なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
座光寺北城は小学校、保育園、お寺などになっています。
訪問日は2013年7月29日です。

座光寺北城/①耕雲寺
▲耕雲寺

唯一の遺構である堀跡を求めての訪城です。
堀跡は耕雲寺の前にあるというので、まずはお寺を目指します。
お寺は古い建物が多いので、雰囲気ありますよねラブラブ
でも、お寺巡りには転向しません。
城巡り以上に収拾つかなくなりそうなのでw

座光寺北城/②堀跡
▲堀跡

堀跡はお寺と保育園の間にあります。
・・・ということは、お寺、保育園ともに郭の跡にあるということですね。
埋められて浅くなっているようですが、これだけでも残っていて良かったです。
お寺側の石垣が立派ですが・・・遺構ではないですよねw


◆歴史◆

応永年間の1400年頃までには座光寺氏により築かれました。

築城年は不明です。
座光寺河内守が大塔合戦に参加しているので、それまでには築かれていたと思われます。
座光寺氏は出自も不明ですが、諏訪氏または船山城の片桐氏の庶流という説があります。
北城は平時の居館であり、南城を戦闘時の詰城としていたようです。

1546年、知久頼元の配下となりました。

知久頼元が飯田城の坂西伊予守と戦い、所領の割譲を得ました。
この時から座光寺頼近は知久氏に仕えるようになりました。
座光寺城は、南に飯田城、北に松岡城があります。
北の松岡氏が座光寺領の一部を領有しており、敵対していたと思われます。
松岡氏は知久氏と長年争っており、松岡氏対策として知久氏に仕えたのでしょうね。

1554年、座光寺貞信が武田軍に生け捕りにされました。

座光寺貞信は知久頼元とともに武田信玄に従っていました。
前年の第一次川中島合戦でも武田方として参戦していたのですが・・・
戦から帰って来ると、高遠城の秋山信友に対して叛旗を翻し挙兵しました。
これに対して武田信玄自ら兵を率いて鎮圧し、両名とも生け捕りにされました。
生き残った知久氏一族は徳川家康の元に逃れ、所領は下条氏に与えられました。

以下推測ですが・・・
座光寺氏は座光寺為清が反武田の動きに逆らったようで、その後も座光寺に残りました。
以後、座光寺為清は松岡氏に従ったようです。

1582年、武田勝頼が滅ぼされました。

織田軍により武田勝頼が滅ぼされると、松岡氏は織田軍に投降しました。
同年、織田信長が本能寺に斃れると、今度は徳川家康に誓紙を入れて臣従しました。
座光寺氏は松岡氏に従って同調したと思われます。

1585年、松岡貞利が小笠原貞慶に同調して高遠城攻めに加わろうとしました。

松岡貞利が豊臣秀吉に寝返った小笠原貞慶の高遠城攻めに加わろうと挙兵しました。
この状況を徳川家臣の知久平城主・菅原定利に報告したのが座光寺為時でした。
松岡貞利はこの3年後に改易処分となりました。

1590年、廃城となりました。

徳川家康の関東移封に伴い、上野国碓氷郡大竹に移りました。
飯田城主・菅沼定利も上野国吉井へ移りました。
飯田には豊臣秀吉の家臣・毛利秀頼が入りました。

座光寺氏は徳川家康の家臣として活躍し、1600年にちょっと北の山吹城に復帰しました。
江戸時代は交代寄合の旗本として存続し、現在に至っています。


所在地:長野県飯田市座光寺

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