なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
幕岩城跡はお城だった痕跡が・・・
訪問日は2014年4月19日です。

幕岩城①三光院
▲三光院

幕岩城はこの三光院を目印にして訪ねました。
このお寺は沼田氏が建てたもので、荘田城時代にはその近くにあったそうです。
そこから小沢城、幕岩城、沼田城と沼田氏が本拠を移すたびに一緒に移りました。
1529年に沼田城の築城を開始した時に、幕岩城の隣(現在地)に移されたそうです。

幕岩城②城址碑への道
▲三光院→城址碑への道

下の地図で赤い線を入れたのがこの道です。
始めに書きますが、お城としての遺構は見当たりません。
お城を偲ばせるものは、二の丸にある城址碑と崖っぷちの地形だけです。
その城址碑への道がこれです。
バイクを停める所ないだろな?と思って三光院から歩きましたが、乗っててもよかった・・・
と思ったのは、実際に城址碑を見てからです。

幕岩城③右から城址碑
▲右から

城址碑は、住宅街の真ん中の畑の一角にあります。
さっきの道から城址碑を見たのがこの写真です。
小さくてわかりづらいでしょうか?
・・・クイズ感覚で探して見て下さいw

幕岩城④左から城址碑
▲左から

今度は通り過ぎて反対側からです。
両側から見ると住宅に囲まれているのがわかると思います。
今は畑があるのですが、この畑が宅地になると・・・想像したくないです。
城跡という雰囲気がありませんし、広い土地ですから可能性はありますよね?

幕岩城⑤城址碑
▲城址碑

上2枚の写真でどこかに写っている城址碑です。
丸い大きな石に手で彫った感がたっぷりの石碑です。
これもイイですねラブラブ
地図を見てると、ここから北側が崖っぷちに突き出した感じになっています。
この畑のどこかに、城域との境として深い堀があったのではないかと思います。
今となってはそれがどの辺りなのかは全くわかりませんが・・・


◆歴史◆

1519年、沼田泰輝により築かれました。

沼田泰輝がどのような人物だったのか・・・
いくらググっても出てきません。
出てくるのは、幕岩城を築いて本拠を移した、という事だけです。
でも「なんで?」本拠を移したのかが、どうしても気になります。

幕岩城の前に沼田氏の本拠だった小沢城は、南と西が断崖の崖端城です。
一方、幕岩城は北側が断崖になった河岸段丘の地形を利用した崖端城です。
地図で見ると、小沢城から薄根川を越えて南へ移っています。
荘田城の頃から比べて段々と南へ移ったのは、北からの脅威があったのでしょうか?

沼田のすぐ北はもう越後で、その最南端は上田長尾氏が支配していました。
上田長尾氏は越後国内では珍しく、関東管領・山内上杉氏の家臣でした。
そのため、1510年までは越後守護の上杉氏を脅かす長尾為景と戦っていました。
しかし、長尾為景が関東管領・上杉顕定を倒すと、上田長尾氏はその軍門に降りました。

ということで、積極的に敵対したかどうかは?ですが、上田長尾氏と沼田氏は勢力境でした。
沼田氏が北に備えたかのような幕岩城へ後退?したのは、そのせいなのかもしれません。
・・・この辺に詳しいかたヘルプですあせる

  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり  くもり

沼田泰輝もよくわからなければ、その跡を継いだと見られる沼田顕泰もよくわからず。
長尾景春や長野業正、安中重繁らとの間で婚姻関係があり、山内上杉家に仕えていました。
生没年不明ですが、1560年代までは消息が知られています。

1529~32年、沼田顕泰が沼田城を築いて移りました。

沼田顕泰が沼田城を築き始めたのは1529年の事でした。
いったい何があったのでしょうか?・・・というには十分過ぎる事件が多々ありました。
この年、山内上杉家と古河公方家でそれぞれ内紛が始まりました。
絶妙のタイミングなので、北条氏綱が黒幕だったりしないか?などと邪推しますがw
・・・邪推の内容を書き始めるとキリが無いので、ここではやめときますあせる

沼田顕泰が仕えていた山内上杉家では、上杉憲寛と上杉憲政が争いました。
上杉憲寛は安中氏討伐を開始し、近在の西氏、小幡氏らが安中氏に味方しました。
そこで擁立されたのが、山内上杉家最後の当主・上杉憲政です。
この時、上杉憲政はまだ6、7歳でしたが、先主・上杉憲房の実の子です。

対する上杉憲寛には長野氏、高田氏がついていました。
安中氏討伐のきっかけが長尾景誠の暗殺だったので、白井長尾氏もこちら側と思われます。
ということは、沼田氏も上杉憲寛方だったのでしょうか?
上杉憲寛は上杉憲政が生まれる前に、古河公方から迎えた養子でした。

幕岩城は台地北端部の崖端城でしたが、沼田城は同じ台地の北西端にあります。
これは敵対勢力が変わった事を意味するのではないかと思います。
越後では上条定憲が長尾為景と対立し、上田長尾氏は上条定憲に味方しました。
という事で、山内上杉家は上田長尾氏を心配しなくても良くなったハズです。

・・・などと書きましたが、もしかしたら中立だったのか?などとも思ってしまいます。
それは、沼田顕泰が安中氏と長野氏の両家と婚姻関係があったからです。
両家との婚姻の順番はわかりませんが、味方に加えようと誘った結果なのかもしれません。

後に後北条氏に沼田を奪われた時、上杉憲政を頼って越後へ逃れています。
敵対していたら、おめおめと頼ったり出来ませんよね?
会津の蘆名氏とは同族としてつながりがあったようなので、真っ先にそちらを頼る筈です。
沼田顕泰の前半生がサッパリわからないので、知ってる方は是非ともヘルプですあせる


せっかくなので、上で書いた邪推をちょっとだけ書きます。
北条氏綱は1524年に江戸城を攻略しました。
後北条氏が侵略した相模は扇谷上杉氏の領地でしたが、更に武蔵をも奪う勢いでした。
そのため、扇谷上杉朝興はそれまで争っていた山内上杉家・古河公方家と和睦しました。
関東の三大勢力が手を組み、新興勢力・後北条氏を迎え討とうという時に、両家が割れました。
そのため、扇谷上杉朝興は単独で北条氏綱と戦わざるを得なくなりました。
・・・これが邪推の大略です♪


所在地:群馬県沼田市柳町

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