なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
鎌原城(かんばらじょう)は、吾妻郡で最も信濃に近い場所にありました。
訪問日は2014年4月12日です。

鎌原城①目印
▲ロマンチック街道

鎌原城へはロマンチック街道を通って行きました。
ロマンチック街道は有料道路ですが、ここまでに料金所が無いので、お金は掛かりません。
群馬県側というのも変ですが、北から南へ下る途中のココで右折です。

鎌原城②案内
▲鎌原城の案内

上の写真の黄色で囲んだ所にコレがあります。
城跡への案内はコレだけで、以後は全くありません。

鎌原城③城域の入口っぽい所
▲城域の入口っぽい所

細~い道を対向車が来ないか心配しながら進むと、こんな場所に出ます。
まぁ来ないでしょうけどwww
写真には写っていませんが、ここは切り立った深い谷状になっており、下を川が流れています。
その対岸に土塁のような高まりがあり、天然の虎口といった感じ。
まさに城への入口といった雰囲気を感じます。
で、ここを右に曲がりますが、さっきのような案内はありませんハートブレイク

鎌原城④先を見る
▲城跡への道

さっきの所から先は舗装が荒れてる感じ。
オンロードバイクは荒れた路面ではバランスを失ってコケるので、歩きました。
結果的には、そのまま乗って行っても大丈夫だったような気もします。
城域の方を見る感じで撮った1枚ですが、黄色で囲んだ所に差し掛かると・・・

鎌原城⑤城址碑?
▲城址碑

道端の茂みに城址碑?がありました。
霊城って夜に何か出そうな不気味な名前ですね。
夜こんな所を歩くことはなさそうですが・・・
城址碑の後ろにはお墓があるようです。
その時は特に何とも思いませんでしたが、城主様のお墓でしょうか?

鎌原城⑥浅間山
▲浅間山

ちなみに、ロマンチック街道や城域からは、こんな感じで浅間山が見えます。
信濃は目と鼻の先です!
こうやって見ると、鎌原城は川の城側は要害性がありません。
対岸からの攻撃に備えた崖端城のようです。

鎌原城⑦三の丸の石碑
▲三の丸の石碑

さらに1本道を進むと、今度は三の丸追手口の石碑がありました。
立派な石碑が次々現れ、改めてここが城域であることが確認できました!
ただ、やっぱりあの曲がる所にも何かしら案内は欲しいですよね・・・

鎌原城⑧主郭方向
▲上の石碑から先を見た所

城内の様子を見る感じで道の先を撮りました。
次の鉄塔の下に白い棒切れが見えます。
視力は悪いクセに、こういう物は本能的に見えちゃいますラブラブ

鎌原城⑨堀切
▲堀切

白い棒の引力に引かれてそのまま進むと・・・
その手前に何やら窪みが!
何やらってとぼけていますが、堀切です恋の矢
ちょっとわざとらしい?なんて感じますが、遺構らしい遺構はこれだけ。
あとは雰囲気を感じとるだけの城跡なのです。

鎌原城⑩城址標柱と説明板
▲城址標柱と説明板

そして、堀切の先の土を盛った上に、こいつらがあります。
見た感じ、まだ新しそうです。
標柱には昭和48年、説明板には平成18年と書かれています。
・・・どうでもいいですけどw

鎌原城⑪放送施設
▲先端部

ここから更に先に進んで見ましたが、特に人工的な感じはありませんでした。
河岸段丘の先端といった感じで、先端部分に某公共放送のアンテナ?があるだけでした。


◆歴史◆

南北朝時代に鎌原氏により築かれたと考えられます。

現地の説明板には、1397年に築かれたと書かれています。
ただ、武家列伝のサイト様では、下屋氏の1361年の書状に鎌原氏が登場しています。

下屋氏は滋野一族の海野氏の末裔で、平安時代末期にこの地にやって来ました。
嬬恋村一帯は、1108年にあった浅間山の噴火(天仁の噴火)で壊滅していたそうです。
そこへ海野幸房が戦乱を逃れて来て土着し、下屋姓に改名して荒れた土地を開墾しました。
やがて開墾が進み子孫が増えると、下屋氏は一族に土地を分け与えました。
それが1361年の譲り状なのだそうです。

