なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
萩城跡には入ることが出来ませんでした。
訪問日は2014年8月5日です。

萩城①

(たぶん)エライ人が言っていました。

萩城②

「城山の南東麓に標柱が建っており、」 (´▽`*)←これは私の心象描画です

萩城③

「そこから」 ヽ(´ー`)ノ

萩城④

「山上に登る道が付いている。」 Σ(゚д゚)

萩城⑤

というのは、その当時の事ですね。
(既に2年前あせるは真新しいフェンスが巡らされており、城内へは入ることが出来ませんでした。( TДT)
見た感じは獣避けのようです。
対人であれば、更に「立入禁止」などが貼ってあるので。
しかし、フェンスを固定している針金はガッチリ捻ってあり、簡単には開けられそうもなし。
フェンスは続くよ、どこまでも・・・♪な感じだったので、そのまま立ち去りました。


◆歴史◆

築城年代は不明です

『三河国二葉松』では、城主として清家右馬允、内藤十郎市の名が記されています。
「清右馬允」でググっても1件しかヒットせず、「清右馬允」だと沢山出てきます。
どっちなんでしょうね?w
この中の記述で、清家右馬允は嘉吉2年の棟札があるそうで…
ということは、1441年当時は萩城主だったということでしょうね。

内藤十郎市はサッパリわからず…
額田郡の萩城が内藤氏のお城だったので、誤記なのかもしれません。
居たかもしれませんがあせる

奥平氏の城となりました。

『三河国二葉松』では次の城主として、奥平周防守の名が記されています。
奥平周防守は、萩奥平家3代目の奥平勝次のことだそうです。
萩を本拠としたはずなのに、萩城主は3代目からなんですね?
初代は主馬允、2代目は伝五郎です。

萩を領有した最初の奥平氏は、奥平貞久(1395~1475)とされます。
奥平貞久は4男・奥平主馬允に萩を分知し、萩奥平家が始まりました。
清家右馬允が1441年時点で城主っぽいので、奥平氏はそれ以降でしょう。
時期的には、額田郡一揆か応仁の乱で入れ替わったっぽいですね。

では奥平主馬允は萩城ではなく、別のお城を居城としたのでしょうか?
萩には萩城の他に城の腰城がありますが、こちらも3代目が築いた事になっています。
萩に住まず「萩を領有した」という事だったのかもしれませんね。

奥平氏は「七族五老」という家臣団を形成していました。
まとまった領地を持つ国衆は、数人の子に領地を分け与えて各家がだんだん小さくなります。
それぞれの家がバラバラで動くようになると、先細りする一方ですよね。
奥平氏は領地は分け与えたものの、そうやって出来た支流を宗家がまとめていました。
これが「七族」で、奥平氏一門で構成されています。
萩奥平家もこの「七族」に数えられています。
「五老」は奥平一門以外の重臣たちです。
彼らは意見が対立した事もありましたが、最終的には一体となって行動しています。

東三河の国衆は大きな勢力の狭間で、どちらに味方するかで揺れ動きました。
松平清康→今川義元→織田信秀→今川義元→松平元康→武田信玄・勝頼→徳川家康
こんな感じで主家を替えています。
武田勝頼を見限った際には、奥平各氏から出されていた人質が処刑されています。
尚、この寝返りで武田勝頼は奥平氏討伐の兵を出し、長篠の戦につながりました。
結果は、奥平氏にとって吉と出ました。

1590年、奥平氏が関東へ移りました。

徳川家康の関東移封に従い、上野国宮崎3万石に移りました。
一族が一丸となって動く氏族なので、みんな一緒に移ったものと思われます。


所在地:愛知県豊川市萩町

なぽのホームページ/愛知県を表示
AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

なぽさんの読者になろう

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。