方となって明治を迎えました。
大政奉還により徳川慶喜が退き、徳川家達が徳川宗家を継ぎました。
その徳川家達が駿府藩70万石の藩主となり、横須賀は駿府藩領となりました。
そのため、8代藩主・西尾忠篤は安房花房藩へ移り、横須賀城も廃城となりました。

1981年、国の史跡に指定されました。
1986年、発掘調査が実施されました。(~1987年1月)
その後、発掘調査の結果をもとに本丸の石垣が復元されました。


所在地:静岡県掛川市横須賀

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