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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
小川城跡は新幹線の駅のまん前にあります。
訪問日は2014年4月19日です。

小川城①道沿い
▲道沿いにあります

小川城は上越新幹線の上毛高原駅のすぐ東にあります。
東口?を出てすぐ右がこんな感じです。
バイクで行きましたけどw

小川城②堀
▲堀

幟に釣られてふらふらっと寄ると、道端からこんな堀が見えます。
深さは5m程でしょうか。
真っ直ぐじゃないのがラブラブです恋の矢

小川城④主郭
▲主郭

堀を渡った所が主郭です。
結構広くて1枚で収まらなかったので、パノラマで撮ってみました。
真ん中にガードレールがありますが、歩くコースを限定するためのものです。
残念ながら堀などの大きな窪みがある訳ではありません。
ちょっと右の方には城址碑も写っています。

小川城⑦土塁
▲土塁

主郭の周りを巡っている土塁です。
この辺りの特徴なのか、あまり高くないです。

小川城⑤櫓台
▲櫓台

主郭の南側には一段と高い所があり、櫓台と思われます。

小川城⑥城址碑
▲城址碑

そして、小川城の城址碑です。
高そうな石ですが、ツルピカでちょっと撮りづらいデス・・・

小川城⑧二の丸堀の案内
▲二の丸

道の反対側が二の丸だったようです。
すっかり拓けて何もありません。

小川城⑨堀
▲堀跡?

二の丸の案内のすぐ近くにありました。
堀の跡をそのまま用水路にしたのでしょうか?


◆歴史◆

1492年、沼田景久により築かれました。

沼田氏というと沼田城ですが、この頃は荘田城を本拠にしていました。
沼田景久は次男・景秋を小川城に置き、以後小川姓を名乗るようになりました。
ちなみに三男・景冬は名胡桃、四男・景信は川田に配置されました。
この頃は山内上杉家と扇谷上杉家が争った、長享の乱の真っ最中です。
北の越後は山内上杉顕定の実家で、西の吾妻郡、南の白井長尾家も山内上杉陣営でした。
この時期に沼田景久が城をいくつも築いた理由はわかりませんが・・・
広大な領地を実子達に分知し、家中の結束を高めようとしたのでしょうか。

2代目城主・小川景祐は追放されました。

小川景祐は日頃の素行がよろしくなかったようで、1502年に一度追放されています。
お寺を開基するなど反省する姿勢は見せたようですが、後に沼田城へ討ち入ったそうです。
これは説明板に書かれていますが、小川景祐は1520年頃までには没している筈です。
沼田城が築かれたのは1532年の事なので、沼田宗家に反抗したという事でしょうか。
この年代は山内上杉家と扇谷上杉家が争っていた時期です。
家中の不和から分裂し、敵方に通じたという事なのかもしれません。

3代目城主・小川秀泰は勇将でした。

兄・小川景祐が没した後、弟の小川秀泰が城主となりました。
小川秀泰は戦上手で人望があり、沼田七騎の一人に数えられていたそうです。
沼田七騎は他に誰が居たのだろう?と思いググってみましたが・・・
天正壬午の乱(1582年頃)の真田昌幸の家臣ばかりが出て来ます。
50年以上時代が離れており、沼田の勇将=沼田七騎と勘違いしたのかもしれませんね。

1524年、小川氏が一時断絶します。

1522年に小川秀泰が没すると、子の小川景奥が家督を次ぎました。
しかしその2年後、小川景奥が戦の時に煮えたぎる酢の甕に落ちて亡くなりました。
誰と誰の戦だったのでしょう?
酢の甕には落ちたのでしょうか、それとも落とされたのでしょうか?
色々と疑問が沸いて来ます。

小川城は1520年にも攻められて焼け落ち、小川景奥の嫡男・景季が焼け死んでいます。
この頃の沼田氏は、どうやら白井長尾憲英に従っていたようです。
長尾憲英は越後の長尾為景と組み、白井から吾妻郡東部、沼田にかけて支配していました。
沼田氏は、沼田憲泰が長尾景英の妹を正室に迎えたとされています。

