なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
阿久比城跡は公園になっています。
別名・坂部城とも呼ばれます。
訪問日は2014年8月5日です。

阿久比城①登城口
▲登城口

登城口は図書館の駐車場になっています。
早朝にも関わらず開いているのがありがたいです合格
訪問したのはまだ4時台でしたからw
やっぱり真夏は陽が長いですね!

阿久比城②主郭
▲主郭

駐車場脇の緩い坂道を登り切った所が主郭です。
要害堅固なお城というより、見晴らしのいい台地に館を築いたという感じがします。
周囲には低いながらも土塁が巡っています^-^


◆歴史◆

菅原道真の子孫と称する菅原道定が、足利義満からこの地を与えられました。

北朝方として活躍した菅原道定が、遠い先祖が治めていたとされる阿古居荘を与えられました。
その20代ぐらい遠いご先祖様は善政を敷いていたとして、村人には人気があったそうです。
ホントかよ?って思っちゃうお話ですw
その遠祖・雅規が「久松麿」と呼ばれていたため、それ以来久松姓を名乗るようになりました。
どうせならまんま「菅原」の方が、めんどくさい説明要らないと思うのですがw

築城年代は不明です。

言い伝えでは、9代目の久松定益、またはその子・久松定義が城を築いたとされます。
時期的には西暦1500年頃で、尾張守護・斯波氏が遠江を巡って今川氏と争った頃です。
久松氏は斯波氏の被官だったそうで、三河国境に近いと何かと心配だったのでしょうね。

戦国時代は織田氏に従っていました。

尾張の実権は斯波氏から織田氏に移り、久松氏も織田信秀に従っていました。
また、近隣の水野氏とは婚姻関係にあり、久松勝俊は大高城主・水野大膳の娘を娶っています。
しかし、長男・信俊を生んだ後没したため、水野信元の妹・於大の方を後妻に迎えました。
久松勝俊と於大の方の間には、三人の子が生まれました。
・・・これが運命というヤツですねw

1560年、松平元康が訪ねて来ました。

桶狭間の戦の時、松平元康が阿久比城に居た母・於大の方を訪ねました。
たぶん、今川義元が討たれて大高城から三河へ戻る途中と思われます。
松平元康の逃避行には、伯父の水野信元が関わっていましたので。
母と三人の異父弟に会った元康は、葵紋と松平姓を与えました。

1562年、久松勝俊と於大の方、三人の子が松平元康のもとへ移りました。

久松勝俊は、長子・信俊に阿久比の地を譲り、松平元康のもとへ移りました。
織田信長の家臣だったのですが、清洲同盟が成立したためと思われます。
久松勝俊は三河国にある上ノ郷城を与えられ、三河平定戦で活躍しました。
三人の子はそれぞれ大名格にまで出世しました。

1577年、佐久間信盛により攻め滅ぼされ、廃城となりました。

この前年、佐久間信盛は水野信元を讒言により暗殺しています。
これにより、久松信俊は佐久間信盛の与力に配されました。
そのため、大坂での石山本願寺との戦に駆り出されたのですが・・・
またしても佐久間信盛の讒言により、本願寺と内通していると疑われました。
憤懣やるかたない久松信俊は、身の潔白を示すため自害して果てました。
ところが、佐久間信盛は阿久比城に兵を差し向け、城を攻め落としました。
阿久比城に居た久松信俊の2人の幼子も捕らえられ、殺害されてしまいました。

1647年、桑名藩主・松平定綱が城跡に松・杉・桧を植えました。

松平定綱は、久松信俊の末弟・松平定勝の三男です。
尾張藩主・徳川義直に許しを得て、城跡に松・杉・桧を1000本ずつ植えました。


所在地:愛知県知多郡阿久比町卯坂

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