なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
お城っぽく見える正楽寺は、昔はお城でした。
訪問日は2014年8月5日です。

大草城①

城跡にあるお寺を訪ねると、こんな感じでした。
立派な城壁に立派な門。
門の前が凹んでるところなど、虎口の痕跡っぽく見えます。
もう、脳内は妄想でいっぱいです合格

大草城②

南西側の道の方が広くなったせいか、そちら側にも入口が付けられていました。
その入口脇に、城主様についての説明板があります。
私は見ていないのですが、境内にはこの城主様と次の領主様のお墓が並んであるそうです。

西側に大きな道が出来たのは、さらにその後でしょう。
地図で見ると、境内の一部を盛大に侵食されています。
おそらく移転の話もあったと思われますが、主要部は大丈夫ということで残ったのでしょうか。
その大きな道側には入口はありません。


◆歴史◆

大草氏のお城でした。

もともとは大草氏のお城で、鎌倉時代に遡ります。
室町時代に入ると足利尊氏に仕え、1348年の四条畷の戦で討死しています。
これは足利尊氏と楠木正行の戦いで、足利方が勝っています。
この功により大草氏は所領を還補され、代々足利氏の調理師を務めました。
その後、年代は不詳ながら嫡流が絶え、足利義輝の頃から京での活動が見られます。

西郷氏のお城になりました。

年代、経緯とも不明ですが、三河国守護代の西郷氏のお城となりました。
西郷氏は九州出身で、足利尊氏の側近・仁木義長に従ったとされます。
仁木義長が三河の守護職を得た際、九州から三河へ移ったとする説があります。
仁木義長が三河守護だったのが1351~60年の間なので、その頃三河に来たっぽいです。
西郷氏も大草氏同様、足利尊氏と近い関係のため、大草氏の後を受けたものと思われます。
仁木義長失脚後も西郷氏は三河に留まり、後に一色氏が三河守護の時に守護代となっています。

大草松平氏の城になりました。

西郷氏は勢力を拡大し、やがて松平氏と争うようになりました。
西郷稠頼は松平信光の侵攻に備え、竜頭山に砦を築きました。
これが後に岡崎城となります。
文明年間(1469~87年の間)、西郷稠頼の子・西郷頼嗣は、松平信光に敗れました。
松平信光は五男・光重を西郷頼嗣の養子に入れ、家督を継がせました。
そのため、松平光重は岡崎松平氏と呼ばれましたが、後に大草に移っています。

大草松平氏は、何度か松平宗家に逆らいました。

松平光重の子・親貞は、跡継ぎがないまま没し、松平昌安が家督を継ぎました。
松平昌安は西郷頼嗣の実子で、西郷信貞とも名乗りました。
ということで、表面上は大草松平氏ですが、実質は元の西郷氏に戻っています。
西郷信貞は山中城を築いて周辺を押領し、松平清康と争いました。
しかし、戦いに敗れた西郷信貞は岡崎城を松平清康に引き渡し、大草に隠退しました。

西郷信貞の子・昌久も松平宗家に反抗しています。
1563年にあった三河一向一揆では、一揆方として活動しました。
そのため、一揆終息後は領地を没収されています。
この時、西郷氏に加勢し一揆方の拠点となった正楽寺は廃寺とされました。

その後、西郷信貞の曾孫・松平康安が、松平信康に仕えて復帰。
孫の松平正永は水戸徳川家の家老となりましたが、跡継ぎが無く没し、断絶しました。

慶長年間(1596~1615年の間)、正楽寺が再興されました。

大草松平家(西郷氏)の菩提寺である正楽寺が再興されました。
多分ですが、1600年の関ヶ原の戦の後と思います。
境内には西郷氏をはじめ、近在の有力者・高力清長のお墓もあります。


所在地:愛知県額田郡幸田町大草(正楽寺)

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