なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
山田城はちょっと遺構がわかりづらいかもしれません。
訪問日は2014年4月13日です。

山田城①説明板と標柱
▲説明板と標柱

善福寺の所で左へ曲がり、またすぐ左へ。
その道の先にこの説明板と標柱があります。
ここが城跡への入口です。

山田城②城域方向
▲城域の方向を見た所

道端から城域方向を見た所です。
何となく城塁っぽい感じに見えます、よね?

山田城③標柱?
▲城址標柱

何となくそれっぽく高くなった所を目指すと、これがありました。
ボロボロに錆びてしまって、表面のペンキも剥がれてしまっています。
訪問前に拝見したサイト様達では、主郭にこれがありました。
これが無ければ、ここが主郭だとはわからないかもしれません。

山田城④堀
▲堀

そこから見渡してみると、何となくですが周りが窪んで見えました。
何でも城跡に見えてしまう病は、かなり進んでしまったかもしれません。

山田城⑤城塁
▲城塁

やっぱり、周りが低くなっているように見えます。
あんまり水平ではないですし、土塁も見当たらないのですが、やはり郭のようです。
遺構が分かりづらいので、どこが何なのか、図か案内が欲しいですね。


◆歴史◆

斎藤一族・山田氏のお城でした。

築城年代はわかりません。
『加沢記』によると、斎藤憲行が1405年に越前から来たそうです。
それ以前は吾妻氏系の斎藤氏が吾妻郡一帯を支配していました。
この頃に吾妻一族を内出城に入れ、有名無実の存在にしたそうです。
斎藤憲行は、6人の子を吾妻郡各地に配置し、支配体制を固めました。

長男:斎藤憲実:岩櫃城
次男:中山幸憲:中山城
三男:荒牧威実:荒牧館
四男:山田基政:山田城
五男:大野憲基:稲荷城
六男:富沢幸連:岩下城

大永年間(1521~27年の間)、斎藤憲次が岩櫃城主となりました。

岩下城主の斎藤憲次が、大野憲直を倒して岩櫃城を居城としました。
大野氏は上の通り、斎藤憲行の五男・大野憲基を祖としていました。
1438年頃から大野憲基の孫・義衡が斎藤一族を仕切るようになりました。
大野氏を倒したのは斎藤憲次ですが、山田基政の孫だそうです。
そして、なぜか岩下城主でした。
跡継ぎが無くなって、お互いに養子を融通し合っていたという事でしょうか?
斎藤憲次は大野憲直から植栗元吉の討伐を命じられました。
しかし、植栗城を攻めると見せ掛けて岩櫃城を急襲。
大野氏は滅び、斎藤憲次が岩櫃城の主となりました。

1563年、岩櫃城が真田幸隆により攻め落とされました。

羽尾氏と鎌原氏の境界争いに斎藤氏と真田氏が介入し、戦線が拡大しました。
真田幸隆は岩櫃城を攻め、斎藤憲広は越後へ落ち延びました。
この時に斎藤憲広の子・城虎丸が嵩山城に篭り抵抗を続けていました。
山田源太左衛門は落ち延びる斎藤憲広を越後国境まで見送り、城虎丸を託されたと伝わります。

1565年、真田幸隆が崇山城を攻め落としました。

頑強に抵抗を続ける城虎丸の兄・斎藤憲宗が、上杉輝虎の力を借りて崇山城へ入りました。
崇山城の斎藤軍には白井城の白井長尾氏、吾妻郡東部の尻高氏や中山氏も援軍を出しました。
この動きに真田幸隆は和議を申し出て、お互いに人質を出し合いました。
しかし、この時に斎藤氏の重臣・池田佐渡守を調略しました。
内応者を得た真田軍は再び崇山城を攻め、斎藤憲宗・虎城丸が自害して落城しました。
この後の山田氏の動向は明らかではありませんが、現地説明板には帰農したと書かれています。


所在地:群馬県吾妻郡中之条町山田

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