なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
伊奈城は城址公園として整備されています。
訪問日は2014年8月5日です。

伊奈城①

伊奈城址公園は周りがこんな感じなので、場所はとてもわかりやすいです。
訪ねたのが日没前後だったので、写真は全般的に暗い感じです。
塩銀フィルムだったら完全に諦める所ですが、デジカメって偉大です(/・ω・)/
遠くから見たのがこんな感じ。
かつては沼沢地に囲まれた微高地だったんですね。

伊奈城②

周囲はわざとらしい石垣で囲まれています。
あちこち見てると、こういう所もわかるようになってきます。
ただ、河原の丸石を積んだ石垣のお城も実在するので、もしかしたらというのはありますけど。
十中八九は公園を整備する際に積んだものと思います。
それでも、安易に白亜の建物を建てなかった辺り、とても好感が持てますラブラブ

伊奈城③

遺構としては、公園の半分を囲む土塁があります。
高さは3m程でしょうか。
変に手を加えていないのがグッド!です。

伊奈城④

そして、その土塁上に立派な城址碑がありますヽ(´∀`)ノ
年月を経て加わった重厚さというか、何というか。
やっぱり城跡にはコレが必要ですね恋の矢


◆歴史◆

伊奈本多家の城でした。

築城年は不詳ですが、享徳年間(1452~55年の間)に本多定忠にが築いたとされます。
本多氏は元は豊後国本多に居ましたが、足利尊氏に従って功があり、尾張に移りました。
さらに三河へ移り、本多定助の長男が平八郎家、次男が彦八郎家の祖となっています。
伊奈本多氏は彦八郎家の血筋です。
ちょうどこの年代に、すぐ北の森城に常陸から佐竹政義が移って来ています。
この辺り一帯を治めていた土豪が、何らかの理由でこの地を去ったという事でしょうか。
年代的には、松平信光が長沢を攻略した直後です。
本多平八郎家は既に松平家に従っていました。
松平信光の家臣として敵対勢力を破り、ココに落ち着いたものと思われます。

1529年、葵紋が松平家の家紋となりました。

三ツ葉葵紋の起源には諸説ありますが、その1つが本多氏の紋だったというものです。
城主・本多正忠は、松平清康による吉田城攻めに参加。
色々ググって読むと、どうやら寝返って松平方についた感じです。
ハッキリとそう書かれたものはないのですが、地理的に牧野氏に従っていた可能性が大です。
本多正忠は先陣を切って吉田城の東門を突破し、勝利に貢献しました。
この戦の後、本多正忠が伊奈城へ松平清康を招いて酒宴を催しました。
この時、城内にあった水葵の葉に料理を載せていたそうです。
上機嫌の松平清康が松平家の家紋にしたいと、三ツ葉葵紋を譲り受けたそうです。
本多氏は以後は立ち葵紋を使うようになりました。

伊奈本多家は今川義元→徳川家康に仕えました。

その後、しばらくの動静が?ですが・・・
周囲の状況から松平清康の没後、他の東三河の勢力同様に今川義元に従いました。
この時代の城主は本多忠俊です。
今川義元が討死すると、本多忠俊は早い段階から松平家康に従いました。
三河一向一揆の際は、東の今川軍に備えて領内の小坂井に砦を築き備えています。
松平家康が一揆を平定後に再び攻勢に出ると、吉田城の今川家臣・小原鎮実を数度に渡り説得。
その甲斐あって小原鎮実は吉田城を退去し、松平家康の三河統一につながりました。
本多忠俊はこの直後に没し、本多忠次が家督を継ぎました。

徳川家康に従って関東へ移り、廃城となりました。

本多忠次には子が無かったようで、1580年に酒井忠次の次男を養子に迎えました。
1589年に本多忠次は養子の本多康俊に家督を譲り隠居。
翌年、徳川家康が関東移封に従い、下総国小篠5000石へ移り伊奈城は廃城となりました。
その後、本多康俊は1600年に三河国西尾2万石、1615年には近江国膳所3万石へと出世しました。
子の本多俊次は膳所→西尾→亀山→膳所の順に移封。
伊奈本多家は、膳所7万石の藩主として明治まで続きました。


所在地:愛知県豊川市伊奈町

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