なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
大脇城は埋め戻され、城址碑があるだけです。
訪問日は2014年8月4日です。

大脇城①周囲の状況
▲周囲の状況

大脇城のすぐ近くに、伊勢湾岸道が通っています。
地図で見ると、すぐ脇が豊明ICになっています。
インターチェンジというとグルっと○い奴を思い浮かべますが・・・
上下線とも道沿いに上がってくタイプです。
城跡だから配慮した、って事は無いと思いますが。

大脇城②城址碑周辺
▲城址碑周辺

城址碑の周辺です。
大きな道の道端にある小さな道の道端にあります。
さすが「大脇」城です。
地名とは違う名前なので由来が気になりますが・・・
まさか、ねぇw

大脇城③城址碑
▲城址碑

お城がここにあった事を示す唯一の物です。
何だか石の色合いとか無機質な字が墓石を連想させますがあせる
発掘調査では一辺約40mの主郭と、その東西南の堀が見つかったそうです。
さらには武運長久を祈願した護摩札も見つかったのだとか。
遺構は埋め戻され、その上に伊勢湾岸道が造られました。


◆歴史◆

梶川秀盛の屋敷または城だったと伝わります。

梶川秀盛の父・梶川平九郎や長兄・高秀は、丹羽郡楽田の出身だそうです。
梶川平九郎について調べると、楽田城主なんて書いてありました。
楽田城の事を調べた時には出てこなかった情報ですあせる
同じ県内のお城の事をずっと追っかけてると、たまにこんな事もあります。
ですが、梶川秀盛は知多郡の水野信元に仕えており、1543年には成岩城の守将になっています。
(成岩城は水野信元の本拠・緒川城の南側で、戸田氏攻略の最前線にありました)

その年代の楽田城の事はよくわかっていません。
岩倉や犬山の織田伊勢守家が支配していた、と思うのですが・・・
その少し前から、清洲の織田大和守家から養子を迎えています。
おそらく両家の争いで織田大和守家が優勢となり、伊勢守家を乗っ取ったのでしょう。
織田伊勢守家の重要拠点・楽田城の城主の子が知多に居るのは、楽田を追われたのでしょうか?
それとも、織田信秀により織田伊勢守家の支配地域に送り込まれたのでしょうか?
誰か教えてクダサイw

梶川秀盛の兄・高秀も水野氏に仕えていた事があります。
ただ、梶川兄弟はみんな名前に「秀」の字が付いています。
ということは、織田信秀に仕えていた可能性大ですね!
出身地と名前で色々思い出しながら、何があったんだろう?って考えるの楽しいですw
織田信秀は1540年代にたびたび三河へ侵攻しており、水野信元も協力しています。
楽田で居場所を失った梶川氏が、最前線の水野氏の元へ送り込まれたのかもしれませんね。

この頃の水野信元は、知多半島を統一しようと戦っていました。
難敵・榎本了圓を破ると、その居城・成岩城に梶川秀盛を入れました。
水野信元は成岩城を拠点として、南の岩田氏、戸田氏を攻略していきました。

1560年、桶狭間で今川義元が討死しました。

今川義元が尾張に攻め寄せ、ちょっと北の沓掛城に本陣を置きました。
梶川兄弟は、長兄・高秀と次兄・一秀が西の鳴海城近くにあった中嶋砦に居ました。
織田信長は、今川義元が桶狭間に差し掛かるとほぼ単騎で中嶋砦に急行しています。
そして、雹が降りしきる中で奇襲を掛け、今川義元を討ち取りました。

この時の梶川秀盛の動きは不明ですが、水野信元に従って知多に居たと思われます。
水野信元は今川義元が討たれると、甥の松平元康をこっそり大高城から逃したそうです。
今川方の岡部元信が撤退中に刈谷城を攻め落としますが、水野信元が奪還しています。

梶川秀盛自身の動きがわからないので、しばらくは主君である水野信元の動きを書きます。

1562年、水野信元が清洲同盟の立役者となりました。

今川義元が討死したことで、三河で松平元康が独立しました。
松平元康は、今川軍が撤退して空になった岡崎城を拠点に三河統一を始めました。
当初は尾張や知多へも兵を出し、しばらくは小競り合いが続いていたそうですが・・・
織田信長に従いつつ、松平元康の叔父でもあった水野信元が仲介し、同盟が結ばれました。
これにより織田信長は美濃、松平元康は遠江・駿河侵攻へ集中出来るようになりました。

水野信元は以後、織田信長に従って各地の戦に参戦することが多くなりました。
1564年にあった三河一向一揆では、松平家康に援軍として加勢。
姉川の戦や三方ヶ原の戦、長島一向一揆討伐、長篠の戦などに加わっています。

1576年、梶川秀盛は佐久間信盛の与力となりました。

1575年とするサイト様もありますが、旧暦だと1575年末、西暦だと1576年の正月です。
織田信長家中のナンバー2である佐久間信盛の讒言により、水野信元が暗殺されました。
讒言の内容は、水野信元が武田勝頼に内通しているというものでした。
水野信元の領地は佐久間信盛が引継ぎ、梶川秀盛も佐久間信盛の与力となりました。

その後、佐久間信盛は水野氏に仕えていた久松氏も讒言で滅ぼしています。
この頃の佐久間信盛は織田家中最大の軍団を率い、石山本願寺など畿内で戦っていました。
梶川秀盛も石山本願寺との戦に参加し、佐久間信栄とともに天王寺城を死守しています。

尚、大脇城の発掘調査で、天正4年(=1576年)に書かれた護摩札が見つかっています。
梶川秀盛がこの時代、ココを本拠にしていたのは間違いなさそうです。

1580年、佐久間信盛が追放され、織田信長の直臣となりました。

永年にわたる石山本願寺との戦いに決着をつけたのは、織田信長自身でした。
自ら朝廷に出向き、本願寺との和睦の仲介を依頼したそうです。
そのせいでしょうか、この年、織田信長は佐久間信盛を追放しました。
他の大名が拾っても役に立たないと思ったのでしょうか・・・
以後、梶川秀盛は織田信長の馬廻りとして仕えます。

1582年、織田信雄の配下になります。

本能寺の変で織田信長が斃れた後は、織田信雄の配下となりました。
現地では刈谷城の水野忠重に従っていたようです。
梶川秀盛はこの頃から横根城の築城を開始しており、大脇城は廃城になったと思われます。
大脇城から緒川城へかなり近づいた感じなので、領内で引っ越しただけでしょうか?

1583年、梶川秀盛は成岩城へ移りました。

横根城が完成する前に、成岩城へ移りました。
この事から、横根城は軍事的な理由で築いていないのではないかと思いました。
この年、織田信雄は三人の家老を長島城に招いて謀殺しました。
これは羽柴秀吉が三家老に調略を仕掛け、寝返ると思い込んだことが原因とされます。
・・・さすがはルイス・フロイスに暗愚呼ばわりされるだけの事はありますw

この時謀殺された岡田重孝は常滑城の城主でもあり、織田信雄配下の水野忠重が攻めています。
成岩城と常滑城は東西約7kmしか離れていません。
岡田重孝の本拠・星崎城でも篭城沙汰になっており、何かと物騒だったようです。

1590年、織田信雄が改易されると、水野忠重は伊勢神戸4万石に移されました。
以後、梶川秀盛は三河の主となった池田輝政に仕え、朝鮮に渡って現地で没したそうです。
戦死したとも病死したとも伝わり、詳細は不明ですあせる


所在地:愛知県豊明市栄町梶田

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