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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
大津城の城址碑が住宅街の中の公園にあります。
訪問日は2014年8月3日です。

大津城/①左から
▲公園(左から)

大通りから2本程入り込んだ住宅街の中に、その公園はあります。
城址碑だけを目当てにすると、表からは見えないので絶対迷います。
ということで、周囲の風景をたっぷり載せます。

大津城/②右から
▲公園(右から)

公園を右から見た所です。
どっちが右なのかは完全に主観ですがあせる
お目当てのブツは、黄色で囲んだ所にあります。
・・・滑り台じゃなくて、その奥ですよ~w

大津城/③城址碑と由来碑
▲大津氏祖宗碑と大津城由緒碑

遺構は全く見当たりません。
周りを見渡しても、ここにお城あったのかな?って感じです。
でも、立派なのが2つもあると、テンションアップアップアップです!

この由緒碑では城の様子について
「城構は一名掻き上げ城といい東西一町南北二町にして二重堀をめぐらし、午の方に大手門、未の方に門口有り」
と記されています。

これを現代語に訳すと
「城の構造は土塁と堀で囲んだだけの簡素な造り。
規模は東西約100m、南北約200mくらい。
二重の堀で囲まれ、南に大手門、南南西にも門があった。」
といった感じです。

ことごとくググッて調べてますよ。
おいら現代人ですからw
尾張でよく見られる形式で、戦闘的なお城というより大きなお屋敷といった感じですね。
ただ、地図を眺めていてもどこら辺が掘だったとかが全く想像出来ません。
廃城になってから、きれいサッパリ均されてしまったようですね。


◆歴史◆

1555年、大津氏により築かれたとされます。

大津氏は、もともとは近江の駒井城出身です。
1534年に六角定頼が設置した大津奉行職を代々務めていました。
六角定頼は大津の他に草津や矢橋にも奉行を置き、近江国内の水運を掌握。
大津奉行の初代は駒井城主・駒井実政の娘婿・清宗であり、大津姓を名乗るようになりました。
・・・年代的にあり得なくはないですが、大津清宗が築城者とは限らないですねあせる

現地にある由緒の石碑では、大津鈴右エ門、大津八郎右エ門の居城だったと記されています。
碑文の中で大津八郎右エ門重俊が城主だったと記されており、築城は鈴右エ門と思われます。

あちこちで佐々木氏庶流と書かれていますが、碑文の中では
宇多天皇の第九皇子・敦実親王
→3代めの雅信の時に臣籍に下る
→9代めは佐々木秀義の四男・高綱が継ぐ
→18代めは足利義満の弟・満高が継ぐ
→満高の次男・高郷が駒井城を築いて駒井姓を名乗った
→駒井氏4代め駒井実政の三女の婿が大津清宗

とまぁ、複雑な家庭だったんですねw
駒井氏は佐々木氏というより、足利将軍家一族といった方がしっくり来る感じです。

さて、近江から京への入口に当たる要地から、なぜ尾張の内陸部に来たのでしょうか?
石碑には「故あり」とだけしか記されていません。
ググっても何も出てこず・・・
その頃の近江は、六角定頼が当主でした。
そして京は、三好長慶が支配していました。
この時、将軍・足利義輝は近江の朽木に亡命していました。
足利義輝が三好長慶に敗れたためで、1553~58年まで5年間、京を空けていました。
この間に改元がありましたが、将軍にその事が伝わるまで3ヶ月もかかったといいます。

・・・という事で、「故あって」を推測してみます。

近江守護の六角定頼は三好長慶と戦っており、足利義輝寄りでした。
また、大津氏の主・駒井氏は、1569年の織田信長上洛時にも存続していました。
この時に駒井城が織田軍に攻められ、落城しています。
ということは、大津氏が駒井家中から追放されたのかもしれません。

改元の件は1558年の永禄改元ですが、この時は朝廷が足利義輝に知らせていませんでした。
足利義輝は諸国の大名に書状を送っていましたが、改元前の弘治の元号を使い続けていました。
改元すら知らされていなかった事実が公となり、将軍家の権威はかなり失墜したようです。

これは三好長慶が意図的にやった事でしょうが、1555年にも改元がありました。
1558年の永禄改元のヒントがここにあったとしたら・・・
三好長慶が大津奉行を取り込んだとしたら、京から朽木への情報が遮断されます。

・・・何もわからないので、妄想が暴走気味ですあせる


元亀・天正の頃(1570~92年の間)に廃城となりました。

随分と幅がありますが、要するに「わかんない」という事でしょうか・・・

1570年頃に廃城だとすると、織田信長の上洛が関係するかもしれません。
1569年、織田信長は足利義昭を奉じて上洛しました。
この時に大津氏の旧主・駒井氏の駒井城も落城しています。
織田信長により将軍職に就いた足利義昭は、織田信長に色々と褒美を与えようとしました。
しかし、織田信長はこれらを断った代わりに、大津・草津・堺に代官を置きました。
この時に大津の代官になった人物の名前が、いくらググっても出て来ずガクリ
大津氏が大津へ復帰した可能性は無きにしも有らず、です。
駒井氏は落城後に織田信長に仕えており、豊臣秀吉の時代に大津奉行になっています。
それまで誰だったの?という所で、有力な候補だと思います。

あちこちに書かれているのは「武田軍に攻め落とされて廃城になった」というものです。
私はこれには懐疑的です。
というのは、周辺に武田軍に攻められたお城が全く無いからです。
武田軍がこの辺を攻めるとすれば、1572年の三方ヶ原の戦か1575年の長篠の戦でしょうか。

1572年の時は、三方ヶ原の戦で徳川軍に大勝した武田軍は、その後殆ど進まずに退却しました。
最前線は浜名湖のちょっと北西で、ようやく遠江から三河に入るかという所でした。
1575年の長篠の戦は、三方ヶ原の時の最前線からちょっとだけ進んだ所です。
三河の東端であり、尾張までにはまだまだかなりの距離がありました。
周りの織田信長の城を攻めず、ピンポイントで大津城だけ攻め落とす訳がありませんよね?

この年代、ここいら辺りでよく見られるのは1584年にあった「小牧・長久手の戦」です。
膠着した戦線を打開しようと、羽柴秀吉が徳川家康の三河へ奇襲攻撃を仕掛けようとしました。
この動きを読み切った徳川家康が、羽柴奇襲隊に奇襲を仕掛けた場所が長久手です。
大津城の動向について書かれたものが見当たらないので、推測するしかありませんが・・・

楽田城を出た三河奇襲隊は、小牧市、春日井市、瀬戸市などを通って三河へ向かいました。
その通り道にあったお城へは事前に道案内を要求しており、ほぼ従っています。
・・・道案内を拒否して攻められたお城があったかもしれないと思いますので。

大津城から見て南西約2.9kmの所にあった大草城は、徳川軍に攻められています。
大草城の城主は福岡新助で、森長可に従っていたようです。
(長久手市郷土史研究会様のサイトを参照)
だとすると、大津城も東美濃の金山城主・森長可の支配地域だったと推察されます。
てことは、三河奇襲隊の森長可は、自分の領地を通って三河へ向かったのですね!
大草城は長久手での戦の後、羽柴方の敗残兵が立て篭もったため、徳川軍に攻められました。
しかし、城の守りが固く攻めあぐねている間に、羽柴軍が動き出したため徳川軍は撤退。
その時に周辺の寺や民家を焼いていったそうです。

大草城を包囲中の徳川軍が、近くにあった森長可配下の大津城を放置するとは思えず・・・
その頃まで大津城があった、というのが前提ですけどあせる


所在地:愛知県瀬戸市今林町

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