色々脱線しましたが、1524年といえば北条氏綱が江戸城を攻め落とした頃です。
扇谷上杉朝興はこれを受け、山内上杉憲房や武田信虎との和睦を始めます。
ということで、1520年頃はまだ両上杉家は争っていました。
ただ、地理的には白井長尾氏よりも北なので、扇谷上杉軍の攻撃を受けるとは思えず。
総社長尾氏との間で戦があった可能性が高いように思われます。

赤松捨五郎が小川氏の名跡を継ぎました。

上方から逃れて浪人となっていた赤松捨五郎が、小川景季の後家を娶って名跡を継ぎました。
はじめは客分として扱われたそうですが、軍議の席で次第に発言力を得たそうです。
北面の武士だったと伝わりますが、どうでしょう?

この頃の赤松氏は播磨・備前・備中の守護でしたが、守護代の浦上氏と争って敗れました。
播磨騒乱と呼ばれる戦乱であり、赤松氏一門が浪人するとすればこれがきっかけと思われます。
小川景季の後家を娶っているので、同年代の若者であったと推察されます。
名跡を継いだ赤松捨五郎は、小川可遊斉と名乗るようになりました。

ちょっと間が空くので周辺の状況を。
1547年、河越夜戦で扇谷上杉氏が滅亡
1552年、山内上杉憲政が後北条氏に追われ越後へ
1560年、越後の長尾景虎(=上杉謙信)が小田原を攻め、関東管領上杉家の名跡を継ぐ
1578年、上杉謙信が没し、御舘の乱が勃発

1580年、真田昌幸の城になりました。

1578年に越後で御舘の乱が始まると、後北条氏が沼田に侵攻しました。
しかし、真田昌幸が謀略により沼田城を奪うと、両者の間で争奪戦が始まりました。
小川城の小川可遊斉は、白井長尾氏に従って真田昌幸に降ったとみられます。
そのため小川城は後北条軍に攻められましたが、菩提木で撃退しました。
これに怒った北条氏邦は、3ヶ月後に倍の兵力で再び攻めて来ました。
今度は耐え切れず小川城が落城し、小川可遊斉は見城の柵で抵抗した後、越後へ逃れました。
その後、真田昌幸が小川城を奪還し、小川氏一門の北能登守を守将に入れました。

ここでもちょっと間が空くので周りの出来事を列記します。
1590年、後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされました
1600年、関ヶ原の戦。真田昌幸は九度山で蟄居の身となり、真田信之が家督を継ぎました
1615年、大坂夏の陣で豊臣秀頼が徳川家康に滅ぼされました
1616年、真田信之が上田城へ移り、真田信吉が沼田城主となりました
1634年、真田信吉が没し、熊之助が4歳で沼田城主となりました

1638年、真田信吉の次男・兵吉が城主となりました。

兄・熊之助が7歳で没したため、沼田城は叔父の真田信政が継ぎました。
熊之助の弟・兵吉(3歳)にも所領の一部である小川村5000石が分知されました。
兵吉は小川城に陣屋を築き、母とともに暮らしました。
・・・ということで、一国一城令で一度廃城になっていたようですね。

1656年、廃城となりました。

祖父・真田信之が隠居して沼田城の真田信政が松代藩主となりました。
そのため、沼田城を真田信澄(=兵吉)が継ぐこととなり、小川の陣屋が廃止されました。
(真田信澄は信澄→信俊→信直の順に改名しています)

真田信澄はちょっとお騒がせな人物だったようです。
2年後に叔父の真田信政が没すると、真田信澄は自分が真田家の正当な後継者だと主張しました。
そのため、ちょっとしたお家騒動となりましたが、幕府の裁定により松代藩と沼田藩が分離。
沼田藩が誕生しました。
真田信澄の松代藩への対抗心は凄まじく、領民に重税を課してまで見栄を張りました。
例えば沼田城に5層の天守を建てたり、江戸の藩邸を松代藩よりも豪華にしたりなどです。
検地でも実高は6万石のところを14万石と誇張していました。
1680年に両国橋改修の材木調達が遅れた事と、直訴が相次いだ事で改易されました。


所在地:群馬県利根郡みなかみ町月夜野

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