なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
栗崎城(別名・三ノ倉城)へは、全透院の脇から登れます。
訪問日は2014年11月22日です。


▲国道沿いに案内があります

城跡へは全透院から登ります。
国道406号沿いに案内がありますが・・・
写真撮ってなかったので、Google Mapのストリートビュー貼ります。
便利なの見つけて使いまくってますw
奥に赤い屋根が見えますよね?

三ノ倉城①全透院
▲全透院

道の奥に見えたのがこの建物です。
背後の山の緑に映えますね!
お城じゃありませんが、素直に感動しときます^^

三ノ倉城②右へ
▲山門前を右へ
この周りには城跡への案内は出ていません。
お寺の立派な石垣の前を右へ進みます。

三ノ倉城③左へ
▲小屋の所で左へ

果樹園っぽい所を過ぎると、数十mほどで大きな小屋が現れます。
ここを左の山道へ入ります。
獣避けの電線が張ってあるので気をつけましょう。

三ノ倉城④腰郭
▲腰郭

その山道をズンズン登って行くと、左手がだんだん城跡っぽい雰囲気になります。
我慢できなくなったらテキトーな所で藪へ突入し、あとはひたすら直登です。
などと書きつつ、地図では等高線の低い所に沿って道があります。
そのまま道を歩き続けたら城内に辿り着けそうですが、どうなんでしょう?www

三ノ倉城⑤見上げる
▲見上げる

腰郭の所から見上げました。
結構な傾斜と高さがあり、スッとは登れない感じです。
これがイイですよね!
・・・登城路ではありませんけどw

三ノ倉城⑥土塁
▲主郭土塁

高い所に登ったなぁと感じたら、かなり広いスペースに出ました。
おそらくここが主郭と思われます。
全体的に低い土塁で囲まれています。
これは往時からなのか、崩れたからなのか・・・
吾妻地方では、稲荷城以外であまり高い土塁は見かけません。
丸岩城も土塁が低かったので、この地方の特徴なのかもしれません。

三ノ倉城⑦最高所から見下ろす
▲最高所から見下ろしたところ

何となく高い所を突き詰めて行くと・・・・って行動が煙そのもの。
まぁでも、みなさん同じような感じですよね?w
その一番高い所から見ると、結構広いってよくわかります^^


◆歴史◆

築城年はわかりません。

この辺り一帯は応永年間(1394~1427年の間)から約100年、木部氏が治めていました。
城の麓にある全透院は、1489年に木部新九郎により開基されています。
この頃までには山上に城が築かれていたものと思われます。

永正年間(1504~20年の間)、浦野氏の城となりました。

浦野氏は北にある大戸を本拠としており、永正の頃に三ノ倉地方に進出してきました。
木部氏は箕輪城の長野氏に従っていたため、浦野氏は長野氏と争うようになりました。
1513年には本拠である大戸(=手子丸城)を攻められていますが、撃退しています。
この戦で両者は和睦し、浦野氏による榛名山西側(大戸から三ノ倉)支配が確立しました。
その頃の長野氏当主は長野憲業ですが、1514年に没したとする説が有力です。
長野憲業の死が和睦のきっかけになった可能性が大だと思われます。

1563年、長野軍に攻められたと思われます。

真田幸隆が斎藤憲広の岩櫃城を攻めた際、当初は抵抗しましたが寝返りました。
当時の状況は、吾妻郡を真田幸隆、南の安中も武田軍に占領されつつありました。
浦野重成はその後、鷹留城の長野軍に攻められましたが撃退しています。
この時に栗崎城も戦いの舞台になっていたはずです。

1582年、小笠原長範が城主になりました。

武田勝頼が滅ぼされると、真田昌幸は織田家臣・滝川一益に従いました。
そのため、真田昌幸に仕えていた浦野氏も所領を安堵されました。
3ヶ月後に本能寺の変で織田信長が自害すると、後北条軍が織田旧領を狙って攻めて来ました。
後北条軍は滝川一益を神流川の戦で破ると、沼田城と吾妻郡に侵攻しました。
吾妻郡には内藤丹波守、富永主膳、小幡信貞らが5000の兵力で攻め込んで来ました。
この時、浦野氏は当初栗崎城周辺で迎撃したものの、支城を放棄して本拠の手子丸城に篭城。
しかし、3日間の激戦の末、浦野重成らは自害して滅びました。
尚、手子丸城はその後、真田信幸により奪還されています。
後北条氏の城となった栗崎城には、小笠原播磨守長範が入りました。

小笠原長範は上方から来て後北条氏に仕えたとされています。
名前や由来から、武田信玄により信濃を追われた小笠原長時と関係ありそうですが・・・
両者の関係まではわかりませんでしたあせる

1590年、松平近正が城主となりました。

後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、徳川家康が後北条氏の旧領に移って来ました。
栗崎城には徳川家康の家臣・松平近正が5000石の城主となりました。
松平近正は大給松平氏で、通称は五左衛門です。
石川数正が豊臣秀吉に寝返った時に誘われましたが、断ったそうです。

1600年、廃城となりました。

関ヶ原の戦で、松平近正は鳥居元忠とともに伏見城を守っていました。
しかし、石田三成の大軍に攻められて落城し、松平近正は討死しました。
戦後、徳川家康は松平近正の子・松平一生を下野国板橋(日光市)1万石に移しました。
城主が不在となった栗崎城は廃城となりました。


所在地:群馬県高崎市倉渕町三ノ倉

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