なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
長野原城は箱岩城とも呼ばれ、町の北側にある東西に長い岩山にありました。
訪問日は2014年4月12日です。

長野原城⑯国土地理院の地図
国土地理院の地図(加工したもの)

長野原城を訪れる際、皆さんが悩むのが「どこから登るの?」だと思います。
訪問前に拝見したサイト様では一様に「かみつけ信用組合長野原支店」の向かいとありました。
しかし、事前にGoogle Mapのストリートビューで確認しても、そのようなものが見当たらず・・・
(今ググったら、2012年11月に「ぐんまみらい信用組合」になっていましたあせる

そこで、よく見る国土地理院の電子国土Webを拝見すると、城域の西に道があります。
これはGoogle Mapには載っていないもので、もしかしたらこっちの方が楽?なんて思いました。
そこでそっちへ行ってみましたが・・・
地図ではしっかり道が描かれているものの、斜面を登り始める所から人が歩く道に。
その前にバイクを停められそうになかったので、国道まで戻って右往左往しました。

ちなみに赤い線が実際に登ったルートで、よく紹介されている登城路です。

長野原城①登城口:西から
▲登城口(西側から)

国道を右往左往していると、道端に長野原城への案内を見つけました。
本当に小さいので見落としがちです。

長野原城②登城口:東から
▲登城口(東側から)

せっかくなので、反対側から見た所も載せておきます。
右側の白い建物には「第五区住民センター事務所」と書かれています。
休日ならこの前も停めてよさげでしょうか?

長野原城③稲荷社の駐車場
▲稲荷神社・長野原古城跡の駐車場

結局の所、更に東へ進んで稲荷神社の駐車場を見つけました。
人気の無い建物なので、まぁ間違いはないと思いますが・・・
休日なら、役場の方が近くて安心して停められると思います。

長野原城④登城口から奥へ
▲登城口から奥へ

元来た道を戻って、案内のあった所から細い路地へ入りました。
道沿いの住宅の間を進むような感じで「ここしか進めないよな?」で進みました。

長野原城⑤線路を渡る橋
▲線路を渡る橋

すると、線路を渡る橋に遭遇。
民家の脇を通るのでちょっとドキドキしました。
訪問したのは4月12日なので、東京では桜がかなり散っている頃です。
しかし、当地は梅が満開で、桜はこれからといった所でした。
さすがは高原野菜の産地ですw
(モノは書きようなのです)

長野原城⑥薬師堂
▲薬師堂

しばし線路脇の梅園で梅を楽しんで進むと、そこには薬師堂がありました。
その階段の脇に、小さく城跡への案内が出ています。
道は合っているようですヽ(´∀`)ノ

長野原城⑦登城路
▲登城路

薬師堂の左から山へ入っていく道です。
訪れる人がそこそこいる感じがします。
ただ、途中でニホンカモシカさんに遭遇しました。
群馬の山城では本当によく見かけます。
熊よけのうるさい鈴を鳴らしていても、10m位先で急に走り出すので、こっちがビックリします。

長野原城⑧箱岩の出丸
▲箱岩の出丸

さて、傾斜がキツクなってくる頃に、こんな場所があります。
説明板付きの岩かぁ~なんて見てみると、これが出丸なのだそうです。
いよいよ城域へ突入です!

長野原城⑨稜線
▲登り切った所

出丸の所からは、斜面をジグザグに登る道に変わります。
会社の階段は1段飛ばしで一気に駆け上がるのですが、山ではそんな気力なし。
この違いは一体どこから来るのかなんて、どーでもいい事を考えながら登ります。
息を切らして登り切ると、「本丸あっち」の案内があります。

長野原城⑩細い稜線
▲細い稜線

登り切った所からは、山上の稜線を辿ります。
登って来た側も急斜面でしたが、反対側は断崖絶壁。
平べったい山なんですね。
ロープが無いと、強い風が吹いた時に落っこちそうで怖いです。

長野原城⑪櫓台
▲櫓台(秋葉神社跡)

そんなアスレチックみたいな稜線を辿って行くと、ちょっとした高台に出ます。
ここには「櫓台」と書かれたプラスチック板が置かれ、その上には石碑が!
城址碑ヽ(´ー`)ノと思いましたが「秋葉山大神御祭神跡」と彫られています。
ぬか喜びでしたあせる