鎌原氏は既に居ましたが、下屋一族は争いを好まなかったといわれています。
そのため、築城は説明板に書かれている時期なのかもしれません。
やがて鎌原氏はこの辺り一帯の地頭となり、その領地は三原荘と呼ばれるようになりました。

1550年代に岩櫃城の斎藤氏と争うようになりました。

室町時代の関東は、古河公方と山内上杉家、扇谷上杉家が三つ巴で争っていました。
上野国は山内上杉家の本拠地であり、吾妻地方も支配していました。
しかし、後北条氏が徐々に勢力を拡大して山内上杉家を圧迫。
1546年にあった河越夜戦で優劣が決し、1550年代には上野国にも後北条氏の勢力が及びました。
そのため山内上杉憲実は本拠地の平井城を追われ、越後の長尾景虎を頼るようになりました。
すると、吾妻郡を仕切る存在が無くなり、実力で勢力を拡大する時代になりました。
この時に勢いがあったのが、岩櫃城の斎藤憲広でした。

この流れに沿ったものか、鎌原氏も対岸の羽尾氏と境界を巡って争っていました。
羽尾氏も鎌原氏と同じ滋野一族海野氏の子孫でしたが、もう500年位経ってますからねw
羽尾幸全は東で勢力を拡大していた斎藤氏、更には越後の長尾景虎の後ろ盾を得ました。
すると、鎌原幸重も後ろ盾を求め、同族・真田幸隆を通じて武田信玄の傘下となりました。

1562年、斎藤憲広により攻め落とされました。

そしてついに実力行使に及び、斎藤憲広が鎌原城を攻めました。
鎌原幸重は信濃へ逃れ、武田信玄から信濃国小県郡内に領地を与えられました。
しかし、鎌原幸重は本領への復帰を望み、真田幸隆の援軍を得て鎌原城を奪回しました。
真田軍は鎌原城だけでなく羽尾氏の領地にも侵攻し、羽根尾城、長野原城も奪いました。
長野原城には真田幸隆の弟・常田隆永を城代として入れました。

こうなると目には目をの応酬になる訳で・・・
斎藤憲広は真田軍が引き上げると、羽尾氏の旧領回復の兵を挙げ長野原城が落城。
この時に常田隆永が討死してしまいました。
あ~あ、やっちゃったって感じです。

1563年、武田軍による吾妻郡侵攻が始まりました。

武田信玄の家臣を殺したとなると、本国が黙っていませんよね?
真田幸隆も弟を殺されており、先鋒として武田軍を率いて侵攻しました。
今度は鎌原城を奪還しただけではなく、斎藤憲広の居城・岩櫃城まで攻めています。
斎藤憲広は武田信玄から討伐対象にされてしまったようです。
この年の内に岩櫃城が攻め落とされ、その城代に鎌原幸重も名を連ねています。
以後、鎌原幸重は武田軍の先鋒として吾妻郡侵攻に寄与することとなりました。

そのためか、つい近年まで先祖伝来の地にお墓すら建てられない程嫌われたようです。
上に載せた「霊城」の城址碑の後ろにあるのが鎌原氏歴代のお墓なのだそうですが・・・
何と、建てられたのは1970年なのだそうです。
それ以前は周囲に嫌われ続け、墓を暴かれる恐れがあったのだとか。
「霊城」という不気味さ、そしてソコに彫られた六連銭は、それを警戒しての事でしょう。
ここら一帯は鎌原氏と同じ、海野氏一族が多い土地柄ですから。

その後も鎌原氏は真田氏に従います。
1575年にあった長篠の戦では、鎌原筑前守が討死しています。
1590年の小田原征伐では、真田昌幸に従って鎌原重春が活躍しました。
鎌原重春の子・鎌原重宗は、真田信之の沼田藩で筆頭家老を務めました。

1615年、一国一城令により廃城となりました。

ということは、鎌原氏は鎌原城を本拠とし続けたということですね。
ただ、1681年に主家の沼田藩が改易になったため、以後は松代の真田家に仕えています。


参考サイト
武家列伝様
歴史散策様



所在地:群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原

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