なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
小牧の大草城は白山神社となっています。
訪問日は2014年8月2日です。

大草城(小牧)/①駐車場
▲白山神社の入口

城跡の白山神社へは、信号脇から登る道があります。
下に載せた縄張図とGoogle Mapの航空写真を見比べると、馬場の北側のようです。
こちら側に大堀切があったのですが、どうやら宅地造成で無くなったようですね。

大草城(小牧)/②白山神社
▲社殿と城址碑・説明板

神社へは割とすぐに辿り着きました。
ちょっとした山城ではありますが、濃尾平野ですからね。
丘城といった感じです。

大草城(小牧)/③縄張図
▲縄張図

社殿脇にあった説明板には、バッチリ縄張図が載っています合格
これ見ながら「ふむふむ、ここがあーなんだ」っていうのが好きです。
・・・事前に印刷してれば、ですがあせる
当日その場で初めてだと、小さな頭には入り切らないんです(T_T)

大草城(小牧)/④堀切
▲空堀

どこら辺か忘れてしまいましたが、竹薮に堀っぽい所がありました。
社殿の後ろにも竹が写っていますが、航空写真ではそこは急斜面です。
説明板によると、本丸や大堀切は現在は残っていないのだとか。
縄張図から推測するに、三ノ丸の下辺りなのかな~なんて思います。
当時持ち歩いていたペーパーには何も記入なし。
何のために持ち歩いているのやら┐(´∀`)┌ハートブレイク


◆歴史◆

各都道府県にはそれぞれ、同じ名前のお城がいくつもあったりします。
愛知県では大草城や大野城、○○一色城などが複数あります。
大草城は他県ではあまり聞かないので、もしかしたら同じ氏族絡みか?と思いましたが・・・
全然関係ありませんでした恋の矢

文安年間(1444~49年の間)に西尾道永により築かれました。

西尾氏は尾張土着の武士ではないらしいです。
じゃぁどこから?とか、その前は誰が?なんて思いますが・・・
そう思うとついつい時間を掛けて調べちゃうんですよね。
悪い子ですからw

さて、西尾氏は尾張北東部のかなり広い範囲を治めていたそうです。
その中心となったのが大草城でした。
ここに西尾氏が来た頃の築城だと思います。
春日井市に西尾という地名があり、その地名を名乗ったのかもしれません。

この頃の尾張では、織田敏広が守護代でした。
その織田敏広の父・織田郷広が、尾張各地の土豪の家臣化を進めました。
被官となることを拒んだため、攻め滅ぼされた土豪もたくさん居ました。
ただ、織田郷広が行った寺社領の押領が幕府に露見し、罪を逃れようと逐電しました。

大草城が築かれたのは、その数年後と考えられます。
西尾道永について色々調べてみると、いくつか出てきました。
その中で年代がわかるもを並べてみました。

文明年間(1469~86年までの間)刈安神社由緒

尾州春日井郡野口の城主西尾式部道永 城ひて住み、刈安城と称す。
関ヶ原の役に至り其の後裔西尾次郎八有馬玄馬と戦ひ敗して自刃せるを里人之を祀れり。
之を刈安権現と称せり。

「春日井郡野口」は現在の小牧市野口で、大草城から見て中央道の北側一帯を指します。
大草城からかなり近いので、ココの事を指していると思います。
刈安城は萩ノ島城とも呼ばれ、瑞浪市と恵那市の境にある権現山にありました。
大草城からは国道19号を東北東へ約35km進んだ所です。
西尾道永が仕えた織田伊勢守家と美濃の斎藤妙椿は、同じ東軍に属する味方でした。
この斎藤妙椿を牽制しようと、信濃の小笠原家長が東美濃を脅かしていました。
織田伊勢守家の武将が美濃の斎藤妙椿の元へ行くのは、ごく自然な事だと思います。

1473年、信濃守護・小笠原家長が萩ノ島城を攻め落としました。

斎藤妙椿の伊勢侵攻を牽制するため、小笠原家長が東美濃を攻めました。
小笠原家長は萩ノ島城や大井城などを攻め落とし、東美濃を版図に加えました。
小笠原氏による東美濃支配は、武田氏に敗れる天文年間(1532~55年)まで続きました。
この頃の西尾道永の動向は?です。

1506年、西尾道永が福厳寺で絹本着色盛禅画像を描きました

西尾道永が福厳寺開山の盛禅和尚を描き、盛禅和尚が賛をしたものです。
縦166cm、幅55cmで、色鮮やかで剥落も少ない絹本画像だそうです。
福厳寺は大草城のすぐ南西にあるT字交差点の先にある、超ご近所さんです。
萩ノ島城を攻め落とされた西尾道永は、大草城へ戻ったのでしょうか?

1514年、西尾道永が86歳で没しました。

春日井郡野口を領有していた事がわかっている人物が他にもいます。
それは、織田信長の家老・平手政秀のご先祖様の弟・平手秀定です。
細かい事はわからないのですが、平手秀定の兄が1451年生まれです。
数歳違いとして、活動時期はおそらく1470~1500年代初め頃と推定されます。
平手秀定はこの地名を取って野口姓を名乗り、後に豊後へ移っています。
野口秀定が豊後へ移った後も、その一族が当地に残ったのでしょうか?
平手政秀の弟も野口姓を名乗りました。
その頃までずっと平手一族の所領であり続けたのかもしれません。

1548年頃、織田家の家督争いにより西尾氏がよそへ移り、廃城となりました。

西尾氏は、関ヶ原の戦まで本拠としていた萩ノ島城へ移ったと思われます。
ということは、西尾氏はそれまで大草城に居たのでしょうか?
平手氏にも野口を領したとされる人物が居るだけに、ここら辺は謎だらけです。

さて、この頃に織田家で家督を継いだ人物に、犬山城の織田信清がいます。
織田信清は家督争いをしたのかどうかわかりませんが・・・

織田信清の父・織田信康は犬山城主で、織田信秀の弟です。
織田伊勢守家が没落する中で、その勢力圏に送り込まれた清洲系の人物です。
織田信康は兄・織田信秀の右腕としてよく活躍したそうですが・・・
その没年は1544年と1547年の2説があります。

その嫡男・織田信清は織田信秀にはとても反抗的でした。
なぜなんだろう?と推測しますが、父・織田信康の死と関係あるかもしれません。
織田信秀はたびたび美濃へ攻め込み、その戦いに織田信康も参戦していました。
没年が2説ある理由を推測すると、1544年に重傷を負い、1547年に亡くなったのかもしれません。
勝ち目のない無謀な戦を続けた挙句、父を失った織田信清が謀叛を起こしたのでしょうか?

ここで勢いのある織田信長に味方するか、忠義から織田信清に味方するか。
犬山城の織田家中で意見が真っ二つに割れそうな状況ではあります。

織田信長は1560年頃に岩倉城の織田信賢や犬山城の織田信清と争っていますが・・・
織田伊勢守家の勢力圏でありながら、彼らは皆清洲の織田家出身でした。
・・・ということは、織田伊勢守家の血統が絶やされた時期があるはずです。

家督を継いだ年代がわからないのが、岩倉城主の織田信安です。
織田信安も清洲の織田家から養子に来ましたが、その先代か先々代は岩倉系でした。
さすがに織田家本流の家督を継ぐに当たっては、旧来の岩倉系の家臣が黙っていないでしょう。
そのひと悶着で西尾氏が岩倉系に味方し、敗れて尾張を去ったのかもしれませんあせる


所在地:愛知県小牧市大草(白山神社)

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