長野原城⑫主郭手前
▲主郭の東側

稜線は主郭が近づくにつれて凸凹になってきます。
容易にお城の中心部には近づかせまいという感じがします。
・・・自然地形かもしれませんがw

長野原城⑬城址碑
▲城址碑

そんなこんなで進んで行くと、またまた石碑が現われました。
文字が薄くて読みづらかったのですが「長野原城本丸址」と彫られています。
今度は当たりですヽ(´ー`)ノ
・・・バチ当たりですなw

長野原城⑭主郭
▲主郭

城址碑があるということは、ここが中心部?なんて思いましたが・・・
更に進むと、すぐ裏に結構なスペースがありました。
東側からはこのスペースが見えないようになっているのでした。

長野原城⑮大堀切
▲大堀切

いつもなら主郭を見て”オッケー!”なんて帰っちゃう事が多いのですが・・・
想定よりも順調に登れてご機嫌だったのか、更に奥まで進みました。
すると、これまでにない広い平坦地が次々に現れ、段々になった郭がいくつもありました。
そんな中「大堀切」と書かれた場所がありました。
確かに長野原城の中では最大ですが、世間的には???ですw

城域の中心部は、城址碑の西側のようです。
当初の目論見どおりで、どうやら西側が大手口のようですね。
ただし、そちら側には行っておらず、ちゃんと登れるのかは未知数です。
西側から登れたよ!という方がいたら、是非教えて下さい。


◆歴史◆

羽尾氏が築いたと考えられます。

羽尾氏は滋野一族海野氏の末裔です。
ご先祖様は平安時代末頃に当地に移って来た海野幸房とされています。

海野幸房はその名の通り、信濃国小県郡の大族・滋野一族の棟梁の家柄です。
しかし、戦乱を逃れてきたとされ、捨城庵という庵を建てて開墾に励んだそうです。
近隣の鎌原氏の系図にも、下屋幸房が鎌原氏、羽尾氏などの祖であると記されているそうです。

築城年代は不明です。
すぐ南の吾妻川対岸に居た鎌原氏は、1397年に城を築いたとされます。
おそらくその頃に築かれたものと思われます。
羽尾氏の名は1435年の『長倉追伐記』、1443年の『良慶処分状』に登場します。

1541年、真田幸隆が羽尾幸全を頼って落ち延びて来ました。

真田幸隆は出自がよくわかっていません。
海野棟綱の子、娘婿、娘婿・真田頼昌の子など色んな説があります。
真田幸隆が海野氏から妻を娶ったのは間違いないようですが・・・
羽尾幸全の「舎弟」2人が海野姓を名乗っており、その娘の可能性もあります。

海野棟綱と真田幸隆が落ち延びて来たのは、武田信虎との海野平の戦で敗れたためです。
これより、海野氏は領地を失ってしまいました。
旧領回復をめざす海野棟綱は、山内上杉家を頼ろうと考えたのでした。
羽尾氏をはじめとする吾妻郡は、衰えたとはいえ山内上杉家に従っていました。
しかも、海野氏と同じ滋野一族が多数暮らしている地域でもあります。

羽尾幸全は、この辺りの有力武将・長野業正に海野棟綱を引き合わせたのですが・・・
真田幸隆は全く違う意見を持っていました。
それは武田晴信(=信玄)を頼るというものです。
海野平の戦から甲斐に戻ると、武田晴信はクーデターを起こして父・信虎を追放しました。
その後の動きは武田信虎とはかなり異なり、縁組までした諏訪家を滅ぼしています。
武田晴信に期待したのは、その人となりを知っていたからかもしれません。
こうして真田幸隆は海野棟綱らと袂を分かち、武田家臣となりました。

1550年代に鎌原幸重との争いが始まりました。

室町時代の関東は、古河公方と山内上杉家、扇谷上杉家が三つ巴で争っていました。
上野国は山内上杉家の本拠地であり、吾妻地方も支配していました。
しかし、後北条氏が徐々に勢力を拡大して山内上杉家を圧迫。
1546年にあった河越夜戦で優劣が決し、1550年代には上野国にも後北条氏の勢力が及びました。
そのため山内上杉憲実は本拠地の平井城を追われ、越後の長尾景虎を頼るようになりました。
すると、吾妻郡を仕切る存在が無くなり、実力で勢力を拡大する時代になりました。

この流れに沿ったものか、羽尾氏も対岸の鎌原氏と境界を巡って争っていました。
羽尾氏も鎌原氏と同じ滋野一族海野氏の子孫でしたが、もう500年位経ってます。
羽尾幸全は東で勢力を拡大していた斎藤氏、更には越後の長尾景虎の後ろ盾を得ました。
すると、鎌原幸重も後ろ盾を求め、同族・真田幸隆を通じて武田信玄の傘下となりました。

真田幸隆は鎌原幸重からこの話を聞いた時、どんな事を考えたのでしょうか・・・
敵は斎藤憲広とだけ聞かされ、後からそちら側に羽尾幸全が居ると知ったのでしょうか?

