なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
沓掛城は主郭の堀や土塁がかなり残っています。
訪問日は2014年8月4日です。

沓掛城①案内板
▲案内板

駐車場脇にある案内板です。
図を見ると・・・またしても裏です。
駐車場がこちら側なのでセーフとしましょうあせる
こうやって図を見ると、堀に囲まれた郭がしっかり残っていることが窺えます。
・・・というか、現地ではバッチリ見えてますけどねヽ(´∀`)ノ

沓掛城②石碑
▲入口脇にある石碑

サッサと城内へ突入したい衝動を抑え、撮るものは撮る現実的な一面が自分にはあると発見。
城跡は逃げませんからね(´▽`*)
でも、撮るだけで、読むのは数年経ってブログ書く時だったりします。
それで何度か後悔してるハズなのですが、懲りないんですよね(;´Д`)

沓掛城③土塁
▲土塁

さて、抑えるべきモノは抑えたという事で、ダッシュで城内へ突入。
最初の獲物は、高く聳える土塁クンです!
往時はグルっと一周囲んでいたのでしょう。

沓掛城④堀
▲堀

そして、しっかり周りを囲んでいる堀跡です。
おそらくかなり埋まってしまって、幅も深さも往時程ではないと思われます。
それでもこうやってハッキリ残っているということは、かなりの規模だったんですね!

沓掛城⑤城址碑
▲大手口にある城址碑と説明板

さて、裏側が表だったという感じで大手門跡へ。
「こっちが表なんだぞo(`ω´*)o」という感じで城址碑があります。
そんな感じでもないですか、そうですか(´<_`  )
駐車場側の石碑もこちら側の説明板も、内容は『尾張志』をベースにしているようです。

リンク:『尾張志』巻之二十七 愛知郡の古城


◆歴史◆

近藤宗光により築かれたと考えられています。

近藤宗光は藤原秀郷の子孫を称しており、「近江の藤原氏」が名の由来だとされます。
鎌倉時代末頃の人物で、後醍醐天皇に仕えていました。
後醍醐天皇は1325年に「沓掛の住人」近藤宗光を召し、摂津に高槻城を築きました。
ただ、平安時代から近藤氏は高槻に居たようで・・・
沓掛は沢山ある所領の1つで、庶流?の近藤宗光が地頭的な感じで住んでいたのかも。
そして1331年、京都南部の笠置山で鎌倉幕府軍と戦い、近藤宗光は討死しました。(元弘の乱)
この敗戦により、後醍醐天皇は隠岐へ流罪となっています。
高槻城は、近藤宗光の死後に娘婿となった入江氏の城となっています。

1394年、藤原義行が築城という説もあります

あちこちで「近藤宗光と藤原義行との関係は不明」と書かれていました。
ですが、子孫が江戸時代に祐福時と協力して作成した家系図に「義行」の名があります。
家系図自体は疑問点が多く、信憑性に「?」が付くものらしいですが・・・
藤原義行は近藤宗光の曾孫で、親の代に兄→弟と家督を継いだようなので、5代目当主です。
近藤氏は藤原秀郷の子孫を称していたので、藤原○○と記した記録もあったのでしょう。
時代もバッチリ「明徳の頃(1390~93年の間)」と書かれています。

この年代は足利義満の時代で、同じ年に鳴海城も築かれています。
鳴海も沓掛も東海道の要所なので、東側の勢力(一色氏や今川氏)に備えたのでしょうか?
この時代に居住空間である「居館」から、戦闘的な「城」に改修されたのかもしれません。

1560年、沓掛の近藤氏が滅びました。

当時の当主は9代目の近藤景春でした。
尾張・三河の国境は松平清康→織田信秀→今川義元に従う土豪が殆どでした。
近藤景春もこの順番に主家を変えています。
この年ここで起きた大事件といえば、桶狭間の戦です。
今川義元は、桶狭間で討たれる直前まで沓掛城に本陣を置いていました。
対織田信長の軍議もココで開いていたそうです。
しかし、今川義元は桶狭間で討たれ、勢いに乗った織田軍は今川方の城を次々に攻めました。
沓掛城も織田軍に攻められ、近藤景春は討死しました。

簗田出羽守が城主となりました。

簗田出羽守は「桶狭間の戦功第一」とされ、沓掛城と3000貫の領地を与えられました。
今川義元を討ち取った毛利新介は黒母衣衆に加えられたそうですが・・・
城持ち領主と名誉職といった感じで、かなり差があるように感じます。
織田家中での位置づけがわからないのですが、荒子城を継いだ当時の前田利家が2450貫です。
かなり破格の褒美であることに間違いないですね!
ただ、これだけビッグでありながら、実名すらハッキリしないんですよね・・・
それと、何が「戦功第一」だったのか、その内容もわからないままです。

1575年、織田信照が城主となりました。

梁田出羽守が加賀へ移り、織田信照が城主となりました。
織田信照は織田信秀の9男か10男ということで、織田信長の弟です。
母親は熱田の商家の娘で、『尾張志』に「尾張第一の美麗」と書かれているそうです。
・・・上で尾張志を散々読み漁りましたが、流石にこれの原典を探そうとは思いませんでしたw
ただ、引きこもりだったようで、城下の民から「鈍魯」と言われていたそうです。
それでも織田信雄→徳川家康→本多忠勝と主が変わりながらも、家老職だったそうです。

川口久助が城主となりました。

城跡にあった石碑では1577年と彫られていましたが・・・
織田信照は織田信雄分限帳で、沓掛に2000貫の所領を持っていたと書かれているそうです。
川口久助が城主になるのは、織田信照が徳川家康の家臣になってからのことと思います。
ただ、その時期がよくわからないんですよね・・・

織田信照は母親の養父・中根忠貞の養子となりました。
その中根忠貞の弟・中根正照が1573年の三方ヶ原の戦で討死したため、家督を継いだそうです。
こうなると、沓掛城主となった時は既に中野姓を名乗っていたハズですよね?
1つ可能性が高いと思うのは、1584年の小牧・長久手の戦です。
この戦で織田信照は羽柴軍の捕虜となりましたが、織田一族というだけで命拾いしました。
その後、本多忠勝の家老になったというのが、きっかけとしてはあり得そうな感じです。
この頃まで織田信雄の家臣だったら、分限帳にも載りますよね?

・・・すっかり前城主の話が長くなりましたあせる
1つ前の段に移せよなんて自分で突っ込んだりしますが、メンドイのでそのままにします。

川口久助ははじめ水野信元に仕え、清洲同盟後に織田信長の家臣となりました。
水野氏と川口氏は婚姻関係を繰り返しており、そのため徳川家康とは「はとこ」なのだとか。
「はとこ」って何だろうとWikipediaの文章を追いかけると、、いとこでは?
父の異父妹の子が徳川家康ですから。
書いてある関係が間違っていて、「はとこ」が正しいのかもしれませんけどw

・・・いけないいけない、ついいつもの癖があせる

織田信雄のもとでは、伊勢と尾張で18000石もらっていたそうです。
なので、沓掛城を中心として活動していた訳ではないかもしれません。

1600年、廃城となりました。

川口久助が関ヶ原の戦で西軍についたため、所領を没収されました。
本当は東軍に加勢するつもりだったらしいのですが・・・
大坂で西軍の奴等に手を引っ張られ、そのままズルズルと流れたそうです。
川口久助は高野山へ蟄居しましたが、後に伊達政宗預かりの身となりました。
その後、1606年に許されて下総国青菅2500石の旗本になりました。


所在地:愛知県豊明市沓掛町

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