1562年、ついに両者が激突し、真田軍により攻め落とされました。

両者の争いはついに実力行使に及び、斎藤憲広が鎌原城を攻めました。
鎌原幸重は信濃へ逃れ、武田信玄から信濃国小県郡内に領地を与えられました。
しかし、鎌原幸重は本領への復帰を望み、真田幸隆の援軍を得て鎌原城を奪回しました。
真田軍は鎌原城だけでなく羽尾氏の領地にも侵攻し、羽根尾城、長野原城も奪いました。
長野原城には、真田幸隆の弟・常田隆永が城代として入りました。

こうなると目には目をの応酬になる訳で・・・
斎藤憲広は真田軍が引き上げると、羽尾氏の旧領回復の兵を挙げ長野原城が落城。
この時に常田隆永が討死してしまいました。
あ~あ、やっちゃったって感じです。

1563年、武田軍による吾妻郡侵攻が始まりました。

武田信玄の家臣を殺したとなると、本国が黙っていませんよね?
真田幸隆も弟を殺されており、先鋒として武田軍を率いて侵攻しました。
今度は鎌原城を奪還しただけではなく、斎藤憲広の居城・岩櫃城まで攻めています。
斎藤憲広は武田信玄から討伐対象にされてしまったようです。
この年の内に岩櫃城が攻め落とされました。

尚、武田軍による岩櫃城攻めの際、羽尾幸全の舎弟・海野幸光・輝幸兄弟が寝返りました。
元はと言えば、斎藤憲広に助けを求めて騒動を広げた張本人のハズですが・・・
海野幸光・輝幸兄弟は、実は海野棟綱の子で、羽尾領には何の未練もなかったかも(推測)。
以後は真田氏に仕えることとなります。

羽尾幸全のその後は不明です。
色んな説があるので拾い集めてみました。
越後へ逃れた説
1582年にあった天正壬午の乱の際、上杉景勝が書いた書状に登場するらしいです。
ただ、真田幸隆の義理の父かもしれないという年代なので、それはないかと思いますが・・・
翌月鎌原軍と戦い没した説
岩櫃城が落城した翌月、羽根尾の館に居た所を鎌原軍に襲われる。
大戸城(手子丸城)まで逃れたが、間もなく没した。

羽尾幸全が去った後、1564年に草津温泉の領主・湯本善太夫が長野原城主となりました。

1575年、湯本善太夫が没しました。

武田勝頼が織田・徳川連合軍と長篠で戦い、大敗を喫しました。
この時、武田軍では重鎮クラスが相次いで討死し、真田信綱、昌輝も討たれました。
湯本善太夫も真田軍の将として参戦しましたが、この時の戦傷が元で没しました。
家督は兄の子・湯本三郎右衛門が継ぎました。

廃城時期は不明です

1582年、武田勝頼滅亡、本能寺の変が相次ぎ、吾妻地方も混乱に巻き込まれました。
後北条軍が手子丸城、岩櫃城にも攻め寄せ、真田軍と戦っています。
さらには上杉景勝の軍勢にも攻められ、この時に長野原城も攻め落とされたようです。
ただ、登場人物に疑問があるのでここでは???付きで書くに留めます。
この「天正壬午の乱」の後、吾妻郡は元通り真田氏の支配に落ち着きました。

その後、吾妻地方で軍事的緊張が走りそうなのは1600年の関ヶ原の戦ですが・・・
どうなんでしょう?
どんなに遅くても、一国一城令の1615年までには廃城になったハズです。

湯本氏は江戸時代前半まで草津温泉の湯守を務めていました。
ということは、戦国の世を生き抜いたという事ですね!


所在地:群馬県吾妻郡長野原町長野原

なぽのホームページ/群馬県を表示
AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

なぽさんの読者になろう

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります

AD

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

      ランキング

      • 総合
      • 新登場
      • 急上昇
      • トレンド

      ブログをはじめる

      たくさんの芸能人・有名人が
      書いているAmebaブログを
      無料で簡単にはじめることができます。

      公式トップブロガーへ応募

      多くの方にご紹介したいブログを
      執筆する方を「公式トップブロガー」
      として認定しております。

      芸能人・有名人ブログを開設

      Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
      ご希望される著名人の方/事務所様を
      随時募集しております。